承久の乱

ページ名:承久の乱

登録日:1221/05/14 Wed 12:21:03…ではなく、2022/12/27 Tue 02:24:24
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中世 日本史 鎌倉時代 所要時間30分以上の項目 朝廷 武士 北条義時 鎌倉殿の13人 鎌倉幕府 歴史 内乱 戦争 勉強になる項目 承久の乱 革命 ターニングポイント その時歴史が動いた 北条政子 後鳥羽上皇 1221年




1221年ひとにふいうち


承久じょうきゅうの乱




承久の乱』とは、1221年(承久3年)に日本国で起きた騒乱の名称。
時の最高権力者・後鳥羽上皇が、当時東国一園を支配していた武家政権『鎌倉幕府』の執権・北条義時追討の命を下すも、
鎌倉幕府の初代将軍・頼朝の妻であった北条政子の演説によって結束した幕府軍の反撃を受け、敗れ去った事変である。


この勝利によって鎌倉幕府、ひいては武家がその権力を強め、以降朝廷に代わって約650年に亘り日本の政治を取り仕切っていく事となる。


なお歴史用語的には「身分が下の者が時の権力者に反乱を起こしたが、権力者側が勝った」*1事変を「乱」と呼ぶことが多く、
逆に、「下の者が反乱に勝ち、権力者が失墜した」戦乱を「変」と呼ぶことが多い。
「多い」という表現を多用したように例外な使い方をされることもあるが、
この戦乱の場合、敗者となった後鳥羽上皇の方が立場が上なのは言うまでもないので、
「『承久の乱』ではなく『承久の変』では?」という声もあり、実際そう書かれることもある。
歴史の解釈や呼称は日進月歩であり、今後この乱の呼び名が変わる可能性はあり得るがひとまずこの項目では承久の乱で統一する。



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そんな『承久の乱』であるが、日本史の教科書では数行ないし1ページ程度の扱いであることが多く、
大多数の学生にとっては「鎌倉幕府が権力地盤を固めた」というだけの出来事、
下手をすればテスト勉強に向けた年号の語呂合わせの方が印象に強い事件と言えるだろう。
だが実際は、当時の日本における既成概念・統治体制を大きく変容させる契機となった戦乱であり、後の歴史に絶大な影響をもたらした転換点である。



◆当時の背景 ~武家政権と治天の君~

1185年(所説あり)に創建された、日本史上初の単独武家政権「鎌倉幕府*2」。
創設者であるみなもとの 頼朝よりともはその後、1192年に朝廷から「征夷大将軍」の任官を受け、統治機構の更なる拡充を図るのだが、
これは同時に「朝廷が直接介在しない政治・統治体制の誕生*3」という側面があった。


鎌倉幕府はその名の通り鎌倉、すなわち関東(当時は『坂東』と呼ばれていた)一帯を拠点とし、加えて東国(現在の中部および東北地方)を勢力圏に置いていたのだが、
「征夷大将軍」という役職の性質上*4、頼朝は日本全国の武将たちを統治する事が朝廷より認められた立場にあった。
加えて、1185年の時点で頼朝は朝廷から「守護・地頭*5」の全国設置を認められており、ここに「征夷大将軍」の役職・権限が合わさった事で、
頼朝は勢力圏内における軍事・警察権と土地の支配・行政権、そして徴税事務の権利を獲得。
こうして頼朝、そして「鎌倉」は関東及び東国における支配権を朝廷から認められるに至ったのだが、
その結果、勢力下にある武士・豪族こと「御家人」への軍事・政治的指示や各種褒章を出すのは鎌倉の将軍、通称「鎌倉殿」の役割となった。
当然と言えば当然の話なのだが、これは同時に従来の、


朝廷(天皇・上皇)・公家

武士・豪族


という統治・指示の流れに、新たに「鎌倉殿」という存在が割って入る*6格好となり、
武士たちにとっては従来の朝廷よりも、直接的な統治者となる鎌倉殿の重要度が大きく増す形になっていった。


早い話、「朝廷に対して仕える」というより「鎌倉殿に対して仕える」という認識が、関東及び東国では強く広まる形になった。
一方京においては、従来の統治機構たる朝廷、そしてその最高位として天皇および上皇が君臨しており、
加えて物理的な距離の問題も手伝って、鎌倉殿の影響力も京周辺及び西国には届かず、引き続き朝廷の意向が重視される形にあった。
つまり、鎌倉殿の影響力が強まるにつれ、西で事実上統治機構が二つ存在する格好になっていったのだ。


この状況は、朝廷――特に当時の最高権力者たる「治天の君」*7後鳥羽ごとば上皇にとっては何とも芳しくない事態であった。
特に荘園に対して地頭が置かれて支配構造が変化した結果、朝廷の収入源たる年貢の徴収に支障をきたすようになるなど、地味に痛い問題が噴出するようになっていた。
そもそも「鎌倉殿」が成立したこの時代、朝廷の権威は武家の一門たる平家・源氏の隆盛に呼応するかの如く落ち始めており、後鳥羽上皇はその回復・復権に気炎を上げていた。



前提の話として、古代からこっち、日の本における社会構造は(めっさ大雑把に言うと)


「一番高い地位に天皇・上皇が立つ」
「その下で公家が『朝廷』という政治機構を取り仕切る」
「その朝廷の決定に従い、日本の各地を武士が管理し、必要に応じて軍事力を行使する」


という体制・固定観念が定着していた。
逆に言えば当時の武士階級、特に京から離れた地域に拠点を置く武士・豪族は、居住地域の管理を公家や朝廷から「命じられている」ないし「住む事を許されている」立場にすぎず、
その立ち位置は決して高くない……というかぶっちゃけ「下から数えた方が早い」序列にあった。


が、平安時代末期、「保元の乱」*8あたりから話が変わり出す。
「保元の乱」と続く「平治の乱」*9という二つの政変は、どちらも天皇・上皇や公家が武士階級の武力を借りることで解決した。
その結果たいらの 清盛きよもり率いる平家一門が、「朝廷の政治」に武家として初めて食い込み出したのだ。
元々武家の中でも最上位クラスの格式を持っていた事を活かし、清盛は数々の権謀と闘争の末に朝廷を事実上掌握。
その勢いは当時の最高権力者・白河しらかわ法皇ほうおうすら押さえ込む程だったが、朝廷や公家にとっては、自分達の権威を貶めるが如き所業。
それは各地の武士――特に平家の台頭によって割りを食う形になった源氏やその麾下にとっても同様だった。


結果、後白河法皇を始め、朝廷はあの手この手を使って平家を追いやるべく動き出し、反平家を標榜する各地の武士・豪族もこれに同調したのだが、
そうした「反平家勢力」たる武士達を最終的にまとめ上げたのが頼朝だった


朝廷から見れば、厄介な平家を討つに足る器――「源氏の嫡流」という頼朝の出自は最適であり、
加えて清盛の様に朝廷の政治にそこまで首を突っ込めない立場*10と、正にうってつけ
後白河法皇をはじめ、朝廷は頼朝に「朝廷を蔑ろにした平家を討伐せよ」という命令――大義名分を与え、平家を滅亡させるに至ったのだ。


が。


一方の頼朝も、ただ朝廷に利用されるだけの扱いに甘んじるワケがなかった
頼朝は「平家討伐」という功績や朝廷からの各種要望に応えるのと引き換えに、様々な権限・権利を合法的に●●●●自身へ移譲・承認させていったのだ。


これは平家……というか平清盛の手法とは真逆に近いもの。
清盛は時に強権的とも取れる手法で朝廷の権力闘争に勝ち抜き、掌握してきた。
だがそれ故に反発も盛大であり、加えてそれらの強権発動が「清盛個人の意向・力」によるところが強すぎた結果、
彼が病没してしまったのをきっかけに、平家は一転して追い込まれる事になった。
しかし頼朝は、あくまで現行の制度を活用したり、一定の大義名分を背景にした上で自身に有利な方向へ権限が動くように事を図った。
しかも朝廷内部には深く関わらず、同時に朝廷から余計な介入がないよう絶妙に気を配りながら事を進めた事で、
頼朝は鎌倉という「京から離れた地」での「事実上朝廷から切り離された」独自政権を建てるに至った。


……だが、朝廷の立場から見てみれば「難敵を追い出す為に連れて来た奴が、別の形を取って難敵になり出した」という皮肉な事態。
諸々の事態を打開可能な勢力が頼朝しかいないという、やむを得ない状況下での対処であったのだが、
結果として朝廷の復権には至らないばかりか、逆に新興の勢力が生まれるという新たな頭痛のタネが出来上がってしまったのだ。


そういった側面からも、鎌倉の影響力拡大は朝廷にとっては「無視しがたい目の上のタンコブ」みたいな話でもあった。


とは言え、朝廷も不満はありつつ軍事的・政治的影響力が強大な鎌倉を早々足蹴にするわけにはいかず、
他方鎌倉も自分たちの権威基盤は「朝廷の威光・認可に基づく」という事は充分理解していたため、両者の関係は若干の緊張感をはらみつつも穏当な状況を維持していた。



◆騒乱の発端 ~将軍の死と後継問題~

鎌倉の創建者にして初代将軍・頼朝没後より代を重ねた1203年。
三代目として頼朝の次男・みなもとの実朝さねともが新たな鎌倉殿に就任する。


実朝はその名付け親が他ならぬ後鳥羽上皇であり、妻にも上皇の姪御を迎えるなど、その立場は朝廷と浅からぬ繋がりがあった。
朝廷側も彼の存在は重要視していたらしく、彼に与える官職の昇格スピードはかなり早く、
最終的には実朝に「右大臣」という当時の武士階層としては初にして破格の地位を授けていた*11
また実朝は、小倉百人一首の一人にも選ばれるように和歌を嗜んでいた事で有名なのだが、これも朝廷・宮中における重要文化の一つであり、
そういった意味でも彼の存在は朝廷と鎌倉における重要な橋渡し的側面を持っていた*12
一方、実朝には当時子供がおらず*13、後継者に関する問題も付いて回っていた。
対処の一環、そして朝廷との更なる関係強化も兼ねて、後鳥羽上皇の皇子を次代の将軍に迎える案が内々に検討され始めた、その矢先


1219年1月。
右大臣任官の催事として鶴岡八幡宮に参拝していた実朝が、先代将軍の遺児・公暁の襲撃を受け、暗殺されてしまう*14
それは即ち、頼朝から続いた源氏将軍の血筋絶たれた事を意味し、
同時に、それまで安定期にあった朝幕関係が一気に悪化する契機ともなった*15


実朝の死を受け、鎌倉は直ちに次代の将軍として後鳥羽上皇の皇子・雅成親王まさなりしんのうを鎌倉へ迎えたいと朝廷に要請を出す。
内々ではあるが相談はしている話なだけに、程なく了承される……と思いきや、上皇は対応を保留する。
理由は所説あり、

  • 皇子を出すことでむしろ鎌倉と朝廷で日本の二分化が加速する事を懸念した
  • 将軍が暗殺されるという前代未聞の事態により、鎌倉の治安の悪さを問題視した
  • そもそも皇子を送る事自体は実朝が存命であるのが前提であった

等あるが、定かではない。


いずれにせよ、この反応に鎌倉は再三の要望を送るのだが、すると上皇、今度は
親王を迎えたいなら、自分の寵姫・亀菊が持つ荘園の地頭廃止と、自分の部下である武将への処分を撤回せよ
と、まさかの交換条件を突き出してきた。
だが、守護・地頭制は幕府による御家人たちへの所領安堵と事実上セット*16であり、
それを朝廷の都合で廃止するという行為は今後の幕府体制に悪影響が大きすぎる話であった。
もう一つの要求に至っては了承すれば「朝廷なら幕府の処罰を容易に覆せる」という前例を生むことになり、これまた後々に禍根を生み出しかねないモノ。


結果、将軍に次ぐ序列第二位、現時点での幕府最高権力者である執権北条義時ほうじょうよしときはこの要求を拒否
対処及び交渉のため、弟の時房に兵千人を預けて京に向かわせるという強硬策に打って出る。
だが、武力を背景にしたこの対応にも朝廷は応じる事は無く、結局上皇が「摂関家*17の人間であれば鎌倉殿としても良い」と妥協案を示し、義時ら鎌倉側もこれを了承。
初代将軍・頼朝との血縁関係があった九条家の三男・とら(後の九条頼経くじょうよりつね*18を新たな鎌倉殿として迎える事になった。
しかし、当時三寅は2歳かそこらという幼児だったため、将軍職としての立場は頼朝の妻で実朝の母・まさが代行し、実務は執権の義時が中心となって進める格好に落ち着いた。



だが、この一件は元々微妙だった朝廷と幕府に致命的な亀裂を生む一因となった。
朝廷にとって本件は「こちらの要望が通らない=朝廷の意向・権威を鎌倉側が無視した」形であり、結果的にこちらが妥協案を示す=折れる形になった。
加えて何より「武力を背景にした朝廷への要求」という行為は、後鳥羽上皇の祖父・後白河法皇がかつて平清盛より受けた事(通称「治承三年の政変*19」)と同じ所業。
朝廷及び自身の権威向上に腐心していた後鳥羽上皇にとって、それをを一度ならず二度までも、というのは腹立たしいにも程がある話であった。


一方、鎌倉側にとっても本件は業腹極まる話だった。
「鎌倉殿」の存在は、鎌倉幕府が成立する上では不可欠なんて言葉では言い表せないレベルの重要な存在
それが欠落したとあっては、一歩間違えれば鎌倉が崩壊しかねない緊急事態である。
(その幕府が後継者になりうる人材を軒並み死なせたのは禁句。)
にも拘らず、かねてから打診していた筈の後継者についての依頼をしたのに対応は遅く、せっつくと今度は無茶な要求を突きつけられ*20
最終的には妥協案に乗らざるを得ない形になるなど、あからさまに非協力的な上皇及び朝廷への不信感は否応なく増幅していった。
加えて実朝の死は、こうして生じてしまった両者の亀裂を修復する役目を持つ「橋渡し役」の喪失も意味しており、関係改善がより一層困難な事態になってしまった。


そして同年。
京の大内裏が在京の武将による騒乱の果てに焼失した際、その再建費を全国に一律負担するよう上皇は命じたのだが、
これに各地の武将――要は鎌倉麾下の御家人たちが軒並み反発・拒絶するという事態が発生*21
西朝廷鎌倉の対立は、半ば公然としたものへとなりつつあった。



◆乱の勃発~敵の名は北条義時~

先の一件含め、諸々積み重なった現状は、後鳥羽上皇にある策謀を抱かせるに至った。
朝廷相手に武力を背景にした恫喝も辞さない構えを見せたばかりか、源氏将軍が絶えた今、鎌倉で絶対的な権威を振るう執権・北条義時
地方出身の豪族に過ぎない身でありながら、鎌倉の中心で政を差配するばかりか、あまつさえ朝廷すら蔑ろにする彼という存在を、上皇は遂に排除する事に決めたのだ*22
この上皇の意思に当代の天皇・順徳天皇じゅんとくてんのう*23も同調。
当時4歳の息子に天皇の地位を譲り、自らも上皇となる事で自由な立場になり、協力することとした。


他方、順徳天皇の先代である土御門上皇つちみかどじょうこう*24は後鳥羽上皇の決定に反対し、一部の公卿*25らも異を唱えたが、
逆に後鳥羽上皇は彼らを要職から排除するといった措置を取るなど、その意思は変わらなかった。


そして、1221年(承久3年)5月14日。
後鳥羽上皇は「流鏑馬を行うので、近隣の武士たちは集まるように」という通達を出す。
無論そんな話は建前であり、その真意は自身に従う軍勢を集めるための招集であった。
集結した武将は上皇直属の北面・西面武士*26だけでなく、近隣諸国の兵、果ては在京していた鎌倉由縁の御家人まで加わり、その数は千を超えていた


人員を集めた上皇は手始めとして、鎌倉から京都守護として派遣され、今回の招集に応じなかった武将・伊賀光季*27を討伐。
更に公卿の内、親鎌倉派として知られていた西園寺公経を幽閉。
これで周辺を自勢力で固め、造反勢力を抑え込んだ上皇は、翌15日に五畿内諸国(現在の奈良・京都及び大阪近隣)及び日本全国の御家人・守護地頭へと院宣*28を下した。
その内容は、


新たな将軍が幼い事を利用して、己の好き勝手に裁可を下し天下を乱す謀反人・北条義時を追討せよ。
逆らう者がいるのなら、速やかにこれを討ち取れ


かつて平家追討の際に出された時と同様、朝廷の最高権力者「治天の君」による、北条義時討伐命令が全国の武将へと下されたのである。


院宣が下された直後、京側の士気は高かった。
それもその筈、上皇の院宣は文字通り最強の切札。どんな公家・武士であってもそれを前にしたのならば、絶対的に従わざるを得ない「錦の御旗」。
西国は勿論、鎌倉幕府勢力下の武士達とて、無下にすることなど到底考えられない代物であり、東国を含めた諸国の武将はこぞって上皇に味方すると確信していた。
加えて、鎌倉に在する有力御家人に対しては個別に院宣を送るなど、根回しも周到。
「義時の味方など千人も居ない」と言われるほどであった。


……だが、彼らは勿論、後鳥羽上皇もある種読み違いをしていた。
京方に「上皇という最高権威」由来の院宣という絶対的な切札があるように、
鎌倉方にも「頼朝が築いた鎌倉」由来の、当代無比にして最強の鬼札がある事を。


そもそも、東国一帯に生きる武将――坂東武者たちが、何のために戦うのか
そして、自分達が生きるこの時代が、今どういう流れに動きつつあるのか、という事を。



◆鎌倉の対応 ~誤算、演説、そして蹶起~

さて、上皇は義時追討の命を下したのだが、その内容を記した通知は二種類に分けられる。
一つは、守護・地頭といった各地の御家人に送られた、いわば「全体向け」の内容の通知。
もう一つは、特定の御家人に対して格別の内容を記した通知である。
どちらも院宣が正式に下り次第、所定の者が各地、ないし特定の御家人の下へ通知を持参して事を伝える、という手筈であった。


だが、ここで(のっけから)誤算が生じ始める。
院宣を下す前、京一帯の地固めとして討伐された京都守護・伊賀光季。
実は彼、追討軍に応戦する一方で、家中の者を鎌倉への伝令として脱出させていたのだ。
同様に、上皇によって幽閉された西園寺公経も、事前に部下を鎌倉へ向かわせることに成功。
結果、院宣を携えた使者が来るよりも早く、鎌倉側は上皇の挙兵を始めとした変事を把握する事が出来た。
必然、鎌倉は警戒を強め、その結果後から来た京からの使者を捕える事に成功した。


そして更なる誤算は、個別に送った院宣である。
送られた通知は全部で8通で、いずれも在京経験があり、鎌倉幕府においては相応の勢力を誇る御家人達に宛てられたもので、
この院宣によって、上皇及は鎌倉内部の分断を図り、ひいては義時追討を果たそうとした。
で、その内の1通を(こっちは予定通りに)受け取ったのが、三浦みうら義村よしむら
京側についた武将・三浦みうら胤義たねよしの兄であり、当時の鎌倉においては北条一族に次ぐ勢力を誇る有力御家人・三浦家の当主であった。
胤義は会議において「見返りとして相当の地位を約束すれば、兄は確実にこちらに味方する」と請け負っており、密使に持たせて送った院宣及び通知もその意見に準じたものだった。


のだが


なんと義村、届いた文書をそのまま追討対象である義時並びに鎌倉首脳陣の下へ持って行ったのである。
曰く「京に住む弟から届いた書状を見てください」とか言って見せ、加えて「私は弟の反逆に加担する気はありません。鎌倉に味方して忠義をつくす所存です(キリッ」とか言ってのけたとか。
……なんて事ない様に思うかもだが、この密書は(要約すれば)「『三浦一族は義時を討てという命令が上皇様からありました』by弟」と言う内容。
つまり、見る人が見れば「三浦一族は義時追討を目論んでいる」と認識されかねない代物である。
どれ程忠誠を口にしようと、腹の中が読めないのはいつの時代も同じな以上、一歩間違えれば忠義っぷりを褒められる前に返す刀で誅殺されかねない大劇物である。
そんなものをしれっと義時らに見せ、「自分に謀反するつもりはない」といけしゃあしゃあと宣える辺り、この男、只者ではない。*29
ともあれ、挙兵の情報及び院宣は、かなり早い段階で鎌倉首脳陣の下へ伝わる格好になった。


とはいえ、事態が好転したわけではないのが実情。
何しろ義時はこの院宣が下された瞬間から、まごう事なき「朝敵」。
京からの使者こそ捕縛したが、あくまで鎌倉近辺に向けた使者一人であって、他の地域への使者まで全て止められる訳もなし。
遠からず事態は御家人全員が聞き及ぶ事となるだろう。
そうなれば、御家人の少なくない者は義時を討とうと動き出し、仮に成功すれば「鎌倉の中枢で政治を舵取りする人材の喪失・欠落」という政治的混乱必至の事態。
無論失敗もあり得るが、それは即ち義時側の応戦=鎌倉での武力衝突の発生
そしてそれ即ち「上皇への反逆」と見なされ更なる朝敵扱いという、どう転んでも大混乱は確定事項。
下手をすれば「鎌倉殿」という統治体制が根底から崩壊しかねない、絶体絶命の危機と言えた。



が、そこで立ち上がったのが、当時「尼将軍」の異名で呼ばれていた、初代将軍の妻にして義時の姉・政子
上皇の挙兵という一大事変に浮足立つ御家人たちに向けて、世に言う「北条政子の演説」をぶち上げたのである*30


その内容を現代版に翻訳・意訳すると、


皆心して聞きなさい、これが私の最後の言葉です。
亡き将軍頼朝公が平家を討ち、坂東に鎌倉を創設して以降、保障してきた皆の地位、与えてきた褒賞、その全ての恩は山よりも高く、海よりもなお深いものの筈。
その恩に報いようという心は無いのですか!
今、逆臣の讒言に基づき、上皇は道理と正義を無視した命令を下しました。
坂東武者としての、そして己と一族の名誉を重んずるのなら、ただちに逆臣たちとその軍を打ち破り、源氏三代の将軍達が遺した、この鎌倉の地を護り通すのです!
もし上皇に従おうという者がいるのなら、今この場で申し出るがいい!!



――頼朝が鎌倉に幕府を開いてから、およそ30年余り。
世代交代も進む中で、坂東・東国一帯の御家人にとって「鎌倉」という存在は「当たり前の統治機構」になりつつあった。
それ故に御家人たちにとって初代鎌倉殿・頼朝という人物は「自分たちの今を築き上げてくれた存在」であり、
故に「今日の自分達の立場と暮らしが守られているのは、他ならぬ頼朝公、そして彼が築いた『鎌倉殿』のお陰である」という共通意識が、
坂東を始めとした鎌倉勢力圏には広く浸透していたのだ。
そんな頼朝への恩義として、彼が築いた鎌倉の守護の勤めを果たすべし、という言葉を、他でもない頼朝の妻である政子から一喝された以上、御家人たちに応じない理由は無かった。


上皇の誤算、その二つ目は、「頼朝、そして『鎌倉殿』の偉功」という、御家人たちにとっては上皇へのそれをも凌ぐ、目に見えない力が鎌倉に深く根付いていた、という点である。
そもそも政子の言にある通り、鎌倉の武将達にとって、自分達に褒賞をもたらし領地安堵を保障してくれるのは「頼朝が築いた鎌倉殿」であり、
遠く離れた京に居座る、会った事も話した事もない「上皇様」に対して義理立てする理由がすっかり薄くなっていたのだ。



……もっとも、この演説。
よく読むと、院宣にある討伐対象はあくまで「北条義時『個人」なのに、話の中で頼朝の名前を出してその恩顧を説くことで、
あたかも討伐対象が「鎌倉全体である」ように印象づける格好になっている。
演説の中でさりげなく話題を頼朝やその恩義の話にもっていき、「義時を討てば丸く収まる」とか御家人が考えないように意識を逸らし、
「討つべき相手は上皇一派だ」と御家人たちに思わせる、ファインプレー感満載なトーク内容だったりする。



加えて、実のところ御家人たち全員が「頼朝への恩顧」や「鎌倉の守護」を理由に結集したかと言うと、そうでもなかったりする
『承久記』に曰く、政子の演説を聞いて鎌倉側へ付く事を決めたとされる一人、甲斐国の武将・武田たけだ信光のぶみつ。ご存知「甲斐の虎」こと武田信玄の先祖である。
彼は後日出陣した際、帯同した武将との会話で「鎌倉が勝ったら鎌倉に、京が勝てば京につくのが武士ってもんだろ」と事も無げに言い放っているのだ*31
しかもその後、鎌倉側から勝利した際の褒賞を約束する書面が届くや、水を得た魚の如く猛進軍を開始したという。


そもそも、鎌倉殿と御家人の関係は、忠誠心とか先祖からの恩顧とか、そういった物に基づく関係ではなく、互いが互いの利益となる行為を行い合う互恵的・双務的な関係。
現代風に言えば「派遣社員と派遣先企業」といったビジネスライク感満載な、利益と打算を双方が考えた上で結ばれた契約関係であった*32
しかも当時、戦争などで相手を討ち滅ぼして武功を上げれば、相手側の土地が功績に応じて褒賞として分け当たられる都合上、
「勢力規模的に勝算が高く」かつ「勝ったら上皇軍の領地をゴッソリ貰える可能性がある」鎌倉側へつこうと考えるのは当然であったのだ。
封建制も参照)


「自分に利をもたらしてくれるのはどちらか」。
上皇側の誤算の二つ目、その別側面は、坂東一帯及び多くの御家人にとっては「上皇直々の御達し」よりも「付いた結果得られる利得」の方がよっぽど重要だった。
つまりそれだけ「朝廷の威光・権威」は形式的な物として扱われ、実利面ではさしたる効力を持たない時代になりつつあった、という点を読み違えていた事でもあった。
身も蓋もない言い方をすれば、「京におわす上皇様の院宣」なんぞ「戦に勝った結果貰えるだろう褒賞」の前には紙切れ同然
例えるなら「今じゃケツを拭く紙にもなりゃしねぇってのによぉ!」一歩手前状態だったのだ。


……まあ、何はともあれ。
政子の演説内容と御家人の思惑が合致した結果、鎌倉側の御家人は「打倒上皇軍」へと纏まる事になった。




◆進撃の鎌倉、失態の京方 ~「いざ鎌倉」もとい「いざ京へ」~

かくして方針は決定し、19日には具体的な対応策を首脳陣で協議する事となった。
当初は箱根近郊に勢力を結集し、上皇軍を迎え撃つ策が検討されたのだが、
鎌倉草創期からの重鎮・大江おおえ広元ひろもとは、「迎撃は時間が取られ、その間に御家人達の動揺と離反を招く」と指摘。
その上で、「勢力が集まり次第出撃させ、京へ向かわせる」という、積極的な対応を提案した。
これに同じく首脳陣の三善みよし康信やすのぶ、及び政子も同調し、義時を始めとする慎重論派とのせめぎ合いもあったが、
最終的には「最速での戦力出動・京への進撃」が決定された。
そして22日。
東海道・東山道・北陸道の三方面から、それぞれ北条ほうじょう泰時やすとき*33・武田信光・北条ほうじょう朝時ともとき*34が指揮官となり、京へ向けて進撃を開始した。


速度最優先の出撃の結果、出発時は極小数、泰時麾下に至っては僅か18騎程度だったという。
だが、数はどうあれ「上皇を誑かした逆臣を討ち、鎌倉を守護すべく京へ進軍する」という名目の積極策は、
様子見を決め込んでいたり、態度を決めかねていた御家人達には効果的面であった。
結果、道中で在地の豪族や御家人達は次々と鎌倉側に合流・帰順していき、その勢力はドンドン増大
最終的には(所説あるが)


東海道軍:10万騎
東山道軍:5万騎
北陸道軍:4万騎


その総勢、およそ19万騎という、当時はおろか日本史上においても空前絶後の大軍勢となっていた*35


今回と同様、歴史上に大きく名を刻む戦乱と比較すると、戦国時代有数の大合戦「関ヶ原の戦い」において、
勝利した東軍(徳川家康側)でも約7万から10万程度、西軍(石田三成側)とあわせてようやく18万程、である。
単独陣営で19万という数値に並ぶものは、豊臣秀吉による小田原征伐がほぼ同数、超えるとなると同じく秀吉の九州平定時の勢力(約20万)が挙げられる。
……逆に言えば、天下統一まであと一歩まで近づいていた秀吉レベルの勢力を、この時点で義時ら鎌倉は確保していた、ともいえる。


その一方、鎌倉に留まった「朝敵」義時は、先に捕縛した京の使者の一人・押松丸を、敢えて京へと送り返した。
京の御所に戻った押松丸を出迎えた京方首脳陣は、当初「義時が討伐されたのか、それとも逃げたのか」「首は誰が取ったのか」と、勝利した気満々の思考でいた。
だか、押松丸が持って来たのは結果報告などではなく、他ならぬ義時からの文書
『北条九代記』に曰く、その文面は


私、北条義時は、今日に至るまで上皇様に忠義を尽くしてまいりました。
ですがこの度、上皇様は讒言を信じ、私を討伐すべしとの命を下されました。
ですので、弟の時房*36、子の泰時・朝時を始めとする19万の軍勢を京へ上洛させます。
もしそれでもお気持ちが変わらないようであれば、他の子らと私自らが、20万の兵を連れて参上いたします。



――事実上の宣戦布告を記したものだった。


更に押松丸から、上皇の院宣を受けとった鎌倉が恭順するどころか蹶起を決めた事、文面の内容が虚偽でも脅しでもなく事実であり、
坂東武者が大挙して京へ向かっている事を告げられると、場にいた一同から浮かれ具合は霧散霧消した。
勝ったも同然の気で居たら一転、強者揃いの坂東武者が群れをなして京へなだれ込んでくるというのだから、それも必然であった。



とはいえ何もしないわけも無く、後鳥羽上皇は直ちに配下の武将・藤原ふじわらの秀康ひでやすを総大将とした迎撃軍を編制。
鎌倉方を迎え撃つべく準備に取り掛かった、


のだが


京方が院宣の効力を絶対視し、勢力集めを京周辺地域でしか行っていなかった事に加え、
鎌倉側の対応及び進撃スピードが想定外過ぎた事もあって、集められた戦力はこの時点で1万数千騎余り(多く見ても2万以下)。
……これでも当時で見ればよく集められた方なのだが、如何せん鎌倉方の総数19万と比べると、絶望という表現すら生ぬるいレベルの戦力差であった。


さらに京方は、搔き集めたこの手勢を迎撃のため木曽川沿いに布陣させるのだが、その際に、
川沿いの各所に兵力を分散して配置・布陣する」という、彼我の戦力差が圧倒的な状況下で一番やってはいけない戦法を取ってしまう*37
まあ平家追討を初め多くの戦を経験し場数を踏んでいた鎌倉に比べれば、京方にその辺りのノウハウがしっかりあったのか、と聞かれれば、甚だ疑問な話。
そもそも「鎌倉方の総数は19万です」という、ケタ外れにも程がある話を京方が本気で受け止めていたのかも怪しいところ。
「戦意を削ぐための虚仮威し」「多少のフカシ入ってるだろ」として兵力を少なく見積もる――というかそう思いたくなるのも無理からぬ話ではある。


しかし、現実は残酷なモノ
案の定というか、木曾川の布陣における最上流地点・大井戸(現在の岐阜県可児市)でまず開かれた戦端において、
京方の軍勢2千騎が武田信光率いる5万の軍勢を前になすすべなく蹂躙された。
他の布陣箇所においても、同時期に泰時率いる10万の軍勢が合流していた事も手伝って劣勢……というか勝負になる訳がなかった
なにせ「鎌倉側に何処かの地点が突破されたら、別の地点にその鎌倉の部隊が増援として向かう」格好になるのだから、
戦力差が歴然のこの情勢下ではジリ貧になるのは当たり前過ぎる話
京方布陣の最後方・墨俣(現在の岐阜県大垣市付近)に鎌倉側が到達した際には、もはや交戦不可能と判断した京方が撤退していてもぬけの殻、という有り様であった。


もっとも、別に京方も諦めたわけではなかった。
墨俣からの撤退も、裏を返せば状況判断の上での迅速な対応の一環とも言えた。
後退した京方は、新たに宇治・瀬田(現在の京都府宇治市と滋賀県大津市。両府県の境地域)を絶対防衛ラインと定め、残存勢力を結集。
それと並行する形で、西国(京以西。中国・九州地方)の武士に対して出動を命じる事で戦力増強を図った。
(「いや遅ぇ」とか言うのは禁句。)
最初の戦闘で敗れこそしたが、それで戦自体に負けたつもりなど、京方には毛頭無かったのであった。


だが、如何せん遅すぎた
鎌倉の進撃速度は迅速の一言に尽き、増援となる西国武将が駆けつける前に京に到達される可能性が高い状況だった。
(「ほらな」とか言わない。)
そこで上皇が足を運んだのは、京の北東・比叡山にある天台宗総本山・延暦寺
当時、延暦寺を始めとした寺社は「僧兵」と呼ばれる独自の武装勢力を保有しており、上皇はその協力を仰いで戦力を補おうとしたのだ。





上皇直々のこの要望を、延暦寺側は拒絶した。
というのも、当時の寺社は保有する武力に加えて財力・地域への影響力などその権力は尋常ではなく、ある種の独立国家じみた勢力を誇っていた。
当然朝廷側からすれば甚だ鬱陶しい存在であったため、寺社の勢力を削ぐべく腐心する羽目になっており、それは後鳥羽上皇も例外ではなかった。*38
延暦寺側からすれば後鳥羽上皇は「自分達に難癖つけて力を削ごうとしてくる面倒な存在」でしかなく、
加えて一連の事態はあくまで「朝廷と鎌倉」の問題であり、自分たちとは(直接的には)無関係。
そんな事にわざわざ首を突っ込む理由も、半ば対立関係にあった上皇の窮地を救う義理も道理も、延暦寺側は微塵も持ち合わせていなかったのだ。


かくして(ある意味日頃の行いのツケが丸ごと回ってきた)上皇は、現有戦力のみでの応戦を余儀なくされるのだった*39



◆決着、そして始末の果て ~王法すでに尽ぬ~

先に定めた絶対防衛ラインたる宇治・瀬田に残存勢力を結集させた京方。
一方順調に軍を進めた鎌倉側は、6月13日には宇治近郊へ到着。
ここに両軍は相対することになった。


京方としては絶望的にも程がある状況下だが、唯一の救いは、宇治・瀬田地域に流れる宇治川(淀川)の存在だった。
琵琶湖から出て大阪湾へと流れ至るこの川は、東国から京へまっすぐ向かうには絶対越えなければならない境界線。
源平合戦の際には、以仁王の乱で源頼政が平家軍を、また木曾義仲も源義経を宇治川で迎え撃ち、攻撃側を散々に困らせていた。
とはいえ、頼政も義仲も結局は守り切れずに敗れ去っており、絶対の要害などでは決してない。


しかし、京方にしてみれば、まさに天が味方した格好となる事態が起こる。
折しも宇治川は降雨に伴って増水しており、船による渡河は難易度が上がっていた。
京方は宇治川にかかる橋を落として相手の進軍を止め、更に対岸から矢を浴びせかけるという戦法を取った。
幕府軍としてみれば強引に出せない事もないが、そうすれば操船に手間取るうちに矢の雨を浴びせられ、針鼠と化すのは必至。
結果、鎌倉側も攻めあぐねる事態になった。


しかも、京方にはまだ希望がある。
ここで可能な限り時間を稼げれば、西国からの増援が来て状況を盛り返せる、せめて拮抗状態にまでは持ち直せる――
、思った矢先の、翌14日。


坂東武者の「橋が無いなら、川の浅瀬を探して渡ればいいじゃない」の蛮族思考脳筋パワープレイ全開の論法に基づき、鎌倉側の一部が強引に渡河に成功*40
防御陣が突き崩され、その隙に後続の軍勢が船で対岸へ到着した事で、京方は敗走。
その日の夜には鎌倉の軍勢が京の市街地へ到達し、勝敗は決する事となった。



かくして敗軍の将と化した後鳥羽上皇だが、この時点で鎌倉の軍へ使者を送っている。
要は事実上の敗北宣言であったのだが、その内容は(意訳すると)


  • 「義時を討て」って院宣出したけど、アレは部下に嘘つかれたせいだから取り消すね
  • 代わりに嘘ついて自分騙した藤原秀康や三浦胤義を捕まえるように院宣出すね
  • 鎌倉に味方してたから解任した公卿達も復権させるし、今後朝廷が武士を召し抱えることもしないし、反省するからもう勘弁してね

……という、清々しいまでの責任丸投げ保身全開の弁明連発であった。
しかも上皇、宇治川での戦いに敗れた後「せめて一矢報いるために再戦を」と考え御所にやって来た藤原秀康ら京方の武将に対し、
御所の門を閉ざして彼らを追い返す(=面会しようとすらしなかった)という所業に及んでいる。
その上での先の書面。
完全に上皇は彼らを生贄にして生き残ろうとしていたのだ。


見捨てられる格好になった秀康以下京方の武将は、京の東寺に立てこもって抗戦するも、三浦義村率いる鎌倉軍の前に敗北。
藤原秀康は逃走するも捕縛、三浦胤義は自刃して果て、ここに騒乱は決着するに至った。

実の兄・三浦義村に攻められる形となった弟・胤義だが、『承久記』において、彼は兄と交戦前に対面を果たした、という記述がある。
兄と相対した胤義は、兄が自分と朝廷ではなく義時と鎌倉を選んだことを恨み、同時にそんな兄に上皇からの院宣を送ってしまった事を後悔していた。
もはや死以外に道はない事は理解しているが、せめて最後にそんな兄の顔を見てやろうと思っていた……と、積年の思いをぶちまけるが如き語りをしたという。
が、そんな弟に対して兄・義村は、「痴れ者にかけ合って無益なり(馬鹿の相手をするのは時間の無駄だ)」と告げ、相手にする事も無く立ち去ったという。
その後、胤義は攻めてくる義村の軍勢に奮戦するも、最終的に自害して果てる事になる。
一つの選択によって文字通り明暗分かれた兄弟だったが、どちらが正しく、また賢かったのかを推し量るのは簡単では無い。
なにせ、義村本人は天寿を全うしたが、彼の裔たる三浦一族は、後年になって北条一族――つまり義時の末裔によって滅ぼされる事になるのだから。



なお、一応フォローするなら、先述の上皇の対応は酷すぎるにしても程があるが、一方で「敗北確定時の対処」としては、あながち変でもない。
どうあがいても敗戦確定の状況下で、迂闊に抗戦体制でも取ろうものなら、情け容赦絶無の坂東武者が大挙して京一帯に攻め入り、都は文字通り灰燼に帰す事すら考えられる。
特に後鳥羽上皇は、いわゆる「源平合戦」の最中に天皇の座に就いたのだが、皇位継承における最重要の宝物「三種の神器」が手元に無い状況での即位を余儀なくされた事、
挙げ句その内一つが、源平合戦の最終戦「壇ノ浦の戦い」の末に行方知れずとなってしまった事*41もあって、
歴代朝廷所縁の備品保存には人一倍神経をとがらせていたと考えられている*42


つまり上皇にとっては「最後まで戦う事」なんぞより、「自身と皇族の安全確保」及び「朝廷の施設・備品一式の保全」が絶対にして最優先課題であった。
となれば、「鎌倉側に『敵を討ち倒して勝利した』という印象を与えて戦乱を収束させる」ために、
なにかしらの生贄・スケープゴートを立ててそっちで鎌倉の鬱憤を晴らさせる、というのもあながち悪手ではない。
また、政子の演説内容や義時の返答(という名の喧嘩宣告)を見れば、鎌倉側は(一応は)「上皇が悪い」ではなく「上皇の臣下が謀略した(悪い)」と述べている。
つまり「上皇を討ち取る事」それ自体は目的にしていないとも解釈できる以上、「謀略を働いた臣下を討ち取った」時点で鎌倉側の戦闘理由は消滅、つまり事実上の終戦と相成るのだから、
そっちに鎌倉が舵を切るよう誘導し、事態を終息させるのも一つの手、と言える(生贄にされた側はたまったもんじゃないが)。


また、そもそもの話として、この「情け無さ全開の上皇の対応」自体、後世において創作ないし誇張されたモノであって、ホントかどうかは微妙という意見もある。
一説では上皇の通知はあくまで「義時追討命令の撤回」と「京に到着した鎌倉軍の掠奪行為の停止要請」であったという。
早い話、これ以上京の洛中で破壊行為が行われないよう、戦争の火種となった院宣の取り消しを行う事で事態の収拾を図った、という事。
藤原秀康らの追討命令や事実上の武装放棄といった話は、この通知と前後する形で彼らが討伐・捕縛されて抵抗可能な軍勢が事実上いなくなった事から、
上皇の通知の結果そうなった」と拡大解釈され、それがそのまま後世の文献に記されたのでは、とも考えられている*43
いずれにせよ、上皇もまた、敗北確定の中で何とか生存への道を見出そうと必死だった、というのは間違いない。
(はいそこ、「ある意味自業自得だろ」とか言わない)




戦後の沙汰は7月に確定した。
その結果、(先の弁明の効果も無く)首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ、協力した順徳上皇は佐渡島へ配流(流罪)となった。
乱に反対していた土御門上皇も自ら望む形で土佐国へ配流となり、後鳥羽上皇の皇子たちも但馬国、備前国へと配流
更に順徳上皇から天皇の座を譲位されたばかりの皇子・懐成親王かねなりしんのうは皇位を剥奪され、新たに堀河ほりかわ天皇てんのう(当時10歳。後鳥羽上皇の甥御に当たる)が即位する事となった。

文中で述べた通り、乱に先駆けて当代の天皇・順徳天皇は譲位して自身の皇子・懐成親王(当時4歳)へ天皇の地位を譲った。
通常天皇に在位した場合、その人物に対しては「天皇として呼ぶべき名前(尊号・諡号)」が没後に贈られる。
本項目で出てきた「後鳥羽」「土御門」「順徳」といった名称も、そういった経緯で贈られた称号であり、それが今日に至るまで各種文献に記されている。


のだが、この懐成親王に限っては、そうはいかなかった。
というのも、天皇が即位(皇位継承)する際には「即位式」や「大嘗祭」といった所定の祭祀を行う事で初めて「即位・在位した」事を内外に知らしめる。
逆に言えば、こうした手続きが踏まれていないと「正式に即位した天皇」として認められない(というか認めようがない)という事になる。
そして懐成親王の場合「践祚(せんそ)」と呼ばれる「皇位継承における最初の手続き」は済んでいたが、そこから先の即位式・大嘗祭といった手続きは済んでいなかったのだ。
理由は至極単純で、順徳上皇の譲位から承久の乱の終結・戦後処理まで僅か78日足らずだったため。
要は「即位」に関する祭祀を行う時間が禄に無かったからである。
そもそも勝利した鎌倉側の戦後処理の一環で「皇位を廃する」事になるなど、当時の朝廷は全く想像できなかったのだ。


結果、先に触れた通り「所定の手順が踏まれていない=天皇として在位していたとは見なせない」形となり、乱から13年後の1234年に崩御した後も諡号がされる事は無かった。
以後は母の実家が摂関家の一つ・九条家であった事から「九条廃帝」、もしくは「承久の廃帝」などと称されるようになった。
懐成親王に「天皇としての尊号」がようやく定められるのは、時代が下って1870年。
時の明治政府によって「仲恭ちゅうきょう天皇てんのう」の諡号が贈られてからであった*44


また、後鳥羽上皇の管理下にあった荘園はその全てが没収となり、表向きは後堀河天皇の父・守貞親王の管理下となったが、
「何かあったら鎌倉に返すように」という条件付きであり、実際の支配権は鎌倉のものであった。
加えて、朝廷内部の取り仕切りは、幽閉されていた西園寺公経が復帰して内大臣に任命された事で、以後鎌倉の意向が強く反映される事になった。
更に鎌倉は、以後の朝廷・京周辺及び西国の支配強化策として、京都守護に代わって新たに六波羅へ監視部門を設置(通称「ろく波羅はら探題たんだい」)。
朝廷側と京以西への統制・監視体制の強化を進める事になる。



文章で書くと、なんともサラッとした印象を抱くかもだが、この処断は、当時の価値観においては前代未聞なんてレベルを遥か彼方に通り越した仰天処分だった。
過去において、天皇や上皇および皇族や公家が、内乱や権力闘争の果てに追放や処分を受けた、なんて話は枚挙に暇がない。
が、それらはあくまで「朝廷内部における騒動」の結果。
今回のように「朝廷VS外部勢力」という事態そのものがレアケースな上、
その「外部勢力」は鎌倉――つまり(くどいようだが)当時の価値観では明らかに下位に属する武士階級が主体。
おまけにその武士が文句なしの大勝利をおさめ、上皇を始めとした国の最高権力者たちをその座から引きずり降ろして島流しに処するなど、
もう空前絶後とか天地がひっくり返ったとか、そんな表現ですら足りない異常事態であった。


ついでに言うと、この処分に関する決定権を有していた執権・北条義時は、元を質せば伊豆出身の極小豪族の次男坊。
そんな彼が武家政権の最高責任者に上り詰めただけでも超絶級なのに、そこに加えて上皇を文字通り「裁く」なんて事は、もう当時の常識の埒外に過ぎる話であった。



とまあ、かくして乱の首謀者たる上皇とその関係者は、悉く京での地位と権力を失う形になった訳だが、大事な事がもう一つある。
文字通り当時の常識を逸脱したこの処断だが、実のところこれでもまだ彼らの地位を考慮した「ゆるい」処断であり、
彼らに付き従った者――つまり公家や武士たちへの罰は、もっと容赦が無く苛烈だった。
後鳥羽上皇に組した公卿の内、中心的存在とされた者は「合戦張本公卿」と称され、軒並み捕えられた上で鎌倉へ護送……の途中で全員処刑された。
それ以外でも、上皇の近臣はその多くが流罪・謹慎などの処罰を受けた。
また、藤原秀康はじめ、上皇についた御家人及び京方の武将も多数が処刑・追放
そして彼らや京方の公家の所領は根こそぎ没収された上、鎌倉方の御家人へ褒章として分け与えられた。


厳しい表現をすれば、上皇に従った者たちはある意味「時勢を読み切れなかった」ともいえるが、それはあくまで後世から見たが故の話。
実際問題、朝廷に与した者たち全員が鎌倉へ不満や批判を抱いていたかといえば、そんな事は無い。
何度も触れているが、当時の価値観では「上皇の命令」への絶対性は決して無視できるものではなかった。
鎌倉方についた御家人たちは「政子の演説」という超級の鬼札を前に意思を決定したが、
それを知る余地もなかった京周辺の武将・御家人たちが、上皇が「かくあるべし」と意向を定めた以上、それに抗うという思考を抱けたかは疑問符がつく。
そうした面においては、彼らにも温情や情状酌量の余地は大いにあったと言えるだろう。


だが、鎌倉は、そして執権・北条義時は容赦しなかった
詳細は彼の項目に譲るが、鎌倉において、正真正銘「血で血を洗う凄惨な権力闘争」を繰り広げてきた義時らは、
たとえ「上皇の命令」であったとしても、自分たちに敵対した勢力を放置したらどんな事態が先に待っているかという事を、嫌と言うほど思い知っていた。
それはイコール、騒乱を終結させ後顧の憂いを絶つためには、どんな「処分」が最適かという事を、骨の髄まで理解していた、という事でもあった。


加えて当時、土地は当人および一族にとって命といっても過言ではないものだった。
所領を失う事は生活基盤を失う事と同義であり、だからこそ武将や公家は自所領の権益確保・拡大に躍起になっていた。
「鎌倉殿」というシステム・統治機構が上手く普及したのも「御家人の所領安堵」という制度が見事に需要と噛み合っていたからである。
が、(当たり前の話だが)日本列島にある土地の数・量には一定の「限界」がある。
そして、武功を立てた者には恩賞として土地を与えるのが当時の習わし。
幕府としても、恩賞を与えなければ「幕府の危機に立ち上がった御家人に何の恩賞も出さなかった」という既成事実を作ってしまうことになり、存立基盤が危うくなる。
承久の乱における恩賞の出処は乱で上皇方についた者たちの土地しかない。
そして、その「敗れた者」は、後になって復権する事のないよう「排除」する――
そうした「当時においては当然」の理論の帰結に基づき、「新しい力」による旧来勢力の排除は、加減も温情も無く速やかに執行されていったのだった。
そして、元寇の際には敵が国外のために同じ手法が採れず、鎌倉幕府が一気に衰亡していくことになる…



この敗北の結果、後鳥羽上皇の人物評価は劇的に下がった。
鎌倉幕府はおろか、公家からも「天が許さなかった」と冷ややかな評価ばかりが目立つことになった。


上皇の敗戦が以後の朝廷のあり方を劇的に変えてしまったという覆いがたい失態。
公家たちからすれば、鎌倉幕府に恭順的な姿勢を見せなければ処刑や追放の危険すらある状況。
最悪の場合「朝廷そのものが潰される」事態さえあり得る中では、「朝廷」でなく「上皇個人」に責任を押しつけて朝廷の存続をはからざるをえない。
こうして上皇は「徳も力もないのに無謀な戦いを挑んで案の定敗れ、いざ敗れると保身に走る、仕える価値もない愚かな上皇」と扱われることになったのである。
前記した京都に攻め込まれた時点での情けなさ全開の対応をはじめ、各種文献においてもその手のエピソードを生み出しやすい人物――要は「ダメ人間」扱いされやすい要因となった、とも言える。


◆後世への影響 ~朝威の落陽、武士の暁天~

乱の後、朝廷及び天皇の「日の本の頂点」という立ち位置自体は変わらなかったものの、その有り様は一変した。
完膚なきまでにその権力と威光をへし折られた朝廷は、事実上鎌倉に屈服する事になったのだ。


例えば後堀河天皇の後代・四条天皇が12歳の若さで急逝した際、その後継者選出で紛糾した朝廷内勢力が「鎌倉側の意向・賛同を求める」手紙を送るなど、
以後の朝廷の差配、特に天皇や摂政・関白といった重要人事については、原則「鎌倉の意向を確認・優先する」形が定着した。
これは即ち、鎌倉が事実上日本全域における政治の権限を掌握した事に他ならず、名実共に鎌倉幕府は「日本の統治者」としての地位を確立したのだ。
同時に鎌倉幕府の最高位たる征夷大将軍の意味も、それまでの「武家の棟梁」=「日本の武将達の統括者」から一歩進み、
以降江戸時代まで続く「事実上の日本の最高指導者」としての性質を有する事になった。


そしてそれは、当時定着つつあった「将軍は実質飾りで、実際の政治は側近たる執権が行う」政治体制――執権政治において、
その執権の座に就いた者が、この国を事実上統べる者になった、という事でもあった。



とはいえ、鎌倉側にとっては両手を上げて喜べる話ばかりではなかった。
何しろ支配領域が事実上日本全域に及んだのだから、これまで以上に各地に目を光らせ、反乱や騒乱に気を配る手間が増える事になった。
加えて前述の通り、西国の土地を東国の武士達に恩賞として与えた結果、現地住民と御家人の間でのトラブルも続発し、その対処に追われる羽目になったりもした。
オマケに先述の「朝廷からの意向確認」についても、公家の官位や皇位継承といった話は、それまで「朝廷があれやこれやと進め、決定してから通達が来る話」でしかなかったのに、
今後は鎌倉もある程度口を挟める――というか「口を挟まないといけない」状態に転じてしまった。
総括すれば「勝利と引き換えに『やらなきゃならない仕事』が異様に増えた」格好。
今まで以上に日の本全体の情勢に目と頭を巡らせる――要は「国政」を本格的に行う事を余儀なくされたのだった。



だが、そうした悲喜交々を差し引いても、この勝利はまさしく「歴史を変えた」一件だった。
実態はどうあれ、それまで日の本において朝廷、そして天皇及び上皇は「絶対的権威」であり、
皇族や公家が物申す事こそあれど、公然と反発したり、剰え刃を向ける事など考えられない存在だった。
だが承久の乱において、鎌倉殿とその配下たる御家人たちは、その固定観念に真っ向から喧嘩を売り、そして勝った。
勝ってしまった。
勝ててしまった。


それは「たとえ朝廷・上皇であっても、純然たる『武力』の前には屈する」という事の証明。
武力を持つ者、すなわち「武士」であれば、この日の本を意のままに動かす事も可能という事実の確立であった。


つまり、将軍とそれに仕える御家人――「武士」という階級の有り様が、それまでの「武力を保有するだけでそこまでの権益はない」状態から一転し、
名実共に天下を差配しうる」存在になった事を意味していた。
それまでの「朝廷・公家>武士・豪族」という、絶対的な力関係・従来の固定観念が文字通りひっくり返ったのだ。


この「武士階級による日本の統治」は、1333年にだい天皇てんのう及び足利あしかが尊氏たかうじによって鎌倉幕府が滅亡に追い込まれるまで継続した。
その後、後醍醐天皇は再び朝廷を絶対とした政治機構の再構築「建武の新政」に着手するも最終的に失敗。
世にいう「南北朝時代」の混乱の末に、足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ「室町幕府」が開闢。再び「武家の棟梁」による日本統治が開始された。


この後、室町から戦国時代を経て創設された「江戸幕府」の終焉まで、武士階級による日本支配・統治は継続。
朝廷とは異なる形式による、天皇を頂点とした新たな政治統治機構の構築――「明治維新」に至るまでの、実に約600年の長きに渡って「武士階級による日本の実質的な統治」は続くことになった。
加えて、維新後の「日本国」黎明期において政治を差配したのは、いわゆる「薩長土肥」と称される、倒幕活動の中心を担った武士階級の人々が多数を占めていた。
その結果がどんな歴史を紡いできたかは、近現代史を学んだ人なら誰もが良く知る通り。


すなわち、この「承久の乱」における鎌倉側の勝利は、現代へと繋がる日本史を形成する上で欠かすことの出来ない事変。
我々が生きる「今」へと繋がる、歴史における大いなる節目
知名度の高い「応仁の乱」や「関ヶ原の戦い」すら凌ぎうる、日本史上屈指の絶対的な分岐点と言えるのだ。



歴史に「もしも」はありはしない。ただ事実の積み重ねがあるのみであり、仮定の先を確かめる術もない。
それでも、例えば…

  • 追討の院宣が漏洩する事無く、各地の御家人に適切に伝わっていたら?
  • 命令を受けた御家人がそれに従い、「朝敵」義時を討っていたら?
  • 政子ら鎌倉側が、上皇への反抗ではなく恭順を選択していたら?
  • 後鳥羽上皇が手勢をより多く集め、鎌倉に抗しうる戦力を持っていたら?
  • 戦いの場に後鳥羽上皇自らが出陣していたら*45

これらの内どれか一つでも、誰か一人でも違う選択や行動を取っていたならば、
鎌倉時代における「武士階級による日本統治の確立」という事態には至らず
武士という階級が歴史を動かす存在となる事も無く、今日我々が良く知る「この歴史」は、間違いなく成立することは無かったと言えるだろう。







追記・修正は、承久の乱の年号を「ひとにふいうち」か「ひっぷにいちげき」のどっちかで覚えた方がお願いします。


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  • 登録日時が明らかに操作してあるけどこのくらいはいいんでなかろうか。出来事と鎌倉軍勝利は知ってたけど戦力差がここまで圧倒的だったとは知らなんだ。関ヶ原しかもその両軍合計分の兵が一気に… -- 名無しさん (2022-12-27 03:02:44)
  • 「鎌倉の対応 ~誤算、演説、そして蹶起~」のある箇所、朝廷扱いって何?朝敵っしょ!直しときます。 -- 名無しさん (2022-12-27 10:20:30)
  • 「ひっぷにいちげき」……『教科書っていうか!?』という漫画で覚えましたなぁ。 -- 名無しさん (2022-12-27 11:33:31)
  • なんで今日できた項目なのに登録日2 -- 名無しさん (2022-12-27 11:55:36)
  • ↑ミス 登録日21日なんだ、と思ったら年号に合わせたシャレなのね -- 名無しさん (2022-12-27 11:56:24)
  • とても良い項目でした。北条義時の項目を書いたのと同じ人かな? -- 名無しさん (2022-12-27 12:07:58)
  • 政子マジ強キャラ -- 名無しさん (2022-12-27 12:20:46)
  • 年号の覚え方、『ワンツーツーワン』はダメですか。 -- 名無しさん (2022-12-27 12:38:16)
  • ↑他にも色々、年号の語呂合わせが出来そうですなぁ。 -- 名無しさん (2022-12-27 13:27:10)
  • QKの民おって草 -- 名無しさん (2022-12-27 13:32:35)
  • ホント今年の大河を見るまでは北条政子、承久の乱というワードは習ったが義時とか細部は全くだったか勉強になったわ -- 名無しさん (2022-12-27 14:31:21)
  • 鎌倉幕府の真の始まりは承久の乱からと言っても過言ではないかもしれない -- 名無しさん (2022-12-27 14:46:27)
  • 正式な登録日時をきちんと書く形でネタ登録日時を復活させてみました。 -- 名無しさん (2022-12-27 15:37:13)
  • 「三浦義村がわけわかんないことした」が武家政権成立の理由の1つだったとは…こいつ敵に回すと怖いけど味方にもしたくないなあ… -- 名無しさん (2022-12-27 17:03:53)
  • ↑山本耕史の怪演も相まって、三浦義村が「鎌倉のロキ」にしか見えない。 -- 名無しさん (2022-12-27 19:37:41)
  • 三浦義村がわけわかんなすぎる、歴史には時おりこういう怪人物が登場するから面白い -- 名無しさん (2022-12-27 20:01:28)
  • 進研ゼミの教材にあった「いつ注いでもお言葉上級」、いつつい(1221)でもおことば(後鳥羽)じょうきゅう(承久)という語呂合わせが未だに印象に残ってる -- 名無しさん (2022-12-27 22:16:23)
  • 漫画版「吾妻鏡」で予習済みの私にスキはなかった。漫画版だと老いで弱り病で視力も失った大江広元が「盲いた年寄りにも言わせてくだされ」と言いながら「持久戦を選べば敵を待つ間に仲間の心が乱れます。討って出たほうが良い」と一度も戦場に行ったこともないのに戦機を掴んでいたのが印象深かった。 -- 名無しさん (2022-12-27 23:10:52)
  • ↑3 やっぱり外星人だったんじゃ…イミフな行動の数々も地球人類を進歩させるための工作だったのかもしれん -- 名無しさん (2022-12-28 07:44:59)
  • この項目マジ受けるんだけど、超承久の変〜 -- 名無しさん (2022-12-28 07:56:59)
  • 「上皇自ら出陣」という小さなことで勝敗が逆転してた可能性があるとは……歴史は恐ろしい。良項目ありがとうございました -- 名無しさん (2022-12-28 10:33:25)
  • 北条朝時は義時の次男で三男は極楽寺重時だぞ。 -- 名無しさん (2022-12-28 21:51:32)
  • 三浦一族の滅亡(宝治合戦)は大河ドラマの北条時宗の第一話で描かれていたな。義村の家督を継いだ三浦泰村を津嘉山正種さんが、泰村の弟の三浦光村を遠藤憲一さんがやってた。宝治合戦開始と共に流れるオープニングのメインテーマの雰囲気も相まって泰村殿が可哀想でならなかった(大体、安達と弟の光村のせい)。 -- 名無しさん (2022-12-28 21:58:37)
  • 執権=過労死上等のスーパー激務化の始まり始まり -- 名無しさん (2022-12-29 08:42:20)
  • 他の国の歴史ならこんな戦いがあれば天皇上皇という地位や朝廷という政権自体が滅びてもおかしくないんだけどそうはならないのが日本史 -- 名無しさん (2022-12-29 10:10:18)
  • ↑5小さな事どころか上皇直々に戦場に向かうって相当だぞ。外国との殲滅戦争ならともかく田舎の派遣社員の反乱に最高権力者が直々に出向くのかと -- 名無しさん (2022-12-29 10:31:41)
  • ↑2そうなんだよな。事実隣の中国とかでは何度も政権が滅びているし、「後に再び権力を握れるものを残さない」スタンスなら天皇上皇制もまとめて滅ぼしても良かったはず。高校で日本史の先生にそこを聞いても「天皇上皇を滅ぼすのは神を滅ぼしたのと同じだからそこまでやると今度は誰も鎌倉方についてこなくなる」というわかるようなわからんような解説しかもらえなかった。そこの辺もついでにこの項目で解決するかなと思いながら読んでたけど、天皇上皇が「象徴」となった現代に生きる自分にはやっぱりよくわからんかった。欲を言えばそこの辺の解説も欲しいな…非常に良項目だった。楽しませてもらいました。 -- 名無しさん (2022-12-30 01:27:25)
  • ↑天皇家を滅ぼしたら今度は北条が天皇家に代わる正当な権威の構造作らないといけないから。要は御恩と奉公っていう実利だけでなく長期にわたる権利を保障できる機構を作らなきゃいけない。それにはもう何十年なんてレベルじゃないとんでもない時間がかかる。 -- 名無しさん (2022-12-30 02:58:01)
  • ↑大雑把に言えば当時の武家は朝廷の貴族にルーツを持つ軍事貴族が主なので、「朝廷の否定=自らの出自や立場の否定」に繋がりかねん。ましてや源家将軍(河内源氏)は「清和源氏」の名の通り天皇家にルーツを持つ訳で -- 名無しさん (2022-12-30 03:08:17)
  • ↑2北条氏にしても桓武平氏の直系を自称しているので、朝廷を滅ぼせば今度は自家の権威が危ない。 -- 名無しさん (2022-12-31 00:22:08)
  • 別の切り口で語るなら、本文中にもある通り権力が集中するほど「やらねばならない職務」がどんどん増える。例えばこれまで朝廷の貴族が担ってきた学問、医療、宗教、暦、文化などなどの職務も武家がやらなきゃあかんくなる -- 名無しさん (2022-12-31 02:54:32)
  • 日本の天皇はヨーロッパだと教皇に当たるとよく言われるけど、そういう点ではヨーロッパでも王様と教皇が対立したり、その結果負けた教皇が捕まったり挿げ替えられた事はあるけど、教皇制度やバチカン自体を滅ぼそうとした王様なんていないわけで。 -- 名無しさん (2023-01-01 09:25:37)
  • 天皇自身が義時をではなく、天皇が部下の言葉を鵜呑みにして出したってのは。やっぱ本当に直接対峙はできない位のお人なのよね… -- 名無しさん (2023-01-03 15:56:40)
  • ↑2日本人は本人も意識してないけど全員が神道(というか日本教)の信者だからな -- 名無しさん (2023-01-14 01:06:59)
  • ↑8 逆に皇帝が殺される中国の方が特殊。あっちは早々に皇帝に権力が集中する仕組みが作られた&儒教の中に「国が天災などで乱れるのは君主の徳がないからである、故に国が乱れたら速やかに新しい君主にして国を護るべし(≒殺してもいい)」という思想があったから… -- 名無しさん (2023-02-02 09:24:21)
  • 「逃げ上手の若君」の歴史解説の本郷氏は「幕府軍の合計兵力は多くても1万5千くらいだったのでは?」という説を出してるな。「死者負傷者の記録から計算した数字。総兵力の記録は盛られがち。」だそう。(11巻巻末より) -- 名無しさん (2023-07-22 20:05:58)
  • 項目立てた方、編集に携わった方々マジで感謝。勉強になった。このまま教科書に乗せてしまった方が教育に貢献できると思うくらいありがたいです。 -- 名無しさん (2023-12-28 12:27:01)

#comment(striction)

*1 完全勝利はもちろん、譲歩などはしたが権力者の立場が危うくなるまではいかなかったものも含む。
*2 当時は「幕府」という単語は用いられておらず(使われ出すのは江戸時代以後)、専ら「鎌倉」ないし「鎌倉殿」と呼ばれていた。
*3 「最高指導者が朝廷から『征夷大将軍』という役職に任ぜられる」という前段こそあるが。
*4 征夷大将軍は本来「蝦夷(京から見て東側、現在の関東・東北以遠の地域)を朝廷の名の下に征伐する軍の最高指揮官」を指す地位であるため、潜在的に全国の武士へ軍事的動員をかける権限を有していた。
*5 「守護」は国(現在で言う都道府県単位)単位で軍事の指揮と行政の取り纏め及び領域内の地頭の監督を、「地頭」は主に荘園(公家などの権力者の私有地)及び公領(朝廷の支配地域)における土地の管理及び税の徴収を所管する。
*6 正確には「朝廷の意向・許諾を受けた鎌倉殿が指示を出す」という形だが、実質は鎌倉殿の統治者としての権利・意向が優先されていた。
*7 端的に言えば当時の皇室の家長・当主。平安末期の院政以来「天皇位を譲った父方直系の院」が父権を行使する形で実権を握った
*8 簡単に言うと「治天の君」の座を巡り争う天皇と上皇に、公家のトップである藤原氏の内紛が合流し起きた騒乱
*9 保元の乱の勝者である後白河帝配下の内紛
*10 父・源義朝が平家との戦いに敗れて討たれ、頼朝も連座する形で流罪となった結果、官位といった地位が軒並み剥奪されていた。
*11 ちなみに彼の父・頼朝の最高官職は「権大納言」(ただし短期間で辞任している)。右大臣はこれよりも更に格上であり、加えて二人の就任当時の年齢(頼朝:44歳、実朝:28歳)及び実績を比較すると、その異例っぷりが際立つ。
*12 例えば、実朝が詠んだ歌の中に「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」がある。意味は「この世において、山が裂けたり海が干上がったりする事があったとしても、君(上皇)に対して二心を持つような事は決してありません」というもの。上皇への恭順の意思を明確に示す内容で、当時の朝廷との緊密な関係性が窺える。
*13 正室との間に子は生まれず、側室も一人として迎えていなかった。
*14 余談だが、この際に太刀持ちとして実朝と同行していた、後鳥羽の側近であり、実朝からの信任も厚かった「源仲章」も凶刃に倒れている。本来ならば実朝と同行していたのは北条義時で、仲章はいわば義時の身代わりに殺されたとされるが、詳細や義時が関与していたかどうかは不明である。
*15 頼朝自身には兄弟もおり、妻との間に子供、そして孫も居たのだが、鎌倉成立から実朝死亡までの間に起きた(というか起き過ぎた)権力闘争の果てに、後継となりうる直系男子が軒並み死亡していた。……更に言えば、実は「僅かには」残っていたのだが、実朝の死から程なくして「謀反の罪」で全員誅殺された。末世にも程がある。
*16 「地頭に任ぜられる=その土地を勢力下に治める」の意味であり、加えて当時土地は武士・公家問わず極めて重要な財産であった以上、賞罰などの理由も無く地頭を変更したりする事など論外だった。
*17 「五摂家」とも呼ばれる、平安時代中期の権力者・藤原道長に由来する五つの氏族。摂政・関白に任命されるのは原則この家系に限られる事から、血筋で言えば皇族に次ぐ威光を持つ。
*18 曾祖母が頼朝の異母妹に当たる
*19 当時政治的に対立していた後白河法皇に対し、平清盛が数千騎を率いて京へ上洛し事実上のクーデターを決行。法皇を幽閉状態に置いた上、反平家一派を朝廷内の要職から一掃し、その後釜を親平家派で埋めた政変。
*20 ついでに言うと、廃止を求められた「上皇の寵姫の荘園」の地頭は、他ならぬ北条義時。もはや魂胆見え見え過ぎる要求なのは言うまでもない。
*21 ちなみに、一部の公家や上皇と対立状態にあった寺社もそっぽ向いた模様。まあ支出オンリー=損するばっかりで得な事は何にもない話だから、しょうがないっちゃしょうがないんだが。
*22 ……逆に言うと、上皇にとって最も目障りなのはあくまで「義時個人」か、せいぜい「彼を含め、鎌倉中枢で権勢を振るう北条一族とその配下」であり、鎌倉の存在自体にはそこまで目くじら立てて居なかった、とも考えられている。
*23 後鳥羽上皇の第三皇子。母方の曾祖父が平清盛の異母弟・教盛なので、源氏系の幕府は「曾祖父一族の仇」という一面を持っていた
*24 後鳥羽上皇の第一皇子。父の譲位に伴い天皇に即位するも、12年後に後鳥羽上皇の意向により異母弟の順徳天皇へ譲位させられた。
*25 朝廷内において、太政大臣や右大臣といった、国政を担う最高クラスの地位全体を指す。
*26 どちらも上皇の身辺警護を任務とする武士。
*27 義時の正室、伊賀の方の兄弟で、つまり義時の義兄弟に当たる
*28 上皇の命令に基づいて出される文書のこと。
*29 なお、この三浦義村という人物、こんな感じの「一体全体どんな思考回路と行動原理持ってんだ」と突っ込みたくなる行動を連発し、その癖最終的にはしっかり勝ち馬に乗って生き残るという事を生涯繰り返していた。その様は同時代を生きた歌人・藤原定家が日記に「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟(意訳:コイツ理解不能な謀略巡らせ過ぎで、ホント何考えてんだかマジで訳分からん)」と記した程。そりゃそうだ。
*30 本人が御家人たちの前に立って大音声で言ったとも、側近に声明文を代読させたとも言われている。
*31 ただ武田の場合、信光の父・信義は頼朝から「後白河法皇と内通している」との疑惑で粛清されかれ、兄・忠頼は頼朝によって宴席に呼ばれたところを暗殺されている。しかも頼朝は武田信義の弟を懐柔すると、息子が殺され動揺する信義を討伐させた(信義は生存)。あまつさえ、その懐柔した弟も十年後に「謀反の疑い」で頼朝に滅ぼされる。「鎌倉殿」にこんな扱いをされてきた甲斐武田の当主が、天真爛漫に鎌倉を支持するはずがないのは道理である。
*32 鎌倉殿は「御家人に各種功績に応じた褒賞として土地を与え、同時に所有地の支配管理権を保障する事」を、御家人は「鎌倉殿からの指示に応じて、軍事的動員や徴税などの経済的な対応を行う事」を条件として、双方の主従関係を成立させていた。
*33 義時の嫡男。後の鎌倉幕府三代執権。
*34 義時の次男。
*35 無論、当時の計数がどこまで正確なのかは甚だ疑問符がつくし、多少の過誤ないし誇張が含まれているのは考えられるが、少なくとも「当時においては圧倒的な物量」を鎌倉側が確保していたのは事実であろう。
*36 時房は泰時と共に東海道方面軍にあった。
*37 分散配置自体は戦法としてはままある話なのだか、あくまで戦力が拮抗、ないし応戦可能な範囲内での話であって、戦力差が大きすぎる時にこの手法は、局所的な戦力差を余計に広げる形になるので、愚策以外の何物でもない。
*38 これは鎌倉にとっても同様であり、実際頼朝の治世において、延暦寺側からの要求に屈する形で頼朝が御家人を処罰する羽目になった事件もある。
*39 ただし「全く寺社勢力の協力を取り付けられなかった」訳ではないらしく、実際「宇治川で鎌倉側を相手に、僧兵数百人を含めた京の軍勢が相対した」という記録もある。まぁ焼け石に水感は否めないが。
*40 とはいえ無傷とはいかず、少なからぬ所兵が渡河の途中で流されたり矢に射られたりで落命している。
*41 先代である安徳天皇(当時8歳)共々、平家一門が京から西国へ逃れる際に持ち出しており、後鳥羽天皇の即位はそれらを欠いた状態で行わざるを得なかった。そして「壇ノ浦の戦い」において、安徳天皇と共に神器は海に没してしまい、内二つは発見されたものの「天叢雲剣(草薙剣)」だけはついに見つけられなかった。
*42 例えば、先述した「大内裏を焼失させるに至った内乱騒ぎ」において、大内裏の焼失に伴い、歴代の遺物も数多くが焼け落ちたと知った上皇は、ショックのあまり一月近く寝込んだとされる。
*43 なお、こんな感じで後鳥羽上皇が情けなく記される背景には、先に触れた通り後鳥羽上皇が「三種の神器が欠落した状態で皇位継承した」事実が「不完全な皇位継承行為」と扱われ、結果「色々ダメな面があっても『まぁああいう経緯で天皇になった人だし』と当時から判断されやすかった」という面もあるとされる。
*44 この時同時に、飛鳥時代の騒乱「壬申の乱」に敗れた事で在位期間が極端に短かった「弘文天皇(大友皇子)」、奈良時代に政治的対立の末に追放した上皇の意向で天皇と認められなかった「淳仁天皇(淡路廃帝)」にも諡号がされている。
*45 泰時が鎌倉を発つ際に「もしも戦場で上皇さまと会ったらどうすればよいか」と聞かれた義時は「速やかに弓の弦を切って下馬し、恭順の意を示せ」と答えたという。そのため、もしも後鳥羽上皇自らが戦場に出ていたら、承久の乱の勝敗そのものに多大な影響を与えたことは想像に難くない。

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