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リトアニア ドイツ ルーマニア フィンランド 岐阜県 外交官 命のビザ ユダヤ民族の恩人 諸国民の中の正義の人 ソ連の敵 知っておくべき日本人
杉原 千畝(1900年1月1日~1986年7月31日)とは日本の元外交官。
一般に「日本のシンドラー」として知られる。
(以下敬称略)
誕生~満州国外交部時代
1900年1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。
愛知県立第五中学校*1を優秀な成績で卒業し、父の勧めで京城*2医療専門学校を受験するが自身は英語教師を志しており白紙答案を出し自ら落第。
早稲田大学高等師範部英語科予科に入学。家族からの仕送りがなく貧乏学生であった。
バンカラルック、帽子にペンを差しのっしのっしと歩む姿が印象的だったという。
19歳の時に外務省の官費留学生試験を受け、超難関であったが英字新聞を二紙同時に読み理解するなどの猛勉強をして突破。
ロシア語留学生としてハルビンの日露協会学校に派遣される。兵役での中断を経て「最近任官した連中より正確なロシア語を使う」とまで評される見事な成績で卒業。
書記官として外務省に採用され、その堪能なロシア語を買われてそのままハルビンで教鞭を執ることとなった。
1926年には『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を上梓。外務省から「仕事に役立つので出版する」とのお墨付きを得た名著であった。
1932年にソ連と国境を接する満州国外交部に出向。東清鉄道買収交渉に参加する。
ソ連は日本の国家予算の1割に相当する6億2500万を提示するが、事前にロシア人に対する諜報活動を行い、
きっちりと各種資産査定をこなしており、それを軸に交渉して最終的に1億4000万で交渉を妥結させ、その名を轟かせた。
しかし、満州国時代は不本意なことが多かったらしい。
諜報活動の一環でアカと接触していたのに関東軍にアカ扱いされたり、そのせいで白系ロシア人*3の妻と離婚せざるを得なかったりと確かにろくな事がなかったらしい。
杉原が満州事変の頃はフランス語で反駁文を書き上げるなど大陸政策に理解を示していたにもかかわらず、戦後大陸政策や関東軍に批判的な論調であったのはこの辺りの話が影響しているのだろうか。
外務省復帰~カウナス領事館領事代理
離婚の際財産を全て妻に譲ったため、無一文となった彼は周囲に助けられつつ生活。
その中で幸子夫人と出会い結婚している。外務省に復帰後、ソ連の日本大使館派遣が内定するがソ連にペルソナ・ノン・グラータ*4を発動されてしまったためフィンランドの日本大使館に転任。
ノモンハン以降重要になっていた対ソ諜報活動の最前線に送られる。
1939年になると同盟国ドイツの対仏開戦は秒読み段階であり、日本はドイツのもう一方の敵・対ソ開戦がありうるのか、いつになるかを知ることが喫緊の課題となった。
ソ連への備えをしつつ中国で戦争をし、仏領インドシナから東南アジアに攻め入りつつアメリカら列強に喧嘩を売る…までは流石に無理とは理解していたようだ。
そのため、ドイツ・ソ連で分割予定だったポーランド*5より北にあり、ドイツ・ソ連の動向を見られるリトアニアのカウナスに設置された総領事館に領事代理として送られた。
日本と関わりが深いポーランド亡命政府の諜報機関*6と協調しつつ情報を集め、現地採用スタッフに紛れたゲシュタポのスパイらと神経戦を繰り広げつつ任務を果たしていた。
名目上は敵になるポーランドと協調し、名目上は盟友のドイツの秘密警察ゲシュタポと暗闘を繰り広げる、非情な情報戦の最前線で戦う人間に選ばれるほど、当時能力評価はされていたのである。
そこで、人生を変える瞬間に出会うことになる。
赴任してすぐにドイツがポーランド・フランスをあっという間に倒し、ユダヤ人を中心とした難民たちは西への逃げ道を失ったため、カウナスにあったコミュニティに殺到していた。
ナチス「ユダヤ人?身ぐるみ引剥して皆殺しな?アインザッツグルッペン*7ゴー!」
ソ連「お前反革命勢力だろう?反革命勢力だろう!?なあ!?*8」
…という、どこに逃げても近所は地獄であり留まっていたら難癖つけられて殺される確率は高く、さっさと第三国行きのビザを貰った上でどこかに行かなければ死ぬしかなかった。
名目上の目的地ビザは在カウナスオランダ領事*9の尽力でキュラソー行きのモノが確保できたので、中継地ビザを何とか出来れば逃げられたのだが
パレスチナ方面*10は通過するための中継地であるトルコがビザ発行拒否という事になっていた。
そのため1940年になると、キュラソービザを引っ掴んでシベリア鉄道に乗り込み、通過国の日本から太平洋越えて本当にキュラソーまで行くか、どこかの縁者を頼って避難するしかなかった。
そのため、通過国ビザを求めて日本領事館にユダヤ人ら避難民が殺到した。
杉原はすでに協力者であるポーランド亡命政府の将校やその親族・縁者に数十通から数百通のビザや満州国のパスポートを発行する計画で、その件については本国の了承を得ていたのだが
さすがに万に届こうかという難民への発行は領事館の規模としても、開設目的からもかけ離れたもので想定していない事態であった。
この事態に、まず本国の指示を仰ぐが本国の返答は「難民を受け入れる余地なし、きちんとキュラソーやその他の国に行ける持参金があり正式な書類を揃えた者以外にビザを出すな」というものであった。
体のいい受け入れ拒否であるが、あまりにユダヤ人に甘くすると数少ない同盟を結んでくれる国であったドイツがへそを曲げて同盟破棄と言い出しかねないという不安があり
大陸情勢が泥沼化して国民に甚大な負荷が掛かりつつあった時期なので、理屈自体は日本の事情を斟酌すれば理解可能なモノではあった。
何より、本国はユダヤ人が全てを捨ててでも逃げ出す事情を詳しく把握しているわけではなかった。
しかし、杉原は抗命というリスクを犯してでも何とか出来ないかと本国に掛け合った。
ドイツの情報を集めるということは、ユダヤ人虐殺の真実を知るということでもある。その虐殺のさなかに、何とか出来る可能性があるのに放置するのは良心が咎めるというものであろう。
しかし本国の返答は変わらず、ユダヤ人たちは救いを求めて領事館に殺到する。
命がかかっているため一部は殺気立っており、表門を取り囲むのみならず裏口から乱入してくるなど、身の危険を感じる瞬間もあったという。
良心と外交官としての任務の全うすることの間で懊悩した杉原の答えは「ビザを出す」というものであった。
最悪クビになったりすることも有り得る行為であったが、眼前の難民を見捨てる事は人道に悖る、ということからの決断であった。
ユダヤ難民たちは、救われる道が開けた!と大歓喜した。
本国からは「適当な要件でビザを発給するな!条件通りやりなさい!日本の信用問題だ!」と通達が来るがそれを無視してひたすらにビザを発給し続けた。
リトアニアを支配していたソ連から各国領事館閉鎖を通達されてもギリギリまで残り、用紙がなければメモ用紙に、ベルリンへの撤退間際まで列車でもひたすらに書き続け
約一ヶ月、何枚書いたかわからないほどの多数のビザを発給。途中からビザを書くのが最優先で手数料徴収すら忘れていた有様であった。
これにより6000人近くが救われたという。一家族一通で通過が可能だったので、付番済みのものだけで2139枚は書き上げたとされるのであれば大体このくらいは救えた、という推計ではあるので詳細は不明である。
その後、独ソ戦が始まりドイツ領に変わったカウナスやヴィリニュスといったリトアニアのユダヤ人コミュニティは虐殺により壊滅した。
杉原の尽力がなければ、犠牲者が更に増えていたことであろう。ギリギリのタイミングで救いの神が現れた、といえる。
それでも、杉原自身は「まだやれることがあったのでは…」と悔恨の念を抱いていたという。
その後、スターリンが通過こそ黙認したが外貨獲得のためにシベリア鉄道の乗車は専用のパックツアーで高額商品のみの扱いにしたことやドイツの追跡の速さもあり結構な数が脱落。
なんとか極東に到着し日本入国の段になっても一悶着あったのだが*11、杉原の後輩であるウラジオストク総領事代理・根井三郎やJTB、日本のユダヤ教学者小辻節三、知己であった小辻に悪知恵を吹き込み?結果的に入国を許す形にした松岡洋右の尽力、
ドイツへの配慮で上海ゲットーに難民を送るも、日本の扱い方に業を煮やし送り込まれたドイツの上海租界担当者*12からのユダヤ人処分要請を蹴っ飛ばし続けた日本人の無知*13ゆえのおおらかさ?に助けられ
ユダヤ人ら杉原が救おうとした避難民は極東に逃れられた者はなんとか無事救出することが出来た*14がそれはまた別の話である。
各国放浪~戦後
ベルリンに戻ると外務省からの処分があるかと思われたが、当面は処分もなくプラハやケーニヒスベルクに送られ、諜報活動に従事する。
しかし、プラハの公館は閉鎖され、ケーニヒスベルクでは周辺を仕切るドイツの責任者はユダヤ人にビザを発給した事を快く思っておらず
協力者であったポーランド軍将校が処刑されたりしてケーニヒスベルクを追放されたりと、欧州各国の公館を転々とした。*15
ケーニヒスベルク時代には独ソ戦開戦時期を正確に掴み、情報を打電するも本国は対米最終交渉に没頭しており、分析に回した形跡はなかった。えぇ……*16
日本の敗戦を迎えた時は、ルーマニア・ブカレストの公使館勤務であった。
ルーマニア時代にはヘルシンキの公館勤務時代に貰ったシベリウスの直筆サイン入りポートレートとレコードを取りに戻った夫人がピンチになったりもしたという。
ソ連に捕まった杉原一家は各地の収容所に送られるが、1946年冬に帰国するよう言い渡され、オデッサからウラジオストクまで地球半周極寒の旅を続け、
1947年4月、博多港に降り立った。過酷な二年近くの抑留生活に耐えた杉原を待っていたのは、外務省からのリストラであった。外務省公式では「依願退職」とのことである。
なんやかんやそれらしい言い訳はつけられたものの、ソ連の専門家と言っていい杉原を冷戦の真っ只中にむざむざ手放したのは「訓令無視」を咎められた……と思われても仕方がない。
カウナス時代の部下であった新関欽哉*17は対ソ外交の中心人物となっているくらいだし、どうも…
少なくとも、杉原自身は当時の外務事務次官から「辞めろ」と言われたと回顧している。
外務省退官後、しばらくは窮乏生活を送り、三男を白血病で失うなど不幸続きであったが
語学力を活かして連合国向けのデパートの支配人やNHKに再就職するなど、様々な職を転々とする。
その中には、商社のモスクワ駐在員というものもあった。外交官時代はペルソナ・ノン・グラータ食らったのに何故出来たのだろう……
1986年、86歳で永眠した。
後半生においては不幸だったかもしれないが、少なくともソ連に捕まって生還したことは幸運だったろう。
シベリア抑留やソ連に拘束され死んだ日本人は数多いし(杉原と同じ外務省の人間も含まれる)
中立国スウェーデンの外交官で杉原以上に「ユダヤ人救済」に全力を注いだ「ラウル・ワレンバーグ」は、
なぜか戦後すぐソ連に拘束され、二度と戻って来なかったのだから…(しかも亡骸の行方や拘束理由もしれぬまま)。
再会
戦後、イスラエルやアメリカなど各国に散っていた杉原に救われた人物は何とか杉原に礼をしようと、各国の日本大使館や外務省に照会をかけていた。
しかし、杉原は自身の名前が言い難いだろうと配慮して「SENPO」と自身の名前を告げていたため、外務省からは「そんな外交官はいません」という答えばかりが帰ってきていた。
しかし、千畝はセンポと読めないこともなく、杉原姓の外務省職員は当時数人程度しかいなかったので、この辺りにも外務省の悪意があると見る向きもある。
一方難民の行方を気にかけていた杉原の方でも在日イスラエル大使館に自身の生存と住所を伝えていたため、
在日イスラエル大使館参事官となっていたニシュリと1968年に再会。
その後もニシュリのツテで杉原のビザのおかげで生き延び、イスラエルで宗教大臣となったゾラフ・バルハフティクにエルサレムで再会。
その際に無断でビザを発給していた事実が難民たちにも知れ渡り、より尊崇の念を集めたのであった。
杉原は人間として当然のことをしたまで、の一言で片付け、過剰に誇るようなことはなかった*18。
1986年の葬儀の際には参列者にイスラエル大使の姿があった。
死の一年前、1985年にはイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」という称号を贈られている。
日本人ではもちろん唯一の栄誉である。
死後も、難民の出身地であったポーランドよりポーランド復興勲章の内、実質最高格の星付きコマンドルスキ十字勲章を受けている。
ユダヤ人社会の杉原への感謝は今でも止むことはなく、東日本大震災の際には在日のユダヤ人コミュニティや世界中のコミュニティより募金があったりもしている。
70年以上の時を経ても、自身の良心と信仰に従い虐殺禍より救った杉原の功績は褪せることはないようだ。
日本での扱い
前述したとおり外務省受けは良くなかった。ノンキャリア組だった杉原が大使や公使といった職を目指すにはキャリア採用試験を受ける必要があったため、
帰国してその試験を受けさせてもらうよう何度も要請したが、許可されたのはドイツも陰りだし、日本もミッドウェーで負けた1942年の冬であり
戦局の悪化もあって結局受けられずじまいで退官を迎えてしまった。
もっとも、杉原の諜報能力を必要としていた欧州の日本公館はままあったため、そこら辺も原因であろうか。
退官の経緯についても、前述したとおり杉原と外務省で食い違いがあった。
その後、杉原が外務省と縁を切った事もあって、50年以上経ってようやく名誉回復を行うまで、外務省では忌むべき存在のように扱われたフシがある。
戦後の対ソ外交の中枢に座った曽野明は「日本を代表しているわけでもないのにあんなことを本国に無断でやるなんて言語道断で許せない」と発言。
名誉回復に当たっても雅子様の父であり外交官の小和田恆が「そんなもの必要ない」と発言したと朝日新聞に報道された(本人は否定している、朝日新聞だし信用できるかは…)など、外務省的には黒歴史に等しい存在だったと伺わせるエピソードが多い。
よほど命令不服従が腹に据えかねたらしく、彼の名誉回復は生前には果たされなかった。
だが、ユダヤ人から諸国民の中の正義の人の認定を受けたのが名誉回復の機運となって、世代交代で外務省に彼を追放した者らがいなくなった事もあり、
彼の没後14年が経過し、杉原家も彼の孫やひ孫の世代に移り変わった時代にようやく政府公式の名誉回復がなされた。*19
国民の中では知られていた人物ではなかったが、1980年代からドラマなどの題材になることが増え知名度は大きく向上。
故郷や母校、リトアニアやイスラエル*20に顕彰碑などがある。
「私の行動が正しかったかどうかはわからないが、命の危険にさらされている人を見捨てることはできなかった。
私の行動は歴史が審判してくれるだろう」
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- かっこいい -- 名無しさん (2015-12-13 01:04:52)
- 建て主乙。彼がいなければWW2後の世界情勢は変わっていただろう -- (2015-12-13 01:09:01)
- 伝記読んで知ったが、この人はガチで素晴らしいよ。命令無視してまでビザを描き続けるなんざそうそうできるこっちゃないぜ。子供が3人いたけど、一番下の子を小児ガンで亡くしてるんだよな。 -- 名無しさん (2015-12-13 01:15:57)
- 英雄、ヒーローってこういう人のことだよな -- 名無しさん (2015-12-13 01:37:05)
- 尤も、ユダヤ人は居着いた先で被害者意識を丸出しにして国を荒らすってのを普通にやるから、勝手にやるなという政府の言い分も判る。そもそも、ドイツがあんな無茶苦茶なユダヤ人迫害をやったのも、反セム主義が席巻していたヨーロッパで消極的ながらもユダヤ人を受け入れた結果、ユダヤ人がドイツの経済を乗っ取ろうとしたからだし。 -- 名無しさん (2015-12-13 01:48:55)
- ↑全てのユダヤ人がそうだ、とは言えないしそんなユダヤ人がいない、とも言えない。だが少なくとも殺される可能性が高い状況にあった(少なくとも無辜の)ユダヤ人を助けようとした杉原の信念は称賛されるべき -- (2015-12-13 01:55:23)
- それは間違いない。彼のやった事は誰にも否定できる事じゃないから。ただ、人としての倫理と、国の都合ってのは多くの場合一致しないし、人としての倫理を貴んで国の都合を否定するのもちょっと違うと思う。 -- 名無しさん (2015-12-13 02:01:19)
- ↑3↑1のような考え方もあるし、外交的な危険性もあった。とはいえ、そう思う事が惨めに思えて憚れる。正否云々はともかく、人を助ける事自体は悪い事ではないさ。 -- 名無しさん (2015-12-13 02:11:43)
- にしてもよくここまで調べ上げたな。乙 -- 名無しさん (2015-12-13 02:13:38)
- 外務省のHPにはリストラではなく依願退職となってるが、それは外務省が嘘ついてるってこと? -- 名無しさん (2015-12-13 05:25:20)
- 1944年に国から勲五等瑞宝章をもらっていることには触れないのか。杉原氏は立派な人だと思うけど、正直日本政府を必要以上に貶めようとしてる感じで鼻につく項目だな -- 名無しさん (2015-12-13 05:47:15)
- 尊敬すべき人 -- 名無しさん (2015-12-13 06:27:20)
- イスラエルの紙幣と切手にこの人の写真が使われてるんだよなぁ...。すごい人だよほんと。 -- 名無しさん (2015-12-13 06:54:02)
- 子供の時に見た演劇のセンポ・スギハァラで初めて知った -- 名無しさん (2015-12-13 07:09:26)
- 同じ難民でも、虐殺から必死に逃げてきたユダヤ人と、飛行機まで使って優雅に住みやすい国を選ぼうとするシリア偽装難民とではだいぶ違うだろうしな -- 名無しさん (2015-12-13 08:20:05)
- ワイ岐阜県民 岐阜県史には必ず載ってたなぁ -- 名無しさん (2015-12-13 08:34:49)
- 充実した記事だが、注釈が多すぎて読みづらい。 -- 名無しさん (2015-12-13 09:09:27)
- ↑4俺は名前自体はもっと前から知ってたが、本格的に業績やら知って調べてみようと思ったきっかけは、ちょっと前に放送してた世界ふ○ぎ発見だわ -- 名無しさん (2015-12-13 09:17:25)
- この人みたいに評価されなかった優しい人は沢山いるんだろうね -- 名無しさん (2015-12-13 10:58:42)
- このwikiで歴史勉強するとは思わなかった、ほんとにすごい人だよ -- 名無しさん (2015-12-13 14:32:53)
- 凄い詳しく書いてるな -- 名無しさん (2015-12-13 18:21:26)
- ↑4 必ずしも注釈を読む必要はないしいいんじゃないか?知ろうとした際には詳しく知れることに損はないだろう -- 名無しさん (2015-12-13 19:40:21)
- シリア難民を「そうだ難民しよう」と馬鹿にするのに杉原千畝を日本の誇りと称える人間を見ると溜息が出てくる -- 名無しさん (2015-12-13 21:51:57)
- 馬鹿にした人間と称えた人間が同一人物である証拠がどこにあるんですかねえ… -- 名無しさん (2015-12-13 21:58:31)
- 独断専行ではなく、国もユダヤ人保護には否定的ではなかった。今回の映画はちょいアレだね。 -- 名無しさん (2015-12-13 22:49:42)
- 英語の教科書にのっててビビった。ホントにすごい人だな -- 名無しさん (2015-12-14 03:10:47)
- ↑俺は恥ずかしながらbarレモンハートのサマネというウオトカの回で知った。歴史の教科書に大々的に載せるべき否、載せなきゃいけない人でしょこの人は。 -- 名無しさん (2015-12-14 04:19:01)
- 教科書に真面目に載せると、勝てないから辞めろって報告を無視してたり干されたこともかかなきゃいけなくなるからなー -- 名無しさん (2015-12-14 22:31:54)
- 3↑確かに1930年代前半は「河豚計画」でユダヤ人保護に舵を切ってたけど、ナチスとの同盟に当って「河豚計画」の理念は立ち消え状態ではあったのは事実、だから外務省も金持ち以外の保護は渋ってたわけで 上海ゲットーでぶっ殺せって言われてもやらないくらいだから派手な迫害に消極的なのも事実だとは思うが… -- 名無しさん (2015-12-14 22:49:26)
- この人の話を聞く度にいつも思うんだが、ビザって一人の外交官が勝手に発行したからって使えるような物なの?ビザって入国申請する際に必要な物であって、あれば必ず入国できる物じゃなかったような。実際海外とか行ったことないから分かんないけど -- 名無しさん (2016-08-27 11:06:27)
- ↑軽く書かれてるけど、ビザを有効として受け入れたウラジオストクの担当者とか杉原以外の尽力ももちろん存在してるよ -- 名無しさん (2016-10-06 16:01:17)
- シンドラーと比較するなと言うが、杉原はクビで済むかもしれないがシンドラーの方は最悪死刑になる危険さであることを考えるとそこまで言えるのか…? -- 名無しさん (2016-10-06 19:01:06)
- 現在のイスラエルの対日感情が非常に良いのを見ると結果的に"日本の為になる事をやった"んだよこの人は。 -- 名無しさん (2017-03-17 06:08:36)
- 「適当な要件でビザを発給するな!条件通りやりなさい!日本の信用問題だ!」←おこなの? -- 名無しさん (2017-03-17 08:45:48)
- 今日本で杉原と同じ立場から難民をたくさん受け容れたら、治安悪化するのに何するんだってことで叩かれるだろう。 -- 名無しさん (2017-03-17 10:17:06)
- とりあえず、外務省とドイツ許すまじ。その後ユダヤ人が、パレスチナ人にひどいことしてるのは置いといて。 -- 名無しさん (2018-08-21 19:51:41)
- ↑ドイツはともかく、受け入れ拒否の理由だってしっかりしてるのに許すまじはねーだろ -- 名無しさん (2018-08-21 20:11:45)
- 確か単発ドラマで反町隆史が杉原千畝を演じたよね。 -- 名無しさん (2018-08-22 00:18:57)
- 脚注多すぎて脚注の意味をなしてない気がする。もうちょっと本文に反映できないだろうか -- 名無しさん (2018-08-22 01:49:58)
- 結局どんな仕事も体力勝負なんだよ!(腱鞘炎になりながら)ビザを求めて来た人があまりに多過ぎて、中にはうっかり入り口間違えて裏口から入った人とかもいるらしいが、追い出したりせず紳士的な対応だったそうな。そんな感じでビザ発行中はドキッとする瞬間も多かっただろうが、心身ともにタフだなぁ -- 名無しさん (2018-08-22 03:54:13)
- ↑3 だからと言って、あんな人道的なことをした御仁を追放なんてすることなかったろうが。(パレスチナ問題から目をそらして -- 名無しさん (2018-08-22 07:45:32)
- この人の伝記を読んで外務省のことが大嫌いになった -- 名無しさん (2020-02-26 21:54:39)
- この方に限らないが、ユダヤ人を助けるために奔走した人がちゃんといた(無くなって20年、ほんの数年前それがわかった人もいる)。どれだけ大変だろうと人の心を忘れなかった存在と言うのがちゃんといたというのは大事なことだと思うのだ。 -- 名無しさん (2020-06-17 21:07:53)
- 人間の鑑。イスラエルの連中は杉原さんに恥ずかしくないんか? -- 名無しさん (2020-12-16 10:39:01)
- 申し訳ないが聖人1人と888万の国家を比較するのはNG -- 名無しさん (2020-12-16 11:12:28)
- いや、大してしっかりしてねえし(他の国の対応を見てみよう) また同じように命令無視で出した外交官もいたけどここまで冷遇されたのは杉原だけだよ -- 名無しさん (2021-09-22 09:23:51)
- 外国からの評判を聞いて渋々泥縄で掌返す、いつものパターンである -- 名無しさん (2021-09-22 10:56:00)
#comment
*2 現在のソウル。父の赴任先であった。
*3 ロシア帝国のシンパや、ソ連から逃げてきたロシア人のこと。内戦で赤軍と対立していた白軍と同義。日本では元プロ野球選手のスタルヒンなんかが有名。
*4 好ましからざる人物という意味のラテン語。つまり、コイツは外交官として認めないし国に入れないという意味である。ちなみに外交上の権利として国際条約で認められた権利である。
*5 125年ぶり5回目の分割である。
*6 シベリア出兵時にロシア帝国によってシベリアに囚われていたポーランド人を多数救出した縁で指導がなければ国際標準に届かなかったであろう暗号技術などの面で関わりが深かった。まさに先生と言える存在である。
*7 ユダヤ人虐殺を主要任務にしていたという部隊
*8 この他にもロシア人はユダヤ人嫌いが酷く、ロシア帝国時代は度々ポグロムと呼ばれるユダヤ人虐殺を行っており、信用しきれないユダヤ人もままいた。実際、ナチス支配下のポーランドやウクライナでもナチに協力するような形で度々起こったという。
*9 フィリップス社の現地法人重役である。
*10 当時は英領
*11 緊急事態とはいえ、通達を無視して結果的に不備だらけの書類を大量に素通ししてビザを出してしまったのでそりゃあ手続に困るというものである。
*12 コテコテの迫害主義者であり、船に満載して爆破して川に沈めろなどと平然と言い放ったという。
*13 政府には迫害されるユダヤ人の利用を考える委員会もあったが、扱い方の原則だけ決めてあやふやなまま、ドイツとの同盟締結に従って委員会が立ち消えとなった。難民への基本スタンスは寄り付くなに等しかったので、まあ…
*14 汪兆銘政権下にあった上海ゲットーは戦争末期に連合国による爆撃にさらされてしまい、そこで犠牲者が出てしまったり、ゲットーで飢えが蔓延したりした。
*15 あのラインハルト・ハイドリヒ(not黄金の獣)には日本人スパイ杉原と名指しで危険性を指摘されている。
*16 ちなみに、日本の中枢に食い込んでいたソ連のスパイだったゾルゲも、ドイツの対ソ宣戦を日本政府及び在日ドイツ大使から掴んで情報を送っていたがスターリンら上層部は信頼せず、結局無防備気味でドイツの先制攻撃を受けたのであった。諜報員の情報をしっかり吟味する分析官って大事だね、というお話。
*17 彼の回顧録が出版されており、カウナス時代の話もあるが一大外交事件とも言える難民押し掛け騒動は不自然にも全く描写がない。
*18 外務省を放逐されたのが悔恨であった、ということも誇ったりしない一因であったようである。辞めたあとに「ユダヤから金もらってるからやめても裕福なんだろ?」と言われたのは特に悔しかったらしく、めったに怒ることのない杉原が激怒し外務省との縁を全て断ち切ったほどであった。
*19 戦中の広田弘毅や東條英機ら指導層の人間は彼の行為をむしろ黙認していたのでは、という憶測もあり、戦後の外務省は戦犯の烙印を押された彼ら以下の器量の小ささと揶揄されている。杉原も広田弘毅を尊敬しており、長男に弘樹と名付けたり、帰国後の家は広田が住んでいた藤沢市に構えた程。
*20 諸国民の中の正義の人に認定された後、セレモニーに代理出席した四男が記念植樹した木があったのだが、周辺再開発で伐採されイスラエル政府が結果的に2019年まで隠蔽していたというさもしいオチが付いた悲しい事件があった。
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