アラン・プロスト

ページ名:アラン_プロスト

登録日:2011/08/12(金) 22:37:42
更新日:2023/11/20 Mon 11:02:51NEW!
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レーシングドライバー f1 ワールドチャンピオン モータースポーツ フランス プロフェッサー マクラーレン ルノー フェラーリ ウィリアムズ f1四天王 リグ・シャッコー 天然パーマ プロスト 元チームオーナー 明日への扉 ドライバーとしては優秀 チームオーナーとしては無能 鼻曲がり 名選手名監督に非ず



アラン・プロスト(Alain Marie Pascal Prost)(1955/2/24〜)はフランス出身のレーシングドライバー。過去F1ワールドチャンピオンに4度輝いた。




《F1チーム遍歴》


  • 1980 マクラーレン
  • 1981〜1983 ルノー
  • 1984〜1989 マクラーレン
  • 1990〜1991(〜R15)フェラーリ
  • 1993 ウイリアムズ


経歴


石油会社エルフの特待生からフランスF3、ヨーロッパF3チャンピオンに輝き、1980年にはマクラーレンからF1デビュー。


翌年はルノーに移籍し地元フランスGPで初優勝を飾り若手ドライバーの急先鋒となる。


1982年もルノーに残留。開幕2連勝を果たすが、その後まさかの7レース連続ノーポイント。結局ランキング4位に終わった。
また、この年のドイツGP予選で同じくフランス人のであり、友人でもあったディテェ・ピローニの大クラッシュ。雨の中タイムアタックのため全開走行をしていたピローニが、前方でスロー走行をしているプロストに気がつかずに追突してしまったのだ。
レーシングカーは雨の中で走行をしていると大きな水飛沫を上げるため、その後ろを走っていると前方の視界は皆無になってしまうことは珍しくない。そのため、ピローニはプロストのマシンとの距離感を認識できなかったことが事故の原因であった。
この事故でピローニはF1引退に追い込まれる大怪我を負い、プロストにとっても雨のドライビングを見直させるきっかけとなる。


プロストには「雨天時は他のドライバーよりも慎重に走る」「雨が苦手なドライバー」と言われることも多いが、その由縁になったレースである。


1983年もルノーに残留。この年は第10戦のオーストリアGPまでに4勝を含む6回の表彰台に登り、チャンピオンシップをリード。しかし、翌戦のオランダGPでチャンピオンを争っていたブラバム・BMWのネルソン・ピケとトップを争う最中接触。ピケはタイヤバリアにクラッシュしリタイア。プロストもマシンにダメージを負い、リタイアとなった。ここから歯車が狂い出したのか、その後に残った3レースでは一度の2位以外でポイントを獲得できず、同じ時期に2勝3位を一回でポイントを稼いだピケにチャンピオンを奪われてしまった。
プロストはチーム内からもフランス中からもバッシングを受けマクラーレンに移籍。


翌年はニキ・ラウダとのコンビで激しいタイトル争いを展開。純粋な速さではプロストに分があり、ラウダ5勝に対して7勝をあげることに成功。しかし、優勝以外のレースで表彰台を逃すことも多かったプロストに対し、決勝で安定して上位にに入ることできていたラウダにチャンピオンシップの軍配が上がった。この年のラウダの「決勝での強さ」を肌で知った事が、自身のドライビングスタイルを大きく変えるきっかけとなり、ラウダはプロストの強さを悟ったのか、チャンピオンを決めた最終戦の表彰式で「次は君の番だ」とプロストに告げたという。


1985年はラウダの予言通り名実共にチームのエースとなり、年間5勝を挙げ初のドライバーズチャンピオンに輝く。ラウダはプロストのチャンピオンを見届け、この年限りで引退を表明した。


翌86年、プロストはピケ、そしてナイジェル・マンセルと三つ巴のタイトル争いとなる。最終戦オーストラリアGP、序盤はチームメイトのケケ・ロズベルグがトップを走り、マンセルとピケがそれを追い掛ける展開となった。一方のプロストは、アクシデントに巻き込まれてしまい、タイヤがパンクしたことからレース序盤にピットインしており、そこから追い上げてマンセルとピケのウイリアムズ陣営の後ろを走っていた。
実は、ロズベルグが序盤にハイペースで逃げていたのはウイリアムズ勢のタイヤを消耗させるための陽動作戦で、63周目にタイヤのトラブルでロズベルグはリタイア。その直後、マンセルはピットインを決断するものの、ピットに戻る前にタイヤバーストでリタイア。ピケも安全策としてピットインする羽目に。
序盤でタイヤを交換していたプロストがこれでトップに躍り出ると、そのままチェッカーを受け、見事な逆転劇からの2年連続チャンピオン獲得となった。


1987年は3勝を挙げたが、この年限りで撤退を決めていたポルシェがエンジン開発を止めてしまったことからウイリアムズホンダの2人に手も足も出ず、ランキング4位。
翌年には生涯のライバルになるアイルトン・セナが加入。更にはエンジンがポルシェからホンダに変わったことにより戦闘力アップ。シーズンはこの2人で争われる事になった。
当時は全16戦中11戦のベストリザルトによってチャンピオンシップが争われており、有効となった11レースで上位フィニッシュの多かったセナがチャンピオンを獲得した。しかし、ポイントを獲得したレース数自体はプロストの方が多く、総獲得ポイントではプロストはセナを上回っていた。


89年から二人は不穏な仲となる。第2戦のサンマリノGPにおける「紳士協定」をセナが破った為に二人の確執は目に見えるほど険悪になっていく(この時のマスコミの煽り方にも問題があった)。シーズン半ばで来期フェラーリ入りを発表したり、チームとの確執も増してきた。そして第15戦日本GPでプロストはセナと接触しタイトルを獲得。後味悪くマクラーレンに別れを告げた。


1990年、プロストは発表通りフェラーリへ移籍。セナと真っ向勝負の年となったプロスト。この時のフェラーリはマシンの性能こそはマクラーレンよりも上だったものの、つまらないトラブルが多くそれが足枷となりセナがポイントを稼ぐ。タイトル決定はまたしても日本GPだった。鈴鹿サーキットにはF1ブームに乗じて多数の観客が来場していたが、結末は僅か9秒。セナがプロストを押し出す形でチャンピオンを獲得。プロストにとっては「奪われた」格好になった。


91年は自身にとって忘れたい年の筈である。前年と打って変わってマシンは遅い上にすぐに壊れ、追い討ちをかけるかのようにフェラーリの「御家騒動」でチームは大混乱。もはや優勝どころではなくなり、プロストもチームに活を入れようと発言したことが「チーム批判」として受け止められ、とうとう最終戦を待たずして解雇されてしまう。


92年は浪人しリジェのマシンを極秘にテストしたり、自チームを立ち上げる等噂されたが、翌年のウイリアムズのシートを手に入れるまで動きがなかった。


93年、プロストはF1に戻り相変わらずの速さと強さでシーズンを制覇。しかし当時最強のマシンに乗りつつも予想外に苦戦した為か、この年限りでF1の引退を決める。
シーズン後にはチャリティーとして行われたカート大会に参加し、これが最後のセナプロ対決となった。


1994年のサンマリノGPにはセナとの無線のやり取りを通して前年に和解した事が広まったが、直後セナは還らぬ人となる。
そのセナの意志を継ぎ、フランスのセナファンクラブの名誉会長になり終生のライバルと一つのけじめをつける。


95年から96年はマクラーレンのアドバイザーに就任し度々テスト走行を行い、その度に復帰説が出たが本人は真っ向から否定した。


1997年にはリジェを買収しプロストGPを設立。
初年度こそオリビエ・パニスの好走でコンストラクターズランキング6位と好成績を残したが、翌年からエンジンをフランスのプジョーに変え、オールフレンチチームにしたところ成績がダウンし僅か1ポイントしか稼げずに期待外れに終わる。


99年は大波乱の第14戦ヨーロッパGPでヤルノ・トゥルーリが2位に入り込みそれもあってかランキング7位に。


2000年はフェラーリ時代からの親友、ジャン・アレジとメルセデス出身の新人ニック・ハイドフェルドとの布陣でシーズンを挑んだものの、まさかの無得点に終わりランキングも最下位に。そしてスポンサーが次々と離れてゆき、最悪の状態になった。


2001年、フェラーリの中古エンジンを手に入れるがドライバーやチーム首脳陣が次々と交代し、ポイントも3点のみで全くの期待外れに終わる。そしてチームは破産しプロストの監督としての評価は地に落ちた。


その後はドライバーとして活動。まだまだ健在で、度々息子のニコラとフランスのGT選手権に出場したり、雪上車レースでも人気者となり、まだヘルメットを置くつもりは無い様である。


その後、2014年にフォーミュラEがスタートすると、同レースのチーム「ルノー・e.dams」の監督に就任。ドライバーには、元F1ドライバーのセバスチャン・ブエミと二コラを起用。シーズン1ではチームタイトルを獲得。シーズン2ではチームタイトルだけでなく、ブエミがドライバーズタイトルを獲得し、プロストGP時代の汚名を返上している。


そして2016年ロンドンEPではポールポジションにニコラ、2番手にセナの甥のブルーノがつけ、世代を超えたセナプロ対決となった。



余談

子供の頃はサッカー選手を目指していたが、結局その道に進むことはなかった。


鼻が曲がっている。これはレーシング事故によるものではなく、前述のサッカーをしていた頃に負傷した名残である。


現役時代、タイヤマネジメントに定評があった。これは、最低限のステアリング操作でタイヤを傷めにくい走り方をしていたからである。プロスト最後のチームメイトであるデーモン・ヒルはこの走り方に着目、プロストの走り方を真似たという。


血液型はAB型。


97年、自身のチームを立ち上げた際、元々プロストの構想ではシャシーからパイロット、エンジンに至るまでオールフレンチでの参戦を望んでいた。しかし、買収元のチーム(リジェ)はエンジン契約を日本の無限ホンダと結んでおり、フランス製エンジン(プジョー)の使用は翌年にずれこむことになる。
さらに、このエンジン契約はドライバーとして日本人の中野信治を走らせるという抱き合わせ契約であったため、構想外の中野に対してプロストは徹底的に冷遇したとされる。
あまりの冷遇っぷり(一説には練習用のカーも与えられず、ミーティングは全てフランス語で行われ通訳もつかなかったという)に、
同僚ドライバーのオリビエ・パニスは「シンジにも彼が走り易い環境を作ってやってほしい」とまで同情し、中野の待遇改善を要求したと言われている。
しかし、結局最後まで中野の待遇は改善されなかったという。


追記・修正はT-SQUAREの「明日への扉」を流しながらお願いします。


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