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歴史 日本史 戦国 将軍 征夷大将軍 幕府 室町幕府 室町時代 戦国時代 一覧項目 室町 足利 応仁の乱
大和朝廷の昔より続く征夷大将軍の内、足利尊氏を初代とする15代の将軍。
江戸幕府はこちら→征夷大将軍(江戸幕府)
【概要】
征夷大将軍とは、本来その名の通り『東夷を討つ軍の総指揮官』であったが、
源頼朝公以来『武家の棟梁』といった意味合いを持つようになっていた。
尊氏の開いた幕府は三代将軍義満の御所である「室町殿」から取られ、室町幕府と呼ばれている。
鎌倉幕府や江戸幕府とは異なり、室町は京都市内にある。
●目次
【一覧】
・初代将軍足利尊氏(1338年~1358年)
室町幕府初代将軍。
もともとは鎌倉幕府の有力御家人。
当時の足利氏は源頼朝の血筋が絶えたあとの源氏代表として、他の御家人とは一線を隔した声望と財力を持っていた。
ちなみにもともと同格であった新田氏は、失策を繰り返した*1結果どんどん家格が低下。分家の山名氏*2の方が格上扱いという有様だった。その後も失策を繰り返し、末期には無位無官となって足利氏の庇護下に入っていたと考えられている。
鎌倉幕府打倒後、夢見がちな後醍醐天皇に反旗を翻し「武士の武士による武士のための幕府」室町幕府を開いた。
もっぱらカリスマだけで生きていると評判。
三人いる各幕府の初代将軍には「一度大敗して命からがら逃げきっている」という共通点があるが、この人の絶体絶命からの復活っぷりは他を圧倒している。
功臣の粛清や民衆の虐殺が目立たないため腹黒や冷酷なイメージは薄いが、とにかく行動が行き当たりばったりで、
真面目な研究書にすら「支離滅裂である」などと書かれるほど*3。
そもそも後醍醐天皇と対立した経緯からして、
中先代の乱の討伐に向かった弟の苦戦を聞いて、天皇の勅許がまだ出ないうちに見切り発車的に出陣
↓
帰京命令を受けて「すぐ帰ります」と即答
↓
しかし弟から「独断を咎められるからやめた方がいい」と聞くとあっさり帰京中止
↓
結果、当然後醍醐天皇は激怒。新田義貞を尊氏追討に派遣
↓
尊氏、目の前の問題から逃げるかのように寺に引きこもる
↓
仕方なく代わりに戦いに行った弟の苦戦を聞き慌てて参戦
↓
新田軍を打ち破ってしまい、結果的に朝敵に
という、どうしてそうなったとしか言いようがないものだったりする。
おまけにここまでして守ろうとした弟とも、後年似たようなルートを通って対立する羽目になっているあたり、もうなんと言うやら。
調子がいい時と悪い時の差が激しいため、躁鬱病だったという説もある。*4
それでも成功したのは桁外れの武勇と運を有していたことと、何より部下に愛されたためであろう。
戦場で功績を上げたものを見ると、即座に恩賞を約束する文書を出したとか*5。他にも身の回りのものをどんどん褒美としてあげている。
後世の子孫達はお世辞にも優秀とは言い難い人材が多かったものの、室町幕府の政治基盤が脆弱だったのは、
尊氏が家臣に気前よく土地を与え過ぎて、幕府勃興時点で他家との力関係が歪で否応なく求心力に欠けた状態だったことが要因としてよく指摘される。「やっぱり粛清も必要だな」
物に執着しないどころか、自分自身の命すら軽く考えていた節がある。
創始者には向いていない性格じゃないかな…
天皇を神としていた明治時代~昭和時代前期では、天皇に叛いた逆賊にして悪人として扱われていた*6。
そうした大人の事情や前述の支離滅裂さのせいか、そのビッグネームと英雄性に反して創作で題材にされることが少ないフィクション不遇の人物。
題材になった貴重な作品はNHK大河ドラマの「太平記」、ジャンプ漫画「逃げ上手の若君」(個人項目)などが挙げられる。
GODAIGO「都はもう思い出だけど、君を吉野で見つめてる~」
・二代将軍足利義詮(1358年~1367年)
尊氏の子にして太平記被害者。
遠征等でほとんど都にいない将軍に代わり、政治や都の防衛に走り回った苦労人。
その割には影が薄く、しかも太平記のせいで無能・暗愚扱いされることもしばしば。
どの幕府も二代目は影が薄いが、その中でも一番空気だろう。
ちなみに初陣はなんと3歳の時(鎌倉攻めの際脱出ついでにそのまま新田義貞と合流して戦に参加している)。
・三代将軍足利義満(1368年~1394年)
義詮の子にして初代日本国王。
なお二代目はいない。*7
「勘合貿易」「金閣寺」「北山文化」と、恐らく教科書で一番記述の長い将軍。
政治関係ではマジでろくな逸話が残っていない室町幕府歴代将軍の中でも、例外的に安定して有能(だけど野心家)な政治家と評価されている人物。他が悲惨過ぎるとも言う。
室町幕府の全盛期を作り上げたがその治世はあまりにも義満個人の才能に依存しており、(後述の義持を除き)後の将軍たちも日本史上でも屈指の政治能力を持つ彼の幕政を理想化し出来もしないのにその方法をマネため、彼の死後幕府は混乱と衰退に向かっていくことになる。
アニメ「一休さん」で頓知比べをしている姿が有名だが、どうみても義まs…
小坊主「南無サンダー!!」
アゴ「…」
・四代将軍足利義持(1394年~1423年)
義満の子。揉み上げが長い。
義満は彼を遠ざけ弟の義嗣を可愛がったため、親子の仲は壊滅的。一応初期は仲が良かったらしいのだが。
結果、勘合貿易など義満が進めていた政策を一部残して廃止した。
ついでに兄弟仲も最悪だった。
まあそもそも政治スタイルが、自分が積極的に主導する義満に対し、調整役をメインとする義持では違うのだが。
1423年、息子義量に将軍位を譲るも早世したため、再度「将軍代行」として政務に当たる。
義持・義量ともに子が無かった上、危篤になっても後継者を指名しなかったため、諸大名達の提案を受けて、
遺言として「次の将軍は弟四人の中から籤引きで決めろ」と残す。
なお、死因は
医者が止めたにも拘わらず尻の瘡蓋をかきむしったため
である。痒かったのだろうが現代でもやってはいけないことである。
・五代将軍足利義量(1423年~1425年)
義持の子。
体が弱く、大酒飲みだったため早世。*8
以上。
・六代将軍足利義教(1429年~1441年)
義持の弟。前述の籤引きで決まった将軍。実は籤には細工がされていたという噂も…
通称「籤引き将軍」「悪御所」。
中央集権のため、従わない守護大名や寺社勢力は容赦なく暗殺・討伐。
義持時代に悪化した鎌倉公方*9の足利持氏との関係は、持氏の個人的な恨みもあって完全に破綻。二度の討伐によって持氏とその子供2人、及び持氏一族は殺された*10(永享の乱・結城合戦)
比叡山延暦寺とも対立しており、焼き討ちをしている*11。実は信長以前にこの人が燃やしてた。
不手際があった者たちは少しの落ち度でも厳しく罰したため、彼の治世は「万人恐怖」と恐れられた。
結果、疑心暗鬼に陥った腹心の赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱)。
南北朝期から残っていた反幕府勢力をほぼ全滅させて全国を支配下においたため、下手したら日本史上最も権力があった将軍かもしれない*12。
そもそも室町幕府は成立前後から将軍の権力が低く不安定であった*13。
そのために権力を集中させようとし、実際に成功しかけていたのだが、最後は暗殺されてしまった。
取った手段が極端かつ過激だっただけで、足利将軍家の中では政治家としてわりと有能な部類に入る。そもそも義満以外どんぐりの背比べだとか言ってはいけない。
↑
此処まで安定期
・七代将軍足利義勝(1442年~1443年)
義教の子。
義教が暗殺されたため幼くして急遽将軍位に付くも、下痢が止まらず早世。
こっから世紀末
↓
・八代将軍足利義政(1449年~1473年)
義勝の弟。そして正室はいろんな意味で有名なあの日野富子。
我等が駄目将軍。
義勝の早世により8歳という若さで家督を継ぎ、14歳で将軍位に付く。
「後継問題」や「応仁の乱」等で政治的な評価は最悪だが、
「東山文化」や「わび・さび」等文化面での評価は高い。
以前は「後年は政治に無関心になっていった」と言われていたが、近年の研究ではむしろ政治には熱心であったとされている。一部では「むしろ無関心だったらあんなに拗れてなかった」とも
加えて応仁の乱を引き起こした将軍とされるが、上記の通り室町幕府は不安定な政権であったためいずれ起こっても不思議ではなかったとも言われる。
父・義教と兄・義勝らが次々に亡くなり、しかも父の政治の影響で農民の土一揆や押さえつけられていた各領主たちの反発が相次ぐという状況に陥っていたので、将軍家の威信を回復すべく率先して様々な政治を行った。
が、そのやり方に問題が多かった。
例えば世継ぎのいない畠山家の後継者問題で起こった内紛に介入した時のこと。
自分の支持した畠山義就ではなく対立派にいた山名宗全&細川勝元の推す畠山弥三郎(政久)が勝利すると、あろうことが難癖付けて細川の有力武将を処刑させようとした。
細川はブチ切れて猛抗議。するとビビりちらした義政は即撤回。で、今度は代わりに細川の盟友である山名宗全を殺そうと軍を編成。
細川さん2度目のブチ切れ。当たり前だ。結局それも撤回する手のひらグルグルドリルで、威信の回復どころか幕府の株をどんどん急落させた。
また、弟の足利義視と自分の息子・足利義尚のどちらが次期将軍になるかで山名宗全と細川勝元が対立した際、将軍という中立の立場で騒動を納めようと和平に奔走するものの、
細川「山名も畠山も公方様の言うこと聞かないってことは、もう逆賊なのでは? そうでしょう!?」
義政「そうかな…そうかも… じゃあ殺っちゃうか!」
という感じの説得を受け、急に中立の立場をぶん投げて一方の肩を持つクソ采配を実行。
このわけわからん判断のせいで応仁の乱が中部から九州まで巻き込む大規模戦争へと発展した。
このようにがんばって政治に取り組んだ結果、むしろどんどん国を悪化させる要因になってしまい後世の評価は悪い。
(先述の通り義満のマネか*14)能、花見、旅行、別荘(のちの東山慈照寺。つまり銀閣)造営など芸術関係に注力したので、その部分がクローズアップされて「後年は政治に無関心になっていった」と表現されるようになったのである。
なお、将軍職を譲ったのは名ばかりで実際は一部の権利以外は持ち続けており、なんかかんや裏から介入して義尚と険悪な状態に。
下記の義尚の項目にもある通り、この対立のストレスや外交関係の問題が原因で若くして彼を病死させ、その数ヶ月後には自らも脳卒中で急死。
やること為すこと全部裏目を出し続け、事態を引っ掻き回して室町幕府衰退の下地をガッチリ整えてしまった55年の人生であった。
細川「将軍はとんでもない物を荒らして行きました。日本の国土です」
山名「お前が言うな」
・九代将軍足利義尚(1473年~1489年)
義政の子。
応仁の乱の原因その1。
応仁の乱では将軍位を巡り、叔父の義視と争った。……というのが定説だったが、最近ではそんな単純な話ではなかったというのが専ら。
と言うより応仁の乱の頃は義尚は若すぎて主体的にどうこうできる年齢ではないので、義視と一緒に勢力争いのダシに使われた、と言った方が的確か。
将軍就任後も父義政とは主導権を巡っての対立があり、めんどくさい儀礼だけを押し付けて実権は握ろうとする義政に反発して「出家する!」と髻を切ったことも。
そんなこんなの中、自身の権力を確立するために寺社本所の横領を止めない六角氏征伐を行おうとするが、
六角高頼の城を捨て夜襲しまくるというゲリラ戦法に悩まされ遅々として進まず、京に戻れば義政の干渉が強くなるため安易に戻れず……という二進も三進も行かない状況の中、大酒が祟り死亡。二十五歳の若さであった。
義尚死後は、再び義政が実権を握ることになる。
・十代将軍足利義材(1490年~1493年)
義視の子。通称「流れ公方」
上述の通り義尚亡き後は義政が政務を執っていたが、翌年延徳二年(1490年)に義政は死去。その半年後にようやく将軍に就任することになる。しかしながら、この頃は実質としては日野富子の権力が強かったようである。
とは言え日野富子にとっても甥にあたる(母が日野富子の妹)存在であり当初は富子と仲が悪かったわけでもないのだが、富子が小川御所*15を足利義澄に譲ろうとしたことに対する反発を起点として対立。
しかもその後、母の日野良子と父義視が相次いで死去。義材は京で孤立していくこととなった。
そのため、義材は幕府内での権力を確保しようと奮闘することになる……の、だが。
まずは恒例行事とも言うべき六角征伐を行うために諸大名を集める。その中には尾張の斯波・織田両家もおり、義材は彼らを動かすために「越前を実効支配している朝倉家の排除」という札を切った。
ところが、これはそもそも六角氏とは同盟関係にあり、また関東情勢の不安定さからそのための対抗勢力として斯波・織田に期待している細川政元に取っては受け入れがたいことだった。おまけに政元は朝倉氏を支援していたため、これを排除されるのも非常に困る。
しかし事態は義材の意図通りに進み、政元と朝倉氏の仲介をしていた浦上則宗*16も義材側につき、あまつさえ六角討伐につけた家臣安富元家が六角相手にボロ負けしたことで、義材と政元の関係は著しく悪化。政元は窮地に立たされてしまう。
こうして政元に愛想をつかした義材は代わりに畠山政長を重用するようになり、1493年には政長と応仁の乱を引っ張った家督争いを続ける河内の畠山基家を征伐に行くが(要するに朝倉は後回しにされた)、この際細川政元は出兵を拒否し、京に残留。
そして義材と畠山基家が対峙している間に、京で反義材派である日野富子・細川政元・伊勢貞宗が越前の朝倉孝景や畠山基家とも連携し、クーデターを起こすに至る。
義材の元にいた大名たちもほとんどが離散してしまい畠山政長を含む僅かな手勢しか残らず、頼みの紀伊勢も赤松政則に足止めされて万事休す。
畠山政長は自害。義材は降伏の後、幽閉されることとなった。この一連の流れを「明応の政変」と言う。
その後小豆島に流されることを知り、京都を脱出して畠山政長の領国であった越中に逃亡、そこで自らの正当性を主張する。
これによって「将軍が二人」存在することになり、義材の系統*17と次の代の義澄の系統*18の対立構造は結局最後まで解消されることはなかった。
学者の多くはこの「明応の政変」による室町幕府の分裂をもって「戦国時代」が始まったとしている。
・十一代将軍足利義澄(1494年~1508年)
義政や義視の兄弟で堀越公方足利政知の子。聊か迂遠ながら細川政元の遠縁とも言える立場なので*19、政元からの支持を受けていた。
細川政元・日野富子等が対立していた義材を追放したのち、将軍として担ぎ出される。明応の政変が起こった翌年将軍になるのだがこの時僅か14歳。
一応将軍になったものの越中に逃亡した義材は健在であり、細川政元が起こした討伐軍も神保を中心とした北陸勢を相手に敗北。義材は上洛するとの宣言をし、それによって都は混乱にみまわれることになった。*20
かくして細川政元と義材の間で和睦が図られるが、細川典厩家の細川政賢の反対もあり頓挫。そうこうしているうちに畠山政長の子であり、紀伊に逃げていた畠山尚順が挙兵、1499年には義澄方であった河内の畠山基家を自害に追い込む。
この機に義材も越前に移動、朝倉貞景の協力を得て上洛を伺う動きを見せ、義澄・政元は二正面作戦を余儀なくされる。焦った義澄が相国寺に物資の供出を脅しつけ伊勢貞宗に窘められる、という一幕もあったようだ。
しかしながらこの年は飢饉であり、朝倉貞景は義材に対し出兵を拒否。義材は僅かな手勢で上洛を試みるも近江坂本で六角高頼の奇襲に遇い敗走。遥か西国まで逃れ、大内氏の元で雌伏の時を過ごすことになる。
一方でひとまず足利義材についての問題が片付くと、今度は義澄と政元・貞宗の間に確執が持ち上がるようになり、政元、義澄共に相手に不満を抱いて隠居→もう一方が説得に赴く、ということがしばしば繰り返されるようになる。
こうしたことが続くうち、政元とその家臣であったはずの守護代との関係が悪化、薬師寺元一・赤沢朝経らの反乱を招く(しかも薬師寺元一は義材派と手を組んでいた)など、今度は細川家内部のごたごたが噴出するようになる。
最終的に政元が暗殺され細川家が内紛を起こすと(永正の錯乱)、最期は大内氏が擁する足利義植に京を追われ、失意の内に没した。
実は関東での戦国時代幕開けのきっかけとなった北条早雲による伊豆討ち入りの黒幕。
魔法半将軍「僕と契約して足利将軍になってよ」
・十代将軍足利義稙(1508年~1521年)
義視の子。
別名「十代将軍足利義材」
要は同一人物の再登板である。
先のクーデターで京を追われたものの、大大名の大内氏と自称細川政元の養子細川高国等に推戴されて、
京を占拠し将軍に復帰し名前を義材から義稙へと改める。
ちなみに征夷大将軍史上、唯一返り咲きを果たした人物でもある。
しかし、大内氏が自領に戻ってからは細川高国との対立が激化していき、最終的に京都から出奔。高国討伐軍を起こそうとしたとされるが、ほとんど集まらずに失敗。
おまけに天皇の即位式直前にこれをやらかしたため、廃されることに。
・十二代将軍足利義晴(1521年~1546年)
義澄の子。
廃された義稙に代わり就任。
三好氏と争い、敗れて都から落ち延び、和解して都へ戻り、三好氏と争い…
を繰り返した。
彼の人生を一言で言い表すならば「山と谷しかない人生」である。
・十三代将軍足利義輝(1546年~1565年)
義晴の子。
通称「剣豪将軍」
三好長慶・松永久秀等の傀儡ではあったが、幕府の権威回復に努めた。
しかし将軍親政にこだわりすぎたり、戦機を得る前に動いたりしたせいで返り討ちにあって殺されることに(永禄の変)。
詳しくは項目参照。
ギリワン「12人の足軽が全滅!? さ‥3分もたたずにか…」
・十四代将軍足利義栄(1568年2月~9月)
義植の養子であった堺公方足利義維(足利義晴の弟)の子。
義輝を討った松永久秀・三好三人衆に担ぎ上げられる。
も、担ぎ手が喧嘩を開始。
醜い争いを繰り広げていたところに、足利義昭を擁する織田信長がやってきて一蹴。
義栄も廃される。
前後して死去しており*21、解任されたのか死んで空席になったのかも不明。
歴代の足利将軍の中で義量、義勝に並び影が薄い人。
わりと冗談抜きに義昭の肩書を「十五代将軍」にした以上の影響を歴史に残していないため、創作上の扱いはとにかく悲惨の一言。
久秀や三好三人衆に担ぎ上げられる神輿として名前に触れてもらえればかなり扱いがいい方で、酷い時には存在ごとスルーされる。
わかりやすい事例が大河ドラマ。戦国時代は大河の定番だが、義栄が登場した作品は2022年現在で「麒麟がくる」*22だけである。義昭は12作品に出ているのに…義輝の次が義昭だと勘違いしてた人も多いんじゃなかろうか。
・十五代将軍足利義昭(1568年~1588年)
義輝の弟。
室町幕府最後の将軍。
織田信長に推戴され将軍に付くも、裏でコソコソやってたため信長に放り出される。
詳しくは足利義昭参照。
本能寺の変の黒幕説があったりする。かなり信憑性薄いけどねw。
金柑「何も追放することはありませんでしたな」
ノブ「ふ…冗談はよせ」
金柑「殿も存外甘いようで」
義昭の子供の義尋の男子は全員出家したため、足利将軍家の直系はそこで断絶した。
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▷ コメント欄
- 天皇家と擬似親戚になって日本国王だの太政天皇だのになったり 勘合貿易という名の史上初にして史上最大級の量的緩和を断行して 冷水害で食糧難な日本中を
インフレにしたり
三代幕府で最強かも -- 松永さん (2013-08-08 14:45:43) - 何だろう、後半の将軍達の扱い見てたら涙が(笑) -- 名無しさん (2013-08-08 15:24:26)
- 「逆説の日本史」ってやつでは足利義教が絶賛されているらしいが… オイオイ -- 名無しさん (2013-08-08 15:41:50)
- まあ義教は多少は将軍の権威を取り戻したらしいから……。やり過ぎて殺されるなんて間抜けレベルの話ではないが -- 名無しさん (2013-08-08 15:54:35)
- 籤引きさんは、手綱引きが手綱握ってる間は名君だったからね。暴君にランクアップしたのも、手綱引きの筆頭が亡くなってからだし -- 名無しさん (2013-08-08 15:57:25)
- 9代目まではある程度知識はあるけど、10代~14代目はほぼ分からんw -- 名無しさん (2013-08-08 17:09:48)
- どう見ても義mってどういう意味? -- 名無しさん (2013-11-07 00:53:48)
- ↑一休さんのは 義満でなく義政
てゆーか同じ時代に何人いたんだ 将軍 -- 松永さん (2013-11-07 01:22:57) - 尊氏も鬱病だったらしいし、なんかメンタル面に問題がある一族ってイメージ -- 名無しさん (2014-08-15 03:36:22)
- なんか大半が早死にか京都追い出されしかいないんだが・・・ -- 名無しさん (2015-02-05 22:30:06)
- 正直はじめの地固めが悪かったんだよな。尊氏は戦上手だが人が良すぎるのと政治が苦手と幕府を開くには正直色々と足りない人間だし。 -- 名無しさん (2015-02-05 22:34:19)
- 漫画でいうなら尊氏は柱間なんだよな。扉間が直義。惜しむらくは兄弟喧嘩してしまったこと -- (2015-02-05 22:42:32)
- 将軍家だけど直轄領5万石程度だという説があるがそれなら反乱起こされまくるのも納得 -- 名無しさん (2015-02-05 22:56:48)
- 正に名ばかりだな……それだけ諸大名が強かったって事なんだろうけど -- 名無しさん (2015-10-06 16:07:25)
- そもそも、南北朝と尊氏と直義の兄弟喧嘩の真っ最中にできあがって基礎が固まったのが義満の頃だからなぁ。それからもずっと守護大名に悩まされ続けるんだが -- (2016-05-10 20:51:57)
- 後の徳川将軍家の直轄範囲がめっちゃ広かったのも、室町将軍の実質支配下領地の狭さの反省なんかねぇ -- 名無しさん (2016-05-11 21:43:21)
- 足利義教は元祖織田信長 -- 名無しさん (2016-09-14 05:40:20)
- というより信長よりも過激 -- 名無しさん (2017-03-19 19:04:50)
- ↑8 褒章とかもどんぶり勘定的にバンバン出すから財政も火の車だったらしいし。劉邦タイプが大成できるかは側近の能力しだいなんだなぁ痛感する -- 名無しさん (2017-03-19 19:10:56)
- あまり関係ないが、足利義政・今川氏家・徳川慶喜からは同じ匂いを感じる。例え将軍の血が流れていようと人間の向き不向きを感じさせる。 -- 名無しさん (2017-03-25 14:01:46)
- 幕府の二代将軍で秀忠と義詮は一応は畳の上で最期を迎えられたのに頼家だけは吾妻鏡じゃただ死亡しましただけで終わりとかどんだけ不遇なんだと(愚管抄だと入浴中の所を襲われる、首絞められる、急所を切り落とされたとか押さえつけられたとかで無残にも…。) -- 名無しさん (2017-12-25 19:02:25)
- 八代将軍の足利義政は政治家としてはダメ人間だけど文化面では義政以前と義政以後に分けられるくらい日本文化に貢献してる -- 名無しさん (2017-12-28 14:03:23)
- ↑神聖ローマ帝国のルドルフⅡ世辺りの同類ってこと……? -- 名無しさん (2017-12-28 17:22:15)
- ↑自分も詳しくは分からないけど現在の日本の伝統文化は辿ってくと東山文化に行き着くらしい。茶の湯とか。で、東山文化の主催者は足利義政。彼がいなかったら日本の文化は現在とはかなり違った形になっていたと思われる。 -- 名無しさん (2017-12-28 17:37:57)
- 何度読んでも義持の死因で吹くw -- 名無しさん (2018-02-11 20:26:10)
- ↑危篤になった時には尻の細胞が腐ってたらしいね… -- 名無しさん (2018-02-11 20:31:32)
- ↑×5妻の日野富子も単純な悪女とは言えなくなってきてるよね。 -- 名無しさん (2020-02-06 08:53:10)
- 追記修正しました。かなり大量にやったので疲れた -- 名無しさん (2020-02-06 14:10:57)
- これとはあまり関係ないけど、尻の瘡蓋をかいたらダメってどういうこと? -- 名無しさん (2020-02-06 14:19:38)
- ↑正確には出来ものを掻き破ったらしい。カサブタにしろ出来物にしろ、掻き破ったらそこから雑菌が入りかねない。特に尻は座ったり寝たりすると鬱血しやすく傷が治りにくいから良くない。場所的には不潔になりやすいところだし。 -- 名無しさん (2020-02-06 14:33:16)
- ↑×4旦那の不始末を押し付けられてる面はあるだろうな。ただ西太后とかと同じで功績もあるけどプラス面よりもマイナスの方が大きいのは確かだと思う -- 名無しさん (2020-05-20 19:02:00)
- 一応250年は続いてんのね。半分機能してないも同然だけど。 -- 名無しさん (2020-05-20 19:07:45)
- 一文目の「15代14人の将軍」ってどういうこっちゃ? -- 名無しさん (2020-07-09 08:37:15)
- 足利義詮は失敗もあったとはいえ守護大名の力を抑制したり、南朝の勢いを弱めたりと在位8~9年で37歳で若くして病に倒れるまでは奮闘していたの見ると徳川秀忠に並んで地味で目立たない組織の二代目の宿命背負わされたタイプか -- 名無しさん (2020-08-31 19:06:15)
- 江戸に比べると負の一面が強いイメージ…… -- 名無しさん (2020-11-09 08:07:15)
- ↑3 本文中にあるが、一人が二度将軍になっている。 -- 名無しさん (2021-02-03 17:00:07)
- 尊氏の人格とか後醍醐帝との関係とか義満の日本国王とか義政の政治的無関心とか最近の研究で否定されてたり異説が出てる内容がそのまんまだなあ・・・ -- 名無しさん (2021-02-03 17:25:26)
- 足利ってみんな忍耐力足りないイメージ -- 名無しさん (2021-02-03 17:26:42)
- ↑2そう思うなら追記修正してくれ -- 名無しさん (2021-03-03 13:32:31)
- 尊氏は気前よく褒美を与えるから制御不能な諸侯が増えた。カリスマ性は敵である楠正成も認めていた。 -- 名無しさん (2021-04-04 00:34:12)
- ↑28一応義満や義教の時代には将軍の直属の兵力が一万程いたらしいから全盛期はもう少し多いと思う。まあ、それでも多く見積もっても四十万石位だけど -- 名無しさん (2021-06-15 06:52:18)
- 尊氏は謀略、政治もやろうと思った時はこなせるし、戦は当然強いし万能型の高い能力はあったんだよな。安定しないメンタルが如何に大きいかが分かる -- 名無しさん (2022-02-24 00:44:21)
- 足利義勝「ここからが本当の地獄だ...。」 -- 名無しさん (2022-07-26 06:25:40)
- 尊氏は躁鬱というより、他の幕府創始者と違って内面が「忠臣」だったけど、一方で無類の人の良さから弟や周囲の武家政権を作ってくれ声望に応えなければならず、その辺の仕方なく感が勝つけど微妙な結果につながった感じ。 -- 名無しさん (2022-07-26 06:53:16)
- 最後の金柑の発言、あんた殺る気まんまんじゃん... -- 名無しさん (2022-08-05 12:29:43)
- 江戸の将軍たちに比べると正直格落ち感がすごい…(笑) 尊氏も義輝も武勇の面では凄まじいものがあるが、肝心の政治力に関しては疑問符が付くしなぁ、 -- 名無しさん (2022-11-11 01:48:51)
- 鎌倉時代からハチャメチャな人達が多くて面白い -- 名無しさん (2022-12-14 23:35:52)
- ↑3まあ、鎌倉幕府の将軍よりマシだろう。三代目の実朝の以後の鎌倉幕府の歴代将軍の名前を知ってる人間なんか歴史好きでも滅多に居ないぞ -- 名無しさん (2022-12-15 00:44:34)
- 足利尊氏、良家の御曹司で、でも本人には野心や権力欲は全然無く、でも弟や仲間のピンチは放っておけなくて、戦えば常に勝利ってヒロイック・ファンタジーの主人公キャラなんだが、そういう人物が現実にいてもグダグダしか残さないって事だよなw -- 名無しさん (2023-01-01 17:33:20)
- グダグダっていうが我々が慣れ親しんだ時代劇が江戸時代のしかないから出る感想出会ってあの時代の先祖たちにはより良い時代だよ -- 名無しさん (2023-05-28 14:56:53)
- 朝廷を北朝南朝に割って利用し権力を掴んだ足利尊氏の一族の末期も将軍家として2つに割れるのは見事な歴史の皮肉…(本wikiや逃げ若読んだ程度にしか知らないけど) -- 名無しさん (2023-07-22 08:20:16)
- 日本国王は別に義満だけが名乗ったものじゃないし日本国王使って国内に文書発行したことがないのと義満が特別政治手腕が天才的だったのに理想化されてそんな能力ない後の将軍がマネして大失敗したのは書いていいと思う -- 名無しさん (2024-02-21 23:19:43)
#comment
*2 足利政権内では「四職家」とよばれるトップ層になった
*3 洋泉社「南朝研究の最前線」
*4 これには反論もあり、大恩ある後醍醐天皇と直義への間兄弟愛で揺れ動いていたためという説もある。恩義に加え朝廷に弓を向ける行為は承久の乱という結果があったとはいえ鎌倉幕府もぎりぎりまで揺れ動いていたことを考えれば不安定になるのも無理からぬことである。
*5 まあ他の権利者がいる土地をあげちゃったりして100年後の子孫までも困らせたりしたのだが
*6 逆に楠木正成や新田義貞は善人として扱われた
*7 もっとも「日本国王」を名乗った武士は彼だけではなく、日本国王号を使用して国内に発給した文書は発見されていないため、貿易のためだけに名乗ったとする説が主流
*8 現代の感覚でツッコむのはよろしくないが満年齢換算で14、15歳の時に酒の飲み過ぎを父に咎められて19歳の時に病気と酒のダブルパンチで死亡。
*9 室町幕府が関東を統治するために鎌倉においた鎌倉府の長官
*10 持氏の子供の1人は生き延びた
*11 幕府側が火を付けたのは門前町である坂本だけである。その後義教が山門使節を騙し討ちにして殺した際に、山徒が抗議のために総本堂に火を掛け焼身自殺を行った。この炎が京都からも見えた
*12 江戸幕府は幕府と藩の二重支配+幕府自体が合議制のため、政権内の将軍のウエイトはそこまで大きくなかった。というか将軍がボンクラでも問題ないように組まれたシステムとでも言うべきか
*13 南北朝の騒乱で優位に立つため、戦力を持つ有力者を味方にするために土地をどんどん分け与えてしまっていたため。直轄領が少なく経済的に不安定なために権力も低かった。最終的には「莫大な富を生み出す勘合貿易をやりたいが、貿易船を出すことすら出来ない」「あまりに困窮したため勘合貿易の権利を有力で金のある大名に売却する」事態にまでなる
*14 将軍引退を志向したのも義満が大御所政治を敷いたのを参考にしたという見方も出来る
*15 義尚が政務を執っていた御所であり、元々は細川家の持ち物。ちなみに室町殿はこの頃までに焼失している。
*16 ちなみに浦上氏の主君に当たる赤松政則は浦上に反発する別所・小寺の斡旋により細川家と政略結婚を行い、政元側につくことになる。播磨情勢は複雑怪奇。
*17 将軍にはなれなかった養子の義維、さらにその子の義栄
*18 子の義晴、さらにその子の義輝と義昭
*19 政元の養子である澄之の従兄弟。「養子の従兄弟ってそれ他人では?」とか言ってはいけない
*20 なお実際には上洛に対しては義材側近も北陸勢も一枚岩ではなく、結局この時期に上洛はできなかった。
*21 死去日が諸説あり不明
*22 演者はリュウソウレッドだが一言もセリフを発さずにナレ死して退場したというお辛い扱いである
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