八幡神

ページ名:八幡神

登録日:2017/12/08 Fri 10:58:47
更新日:2024/02/16 Fri 13:06:07NEW!
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■八幡神


『八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)』 は、日本で広く信仰されている神格。


八幡神を祀る神社は八幡宮(はちまんぐう)といい、

起源はおよそ宇佐八幡宮にある。

とされている。同時に「その八幡神の語源・語意については諸説があり,なお研究の余地がある」とも(『世界大百科事典 第2版』)。


言わば、神託を為す托宣の神。
そして、武家からは戦勝祈願を祈る『弓矢八幡神』として軍神としての信仰を受けた。
現在では“ハチマンシン”と、音読みされることが多いものの、神仏習合以前は“ヤハタノカミ”と訓読みされることが多かった。


奈良の大仏建立に纏わる八幡神の協力により、朝廷から仏教名となる“八幡大菩薩”の号を受けており、此方の呼び方も広く使われている。
神名は、神霊の依り代としての『旗』を意味しているとされ、八は『数多く』の意味とされる。
現在では後述の応神天皇と母親の神功皇后に纏わる神話と習合しており、神功皇后が三韓征伐の往復路で対馬に立ち寄った際に祭壇に八つの旗を祀ったとか、応神天皇が誕生した際には、その家屋に八つの旗がひらめいたとも伝えられる。
また、出自に関して自ら震旦国(中国)や新羅(朝鮮)の神であったと名乗ったともされるが、生まれは日本で、系譜としては素戔嗚尊の子孫であると云う。
高天原より追放されたスサノオが朝鮮や中国に渡っていたとの信仰があり、八幡神はその孫であるとされている。
スサノオと共に新羅に降臨しながらも、後に日本に戻り国中に植林して青山を為した、スサノオの息子とされる神に五十猛神イトタケルが居り、八幡神はその子であると云うのだ。


スサノオとイトタケルが降臨したとされる新羅(秦韓)は中国大陸より移住してきた民族の国であり、当時の半島の一部には既に日本の支配が及んでおり、新羅とも交流があったと考えられている。
そして、新羅人は秦氏の祖先の弓月君と共に日本に渡り、応神天皇の下で帰化を果たした。
……八幡神は、これらの渡来人が持っていた信仰と、大和王朝の認可以前より異文化交流の接点となった氏族の神と、更に支配者である大和民族の神が習合したカミであると見なされており、それ故に大陸より渡った仏教とも早くに習合したのだ、とも考えられている。
後に応神天皇の神霊とされたのも、大陸、半島との文化交流が進み帰化人も多くなった時代に王朝を樹立し、それを庇護して帰化事業を進めた統治者が応神天皇であったからだとも考えることが出来る。


何れにせよ、一口に神道のカミとも言えなければ、単に渡来人が持ち込んだカミとも言えないようであり、その実態については以下の【概説】以降の情報を汲んでも、尚も判然としないと云えるだろう。



【概説】

現在、日本にある神社の内の2万社、或いは4万社以上……神社本庁でも把握しきれていないと云うが、一説には12万社もの拝殿にて奉られているとの説すらある謎多き神
神社の数こそ稲荷神社に負けるが、奉られている社の数では稲荷神社の総社数をも凌ぐ。


現在、これ程までに日本中に信仰が広まっている神様なのだが、この八幡神の成立までには様々な段階での起源があり、神としての性格も姿も一つとは定めきれていない。


八幡神社の総本社は大分県の宇佐神宮で、同神宮の縁起によれば第19代欽明天皇32年(571)年に、神功皇后の御子で、異母兄の忍熊王おしくまおうを破り即位した第15代応神天皇の神霊が顕れ「我は誉田天皇広幡八幡麻呂ほむだのすめらみことひろはたのやはたまろなり」と名乗ったとされることから、現在まで基本的に“八幡神とは応神天皇の神霊である”と説明されている。
八幡神の異名を品陀和気命ほむだわけのみことと云うのは、上記の様にホムダワケノミコトが応神天皇の名だからである。


……なーんだ、じゃあ別に謎でもなんでも無いじゃん……なんてことはなく。
正体を応神天皇とされつつも、八幡神は応神天皇たる男神を中心に、比売神ヒメガミ、応神天皇のである神功皇后を共に奉る三神形式となっていたりする。


応神天皇の治世中には百済から訪れた王仁わににより儒学がもたらされ、漢人の阿知使主あちのかみ率いる人々が渡来して漢氏あやしとなり、弓月君を祖とする、秦の始皇帝の末裔とも語られる秦氏はたしが帰化を果たすと共に、養蚕や機織、その他の大陸由来の技術が伝来したとされている。


応神天皇は仲哀天皇の御子と云うよりは神功皇后の御子と云う扱いを受けているが、誕生が仲哀天皇の崩御よりもずうっと(一年以上も)後なので、後述のように神功皇后が誕生を引き伸ばしていた、とする説もある一方で、父親を神功皇后に神託を降した住吉の神である、とする伝説も残る。
実際、応神天皇は歴代天皇で初めて実在が確信されるとされつつも、同時に一種の超人(神人、聖人)的な逸話を残す人物とされているのである。
このように、応神天皇は八幡神となる以前より信仰のあった人物神であったらしいが、その応神天皇が八幡神とされた経緯については後述とする。


比売神は、スサノオが高天原に昇った際に、それを警戒して顕れた姉のアマテラスとの間で潔白を証明する為に行った神生みの際に生み出された宗像三女神=
多岐津姫命タキツヒメ市杵嶋姫命イチキシマヒメ多紀理姫命タキリヒメであるともされている。
宗像三女神は、元は海人の宗像氏に信仰されていた、海上の安全な運行を祈願された海流の神であったものが記紀神話に組み込まれたもので、
その理由には神功皇后の行った三韓征伐*1にて、宗像氏が重要な働きをしたからであると見なされている。


一方、比売神の正体に関しては、元々の当地で信仰されていた女神であるともされる他、
初代神武天皇の母である玉依姫命タマヨリビメである、とする説もある。
彼女は海幸、山幸の神話で知られる火遠理命ホオリの妻となった豊玉琵売命トヨタマビメ=乙姫の原型となった海神の娘の妹である。
この場合の比売神=タマヨリビメは八幡神の伯母、或いは母であり、妻である。
……それと云うのも、応“神”天皇は、同時期の大陸や半島からの渡来人や帰化人の流入により混乱する時代に統一国家の強化に帆走して新たに王朝を作り上げた英雄的な支配者=天皇であったとする説があり、
応神天皇は遡って、同じく“神”の号を持つ初代“神”武天皇や、神武天皇と同じく“ハツクニシラススメラミコト(建国の天皇)”の異名を持つ第10代崇“神”天皇のモデルとなったのではないか?との説もある辺りに関連も見えてくる。
尚、タマヨリビメとは固有名詞ではなく、神霊(タマ)が憑依する女性=巫女を指す尊称であり、神の如き英雄の母、または妻を示すとも云われる。
比売神を応神天皇の后である仲津姫命とする説も、これに倣ったものと云えるだろう。


この他、近年では比売神を邪馬台国の女王卑弥呼ヒミコでありアマテラスであるとする説や、白山比咩神シラヤマヒメこと、菊理媛神ククリヒメであるとする異説もあるが、アマテラスは住吉三神と共に、神功皇后の三韓征伐の神託を降したとされる他、実在したかどうかは定かではないが神功皇后もまた、記紀神話に於ける比売神アマテラスのモデルなのでは?とも言われているので、そこまで関係性の薄い話でもない。


神功皇后は、ほぼ実在が確信されている応神天皇に対し、余りにも女傑過ぎて実在も疑われている応神天皇の母親。
『日本書紀』では、彼女は歴代天皇と同格の支配者として扱われ、応神天皇が即位したのも、彼女が100歳で崩御してからのことだったとされる等、歴代天皇と同列に扱われている。*2
日本武尊の子である仲哀天皇の后であり、神託を受け取る巫女でもあった。
彼女が受け取った「熊曾より新羅を討つべし」との神託に逆らい、反抗的な熊曾討伐に向かうが命を落とした夫の代わりに、熊曾の沈静化と、神託に従っての朝鮮出兵による三韓征伐を成し遂げた。
恐ろしいことに、彼女はこの三韓征伐の時には応神天皇=ホムダワケノミコトを宿していたとされており、身重の体で自ら出産を遅らせつつも遠征を終わらせ、筑紫国(福岡県)で応神天皇を生んだとされる。
彼女がこれを成し遂げたのは胎内の応神天皇の力によるものだ、とする信仰もある。


神功皇后の軍が出発したのは長崎県の壱岐島だとされており、彼女を奉る聖母しょうも神社が北端の勝本に、中央には三韓征伐の神託を降し、道案内をした住吉神が鎮座している。


神功皇后は、応神天皇の母親として、一種の聖母信仰を受けているが、それと共に彼女こそが邪馬台国の女王ヒミコなのではないか?とする説や、反対にヒミコの姿を神功皇后として記したのではないか?との説もある。
これは、未だに中国の『魏志倭人伝(『三国志』の『魏書東夷伝』)』以外には、記述がない邪馬台国とヒミコの正体を、神功皇后~応神天皇による新王朝樹立までの記録のことだとする説があるからである。


邪馬台国が大和王朝の前身であるとする説もあるが、ここで云う大和王朝とは、神功皇后~応神天皇によって樹立された新王朝のことであり、これは前述のように、遡って神武天皇による神武東征の記録になったのではないか?との説もある。
第40代天武天皇の詔により編纂が開始された『古事記』と『日本書紀』の記紀神話は、天皇家=大和王朝の支配の正統性を証明する為の歴史書であったが、それは神話の段階から始まっており、特に天津神は直接的に天皇家へと連なる神々である。
故に、その主神たるアマテラスは、ヒミコのことであるとする構図も成り立つと云うのである。


また、三神形式で神功皇后の代わりに、夫の仲哀天皇や、神功皇后にも仕えたとされる、数百年を生きた古代日本の神秘人である武内宿禰(たけうちのすくね)が奉られる場合もある。
武内宿禰は霊媒でもあり、仲哀天皇は信じなかった、神功皇后の神憑りの神託を請うたのは他ならぬ武内宿禰だったと云われる。



……八幡神は以上のように、現在では基本的には応神天皇の神霊を本体として、それと関係の深い神霊を併せて主体とすることから、皇祖神としての信仰も受け、宇佐神宮と岩清水八幡宮は皇室からも伊勢神宮に次ぐ宗廟とされている。
尤も、八幡神が応神天皇と結び付いたのは奈良時代から平安時代にかけてとのことで、他に仏教を深く信仰して奈良の大仏を建立した聖武天皇の霊が八幡神と結合した、とする信仰もあった。
これらの経緯は以下に記す。


【神仏習合】

八幡神と仏教との習合の記録は早く、奈良時代にまで遡る。
日本に於ける仏教は、最初は国家守護と学問の為に迎えられたが、743年より、世に蔓延る干魃や飢饉、疫病の蔓延や反乱の徒の打破を願い、
第45代聖武天皇の詔により国家安定を願って建立を開始された東大寺は、奈良の大仏の建造途中の749年に、宇佐神宮の禰宜ねぎと云う巫女が上京して「八幡神が廬舎那仏(大仏)建立に協力せよとの神託を降した」として、協力を申し出たと云う。
伝説では、宇佐八幡神は天皇と同じ金銅の鳳凰をつけた輿に乗って入京し、大仏の建立を助けたと云うが、5年後の754年に件の巫女が行信らと共に厭魅(呪詛)を行ったとのかどで流刑になった時には恥じて、一時的に伊予国(愛媛県)へと離れたと云う。
尚、この大仏の建立途中に 陸奥国(東山道)から日本で初めてとなる金が産出して献上されたのは八幡神の恵みによるものだ、とも伝えられる。



752年に完成した大仏の開眼供養を行った第46代孝謙天皇は聖武天皇の娘であったが、彼女が帝位を退いて上皇となっていた761年に近江国で出会い、看病を受けたことで、彼女の相談役として重用されたのが法相宗の僧の道鏡であった。
孝謙上皇は未婚で子供も居なかったので、後継者として当時の朝廷で権力を欲しいままにしていた藤原氏の藤原仲麻呂が天武天皇の孫であり、自分の娘婿でもある大吹王を推した。*3
これを危険視した橘奈良麻呂がクーデターを起こそうとするも仲麻呂に捕らえられ、大吹王は第47代淳仁天皇となった。
しかし、道鏡との出会いにより、再び執政を行うようになった孝謙上皇と不和となり、道鏡の重用もあってか、これに我慢のならなかった仲麻呂こと恵美押勝は764年に謀反を起こしたが、今度は自分が失敗して捕らえられ、殺害された。
淳仁天皇も捕らえられ、淡路国へと幽閉(淡路廃帝)された翌765年に、幽閉先から脱出するも捕らえられ、次の日には幽閉先で非業の死を遂げたと云う。


こうした混乱の中で、再び重祚(ちょうそ=一度退位した君主が再び即位すること)により誕生したのが、孝謙上皇改め、第48代称徳天皇であった。
称徳天皇は、既に出家した身であった。
再び即位しても尚、道鏡を重用し、法王の地位まで与えた称徳天皇であったが、769年に八幡神が“道鏡を皇位に付ければ天下は泰平になる”との神託を降した、とする宣言が起きた。
これに際し称徳天皇は、和気清麻呂を宇佐神宮に遣わしたが、八幡神は“吾が国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。臣下を以て君主とすることは未だ曾て無かった。皇位には必ず皇統の人を立てよ。無道の者掃除すべし”と云う真逆の神託を降し、和気清麻呂はこれを朝廷に持ち帰ったが、道鏡と称徳天皇の怒りに触れて、官職も官籍も奪われて大隈国に流されたと云う。
この事件は、道鏡による国の乗っ取りとして伝えられることが多いものの、また一方では、道鏡に媚びる者達や、称徳天皇の意向が主で、道鏡の意思による事件ではないとする意見もある。
ともかくも、この翌年の770年に称徳天皇が崩御。
後ろ立てを失った道鏡もまた権力を失い、下野国に下向させられて、同地で没した。


……これらの話題は、何れも当時の仏教の扱いと、その守護神として台頭させられようとした八幡神が政争の火種となった事実を示している、として伝えられる。
聖武天皇は、藤原氏の台頭により天皇の権威が下がっていた時代に、天皇の権威の復興と、仏教を国学、国家鎮護の方法としてのみならず、民への布教を願って大仏の建立を啓示のように思い付いたのだ、ともされている。
藤原氏の妨害がありつつも完成された大仏の開眼の供養を執り行った、父の意志を継いで仏教に帰依した孝謙天皇(称徳天皇)も同じ気持ちであったのだろう。


称徳天皇の後を継いだのは第38代天智天皇の孫の白壁王こと、第49代光仁天皇であったが、彼に嫁いでいた称徳天皇の異母妹である井上内親王が、皇太子を皇位に付けるべく呪詛を行ったとの罪を立てられ、皇后を廃された後に死を遂げ、彼女の子である他戸親王も皇太子を廃された為に聖武天皇の血筋は途絶えてしまった。
これに替わり、別の血筋の山部親王が皇太子となり、第50代桓武天皇となるが、桓武天皇は後に数々の政争や、それに起因すると考えられた不吉な天災の頻出から逃れるべく、都を平城京から平安京へと移すことになる。


そして、こんな中で781年に八幡神に対して朝廷が贈ったのが『八幡大菩薩』の号だったのである。
前述のように、この時代には祟りの原因とも考えられた聖武天皇の霊が、死後に八幡宮と結合していたと考えられていた為であり、八幡神を正式に仏教の守護神とすることで、その祟りを鎮めようとした為であった。


八幡大菩薩は本地仏を釈迦如来、または阿弥陀如来であると云い、これによって、国策によって全国に拡がっていった仏閣の守護神として八幡神が奉られるようになり、その名が広まっていくことになった。
明治以前の神仏習合では畏き神である大自在天と同一視されていた。
大自在天は仏法に従わぬ神とされつつも、真言宗系の護法の神として天部の最高位たる梵天、天部の最強神たる帝釈天と並ぶ強大な神霊として日本でも畏怖されてきた。
稲荷神の眷族が狐であるように、八幡神の眷族は鳩であるという。


また、平安時代以降は清和源氏と桓武平氏(平家)を始祖とする武士階級の信仰を多く集めるようになった。
これは、アマテラスの法を掲げる朝廷とは別の法を掲げることを願った武士により八幡神が担ぎ出されたからだともされ、これによって全国に八幡神社が勧進されて広まることになったのだと云う。


こうした流れを受けて、八幡神を出家した僧侶の姿で顕すようにもなり、これを“僧形八幡神”と云う。


八幡信仰は征夷大将軍坂上田村麻呂によってもなされており、平安京に石清水八幡宮が勧進される以前より、遠征先である胆沢(岩手県)に鎮守府八幡宮が勧進されている。


後には、源頼家が河内国壷井(大阪府)に壷井八幡宮を勧進し河内源氏の氏神とし、子の源義家が石清水社前で元服して『八幡太郎』を名乗る等、源氏の氏神とされるようになり、平家を倒して鎌倉幕府を拓いた源頼朝は八幡神を鎌倉へと迎え、これが鶴岡八幡宮の始まりとなった。
後の室町幕府でも足利将軍家により源氏復興の観点から特に熱心に信仰されたと云う。


平将門も上野(こうずけ)の国庁で八幡大菩薩により『新皇』の地位を保証されたとも云うが、同時に石清水八幡宮では将門の調伏祈願が行われ、国家鎮護の神としての性格を強めた。


桃山時代に天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、死後に自らが『新八幡』として、奉られることを願ったが叶わず、第107代後陽成天皇に神号下賜され『豊国大明神』として豊国神社に奉られることになった。


明治以降は急速な近代化に伴うナショナリズムの興起の為に国家神道が持ち出されて神仏分離令が出され、八幡大菩薩の号が廃止される等の命令が降されたが、武家に信仰された神として八幡大菩薩の号は強烈に残り、昭和に入ると大戦中の軍部でも『南無八幡大菩薩』の大幡が掲げられ、大戦末期には悲壮な覚悟で挑む特攻隊員の信仰を集めたと云う。


大戦後は再び、信仰の場で神仏和合の動きが起こっている。



【信仰の推移】

現在では応神天皇の神霊とされる八幡神だが、前述のように八幡神自体は、それ以前より信仰があった神であることは間違いないようである。
元は、信仰が起こった宇佐地方(大分県)の農業の神だったのではないか?との説があるが、よく托宣を行う神と云う性格からも解るように、朝鮮半島より渡来した大陸~半島のシャーマンの神が渡来文化を許容していた辛嶋氏と、宇佐の国造(みやつこ)であった宇佐氏により受け入れられて、同地の神と習合させられたと考えられており、これらの氏族が司っていた『豊国文化』は相当に高度で、そのシャーマン的な祈祷、医療の技術は、わざわざ大和にまで召されて天皇(第21代雄略天皇)の病を治した、とする記録が残っている。
この豊国文化からは如何にもシャーマン的な巫女=豊国奇巫(とよくにのあやしきかんなぎ)の他に、豊国法師と呼ばれる僧侶が生まれているが、彼らは僧侶であると同時に呪術を行うシャーマンでもあった。
豊国文化は6世紀頃まで栄えたと云うが、以降は大和王朝に吸収され、反対に応神信仰を持つ三輪山のシャーマンである大神比義が宇佐に入ったことで、宇佐の信仰は大神氏に取って代わられた結果、これが八幡神を応神天皇とする信仰となったと考えられる。
応神天皇は渡来人にとっても重要な意味を持つ支配者なので、その神霊を八幡神としたのには、そもそもの意図があったとも云われる。
辛嶋氏は大神氏の下でも八幡神の神託を司っていたと考えられるが、その様式には大陸より伝わった仏教や道教の影響が見られたと云う。


これ等の事柄から、八幡神こそは後に正式な仏教伝来により花開く、本格的な異文化交流以前より始まった最先端、且つ限定的な異文化交流の中で、一足先に変容を遂げていった神であるとも見なすことが出来ると云う。


また、これ等の発祥から見える托宣の神とは別に、武家に信仰された八幡神は武神、戦勝の神とされた。
宇佐八幡宮が、720年の隼人(現在の鹿児島、宮崎に住んでいた人々)の乱が起こり托宣をした所、八幡神が自ら隼人の虐殺に向かったとする伝説も残る。



【四文字説】

オカルト界隈では、八幡神の信仰の核には渡来人の、特に秦氏の役割が大きいとされ、尚且つ秦氏の祖先が中国にも入り込んでいた景教徒(キリスト教のネストリウス派)のユダヤ人とする説(日ユ同祖論)もあることから、八幡神は四文字様のことである、と主張する意見もある。
元の呼び名である“ヤハタ”が、子音四文字との音と共通している、との主張もされる。


帰化を果たした後の秦氏が上記の様な経緯を経て大和王朝に迎え入れられて重要な役割を果たしたのは間違いなく、
平安京は碁盤の目のような十字路で構成されているために景教と関連がある、とも云われたり、籠目紋とダビデの星の共通項(共に三角を組み合わせた六芒星)であるとか、三神一体の信仰を持つこととか、八幡神の正体とされる応神天皇と神功皇后に聖母信仰があることも関連付けられる。


しかしこれらは、オカルト主義(occultism,「神秘学」)や宗教的融合(syncretism,「習合」)における考え方――または「事実」――であり、通常の人文学・社会科学には見られない。


確かに八幡神には、道教や仏教を通じて大陸のエッセンスが入り込んでおり、景教(キリスト教の一派)の影響が全く無かったか?と問われると、完全に否定するのは難しい。とはいえ、景教とユダヤ教には、明確な結びつきが無い。
オカルト界隈では「景教徒のユダヤ人」といった表現も頻出している。しかし歴史学・宗教史学などから見れば、キリスト教徒とユダヤ教徒は基本的に対立関係にあり、実在が怪しいと言える。両宗教の対立の理由となってきた違いは、無数に存在する。

+ キリスト教[景教]とユダヤ教の対立の詳細-

それなりに端的な例を挙げると、

  • 神の違い

キリスト教:神はヤハウェであり、イエス・キリスト。
ユダヤ教:神はヤハウェのみ。

  • 聖書の違い

キリスト教:旧約聖書と新約聖書。
ユダヤ教:聖書は唯一つのみ(そのため「旧約聖書」と呼ぶこともない)。

  • 救済の違い

キリスト教:誰が救われるかは宗派で異なる(「信じる者は救われる」という派もあれば、異教徒や不信心者も救われるとする派もある)。
ユダヤ教:選民思想により基本的に、「神の召命」によってユダヤ教徒だけが救われる。


といった対立がある。


なお、かつてユダヤ教徒とユダヤ人とに区別は無かった(現代英語でも、"Jew"は「ユダヤ人・ユダヤ教徒」の両方の意味がある)。というのも、ユダヤ教を信じない"Jew"という概念が登場したのは、19世紀の近代国民国家の形成後で、世界史ではかなり最近の出来事だからである。
この点からも、「景教徒のユダヤ人」は考えにくい。仮に秦氏の祖先が景教徒だったとしても、その時代は近代どころか古代である(『新撰姓氏録』によれば3世紀ごろ)。すなわち、当時はユダヤ人とユダヤ教徒が同じカテゴリー内にあり、「景教徒のユダヤ人」は「景教徒のユダヤ教徒」に等しかった。


つまり、「景教徒のユダヤ人」は「景教徒のイスラム教徒」等と同じく、言語的に矛盾しているのである。


また日ユ同祖論では、
遺伝的に日本人の多くが大陸・半島地域の人種(中国系・朝鮮系等)とは、全く別系統の遺伝子を持つという研究結果が出ている・・・
とも言われる。やはりこれも、実際の遺伝子学・生物学の研究結果とは相当に異なる主張である。

+ 日ユ同祖論と遺伝子についての詳細-

日ユ同祖論の中でも、遺伝子を引き合いに出したものでは、日本人がユダヤ人と同じD型の遺伝子を持っている・・・というような話が多い。


では、日本学術会議に所属している正式な研究者は、日本人の遺伝子についてどう述べているのか?
諸説あるが、主流もある。


たとえば「筑波大学医学系技術室」によると、「D遺伝子を持っているのはモンゴロイドだけ」であり、D遺伝子が誕生したのは2.5~3 万年ほど前の「中国大陸の南方」と考えられている。
そして「縄文人はほとんどN遺伝子のみ」であり、D遺伝子は朝鮮半島からの弥生系渡来人から日本人へ混ざった、とされている。



縄文末期、主に朝鮮半島から渡来した弥生系の人たちが近畿や中国地方に移り住み、D遺伝子がもたらされたと考えられている。その後、近畿地方の弥生系住民の地方への進行とともに、D遺伝子は中央を中心に広がっていったため、日本列島の中央部から混血がすすみD遺伝子頻度が高くなったと考えられている。

(筑波大学医学系技術室「お酒やコーヒーなど日常的飲み物と日本人の遺伝子」35ページ)



理学博士・自然人類学者の髙井正成および歯学博士・自然人類学者の松野昌展による学術論文では、次の通り。

アジア地域のモンゴロイドは東南アジア・インドネシア・ポリネシアに分布する「スンダドント型」集団と、中国・日本・シベリアなどに分布する「シノドント型」集団に大別されることが多い。

(「現代モンゴル人の歯科人類学的調査:東アジアのモンゴ口イドの進化」47ページ)



すなわち、遺伝的に日本人とユダヤ人はおよそ関係無い。1950年代前後のハウエルズ(Howells)の分類以降、アジア人は(日本人も含め)モンゴロイドに属しているというのが主流な学説となっており、これを覆すような証明は登場していない。



とはいえ、オカルト的・宗教的文化の中で考えるならば、日本人のルーツをユダヤ人と言ったり、前述の分散した記録の中の八幡神をユダヤの神と同じと呼んでしまって差し支えないだろう。


なお、日本列島独自の単語が文字で記録されたのは『魏志倭人伝』などの3世紀頃だった。単語に限らず歌謡などまでが記録されたのは、『万葉集』『古事記』『日本書紀』などの7世紀頃だった。そこで、八幡神(やはたのかみ)と縁の深い秦氏(はたうじ)が渡来した時期を見ると

  • 「楽浪(らくろう)郡滅亡後,南朝鮮にいた中国人が5世紀初めごろ渡来したもの」*4
  • 「新羅(しらぎ)系の渡来人で、渡来時期も5世紀以降」*5

等と推測されている。つまり秦氏の渡来時期は、初期の日本語(「上代日本語」)の形成時期の中で起きたのだ。


各種の国際交流や遣隋使等によって、中華文化圏(漢文化圏)から文字が日本列島へ輸入され、「上代日本語」が成立・発展した。それは世界史だけでなく漢文・漢字が示してもいることだが、そこに秦氏や八幡神が関連していた可能性もある。


ともかくも、大和朝廷の成立以前から存在し、重なり合っていた信仰・文化の一部が、
八幡神信仰の中に息づいていることはかなり確実視されている。





追記修正は神託を受け取ってからお願い致します。


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  • タイミングがいいのか悪いのか。神託として投稿(巫並感) -- 名無しさん (2017-12-08 11:00:17)
  • 一神教の唯一神的な性質は強く感じるね。非人格・非言語の君臨者 -- 名無しさん (2017-12-08 12:48:34)
  • 僧形八幡神って「悟りを開くため修行したい」と本人からの神託があって作られたという話を聞いたことがある -- 名無しさん (2017-12-08 21:33:07)
  • ↑2 えー。いわゆる"砂漠の宗教"一神教では「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」わけで、「はじめに言葉ありき」でしょ。非言語・非人格的なのは、むしろ"森の宗教"多神教だと思う。八幡神も自然崇拝と結びつきが強く、海神、石神、土地神、焼畑神などの神として祀られているし。 -- 名無しさん (2017-12-09 17:15:16)
  • 出自がどうあれ、潤った日本の環境だと他にも寛容になった感じだよね。敵対勢力をマメに潰したり、取り込んだ大和王朝の成果か、取り込んだ上で自分色に染める日本的気質と云うか。人格が見えない分、正体は不明だけど日本的なカミとしては原型を留めていると云うか。 -- 名無しさん (2017-12-09 20:09:19)
  • 日本と大陸の神が悪魔合体した結果みたいなもん? -- 名無しさん (2018-07-31 19:06:03)
  • 縄文人の遺伝子の項目、男系と女系を混同してないか? -- 名無しさん (2019-01-19 03:00:12)
  • HACHIMAN -- 名無しさん (2022-09-04 21:52:45)

#comment

*1 当時の朝鮮半島に出兵し、新羅、百済、高句麗を戦わずして支配下に置いた故事。
*2 明治以前には彼女を第15代天皇としていた。
*3 これ以前に聖武天皇の遺詔として、同じく天武天皇の孫の道祖王が皇太子とされたが“喪に服している最中にふしだらであった”とする理由により廃されている。
*4 世界大百科事典 第2版
*5 日本大百科全書(ニッポニカ

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