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すべての時代を通じてのベストプレーヤーと言えば、ディエゴ・マラドーナやミシェル・プラティニになるだろうね。
ただ、僕のナンバーワンは永遠にエンツォ・フランチェスコリだよ。
歴代ベストプレーヤーのトップ5に入らないかもしれないけど
僕にとっては最も偉大な選手だし、インスピレーションを与えてくれたんだ。
───ジネディーヌ・ジダン
エンツォ・フランチェスコリ・ウリアルテ(Enzo Francescoli Uriarte、1961年11月12日生まれ)は、ウルグアイ出身の元サッカー選手。ポジションはFW、MF。
すらりとした細身の体に、流れるように優雅なボールさばき、そしてアクロバティックなゴールの数々が特徴の、80~90年代を代表するファンタジスタの一人である。
経歴
第1次リーベル時代
1961年、モンテビデオのカプーロ地区にて貿易会社の会計士の父と専業主婦の母との間に生まれる。*1
幼い頃から才能の片鱗を見せていたが、あまりにやせ過ぎていたため、あこがれのクラブペニャロールに入ることは叶わず、
14歳の頃古豪モンテビデオ・ワンダラーズFCの下部組織に入団。
19歳でトップチームデビューすると、74試合に出場し20得点を挙げた。
下記の代表での活躍もあって、83年にはアルゼンチンの名門リーベル・プレート(以下リーベル)に移籍金36万ドルで引き抜かれた。
ワンダラーズのソシオ(クラブ会員)達は、何としてでもエンツォを残そうと資金をかき集めて、移籍を阻止しようとしたという。
この頃から、彼はファンに愛されていたのだ。
初年度は怪我と多大なプレッシャーに苦しみ、リーベルも19チーム中18位という惨憺たる結果に終わったが、彼の真価が発揮されたのは翌年からだった。
84年、リーベルはリーグ準優勝。エンツォは得点王とリーグ最優秀選手に輝き、さらにウルグアイ人初の南米年間最優秀選手賞を受賞するという栄誉にも輝いた。
85-86シーズンには念願のリーグ優勝を果たし、再び得点王の座に。
中でも86年、ポーランド代表との親善試合で決めたバイシクルシュートは語り草となっている。
本人も「もし公式戦であれば、間違いなく歴史に残るゴール」と断言するほどのゴラッソ(スーパーゴール)なので必見。
これらの活躍により、彼は「王子様」の異名で呼ばれるようになる。
端正なルックスや、まるで舞うように美しいプレー。まさにこの呼び名にふさわしいが、由来はそれだけではない。
この異名は当時流行っていた歌から付けられたのだ。
同郷のコメンテーターであるビクトル・ウーゴ・モラレス氏によると、名前の由来はこうである。*2
あの頃はいつもタンゴの歌〝Príncipe〟*3をよく口ずさんでいたから、その名前がついたんだ。
彼がゴールを決めるたび、この部分を繰り返した。
「王子は愛とゴールを持っている」*4
さらにエンツォは、メランコリックでもの悲しくも本当に気品に満ちていて、このニックネームが完璧に似合っていた。
しかしメキシコワールドカップ終了後、アルゼンチンの経済悪化のあおりを受けて、ヨーロッパに移籍せざるを得なくなる。
南米出身選手の多くは言葉が通じる(あるいは近い)スペインかイタリアに渡るが、彼は珍しいことにフランスリーグに移籍した。
……その数ヵ月後、リーベルはコパ・リベルタドーレスを初制覇する。もちろん、その出場権獲得に貢献した彼の功績を忘れる者などいなかった。
ヨーロッパ時代
移籍先のラシン・パリ*5は当時、自動車会社の「マトラ」がスポンサーとなり、「マトラ・ラシン」と名を変えていた。
30年代から40年代にかけて黄金期を謳歌したこのクラブは64年に2部に降格して以来、下部リーグで低迷していた。
強力なスポンサーを得たラシンは捲土重来とばかりに20年ぶりに1部リーグ昇格、エンツォの他にもピエール・リトバルスキーなど大物を獲得していた。
ある意味、選手集めには金に糸目をつけない現在のビッグクラブを先取りしていたと言ってもいいだろう。
ところが大方の予想に反し、ラシンは苦戦。リーグ戦でも降格圏内に沈み込んだ。
そして、これに業を煮やしたマトラが88-89シーズン終了後スポンサーから下りたことでラシンは破産、4部リーグからの出直しを余儀なくされた。
このシーズン終了後、エンツォはオリンピック・マルセイユへと移籍する。
当時のマルセイユにはジャン=ピエール・パパン、アベディ・ペレ、クリス・ワドル、ディディエ・デシャンなど中盤から前線にかけて名選手がひしめいていた。
「あれはおかしな一時期だった」とワドルは振りかえる。
ただでさえ前線の選手が豊富だった所に、ベルナール・タピ会長は最後の1ピースとして、彼らに匹敵するアタッカーをさらに欲したのである。
86年にこのクラブを買収した実業家のタピは92年から93年にフランソワ・ミッテラン内閣の都市問題担当大臣を務めるなど、
サッカー界以外でも知名度や人気を博する時代の寵児だった。
低迷していたマルセイユはたちまち、91-92シーズンまで4連覇を達成するなどクラブの黄金期を築きあげた。
また、ワドルはエンツォについてこう述懐している。*6
エンツォは気のおけないナイスガイだった。
マラドーナと並ぶ南米のスーパースターだったというのに、気取ったところがなく、親切で、他の選手全員から好かれていた。
南米の人間の常で、おかしなタバコを吸っていたがね。
能力はもちろん、素晴らしいものだった。
世界一速い選手ってわけじゃないが、いいバランスと、いいビジョンを持ち、偉大な選手が皆そうであるようにサッカーをよく知っていた。
ある選手のどちら側にパスを出せばいいかが、彼にはちゃんとわかっていたんだ。
彼が育った環境では、サッカーは狭い空き地で行われていた。
近距離のワンツーをたくさん交換しながらね。
イングランド人の選手ならきっと、『縮こまってないでピッチを広く使え』と言うだろう。
でも彼は、自分のスキルを駆使してその密集から抜け出したいんだ。
私は彼とのプレーを楽しんだよ。なぜなら私自身、そういうプレーが好きだからね。
それと南米人の多くがそうであるように、彼はピッチで自分を抑えることができた。
誰かにちょっと乱暴なことをされても、彼はじっとこらえる術を持っていたんだ。
そんな風にして、彼は育ってきたんだろう。
しかし、リーグ優勝し、ディヴィジョン・アン最優秀外国人選手賞を受賞したとはいえ、チームに噛み合っていたかというと別になってくる。
当時のクラブの戦術は、まずデシャンかもう一人のMFがワドルにボールを入れ、それをパパンかペレに繋ぐというものだった。
そのため、本人は思うようにボールに触れることができなかったようだ。
決定的だったのは、UEFAチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)準決勝ベンフィカ戦の1stレグ。彼は何度もミスをし、戦犯の一人となってしまった。
そしてマルセイユは2ndレグ1-0で破れ敗退。
結局エンツォは、1年でマルセイユを離れることとなる。
その後イタリアへ移籍した彼であるが、この選択は失敗に終わる。
カリアリは2年連続で降格の危機にさらされ続け、3シーズン目にしてようやく上昇気流に乗りかけるが、けして満足のいく内容ではなかった。*7
93-94シーズンにはトリノに移籍するが、24試合3得点と期待を大きく裏切る結果に。
すでに33歳となっていたエンツォは94年、試練続きだったヨーロッパから古巣であるリーベルへの帰還を決断する。
こうして見れば、彼がヨーロッパに渡ったのは失敗だったという人も多いだろう。
……だが、その活躍を見るため、マルセイユのベロドローム・スタジアムに足しげく通っていた当時17歳の少年がいた。
───少年の名前はジネディーヌ・ジダン。
後にフランス代表をW杯初優勝に導き、主要タイトル・個人タイトルを総なめにすることになる男である。
第2次リーベル時代
かつて活躍したクラブへの復帰。それはえてして不本意な結果に終わりがちだ。
絶頂期の輝きが大きければ大きいほど、そのギャップは大きくなり、名声を地に落とすことになりかねない。
ところが彼の場合、その反対という希有なケースとなった。
それは、輝かしいキャリアの締めくくりにふさわしい美しきものだった。過去の人になりかけていたエンツォは自らの力で、輝きを取り戻したのだ。
彼がいなくなった8年の間に、アルゼンチンリーグは2シーズン制に移行していた。
引退までに過ごした3年半で、前期・後期リーグ合わせて4度リーグ優勝。2度目の得点王に輝き、95年には2度目の南米年間最優秀選手を獲得。
96年には念願のコパ・リベルタドーレス制覇。クラブ世界一の座をかけて、トヨタカップ(現FIFAクラブワールドカップ)に臨むことになる。
相手はユベントス。そこには……成長して選手となったジダンがいた。
選手とファンとしてでなく、共に選手として再会し、さらに敵味方に分かれてピッチに立つ。
なんという見事な運命のめぐりあわせであろうか。
試合は81分、コーナーキックをジダンが頭でつなぎ、アレッサンドロ・デルピエロが右足で決め、ユベントスが1-0で勝利を収めた。
だがそれ以上に、ジダンにとってこの試合は何にも代えがたい、幸福で素晴らしいものだっただろう。
少年時代のあこがれの人と、ピッチ上で競演することができたのだから。
試合終了後、ジダンは真っ先にユニフォーム交換を申し出た。そして、息子に「エンツォ」と名付けたことも話した。
───自分を目標としてくれた選手が、子供に自分の名前を付けてくれた。これほど選手冥利に尽きることはないだろう。
エンツォは次代を担うファンタジスタに「幸運を祈ります。息子さんによろしく」と礼を述べた。
この時交換した背番号9のユニフォームは、生涯の宝だとジダンは言う。
98年2月、エンツォは引退を表明する。
99年8月1日に行われた引退試合で、対戦相手に指名したのは、ペニャロール───少年時代のあこがれのクラブだ。
試合にはリーベルのチームメイトはもちろん、かつての仲間たちが多数参戦し、
モヌメンタル・スタジアムの客席にはアルゼンチンのカルロス・メネム大統領やウルグアイのフリオ・マリア・サンギネッティ大統領の姿も見られた。
「ウールグアージョ!ウールグアージョ!」というおなじみのチャントがモヌメンタルに響き渡り、8万の観客たちは偉大なる選手との別れを惜しんだ。
代表での活躍
それは、自宅で両親とゆっくりマテ茶を飲んでくつろいでいた時のこと。
ふいに電話の呼び出し音が鳴り響いたが、状況が状況だったため、誰も対応できなかった。
しばらくして自宅に警察官がやって来て、こう告げた。
「サッカー協会の関係者が警察署に来た。君のことを探している」と。
かくして両親と共に署に出向く羽目になったエンツォ。果たしてその運命は……
警察に呼び出されたと思ったら代表に初召集された。
何を言っているのかわからないと思うが、実際本人も移動中まったく状況が呑み込めなかったらしい。
が、その旨を告げられた途端、喜びのあまり思わずその場にいた警察官と熱き抱擁を交わした。
こうして彼の代表歴は始まったのである。
そしてコパ・アメリカ準決勝・ペルー戦でA代表デビュー。
決勝のブラジル戦では代表初ゴールとなる先制点を決めて優勝の立役者となり、大会最優秀選手賞を受賞した。
しかし、満を持して臨んだメキシコワールドカップでは大きな挫折を味わうことになる。
グループリーグ初戦の西ドイツ戦で引き分けたものの、デンマーク相手に1-6の大敗。
2分け1敗の3位で辛くも予選を突破*8するも、決勝トーナメント1回戦でかのマラドーナ擁するアルゼンチンと当たり、
スコア上は0-1の惜敗だったものの圧倒され、ベスト16に終わる。
だが、試合終了直後のマラドーナは明らかに不満そうだった。この試合では彼のゴールが取り消されていたのだ。
「俺は得点王になれないんだろうか……?」と、わざわざエンツォに問いかけてきたという。
事実、この取り消された1点が響き、得点王の座はイングランド代表のゲーリー・リネカーに譲る形になってしまった。
ちなみにアルゼンチンの次の相手はイングランド。そう、あの「神の手」、「五人抜き」ゴールが生まれたサッカー史に残る伝説の試合である。
87年のコパ・アメリカ準決勝では開催国のアルゼンチンと対戦。アントニオ・アルサメンディの決勝ゴールをアシストして勝利し、前年W杯の雪辱を果たした。
が、決勝戦、対戦相手のチリは悪質なファールの集中砲火を浴びせ続け、しびれを切らした彼は報復により前半26分に退場。
ウルグアイは優勝したものの、皮肉にも決勝戦の地はモヌメンタル。愛するリーベルのホームスタジアムで最後までピッチに立つことができなかったのである。
90年のイタリアワールドカップには主将として出場。
1勝1分け1敗と最低限の成績でグループリーグを突破するものの、決勝トーナメント1回戦で開催国イタリアに破れる。
エンツォも4試合無得点と、本来の力を出し切れないままだった。
94年、ウルグアイ代表はアメリカワールドカップに出場することは叶わなかった。
というのも、当時のルイス・クビージャ監督は海外組を冷遇し、召集すらしなかったのだ。*9
そして国民やマスコミ関係者、選手たちから敵対視され、結果を残せなくなってしまった。
エンツォは泣きながらワールドカップをテレビ観戦していたという……
そこからワールドカップでの代表は02年の日韓大会出場、そして10年の南アフリカ大会ベスト4まで長い雌伏の時を過ごすことになる。
95年、地元開催となったコパ・アメリカでは大車輪の活躍。
決勝ではPK戦の末ブラジルを破り、3度目の栄冠に輝いた。
その他のエピソード
- 名前はスペイン語読みだと「エンソ・フランセスコリ」になる。日本語表記も「エンソ」「エンゾ」と揺れている。
- 04年、サッカーの王様ペレが選出する『偉大なサッカー選手100名』に選出された。
- 引退後は家族と共にマイアミに移り住み、同郷のDFであったネルソン・グティエレスと共にTenfierd社資本のサッカー専門チャンネルであるGOL TV社を設立した。ちなみにTenfierd社はウルグアイサッカー界のドンと言うべき存在であり、日本で言えば読売グループといったところだろうか。
- 13年リーベルの強化マネージャーに就任。14年彼から絶大な信頼と期待を寄せられて監督に抜擢されたのは、元アルゼンチン代表の頭脳派MFマルセロ・ガジャルド。15年、エンツォの時代から実に19年ぶりにコパ・リベルタドーレスを制覇。リーベルはFIFAクラブワールドカップのために来日した。エンツォも来ていたので、ひょっとしたら彼と遭遇された方もいるかもしれない。
- ブラジルW杯直前、左ひざ半月板を負傷したルイス・スアレスの手術を担当した医者は彼の兄(ルイス・フランチェスコリ氏)である。
- 『Inmenzo』という歌があるが、これはinmenso(広大な、途方もない)+Enzoの造語である。ニュアンス的には「途方もなきエンツォ」か。
総括
彼は南米を中心に活躍したものの、結局時代の問題もあり、ワールドカップには縁の無い選手だった。
しかし、挙げてきた重要かつ美しいゴールの数々、温和でつつましい性格、淡々と仕事をこなす姿にプロ意識を見出していたファンは多い。
何より、彼の存在なくしてジダンの存在もなかったといっても過言ではない。
そしてジダンの他にも、彼の影響を受け、尊敬している選手はたくさんいる。
エルナン・クレスポ、パブロ・アイマール、ハビエル・サビオラ、アルバロ・レコバ、見た目もそっくりなディエゴ・ミリートなどなど……
星は星を生む。その輝きで人の人生を照らし、道標として大きな影響を与えるのが真のスターなのだ。
ラストゲームの後、あるリーベルファンはウェブサイトに彼への賛辞を書きこんだ。*10
水晶のようで、前向きで、姿勢正しく、正直で、無口。
彼の口から乱暴な言葉を聞いた者はいない。彼をスキャンダルに巻き込んだ者もいない。
夜遊びもしなかったし、暗黒街の住人と体面を汚すような写真を取られる事もなかった。虚勢とも無縁だった。
フランチェスコリは模範であり続ける。彼はサッカーの、そして人生の王子様だ。
追記・修正は、息子に「エンツォ」と名付けてからお願いします。
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*2 https://www.rivistacontrasti.it/enzo-francescoli/
*3 この歌を歌ったカルロス・ガルデルはアルゼンチン最大のタンゴ歌手であるが、出生地に謎が多く、ウルグアイで生まれた説もある。
*4 元歌の対応する部分は〝Príncipe fui, tuve un hogar y un amor〟
*5 元日本代表監督フィリップ・トルシエの通訳でおなじみフローラン・ダバディの母方の祖父は、ここの元会長だった
*6 ベースボール・マガジン社『背番号10のファンタジスタ』190-191P
*7 93年にはJリーグの横浜マリノスに入団するとの憶測もあったが実現しなかった。
*8 当時のレギュレーションは、各グループ上位2チームと3位のうち成績上位4チーム、計16チームが決勝トーナメントに進出するというものだった。ウルグアイは突破した3位チームの中で最下位。本当にギリギリで突破したことがわかる
*9 優秀なアタッカーが多くいるにもかかわらず低迷した原因、それは協会がわずかな報酬しか支払えなかったことにより監督の質が劣化したことにある。最新の戦術で戦うヨーロッパ組と、国内あるいは南米での指導経験しかない監督との間にギャップが生まれ、組織力に悩まされる事になったのだ。
*10 ベースボール・マガジン社『背番号10のファンタジスタ』195P
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