登録日:2011/05/11(水) 22:57:34
更新日:2023/10/16 Mon 13:24:31NEW!
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レーシングドライバー f1 モータースポーツ 日産 埼玉県 アロウズ ジョーダン リジェ ホンダ dqnネーム 色黒 ラルース ザクスピード フットワーク スーパーアグリ 電気系統 ナオジャパネスク 鈴木亜久里
鈴木亜久里は日本の元レーシングドライバー。
生年月日/1960年9月8日
血液型/A型
出身地/埼玉県所沢市
- チーム遍歴
1988 ラルース
1989 ザクスピード
1990~1991 ラルース
1992~1993 フットワーク
1994 ジョーダン
1995 リジェ
- 来歴
幼少期からカートに打ち込み、その後国内のFJ、F3、F3000へとステップアップをする。
1988年、全日本F3000チャンピオンになった亜久里に転機が訪れた。
フランスのラルース(・ローラ)から正ドライバーのヤニック・ダルマスが欠場し出走オファーが出た。
急なオファーに関わらず、亜久里はぶっつけ本番でマシンに乗る事を決意、日本GPで晴れてF1の世界に足を踏み入れた。
翌89年はドイツのザクスピードから日本人二人目のF1レギュラードライバーとして参戦。
国内からの付き合いのヤマハエンジンや日本からのスポンサーを持ち込んで好成績を望む筈だったのだが…、
全16戦予備予選落ちというF1で最も不名誉な成績を残してしまった。
本人曰く「走る以前の問題」と酷評するチーム体制と己の経験不足による結果となった。
心機一転、90年はラルースに復帰。
オーソドックスかつ前年と比べるまでも無いぐらい扱い易いマシンで亜久里本来のペースが出始め、ポイントも獲得するなど成績が上昇傾向にあった。
迎えた第15戦日本GPでは、序盤から先頭を行くドライバーが次々とリタイアし、予選10番手でスタートした亜久里は気が付けば3位を走っていた。
そしてそのままフィニッシュし、見事3位表彰台を獲得。「子供の頃からの夢」を実現した亜久里はフィニッシュ後コックピットで涙を流した。
91年は苦しいシーズンとなる。
所属するラルースが登録されているチーム名と違うと他チームからクレームを出され、さらにランボルギーニエンジンの契約も奪われてしまう。
更にチームのメインスポンサーも撤退し一転し資金難となった。
開幕戦は中嶋悟に次ぐ6位入賞だったが、それ以降リタイアか予選落ちばかりの散々な結果に終わった。
92年はF3000時代からの付き合いのフットワーク(・アロウズ)に移籍、しかしこの年ノーポイント。翌93年も残留するがまたしてもノーポイントに終わる。
追い打ちをかける様にフットワークがF1から撤退し、成績を残せない亜久里は当然ながら浪人となる。
94年は国内で活躍をするつもりだったが、ジョーダンからのオファーにより第2戦パシフィックGPのみ出走。
デビューと同じくぶっつけ本番でレースに望むもフロントアップライトが壊れコースアウトしリタイア。
ガレージに戻った亜久里は「次、頑張って下さい」と言われ、「次、無いんだ!」と苦笑いしながら言葉を返した…。
95年はリジェから参戦の筈が、チームの理不尽な策略によりマーティン・ブランドルとシートをシェアして参戦する事となってしまった。
迎えた第16戦日本GP予選、亜久里はチームからペースを上げろと指示され思い切ったアタック試みたが、
コースの路肩にタイヤを出してしまい大クラッシュを演じてしまいそのまま決勝にも出れずにF1から姿を消す。
その後はフォーミュラニッポンや国内GT選手権で自チームを立ち上げたり後輩ドライバーを育成する機関、ARTAを設立。
(IRLやDTMにも一時期協力していたが現在は国内のみとしている)
そして2006年から2008年まで念願だった純和製チーム、スーパーアグリF1チームを率いた。
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