武田信玄(戦国武将)

ページ名:武田信玄_戦国武将_

登録日:2009/11/14 Sat 10:28:24
更新日:2024/03/01 Thu 04:08:08NEW!
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戦国時代 人物 戦国武将 大河ドラマ主人公項目 風林火山 山梨県 武将項目 天才 日本史 武田信玄 甲斐の虎 甲斐 同盟破りの天才 戦国の巨獣 人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり 甲陽軍鑑 再評価された甲陽軍鑑 天台座主沙門 ←自称 ←信長「ならば俺は六天魔王だ」 武田晴信



疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し



この項目では戦国時代の人物としての武田信玄(武田晴信)について記述します。
戦国BASARAの武将は武田信玄(戦国BASARA)を、また他のメディアでの武田信玄について、
ここで記載するか、別に項目を立てるかは各人の判断に御任せ致します。


●目次


◆概要

武田たけだ 信玄しんげん(1521〜1573)は戦国時代の武将、大名である。


「信玄」の名は出家後の法名「徳栄軒信玄」から取られたもので、本来の名は「晴信はるのぶ」。
出家した時期には諸説あり、はっきりとは分かっていない。



◆来歴

甲斐の守護大名武田信虎の嫡男である竹松(晴信の兄)が7歳で夭折した為、晴信は1523年に嫡男となる。
しかし、父親・信虎は晴信を嫌い、弟・信繁ばかりを大切にしたとされる。
その一方、信虎は晴信の2度の結婚に関しては一度目は扇谷上杉の姫、その死後*1
再婚した二度目の結婚に関しては三条左大臣の娘と格上の家から妻を迎え、更に朝廷に働きかけて息子に元服と二度目の結婚と同時に従五位下・大膳大夫の官位を貰っている。
一度目は、父・信虎が扇谷上杉氏との関係強化を図った事による婚姻。二度目は、今川の仲介で三条の方が嫁いでいる。
この事実を見れば信虎は跡取り息子の晴信を、最低でも公の場では自家の跡取りとして厚遇していた点が記録に残っている。


父・信虎に関して、信虎の行動は(怪しい情報はさておくと)中央集権化を意識していたのだろうと言われている。
しかし信虎と家臣との間に軋轢があった事は事実である。
信玄(晴信)以外の息子とは関係も悪くはなさそうな間柄がうかがえるため、人間性や戦国武将として異常だったから追放されたのではないと思われる。
ただし、勝山記などの記載から経済的な疲弊が追放の要因の一つであった可能性を指摘されている。
信虎の統治時代に周辺諸国と激しく対立して四方が敵であった時期もあり
1519年に今川氏による路次封鎖と前年の凶作が重なり過去にない程の物価高騰が見られ
1529年にも小山田氏との対立で路次封鎖があった事により物価高騰が見られる。
幾度かの路次封鎖や凶作が物価高騰や飢饉を招いたとされる。
更に1540年に甲信地方を襲った大規模水害が原因と見られる凶作の影響か
翌年に大飢饉(天文の飢饉)に陥った事により、国内の領民から信虎への反発や不満が高まり
これに危機感を抱いた晴信と家臣などが信虎を追放したとする説がある。
主だった重臣たちに担がれた晴信は信虎が今川家を訪ねた隙をついて国境を封鎖。
家督を得た。なお、甲斐国志によれば双方合意の上で、信虎が隠居したとする説もある。
信虎はその後、娘の定恵院が嫁いだ今川家に身を寄せる事となる。
今川義元は晴信に、信虎の隠居料を請求する書状を出しており、晴信もそれに応じた。
信虎の隠居費用は、武田家から隠居料が支払われ続けた。
信虎は1543年に京都から高野山、奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している。
さらに信虎は高野山引導院を参詣し(晴信は実弟・信繁を介して謝礼を行っている)、奈良にも赴いている(多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している)。信虎は奈良を遊歴の後、1558年以降は生活の拠点を京都に移して、幕府に在京奉公している。晴信死後(父なのに息子が死ぬ翌年まで生きていた)、勝頼により信濃までは入ったが、終生甲斐には戻れなかった。


その父に可愛がられていた信繁は、戦国の世の常として晴信の家督相続を不服として後継者争いを起こす…ことはなく、
すんなりと晴信に家臣として仕え、晴信を補佐し続けた。その働きから、彼は『名将』の一人として讃えられている。
いずれにせよ、追放に際し重臣からも同盟国からも大きな非難がなかったので、信虎の追放は広く支持を得ていたようだ。
晴信はその後、甲斐の内政を充実させると隣国・信濃へと攻め込む。


諏訪氏、小笠原氏と有力豪族に対し攻撃を加えるが、小田井原城の攻城では討ち取った将兵3000の首を晒したために反感を買い、開城に失敗したり、
上田ヶ原では村上義清に敗れ、甘利、板垣と言った名臣を失う大敗北を喫するなどかなり苦戦している。


ちなみにこの頃には分国法「甲州法度之次第」を制定している。


苦戦しつつも南信濃・中信濃を治めた晴信では有ったが、砥石城では再び村上に大敗北を喫した。(砥石崩れ)


この砥石城は真田幸隆の謀略で陥落し、村上は遂に、信濃を追われ、晴信は信濃を制圧する
しかし、越後から白い悪魔、もとい毘沙門天の化身が降臨する。彼の終生の宿敵(とも)である上杉謙信である。
彼とは都合5度戦ったが、最大の激戦は4度目(1561年)の第4次川中島の戦いである。


それまでに甲相駿三国同盟を結び、背後を固めた晴信は輝虎軍と激しく激突。
決定的な勝敗は付かなかったが、諸角虎清、山本勘助、そして弟・武田信繁など多くの家臣を失った。
その代わり合戦の間に征夷大将軍足利義輝より信濃守護の名を得ており、名実ともに信濃を手に入れ戦略的には勝利している。


その後、関東に進出し、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られた後は、
彼の死で大混乱の駿河を、その隙を衝くような形で独立した徳川家康と同時期に駿河を攻めるなど、勢力を徐々に拡大
ちなみにこの時、信玄と長男の義信は駿河侵攻に対する方針に相違があった事が窺える史料が残っている。


義元を討って勢いに乗ったその信長とは、互いに敵対したくないという思惑もあって姻戚関係を結び、
さらに、駿河を巡って悪化する家康との関係も、信長が間に入る形で決定的な激突には至らなかった。
しかしその信長が比叡山の焼き討ち事件を起こすと、信玄は信長を批難し、焼き討ちされた延暦寺を自国で復興させようと画策。
これによって信長との同盟関係に亀裂が走り、同様に信長との関係が悪化していた第15代将軍・足利義昭が出した信長討伐令に応じ、
1572年には信長討伐のための「西上作戦」を開始し、上洛の途に就く。


その道中、三方ヶ原にて家康軍を撃破。後世で言うところの「三方ヶ原の戦い」である。
信玄はまず、籠城の構えを見せる家康をあえて無視して前進する様子を見せ、追ってきたところで武田軍が反転、総攻撃をかけて動揺する家康軍を大いに打ち破った。
家康を蹴散らした次は信長とばかりに軍を進める信玄だったが、ここで思わぬ事態に見舞われる。
この時、自分たちと同じように信長討伐令に応じて出兵していた朝倉義景が、積雪を理由に撤退するという(信玄目線で)有り得ない行動を起こしたのだ。
この行動に激怒した信玄は義景に強い批難の手紙を送りつけるも、朝倉軍が再度出兵してくることはなかった。


また、三方ヶ原の戦いに前後して、信玄は持病が悪化して喀血を繰り返したため、武田軍は進軍を停止
信玄は長篠城で療養し、事態を重く見た近習たちは撤退を決断するも、1573年4月、甲斐への帰還途中に信玄は死去した。
彼は遺言で「自分の死を3年は隠せ」「(本来の跡取りである)孫の信勝が成長するまでは勝頼がその後見役となり、越後の上杉謙信を頼れ」としたが、
結局信勝に家督が引き継がれる前に「長篠の戦い」にて武田軍は信長に敗北し、また信玄の死後に武田一族・家臣団は団結力を失い、武田家は滅亡することとなった。



信玄はその華々しい戦歴から「戦国最強」と言われるほどに極めて戦上手であり、砥石崩れ以外では戦略的な敗北は無い。
更に情勢を見る目がある上に外交手腕にも優れ、時に冷徹に同盟国を切り捨てるのも富国や近隣勢力とのバランス取りの一環である。
遠く中・四国地方まで情報を探りながら的確に情勢を利用して自国の利へと利用するほどの政治力を持つ。


また、周囲を宿敵の上杉謙信を始めとした強敵に囲まれている上に、山岳地帯故に交通は不便、
海に面していないので物資(主に塩)は不足気味で、土地は貧しいのに川の氾濫などの水害がよく発生するなど、
非常に悪条件が重なっている甲斐という国の厳しい環境を改善するべく
「甲州法度之次第」による法整備、領国内の度量衡の統一や交通路を整備して伝馬制度を確立
治山や治水工事、新田開発、鉱山(金山)や森林資源の開発を行い、小麦・大麦・大豆・蕎麦・粟・ひえ・きびの穀物類を作る事を領民に推奨する等している。一大強国へとのし上げた経営手腕は神憑り的ですらあった。


当時の家臣や領民にはまさしく神の如く崇拝されていたが、それだけに甲斐は「信玄だからこそ治められる」ともいえる状態になり、
その死後には後継者政策の失敗、一大勢力となった織田家との敵対、金山に依存した財政、
既に発展の限界で水害も発生しがちな本拠地(なので勝頼は家臣の反対を押し切ってでも新府城築城を断行)、
悪く言えば中途半端に敵対したり同盟を結んだり切り捨てたりを繰り返したことで敵意を持つ家臣も多いなど、
それらがまとめて大きな負の遺産になってしまった勝頼の代はいわば超ハードモードであり、それが武田家の滅亡を早めてしまった。


また、「北の上杉と敵対している状況で今川、下手をしたら北条まで敵に回すのは拙いのでは?」という長男・義信の危惧は的中しており
果たして彼の危惧通り、信玄が北・南・東を敵国に包囲されている間に、後の宿敵である信長が勢力を大幅に広げることに成功してしまっている。
武田の遺臣が書いた甲陽軍鑑でも義信を「賢明過ぎて身を滅ぼした大将」と評しており、その賢明で人望も厚い後継者候補筆頭を粛清したのも武田家と言う勢力にとって大打撃であった。


信長と比べた場合、勢力拡張スピードにも差があった。
信玄には近隣に北条・今川・上杉と敵が多かったから……と言われるが、それを言うなら信長も浅井・朝倉・三好・石山本願寺など四方に敵を抱えており、天下布武の道は険しかった。*2
信玄は生涯かけても国全土を収めたのは甲斐と信濃と駿河のみで、上野・美濃・三河・遠江・飛騨はその一部しか治められなかった。
そうするうちに信長は十か国を支配下に収め、石高では信長が三百万石、信玄が百四十万石ほどになってしまい、国力差で大きな格差ができてしまった。
結果、信長とは兵力動員数において劣っている。*3


ただし信玄は甲斐という山地で耕作の可能な面積が少なく、幾度も氾濫しやすい川という農耕に不向きな土地や、海が無い事で塩や海産物を得られない、限られた財源、更には風土病という厳しい環境である事に対し*4
信長は父親が熱田神宮から伊勢神宮を始めとする伊勢湾一帯に大きな商業圏を獲得しており財政的には裕福だった点が大きく違う事は考慮すべき点であろう。
その代わりにというか、信長直属の尾張兵はかなり弱く、対して信玄直属の甲斐兵は戦国最強と恐れられるぐらいには差はあったが。
信長が鉄砲を生産し増産出来たのも親の代からの財を順調に増やして行けた財テクによるものである。
信玄もそれを意識しており、海に出るべく駿河国を狙っていたが、信長が上洛してすぐ堺を支配下に置いたのと比べるとやはり大きな差があったといえる。


また支配下に置いた各国も(長く治めた甲斐と信濃はともかく)影響力はまだ弱かったようで、西上作戦の時には想定したより予算が集まらなかったという記録もある。
結果、勝頼期には武田と織田の勢力差は覆しようもない格差となっていた。
あの長篠の戦において、武田軍15000に対し、織田軍は徳川の援軍含めて38000人という倍以上の戦力だったという。




◆家臣

家督を得た後、しばらくは家臣団が纏まりなく荒れたが、紆余曲折の末に信玄の元に結集。
その為か家臣団が優秀。


四名臣

馬場信春…長篠撤退戦で殿、戦死。不死身の鬼美濃。一国を任せれるほどの才と言われた。


山県昌景…赤備第二世代。長篠では柵に突撃、破壊するも銃弾に倒れる。彼の軍団は後に、井伊直政に受け継がれた。当時で見てもちびっ子(135cm)だったと言われる。*5


内藤昌豊…地味。出来る男。信繁亡き後は武田の副将となる。長篠で戦死。


高坂昌信…智将。最後の生き残り。逃げ弾正のあだ名でも知られる。信玄には(男色的な意味でも)寵愛されたと言われていたが実際の手紙の相手は春日源助である。高坂が、春日源助と名乗っていた公式の記録が無い事から、別人である可能性が高く、更に手紙が本物なのか偽物なのかすら定かではないとする説がある(手紙の「春日」の部分に後から付け足したような痕跡が指摘されていたり、他の手紙と筆跡が違うのではないかと疑問視する意見もある。)


他の家臣

秋山信友…猛牛と呼ばれる猛将であり、同時に未亡人で信長の伯母である岩村殿を城ごと美味しく頂いちゃった策士。


甘利虎泰…あ~ま~り~ぃ!信虎世代での四天王。


板垣信方…いたがきぃ~!晴信の守役。後の戊辰戦争時、彼の子孫だとされる土佐の「乾」退助は甲斐を制すため「板垣」退助と改姓している。


飯富虎昌…赤備え第一世代。あの恐怖はここから始まった。


真田幸隆…チート集団真田家の爺ちゃん。グッとガッツポーズしただけで砥石城が落ちた。


武田信繁…よく出来た弟。天下の副将。秀長も手本にしたとか。通称は古典厩。なお、真田信繁(幸村)は彼に肖って同じ名前を付けられたとか。


武田信廉…(顔が)よく出来た弟。影武者。こっちが信廉、こっちが晴信…


原虎胤…義に厚い不死身の鬼美濃。怪我した敵将に肩を貸して敵陣まで送り届けたという、なんとも漢気溢れる逸話が伝わる。


山本勘助(晴幸)…この光を失った目には、人の心の闇が見えまする。最強軍師として有名。出典『甲陽軍鑑』故に実在を疑われていたが、現在では「山本菅助」と記された人物≒山本勘助説が有力視されている。



◆彼を扱った作品

新田次郎「武田信玄」
井上靖「風林火山」


宮下英樹「センゴク」


ゲーム

信長の野望
太閤立志伝
決戦III
戦国無双
戦国BASARA



◆余談

  • 内政

内政に非常に力を注ぎ、川の氾濫の被害を抑えるべく作らせた「信玄堤」等が後世にも伝わっている。


そんな信玄だが、武田家の呪いともいうべき後継者問題は避けられず、長男は反逆に関する事件の二年後に病死、次男は盲目で出家、三男は夭折、と不幸が続き、
諏訪家を継がせた四男の四郎勝頼を呼び戻して(その息子である信勝が成人するまでの期間限定で)家督を相続させる事になる。
その勝頼が最後に頼った(頼りになったとは言っていない)のが、ほぼ唯一同盟を結ばなかった上杉謙信亡き後の上杉家だったのは、皮肉という他ない。


  • 甲陽軍鑑

「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、仇は敵なり」と人の心を大切にした。
なお、このような信玄の人となりを記した『甲陽軍鑑』は、日付の不正確さから、歴史学者からは史料としての価値を疑問視され、無視されることも多かったが、
近年国語学者がその成り立ちを調べたところ、原本は文字を書けなかった信玄の部下が、信玄の死後の武田家を憂いて記憶を頼りに口述筆記にて残したものだと判明。
しかし武田氏滅亡以降、原本は傷んでいく。それを入手した小幡勘兵衛景憲(江戸時代の軍学者)は、傷んだ原本の書写に行い1621年頃に写本を作り上げた(この写本は現存していない)。
『甲陽軍鑑』は部下から見た様々なものを現代に伝える貴重な史料として再評価されると共に、
古文書の史料としての価値を判断する際に、記された日付の正確さを重んじすぎる歴史学会に一石を投じることとなった。
また『甲陽軍鑑の否定説』の論拠となっていた論文は、明治中期に当時30歳の学者が書いた、たった五ページほどの小論文だったということもあって、
史料としての「甲陽軍鑑」の価値はまた大きく変わりつつある。
本来、全23冊構成の写本である為、記述の抜けなども考慮するべきである。ただし、のちの時代の加筆により江戸前期と江戸後期で記述に大きく差異がある事柄や人物がいる事、また江戸時代の時点で肥前平戸藩主の松浦鎮信が書いた「武功雑記」に山本勘助に関する描写を虚像と批判する記述や湯浅常山の「常山紀談」にも、「甲陽軍鑑、虚妄多き事」と記述されている事も考慮すべきである。


  • 風林火山

風林火山とは孫子の兵法の一文であり疾きこと〜動かざることまでのフレーズが有名だが続きが存在する。
その全文は
疾きこと風の如く
静かなること林の如く
侵略すること火の如く
動かざること山の如く
知り難きこと陰の如く
動くこと雷霆の如し
郷を掠めて衆を分かち
地をひろめて利を分かち
権を懸けて動く
となっている。
意味としては「状況によって柔軟に立ち回るべき」と戒めた文章である。
また兵法は「兵は詭道なり」という一文から始まり、可能であれば外交によって戦を避けるべきと記されている。


  • 「御旗・楯無(みはた・たてなし)も御照覧あれ」

「御旗」・「楯無」共に甲斐武田家の祖・源義光の代から伝わる家宝にして神器。
「御旗」は義光の父・源頼義が後冷泉天皇から下賜された日章旗、「楯無」は「盾も要らぬ」と称された義光の鎧にして、清和源氏が代々伝えた8種の鎧「源氏八領」のひとつを指す。
武田家では重大な決断を下す際、惣領たる信玄が「御旗・楯無も御照覧あれ!」と先祖に誓う習わしがあり、
信玄がこの言葉を発したら以降は一切の議論・反論が禁じられたという。
『信長の野望』等の創作でも信玄の専用台詞として用いられる事が多く、彼の絶対性の象徴となっている。


  • 女性関係

信玄は(男色関連でも有名だが)多くの側室を抱えたことで有名であり、特に有名な側室としては武田勝頼の母親である諏訪姫こと諏訪御料人が挙げられる。


彼女はその名の通り諏訪氏の生まれで、この諏訪氏の当主であり、父である諏訪頼重は信玄と同盟関係にあったが、とあるきっかけで同盟を破棄した信玄が諏訪に侵攻。
頼重が死去した後、信玄は当初その息子である千代丸を諏訪家の後継者として据えようとしたが、当時の文献に「かくれなきびじん」と評される諏訪姫の美貌からか、
「諏訪姫を自身の側室として迎え、自分と彼女との間に出来た男子を諏訪家の後継者とする」という方針に転換し、かくして諏訪姫は父を死なせた男に娶られることとなった。
その後、諏訪姫は上述の通り後に武田家最後の当主となる勝頼を産み、1555年頃に若くして(25歳くらい)亡くなったとされる。
「敵方の娘」「父を殺した男に嫁ぐ」「その男の後継者となる男児を産む」「若くして亡くなった」という生涯から、彼女は現在の諏訪市の萌えキャラにされるほど有名であり、
彼女や信玄を扱ったフィクションではしばしば悲劇のヒロインとされる上、勝頼が後継者に指名されたのは信玄の諏訪姫への愛が理由であるとか、
諏訪姫を良く見せる反動として、信玄の正室である三条の方が嫉妬深い等の負の要素を付け足されたりすることがかつては多かった。


史実では信玄と三条夫人は仲が良かった。
三条夫人の人物像について、武田家と交流のあった快川和尚(快川紹喜)が記した円光院の葬儀記録によれば
とても慈悲深く民に気を配り大切にする性格や、仏への信仰心の篤さ、夫である信玄に寄り添い物事を考える内面性などが綴られており
「そして御人柄はまさに円光日の如く、あたかも春の陽ざしのように周りの者をやわらかく暖かく包む御気性であられました。 」とも記され
「武田信玄公とは、比翼の契り*6、夫婦仲が睦まじかった」と書かれている。
また武田家の近習衆の警護等を務めていた御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ十人の家臣が三条夫人に付けられていたとされる。
また『円光院寺伝』によると、信玄が臨終間際の際に馬場信春を呼び寄せ、信玄が日頃から信仰していた陣中守り本尊と刀八毘沙門及び勝軍地蔵を託して
三条夫人の墓がある円光院に納めてもらう様に伝え、更に自分の遺体も円光院に三年間密葬させるよう遺言したという。
この二体の仏像の方は遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。


ただ、史実では勝頼が後継者になったのは、三条の方の子である長男~三男までが上述の通り様々な理由で家督を継げなかったからであり、
また、勝頼には武田の通字*7である「信」ではなく諏訪家の通字「頼」を名乗らせていることから見ても、
信玄は当初の予定通り勝頼には諏訪家を継がせるつもりであり、彼が自身の後継者となったのは信玄にとっても予定外のことだったと思われる。


  • 戦国最強

武田軍はとにかく強い。レート(<で約3:1、≦で約1.5:1)で表すと、


尾張<美濃≦近江<三河<甲斐≦信濃=越後


くらいの強さである。


その強さ故か、本拠地には城を立てず、館を本拠とした。
尤も、攻めたところでクソ強い信玄・武田軍と戦う上に、勝っても得られるものが金山くらいしかないので、
ハイリスク・ローリターン過ぎて好き好んで攻めようとする戦国武将はいなかったかもしれないが。


ちなみに、信玄の晩年の宿敵であった信長の率いる尾張軍は、甲斐と比べるべくもないほど弱く、
戦国時代を扱う作品では、容赦なく(有名な戦国武将の中では)「最弱」の烙印を押されることが多い。
まぁ兵の強弱と国の生産力が反比例しているだけとも見えるが。


  • 2007年の大河ドラマ『風林火山』

この作品は、軍師の山本勘助を主軸に、信玄を始めとした武田家の隆盛を描いた作品である。
主要な役は、いわゆる「話題性に富んだイケメン俳優」を排し、実力派の役者を多く起用した為に演技にかなり力が入った作品である。
また、イケメン俳優を排する事で浮いた費用をロケに回す事でリアルで壮大な合戦を演出した。



ある意味では、イケメン俳優を多用した結果、スタジオ撮影が多くなった2009年度大河ドラマ『天地人』の対極的な作品といえるだろう。






大ていは地に任せて肌骨好し紅粉を塗らず自ら風流

*8



追記、修正宜しくお願い致します。


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  • 信長を例え倒しても 次は 一向宗との覇権争いがあったろうな -- 松永さん (2013-10-31 00:26:24)
  • それに項目にもあるけど、同盟条約を簡単に破って周囲からの信用0だったから、結局のところこの人が天下とるのは無理。 -- 名無しさん (2013-10-31 00:28:16)
  • てゆーか親父の信虎さんが追放後も 現役バリバリだったとは -- 松永さん (2013-10-31 00:36:30)
  • ↑義昭の食客やっとったらしいね
    自分を追放した息子の為に ロビーとは
    ツンデレ親父やん -- パキスタン (2013-12-01 02:08:35)
  • ↑↑↑信玄の正妻と顕如の正妻は、三条家から嫁いでいる姉妹だよな。今東光が、信玄が権力を握った際、身延山に本願寺を移すようなことがあったと語っていたね。むしろ、問題なのは、信玄の戦争が犠牲者を比較的少なく抑え、確実に領地を広げ、領地の減少も殆ど無いが、反面、時間が掛かりする、という考察があったな。 -- 名無しさん (2014-01-20 09:18:53)
  • ↑確か 天台座主さんにも 比叡山復活させたるとか 上手いこと言ってたが、やっぱり国力縁戚から言って本願寺優先だわな -- 名無しさん (2014-01-20 09:23:51)
  • 徳川家康は、この人のやり方を結構気に入っていたよね。甲州流の陣構えにしても、勝海舟が甲州流の教練を八王子で見た後に、俺が学んだ西洋兵学と大差ないね、軸になる武器が違うだけで、号令や規律は同じだ、と新聞談話に残している。農村共同体を基調とした兵、西洋式軍隊に共通する色使いや企画、 -- 名無しさん (2014-03-09 13:55:33)
  • すまん、続きです。同盟破りというけど、あれくらいなら大陸行けば、たくさんいる。 -- 名無しさん (2014-03-09 13:57:18)
  • まあ彼のお陰で武田家は栄えたが、彼のせいで武田家は滅亡したんだよな -- 名無しさん (2014-05-24 13:59:34)
  • 巨大すぎたが故に勝頼は現代でも軽視され続けられる --   (2014-05-24 15:31:39)
  • センゴクの勝頼はめっちゃカッコイイ -- 名無しさん (2014-05-24 17:08:03)
  • ↑5 結構どころか石川正数の件で徳川の戦術が丸裸にされた時、予てより信奉していた信玄にならって甲州軍法を採り入れるくらい尊敬している。武田家遺臣が止むに止まれず、三方ケ原で大敗させた徳川に仕官した際には思わぬ厚遇で迎えられ驚いたとか…… -- 名無しさん (2014-05-26 08:09:25)
  • 存命だったら織田を蹴散らして幕府開いてた?現代の首都は甲府 -- 名無しさん (2014-07-19 23:50:52)
  • ↑勝頼は勝頼で相当優秀で信玄が現役の時に落とせなかった城落としたりしてるんよ。つまり愚息扱いされてる息子とそこまで性能差があるとは思えないし、息子がボロボロになってたのは父親が色々やらかしてくれたツケが回ってきたからだし -- 名無しさん (2014-07-19 23:58:32)
  • 「センゴク」での山県、馬場の最期には不覚にも泣いた。六十歳って戦国武将じゃ長生きな方なんだよね -- 名無しさん (2014-07-20 01:08:11)
  • 投了よ -- 名無しさん (2014-07-20 02:15:05)
  • 信玄が長生きしても天下は取れなかったかもしれないが、三方ケ原で家康が同盟していたら…と考えるとわくわくする -- 名無しさん (2014-07-25 14:58:23)
  • ↑4 勝頼も優秀ではあるが政治面じゃ信玄に大きく劣る。信玄が色々やらざるをえなかったのは地理条件の悪さの上に、義元・氏康・謙信と戦国時代の英傑レベルの大名がご丁寧に四方囲まれてたせいもあるからな。 -- 名無しさん (2014-07-25 15:04:26)
  • 偉大な傑物ではあると思うが、徳川家を苦しめた存在として少なからず上方修正は掛かってる気がする。甲陽軍艦の件もあるし -- 名無しさん (2014-07-25 15:45:38)
  • 他の3名の知名度に比べて低い内藤さんについて -- 名無しさん (2014-07-25 16:36:33)
  • というかなぜ勝頼はあの兵力差で戦闘を挑んだのか…信玄は毎回無理な戦いは挑まなかったのに。 -- 名無しさん (2014-07-25 19:40:18)
  • ↑3 徳川が低く見られるのは明治政府の下方修正のせいもあるがな -- 名無しさん (2014-07-25 21:20:10)
  • 家康のトラウマ -- 名無しさん (2014-08-29 07:29:08)
  • 敵側の最初の裏切り者を処分するからどんどん周りから味方がいなくなっていった印象、勝頼の頃には敵であった上杉と北条しか味方がいなかった -- 名無しさん (2014-10-09 10:53:06)
  • ↑4信長が兵を隠して少なく見せていたからという説がある。そもそも敵の正確な数なんて普通は分からん。 -- 名無しさん (2014-10-13 18:14:12)
  • どうでもよくないけど項目名を武田晴信/武田信玄(戦国武将)にした方がよくない?信玄の方が一般的には有名だし -- 名無しさん (2014-11-24 18:23:01)
  • ↑×2 創造PKの武田側での長篠の戦いで、勝頼が -- 名無しさん (2015-06-29 17:14:34)
  • ↑(すみません、続きです)「まだ兵力差が倍で済む内に叩いておきたい」と語っていたのが、その地点での織田と武田の地力の差が現れていたなぁと思った。まだ倍と言うあたり、当時畿内をほぼ整圧していた織田の動員力は山国ばかりの武田とは雲泥の差だったから、イチかバチかで挑んだって感じがした。史実の結果は……あれだったけど -- 名無しさん (2015-06-29 17:20:02)
  • 400年後にラブレターをネタにされるンゴ -- 名無しさん (2016-08-25 12:22:33)
  • ↑ 秀吉の寧々宛ての手紙でも似たような事書いてあったし許してやれよと思うわ -- 名無しさん (2016-08-25 12:28:42)
  • そのものズバリ、武田信玄ってFCあるよな -- 名無しさん (2016-09-09 18:03:10)
  • ↑2 相手が男だったから・・・(震え声) -- 名無しさん (2016-09-09 19:00:52)
  • 今年の大河ドラマじゃ誰がやるんだろう? -- 名無しさん (2017-04-16 00:59:45)
  • 同盟国を切り捨てるも何も、武田は豪族連合盟主だから内側の事情だけを優先したとしか。信虎追放も連合盟主からワンマンへ移行しようとして反発を招いたからだし -- 名無しさん (2017-04-18 21:29:22)
  • ヒストリアで、甲陽軍鑑の見直しと再評価の話を知ったなあ。日付以外もきちんと見なきゃいけないんだね -- 名無しさん (2018-11-09 08:11:34)
  • 中央文化とのギャップを埋めるべくお公家さんを呼んで和歌の道にも精進、その結果詠んだのが「君恋ふる涙の数は小夜ころも重ぬる袖は今日は朽ちなん」…という風な恋歌の数々(まあ努力の無駄遣いですな)。 -- 名無しさん (2020-05-06 01:06:07)
  • ホモなんだろ? -- 名無しさん (2020-05-10 08:12:19)
  • ↑ぶっちゃけ戦国武将でホモじゃないの豊臣秀吉くらいだぞ -- 名無しさん (2020-05-14 06:31:02)
  • ↑確かに美少年のお小姓をあてがわれたら「おぬしに姉ちゃんいる?美人?」って聞くぐらいだもんなあ。 -- 名無しさん (2020-05-14 23:57:41)
  • 晩年には外交では甲相同盟の復活、経済では駿河を領国化るんだし信玄の負の遺産って実はそんなに大きくないはず -- 名無しさん (2020-05-22 04:32:22)
  • といっても勝頼が早々にどうしようもならなくなったのは信玄の負の遺産だから上手くはいかなかったのも確か -- 名無しさん (2020-05-22 09:35:26)
  • 「周辺国全てと中途半端に友好関係と敵対関係を築く」っていう外交としては最悪に近いことをしてるせいで最近の評価はかなり下がってると思う。あと親父の悪行も要は中央集権化だったんだっけ?それを潰して乗っ取ったから国人勢力に譲歩せざるを得ず、勝頼の時代にそれのマイナスが一気に噴出した -- 名無しさん (2020-05-22 09:40:16)
  • 正数って誰や!? まさか、石川数正にそんな名前の影武者がっ!?(あえてボケてみる -- 名無しさん (2020-05-22 09:51:13)
  • 信玄の問題点は勢力拡張の遅さ。というか信濃を制圧してそれで拡張がほぼストップしてる(駿河は今川義元が死んで慌てて取ったぐらいで、京都進出も病気が出てからでどう見ても手遅れ)。信長は天下取りに向けてガンガン突き進んだけど、たぶん信玄には天下を取る野心も気概も戦略もない、「天下人」じゃなく「守護大名」だった気がする。 -- 名無しさん (2020-10-25 00:57:51)
  • 勝頼は謙信の死後御館の乱で景勝と組んで北条を敵に回したのが痛い。本来なら武田、上杉、北条による三国同盟の筈が織田と徳川に加え背後にも敵を抱えてしまった。 -- 名無しさん (2020-10-25 08:29:23)
  • 長篠は痛いは痛いけど決定的な敗北では無かったからな。どちらかといえば外交的失策で四面楚歌に陥ったのが滅亡の原因だろうな -- 名無しさん (2021-02-01 18:17:50)
  • 無双の信玄もBASARAの信玄もシュワちゃんを演じているのが面白い -- 名無しさん (2021-02-12 15:48:53)
  • 武田家が滅亡したのは勝頼のせいといわれているが信玄時代のツケが回ってきただけ。勝頼の母は諏訪家の血を引いていたので家臣との軋轢もあったと思う。 -- 名無しさん (2021-02-28 11:27:55)
  • 創作モノだと武田は必ず約束を反故するって描写があるけどマジだったんだろうか -- 名無しさん (2021-05-16 00:05:02)
  • 現代人があの時代の甲斐にタイムスリップや転生したりして、信玄に力貸してたら、後世の悲劇は回避できてたかな……? 甲斐の生産力をチート強化したりとか…… -- 名無しさん (2021-06-19 11:11:16)
  • ↑甲州ブドウを使ってワインを造るとかかな? -- 名無しさん (2021-08-03 05:52:39)
  • ↑2 生産がどうにかなったところで立地の悪条件がどうにかなるわけでもないし国人が抑え込めるわけでもないから、親父の代に力を貸して信玄ごと対抗勢力皆殺しの方が目がありそう -- 名無しさん (2021-08-03 09:08:00)
  • わあ!おっきい!ほりだしもんだヮ! -- 名無しさん (2021-08-03 10:12:06)
  • まぁ結局あの時代どうやって生き延びるのが正解だったかと言えば、時代の勝ち組になりそうなヤツ見極めてさっさとそいつと組む、組めないにしても家だけは守れるように根回しする、だからそれができてない信玄勝頼の評価が一定以上にはならないのは当たり前だよな。北条だって小田原は無いなっても家を残すこと自体はなんとかなったわけだし。 -- 名無しさん (2021-11-01 16:00:12)
  • ↑後に家康の息子が武田家を再興しているんでコイツが早死にしなければ家だけは残ったかもね -- 名無しさん (2021-11-02 08:19:07)
  • ↑見性院の養子として武田を継いだはいいけど、実際には徳川に名跡乗っ取られたようなもんだし、信玄勝頼の評価に繋げることはできん話だもんなぁ。 -- 名無しさん (2021-11-08 12:39:42)
  • 岩明均(寄生獣)が「違うこと言われてるけど、色々調べた末にやはりこうだと判断した」と原作を担当するレイリで勝頼無能描写をブチかまし。将軍としては有能だが君主としては器量に欠ける個人的な考えにも親和性あったし、信玄の負の遺産のせいとすべてを押し付けるような行き過ぎた再評価風潮は気持ち悪いから、こういう形の従来説による揺り戻しにも期待したいわ -- 名無しさん (2022-05-17 10:46:17)
  • 勝頼が君主として有能とは言わないが、一方で無能と断言するには状況が厳しすぎるよ -- 名無しさん (2022-05-17 11:39:22)
  • 指導力不足による失敗は間違いないが、継承経緯から正統後継者と認められない立場に置かれてたのがね。そこはどう考えても信玄のせい -- 名無しさん (2022-05-18 08:46:21)
  • 長篠の大敗、御館の乱で外交失敗、新府城築城を強行して負担に不満爆発の3点セットだからな。やっぱ無能じゃねと言われるのも仕方ないと思う -- 名無しさん (2022-05-19 12:30:55)
  • 長篠の戦いは撤退を選択出来ればまだ良かったが、それを安易に選べる状況ではなかった(信玄のせい)。御館の乱ももっと上手く立ち回る余地はあっただろうが織田・徳川の勢いがノリに乗って上杉共々衰退方向一直線にというのが最大の原因なので余程の幸運がなければ最終的には似たり寄ったりな結果だっただろう。新府城築城も発展性も考えると別におかしなことではない。無能っぽく見えるのは織田との和睦に拘ったところだが、それも相手が優勢を維持しつつ慎重に削ってきてる中まともに戦えないと判断したのが理由だろうからどの道詰んでた -- 名無しさん (2022-05-19 14:39:32)
  • 家康は鳥居強右衛門の件で勝頼のような武士の忠義を粗末にする大将はいずれ家臣たちの離反を招いて滅亡する事になると断言し、勝頼の狭量な所業を厳しく批判。家康の予言通り勝頼は最終的に家臣たちの大部分から離反され、自害に追い込まれてしまった -- 名無しさん (2022-05-20 17:39:03)
  • 信繁が父に味方せず後継争いもしなかったのは、信繁も父の信虎にうんざりしてたからかな? -- 名無しさん (2022-05-20 18:11:08)
  • 病弱で胃癌だったかもしれないって聞いたことあるけど、本当なのかな。それとも否定されてる? -- 名無しさん (2022-06-04 21:53:44)
  • 勝頼は結局甲陽軍鑑の「強すぎる大将」がそれ以上でもそれ以下でもないって感じ。まあ父親が偉大すぎた -- 名無しさん (2022-06-13 17:45:58)
  • 結局破棄したとはいえ家康とも一時的とはいえ同盟組んでいた(信玄が駿河攻めている間に家康側は遠江を攻める)扱いになるのか? -- 名無しさん (2022-06-13 18:59:54)
  • 逆に言えば本能寺の変まで終始織田側だった家康が情勢を見る目に関しては数枚上手だったともいえる -- 名無しさん (2022-12-10 08:15:46)
  • 武田軍は本当に言うほど強かったのかなあ。村上義清にもすごい苦戦してるし、いつまでも小競り合いばかりしている気がする。上杉や北条もそうだけど、知名度が先行して実態は大したことがないんじゃなかろうか。 -- 名無しさん (2023-01-12 20:16:55)
  • 最強までいくはともかく強いのはほぼ間違いない。なので逆に言えば最後の辺りでも油断されずに調略や小競り合いで地道に削り取られていっている -- 名無しさん (2023-02-01 13:01:13)
  • 他の大名家みたいに大名がすべてを統括して配下である武将を動かすというシステムじゃなくて、各武将が領地や部下を持って武田家に協力するという連邦制みたいなシステムだったんだよな、だから調子のいいときはいいが周囲が勢力を伸ばしてくるとあっさり離反するものが多かった -- 名無しさん (2023-06-09 22:50:05)

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*1 政略結婚だったが二人は仲が良かったとされる。しかし結婚の翌年、難産に耐えきれず母子共に命を落としている
*2 浅井・朝倉・三好・石山本願寺が北条・今川・上杉に比肩するほど強敵であるかはかなり微妙なところだが、領土の守備範囲が広大だった事には苦労も多かった事は間違いない
*3 まぁ山間部の甲斐・信濃と平野部の尾張・近江・山城ではそもそもの人口比率が違いすぎるだろうが
*4 ただし武田家を信虎が群雄割拠の時代を制して宗家統一を果たし発展させ大きな礎を築いたので、引き継いだものは充分大きい。
*5 さらに口唇裂であったとも。後年徳川家康が家臣にそうした子が生まれた際名将にあやかるよう慰めた説がある
*6 比翼の契り=比翼連理(比翼の鳥)。相思相愛の仲や夫婦仲の睦まじい例え。
*7 代々世襲で名前に使う同じ文字
*8 訳:此の世は、世相に任せるものだ。その中で、自分を見出して、死んで行く。見せ掛けで生きるな。生きるのは、本音で生きることが、一番楽である。

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