登録日:2014/12/23 (火) 21:32:40
更新日:2023/12/21 Thu 13:50:48NEW!
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装甲艦 重巡洋艦 ポケット戦艦 ドイッチュラント級 ドイッチュラント リュッツォウ アドミラル・グラーフ・シュペー アドミラル・シェーア ドイツ 軍艦 通商破壊
ドイッチュラント級装甲艦とは、ドイツ海軍が第一次大戦後初めて就役させた10,000t級軍艦である。
巡洋艦に匹敵する(勝っているとは言ってない)機動力と戦艦に準ずる大火力を有し、列強国から『ポケット戦艦』と呼ばれ注目された。
性能諸元
排水量:11,700t(基準)/15,900t(満載)
全長:186.0m
全幅:20.6m
吃水:7.25m
機関:MAN式2サイクルディーゼル機関8基2軸推進
最大出力:48,930hp
最大速力:26ノット(公試時28ノット)
航続距離:20ノット/10,000海里、10ノット/21,500海里
乗員615~951名
兵装:28cm(52口径)三連装砲2基6門
15cm(55口径)単装速射砲8基
8.8cm(45口径)単装高角砲3基→8.8cm(76口径)連装高角砲3基6門(1935年に換装)
37mm(83口径)連装機関砲4基8門
20mm(65口径)機銃10丁
53.3cm4連装魚雷発射管2基
船体装甲:60mm(舷側、シュペーは80mm)、40mm(甲板、シェーア&シュペーは45mm)
主砲塔装甲:140mm(前盾)、105mm(天蓋)
司令塔装甲:150mm
航空兵装:He60D水上偵察機2機→Ar196水上偵察機2機、旋回式カタパルト1基
建造経緯
第一次大戦での敗北から軍備制限と戦闘艦更新制限を強いられ、状況をまったく顧みない賠償金で青息吐息のドイツであったが、1921年以降には
欧州列強「型落ち戦艦の代艦に限っては、基準排水量10,000t未満で戦艦に勝てん程度(砲口径28cm以下)の砲を積んだ艦なら新造してもええねんで?有情やろ、ん?(強者の余裕)」
と、余裕なのか舐めプなのかようわからんが、とにかく戦闘艦の新造が認められた。
まあ、次にドンパチやるにしたって味方は多い方がいいし、その時になって役立たずでした、では何の得にもならないからして、
敗戦国であっても段階的な軍備更新の認可は当然っちゃ当然ではあった。
そして当のドイツからしても、次はブチ殺す、必ず涙目にしたる!という意識がないではないし、放っといたら失われる建艦関連のノウハウ再取得も必要だった。
そういった意味で、小さくはあるが並の巡洋艦以上の火砲を搭載できるこの制限枠は、ある意味次世代戦艦の叩き台としてもうってつけだったわけである。
そんなわけで、うっかり戦艦などと称して疑念を招いちゃ元も子もない。そこで、ドイツの皆さんはヴェルサイユ条約の仏語記載に目をつけた。
装甲艦(Cuirasse)という単語を独語訳し、Panzerschiffと銘打って本級建造に使ったのだ。
ちなみに、第二次大戦開戦後の39年11月から40年2月にかけて、本級は重巡洋艦(Schwerer Kreuzer)にクラスチェンジしている。
また、同時期にドイッチュラントが「大ドイツの名を冠する艦が戦没したら民心がヤバいダルルォ!?(迫真)」というチョビ髭伍長の主張で「リュッツォウ」と改称された。
性能/運用思想
建造当時、ドイツが仮想敵国として挙げていたのはフランスとポーランドだった。24年頃からポーランドは水雷戦隊相当の小型艦艇で構成される高速部隊の拡充を図り、
その同盟たるフランスも装甲巡洋艦を含む小中型艦艇と潜水艦の派遣を公約していた。
つまり、ドイツ海軍は「東の高速部隊」と「西の重装低速艦隊」の2種類に同時に備えなければならなかった。
そして新造艦の基準排水量が制限されている中で、優先されるのが機動性と砲力である以上、仮に防御を多少犠牲にしてでも、
前者2つ+航続性能を優先するのが本級の設計骨子だったわけだ。
丁度いい塩梅に代艦年数に達していた前弩級戦艦「プロイセン」の代艦、仮称「装甲艦A(Panzerschiff A)」として設計を始めたわけだが、
当初のコンセプトは「バルト海の制海権確保」だった。
要するに、ソ連海軍だけでなく北欧バルト4国の海防戦艦(大口径砲を装備し、沿岸防衛を主任務とする中小型艦。航続距離はお察し)をボコり、
バルト海の海上交通を維持するのが当初の仕事で、大西洋に打って出るわけではなかった。
以下に記す建造前計画案を見れば、海防戦艦を単独でボコれ、弩級戦艦に退治しても複数で勝ち目が見える程度の戦闘力を想定していたことがわかるだろう。
- 基準排水量1万トン、38cm連装砲塔2基、15cm連装砲塔2基、8.8cm高角砲2門、舷側装甲200mm、22ノット
→主砲のサイズがあからさまに条約違反でモロバレ余裕、却下。 - 基準排水量1万トン、21cm連装砲塔4基、8.8cm単装高角砲4門、舷側装甲80mm、32ノット
→さすがに低火力すぎ。以後は12インチ(30.5cm)砲前後で設計しよう。 - 30.5cm連装砲塔3基、10.5cm単装高角砲3門、舷側装甲200mm、21ノット
→鈍亀の海防戦艦じゃあるめーし、弩級艦には全領域で対抗不能。ドレッドノートの時代はもう終わってまんがな。 - 30.5cm連装砲塔2基、15cm連装砲塔3基、8.8cm連装高角砲3基、舷側装甲150mm、24ノット
→機動性はともかく、砲門少なすぎワロエナイ。索敵機の搭載も考慮しよう。 - 28cm三連装砲塔2基、12.7cm連装高角砲4基、舷側装甲100mm、航空機2機と射出機1機、28ノット
→採用案。巡洋艦はフルボッコ、戦艦は数で押すか逃げる。
海軍さんサイドからは「政治で造った艦とかイラネ」「戦艦に火力で、巡洋艦に速度で劣るとかワロス」などと酷評されたが、
列強諸国がその逆の反応を示したのは上記の通り。
10,000t以内(実は2割ほどぶっちしてます)に第一次大戦当時のドイツ主力艦と同格の火力を収め、
ディーゼル機関の採用で機関軽量化を果たすと同時に長大な航続距離を獲得したとなれば、注目されないはずもなかった。
特にフランスは本級での植民地との連絡線撹乱を恐れ、ダンケルク級戦艦の建造の議会への根回しと予算確保を開始。
イタリアはそれに対抗してコンテ・ディ・カブール級とカイオ・ドゥイリオ級(両級共に弩級戦艦)を魔改造し、さらにヴィットリオ・ベネト級戦艦を建造する。
イギリスも「そろそろ廃艦すっぺ?」と自由契約リスト入りスレスレだったマイティ・フッドとレナウン級巡洋戦艦2隻の近代化改装を承認。
なお、レナウン級2番艦レパルスは結局小火器以外はほとんど更新されないままマレー沖に派遣されて……あっ(察し)
とまぁ、列強軍備のニッチをものの見事にズドンしてしまい、欧州列強が建艦競争かます引き金となってしまった。
なお、ダンケルク級のスペックに真っ青になって建造したのがシャルンホルスト級である。
詳細は項目を見ていただくとして、本級の4番艦建造計画を拡大発展させ、次世代型超弩級戦艦のプロトタイプの意味も持たせたのがシャルンホルストとなる。
船体/機関
軽量化を最重点し、多くの新技術を採用して涙ぐましい努力の果てにそれを成し得た。艦上構造に当時高価だった軽合金を多用したり、
建造にリベット止めではなく電気溶接を採用するためにクルップ社がわざわざ専用鋼を開発したり、色々やって想定値の15%も軽量化している。
まあ、それでも制限を2割ぶっちぎったんだけど。
軽量化は装甲を多少犠牲にしてでも航続性能と機動性を重視するためで、これは巡洋戦艦と同じ設計思想。
とは言え制限の関係上、本級には巡洋戦艦ほどの大火力は持たされてはいなかった。
実際問題、巡洋戦艦と戦艦の同艦隊への混在は色々運用面の問題があったわけだが、あくまで艦隊決戦用のあっちと違って通商破壊に専念することでその辺をクリアしている。
機関には当時のスタンダードの蒸気タービンと重油専焼缶の組み合わせの代わりに、燃費の良い高出力ディーゼルを採用している。
蒸気機関よりも機関の占有スペースを圧縮でき、同じだけの航続距離をもたせるのなら燃料タンクも小型化できるのが最たる理由だ。
戦闘艦の防御範囲縮小を考えるとき、一番場所を食うのはやっぱり機関である。
なので、省スペース化と燃費向上と条約制限クリアの一石三鳥なディーゼルはうってつけだった。ついでに懐に優しい(燃費的な意味で)ので海軍もニッコリ。
なお、大和型戦艦建造の際に大日本帝国海軍も似たようなことは考えたが、結局高出力ディーゼルの安定化が間に合わずボツった模様。
……なのだが、部品製造に高精度と耐久性が要求されるため、製造コストはむしろ高騰した。扱い自体も相当デリケート。
ついでに鋼鉄の塊なので重い重い。まあ、機関スペース圧縮のためにその辺はスルーされたわけだが……
また、これは当時のディーゼル機関そのものの問題で本級だけではないが、高品質な重油が必須だった。
おまけに当時のディーゼル燃料は粘りが強すぎたので配管に専用の加熱装置を必要としたが、こいつの配管の一部は非装甲区画を通っていて……あっ(察し)
実際、2番艦のアドミラル・グラーフ・シュペーはここに直撃を食らったのが自沈の主要因の一つになっている。
武装
ドイッチュラント級といえば重武装である。主砲は条約制限枠ギリギリの28cm砲を改良・長砲身化させたものを採用した。
なんで条約ぶっちしなかったかというと、第一に軽量化。装薬増やして高初速化すれば、10,000m台では英海軍の38.1cm砲に匹敵する貫徹力を叩き出せるからというのもあった。
小口径ながら高初速/高威力な砲をホイホイ造れるあたりは、さすが世界一ィィィィィな技術力である。
この砲を3門が各々別個に仰俯角を取れる独立砲架に載せ、三連装砲塔化したのが本級の主砲塔だ。
俯仰・旋回・揚弾/装填は電力供給による機械式で、発射速度は毎分2.5発。
副砲は後にシャルンホルスト級やビスマルク級にも採用された、堅実かつ安定した設計の15cm速射砲。
本級の場合は砲塔化すると重量を食うので、単装砲架に防盾を被せて軽量化している。発射速度は毎分15~20発。
その他高角砲と近接防空火器として機銃を装備しており、単艦での対空防御能力も(建造時の水準としては)悪くないレベル。
また、主砲ではどうにもならない戦艦相手の備えとして、4連装53.3cm魚雷発射管を両舷艦尾側に1基ずつ備える。
当初は魚雷を露出させていたが、後に装甲カバーが増設された。
防御能力
仮想敵として重巡洋艦を想定していたため、対8インチ防御を選択した。だがただでさえ制限が課せられてる中で火力と機動性を重視している上、
さらに重量のかさむディーゼル機関を採用したために防御の制約は過酷ってレベルじゃなかった。
そこで従来の防御様式をぶん投げ、全体防御をベースに直接防御と間接防御を巧みに組み合わせている。
大まかな数値に関しては上記性能諸元を参照。
機関区内側には45mmの傾斜装甲を水密隔壁として仕込んだり、水雷防御として舷側部分を4層の水密区画にする、艦艇部を3重底にするなど、
限られた排水量と装甲重量の制限下で巧妙に防御性能を高めていった。
最終的には英海軍の軽巡洋艦の15.2cm速射砲程度ならば余裕で耐えられる装甲防御を得たが、肝心の対8インチ防御はというと、
米海軍の20.3cm砲には余裕でぶち抜かれ、格下相手にダメージ覚悟での殴り合いを強いられる。
さらに設計段階での仮想敵たる海防戦艦は本級の主砲以上の砲火力がほぼデフォだったため、戦闘方針も結局シャルンホルストと似たような感じとなった。
無意味な損失を恐れ、格上との殴り合いを極力避けるためにヘタレ扱いされることのあるドイツ海軍だが、
そもそもそういった扱いを強いられる艦が主力艦の大半だったというのは忘れてはならない。
というか連中の主任務は敵の補給を殺ぎ、陸軍の逆撃や防衛を間接支援する通商破壊がメインだからして。
戦歴
ドイッチュラント(リュッツォウ)
初陣はスペイン内乱で、36-39年の間に7回スペイン沖に派遣され、フランコ将軍麾下の反政府軍を支援した。
37年5月29日の4度目の派遣の際に政府軍の爆撃を受け、報復として次女のアドミラル・シェーア(以下シェーア)がアルメリア港を砲撃している。
第二次大戦開戦直前に三女のアドミラル・グラーフ・シュペー(以下シュペー)とともに大西洋に派遣され、11月15日に一度帰投。
上述の理由からリュッツォウと改称された後、翌年4月のノルウェー侵攻に参加。
重巡ブリュッヒャーを旗艦とするオスロ攻略艦隊に配属されたが、4月9日にドレーバク水道を通過しようとした際に敵要塞からの砲撃を受け、
ブリュッヒャーが被弾、後被雷して沈没。リュッツォウは残存艦を率いて一時後退し、翌日に要塞が降伏してからオスロへ再度進行。
到着同日に帰途についたが、運悪く英海軍の潜水艦にズドンされ、艦尾に被雷し大破判定を受ける。この修理には41年春までかかった。
翌年の6月12日にもノルウェー沖で雷撃(今度は雷撃機)され、またも被雷。2連続で被雷って、これもう魚雷に呪われてね?
2日後にキールに帰還し、42年1月まで修理を受ける。被雷ごとの大破判定に定評のあるリュッツォウ
42年の大晦日には重巡アドミラル・ヒッパー麾下で輸送船団襲撃を試みるが、
折からの吹雪での視界不良や英国紳士の奮戦で敵戦力(当初は駆逐艦と掃海艇程度だったのを同規模部隊と誤認)を見誤り撤退。
完徹して待っていた髭の伍長をマジギレさせ、すわ大型艦はまとめて廃艦か!?と戦闘関係ないところで窮地に立たされるも、デーニッツの必死のとりなしで助かっている(バレンツ海海戦)。
独ソ戦末期には設計当初の運用論のように陸軍の支援砲撃に従事するが、45年4月に英国面爆弾ことトールボーイをぶちかまされ、
艦艇を損傷しスヴィネミュンデで着底。応急修復を行い支援砲撃を続けたが、5月4日に放棄された。
46年春に浮揚され、そのままロシア語訳されたリュッツォフの名でソ連海軍に編入され、モスボール保管される。
しかし修復不能という判断から標的艦としての廃棄が決定され、47年7月22日にバルト海に没した。
アドミラル・シェーア
初陣は長女と一緒。
開戦後の39年9月4日、ヴィルヘルムスハーフェンで爆撃を受け、500ポンド爆弾3発を受けるがいずれも不発。
長女と三女の出撃時にはオーバーホールしていた。そのためほぼ同時期のノルウェー侵攻にも未参加。
なお、重巡以上の大型艦が同級艦を必要とするのは、オーバーホールのローテーション(片方が艦隊に出張っている間にオーバーホール)をとって、
その間も艦隊戦力が低下することを避けるという立派な理由がある。だから陸奥の保有を大日本帝国が強硬に求めたのは失策ではない。いいね?
修理・改装と訓練を終えたシェーアは、40年10月末から本格的な通商破壊行動を開始する。
補給船ノルトマルクからの補給を受けつつ、翌年4月1日のキール帰投までの半年間に計90,959tもの商船を撃沈/拿捕した。
これはドイツ海軍の通商破壊任務従事艦としては、ぶっちぎりトップの戦果である。
食料を積んだ商船を拿捕した際、鹵獲食料を「敵軍の物資で飯を食うのも補給節約だよな(キリッ)」と僚艦や行き会った友軍艦に大盤振る舞いし、
戦友の好感度を荒稼ぎしたという微笑ましい(敵からしたらマジギレ待ったなしな)エピソードも。チャーチルくんありがとう!君のご飯で今日もメシが美味い!
帰還後の整備を終えて9月からはバルト海に進出し、船団襲撃などに出撃するも戦果なし。
航続距離を活かして哨戒などもやっていたらしい。
バレンツ海での顛末にブチ切れた伍長が「大型艦全艦解体スッゾコラー!」しかけた後は資材がUボートに優先供給されたり、
制海権も制空権も奪われていたのでドイツ海軍水上艦艇は出撃どころではなかった。
その後はドイツに迫る赤軍に沿岸から艦砲射撃をかましていたが、45年4月9日のキール爆撃時に造船所内で横転、沈没した。
大半の乗員は上陸中で無事だったのは幸いといえるのだろうか。
戦後は造船所を埋め立てて駐車場にするため、船体上部を解体し、残りは瓦礫とともに埋められた。ああ、もったいない……
アドミラル・グラーフ・シュペー
就役後の37年5月20日、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加、「飢えた狼」こと足柄やダンケルクなどともに各国海軍人からの熱い猛虎魂視線を受ける。
大戦開戦後は長女とともに通商破壊に従事し、南大西洋からインド洋を股にかけて戦果を拡大する。
リュッツォウ帰投後もそれは続き、イライラ有頂天の連合軍は戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦16隻を動員した対策/迎撃艦隊を編成する。
12月6日までは索敵網に引っかかることなく順調に任務をこなしていたシュペーだが、同日の夜に致命的なミスを2つも犯してしまう。
この夜、彼女は夜間照明訓練を行ったのだが、どう考えても敵地で「ここにいるぞ!」するのは悪手以外の何物でもない。
おまけにこれを無灯火の艦船に見られてしまい、しかも見逃してしまったのだ。どう見ても死亡フラグです、本当にありがとうございました。
そしてついに1週間後の12月13日、英海軍の重巡エクゼター、軽巡エイジャックスとアキリーズで構成された分艦隊に捕捉されてしまう。
艦長のラングスドルフ大佐は「戦闘する暇があったら通商破壊しろ、な?」と厳命されていたがこの禁を破り、ラプラタ沖海戦が勃発。
ポケット戦艦の異名は伊達ではなく、単艦で軽巡2隻を小中破させ、エクゼターに集中砲火を叩き込んで戦闘不能な状況に追い込むも、その代償はあまりにも大きかった。
機関吸気口に多数被弾し、船体の一部は貫通破孔を露呈し、おまけに非装甲部位に配管された燃料加熱器の一部を損傷、
加熱済み燃料による稼働時間はどう頑張っても残り16時間と、本国帰還はおろか戦闘継続すらままならない状況だったのだ。
どうにか最寄りの中立国であるウルグアイのモンテビデオ港に逃げこむも、生憎そこはイギリスの影響力が強かったため、親分の勘気を恐れて早期退去命令を下されてしまう。
進むも死、留まるも死ならば、せめて乗組員だけでも生かさねば――そう決心したラングスドルフは、
退去期限の17日にクルーをタグボートで商船に移乗させ、残る40名とともに港外に乗艦を出し、自沈させたのである。
彼は艦と運命を共にするつもりでいたが、彼を慕う乗組員に押し止められ退艦する。
だが2日後に自ら自沈の責任を取って、持ちだした軍艦旗を体に巻き、逗留先のブエノスアイレスで拳銃自殺する。
妻への最後の手紙にはこう書かれていたという。
「このような状況におかれた時、名誉を重んじる指揮官なら艦と運命を共にする。それが当然の決断だ。
私は、部下の身の安全を確保する事に奔走していたために、決断を先延ばしにしていた」
ヒトラーは後々になってもこのことを持ちだしては、大佐を「敢闘精神の足りない臆病者」と罵ったというが、
迫る破滅に半ば発狂し、戦争責任を取らずに拳銃自殺した芸術家気取りに言われても……ねぇ?
2004年に「残骸が船舶航行に支障をきたしかねない」として残骸の引き揚げ作業が始まったが、09年に大統領令により中止されている。
主な回収物としては、27tある測距儀と鷲形の主権紋章がある。特に後者はサルベージ業者が政府の意向をガン無視し販売の意を示したところ、
ネオナチが飛びつき、ある者は「300万ドル出すから売れ!」と言ったとかなんとか。
残骸の回収完了後は、艦を復元しモンテビデオ市の国立海事博物館での展示が計画されている。
追記・修正はアドミラル・グラーフ・シュペーで通商破壊任務を完遂してからお願いします。
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▷ コメント欄
- こんなものを作らざる負えないような条約を結ばされた時点で国家として詰んでるんだよなあ… -- 名無しさん (2015-01-07 14:50:37)
- 6inch砲一発で事実上撃沈されたあまりにも終わってる防御力… -- 名無しさん (2015-03-29 15:37:22)
- 戦艦には撃ち負け、巡洋艦より遅い駄作でしかない。Wowsのヨルク級を作った方がずっと役に立ったよね -- 名無しさん (2022-01-23 09:30:42)
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