登録日:2022/10/22 Sat 15:15:43
更新日:2024/06/27 Thu 10:46:55NEW!
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三式中戦車 九七式中戦車 一式七糎半自走砲 太平洋戦争 大東亜戦争 大日本帝国 日本陸軍 戦車 マイナー戦車 下手な考え休むに似たり 自走砲改造急造簡易戦車 戦車モドキ
三式砲戦車とは、大日本帝国陸軍が1944年(昭和19年)に開発した簡易戦車。
三式砲戦車は一式七糎半自走砲 ホニを改造し、対戦車戦闘の中核にさせるために作られたが、その原案そのものは太平洋戦争直前の1940年(昭和15年)までさかのぼる。
原案から開発開始に至るまでなぜ4年も間が空いてるのかといえば、理由はいろいろあるが、砲戦車をはじめとする支援兵器の運用思想がなかなか固まらなかったことに起因する*1のと、肝心の戦車部隊側の中に、固定砲塔は実用的ではないと考えを持つ者が多かったというのもある。
こんなやつ
三式砲戦車の構造及び形状は、1941年に提案されたホニの砲戦車化改造案をもとに設計されたものである。
性能を端的にいえば、悪くいえば急造キメラ戦車である三式中戦車 チヌの簡易劣化版であり、よくいえばホニの防御力強化版といった感じに近く、戦車との使用感の差をなくすため、自走砲に戦車の要素を加えた車両でもある。
ナチスドイツやソビエト連邦などで使用された、いわゆる駆逐戦車に近い性格の兵器である。
防御面
ホニは正面と両側面の三方を装甲板で囲むだけの簡易的なものであり、砲身下部には主砲のアキレス腱となる駐退器*2が露出していた。これでは戦車に随伴して行動した際、砲弾片や銃弾によって砲の操作員が死傷しやすく、駐退器も破損して発砲不能になる可能性が高かった*3。
そこで三式砲戦車は前方だけでなく、全周囲をカバーした七角形状の戦闘室に変更、駐退器など各部の防弾性強化を行っている。
照準器*4もホニのままでも、移動する相手を狙うのは問題なかったものの、天板の開口部から照準器をニョキッと車外に出す方式のため、安全性を考慮して車内から直接照準もできるように、簡易的な直接照準器を追加している。
装甲はチヌと同程度の正面装甲が50mm。
戦闘室側面が12mm(25mm説もある)と薄いが、正面にしても完成時期的に敵戦車砲や野戦砲を防げるものではなく、ぶっちゃけ弾片防御が出来ればいいという判断もあったのかもしれない。
機動性
多分劣化していると思われる。元々出力重量比が劣悪な部類にある九七式中戦車チハの車体を流用しており、約16t弱のチハやホニからさらに1トン太り、17トンに増加しているのと、チヌと異なり足回りも補強していないため機動性が悪くなっている可能性が高い。
攻撃面
主砲性能は三式中戦車 チヌや一式七糎半自走砲 ホニを参照。細かな違いは戦車と使用感が近くなるように直接照準器が新たに装備されていることであるが、車体を動かさずに砲を左右に動かせる範囲、すなわち水平射界はホニとほぼ同じ、左右に10°ずつの射界を持つ。*5
本車の変わった点として、戦闘室の周囲にピストルポート*6が設けられており、状況によって搭乗員が備え付けの短機関銃を発砲する想定だったらしい。
ちなみに、チヌやホニもそうであったように、本車両も縄を引っ張ることで主砲を発射する方式であり、照準を務める砲手と縄を引く人間が別々だった。当然ながら砲手が自分のタイミングで発砲できないことは問題であり、ホニの砲戦車化構想の段階(1941年)で、戦車部隊側はすでにわかっていたはずなのだが、チヌ及び本車両の開発を主導した戦車部隊がなぜ、この問題を見送ったのかは、実はよくわかっていない。
補足
17トンという重量は外地に輸送可能な範囲内に収まってはいた*7が、三式砲戦車の開発がスタートした段階で外地輸送はせず、本土決戦で使うことがほぼ確定していた。
ホニや同時期に完成した急造自走砲である四式十五糎自走砲が外地に輸送されているが、自走砲の運用方針が早期に定まっていた上、訓練だけであったとはいえ、運用法のノウハウが蓄積できてたからである。それに自走砲の任務が対戦車戦闘に変わっても、使用法も従来の応用ですんだというのも大きい。
ところが、三式砲戦車はなるべく通常の戦車と使用感の差をなくす改良を加えてあるとはいえ、これまで非砲塔式の兵器を嫌い、(結果論的な面もあるが)その使用を避け続け、砲塔式の兵器しか使ったことがない戦車部隊とっては使用感の差が大きかったことは否めず、訓練の大幅な改訂も必要だった。要は新兵器は開発して量産すればすぐ使えるとは限らないのだ。
従来型と大きく異なる点が2つもあるモノならば、使用は難しかったであろう。
蛇足
開発前史(1940年頃)
細かい流れは端折るとして、まず最初に戦車部隊はホイ(後に二式砲戦車)とも呼ばれる砲戦車の開発を1939年(昭和14年)から進めていた。
このホイは普通の戦車のような砲塔を備え、当時の国産中戦車よりも大きな大砲を積んだ、まんま戦車であった。
ホイの役目は先述した通り、中戦車が簡単に片付けられない敵を除去することであるが、重視されたのが小さくて楽に人力移動できる対戦車砲の制圧であり、その次に戦車だった。
しかし、開発の初期段階ではすでに、戦車部隊関係者の会議にて「諸外国の情報から戦車同士の戦闘は将来的に増える可能性が高いから、中戦車の搭載砲を対戦車戦闘を考慮したヤツにしようね」という意見が上がっており、現行の戦車であるチハの次の戦車はそのようなモノにすることとなった。さらに会議の直後に発生したソ連との国境紛争によって、この意見が補強されると、中戦車だけでなく砲戦車も対戦車戦闘を重視するべきだという意見が多く出るようになる。
三式砲戦車の原案となった兵器案はこの頃に現れており、その提案された性能は旋回砲塔ではなかったものの、停車させたまま砲を横に動かせる範囲が、旋回砲塔式と遜色ないレベルの広さのモノとしていた*8。
開発前史2(1941年)
対戦車戦闘よりも対戦車砲の制圧を重視していたホイは、その搭載砲が低初速の山砲をベースに開発されており、戦車のような硬くて動き回る相手を倒すには向いていなかった。そのため戦車学校(戦車部隊のお偉方たち)は、ホイに「いらない子」の烙印を押し、初速が速くそれでいて対戦車砲の制圧に向いた野砲クラス*9を搭載した砲戦車を所望するようになる。
そこで白羽の矢が立ったのが、砲兵隊が開発していた一式七糎半自走砲ホニである。戦車学校は他部署の管轄にある、1941年6月当時、試作されたばかりのホニを拝借し、移動目標や装甲目標に対する試験を行い、砲性能に関しては高い評価を下し、「試製一式砲戦車」と勝手に命名した*10。
ただ、砲性能以外の面では不満もあり、砲戦車として使えるよう改良を希望する。
以下は改良案の例(一部)である
- 機関銃に耐えられる装甲板をガラ空きの後ろや天板後半部にも追加する。
- 迅速に乗り降りが行えるように戦闘室後部には両開きの出入り口を設けること
- ホニは固定式であるため、水平射界を可能な限り増加すること*11。
- 周囲を見渡せるようキューポラ*12を設けること。
- 車高を低くするため、砲の取り付け位置を下げること。
- ホニの照準方式では防御上問題があるため、車内から直接使える照準器を追加する。
(この内の半分が三式砲戦車の設計に取り入れられた。)
このまま行けばホニがホイに代わる砲戦車として採用される可能性があったがそうはならなかった。というのも、この数カ月後に行われた試作ホイとホニの比較試験にて、「いらない子」の烙印を押されたはずのホイの方に軍配が上がった……のかはどうかは知らないが、ホニの砲戦車化計画は有耶無耶になってしまった。
一説によるとさらなる協議の中で、「歩兵・戦車・砲兵のコンビネーションがしっかり機能していれば、ホニをわざわざ改造してまで使う必要なくない?対戦車戦闘用のやつが欲しいなら別で作ればいいでしょ」という考えに至ったからともいわれる他に、即席の代用砲戦車として使うつもりだったため、大改造を要するホニは逆に砲戦車に不適という判断になったともいわれる。
しかしながら、実のところ砲戦車の運用法というものがあまり固められておらず、割とふわぁ〜としていて、かなりブレブレの状態であったがゆえに、戦車学校はホニの砲戦車化には「実はそこまで熱心ではなかったのではないか?」という推測もある。
その後はホイもホニも完全に採用されたわけではなかったが、ともに従来通りの計画が進行する。
ホイは戦車隊の兵器たる砲戦車として開発が継続し、翌年には新砲戦車ホチなる後継戦車の構想が現れる。
なお、このホチという砲戦車は砲塔式である。
ホニは(仮)状態であったが、砲兵隊の自走砲として事実上の採用となり、訓練及び部隊配備がなされていく
あのさぁ…(1942年)
この時点で太平洋戦争の真っ只中だったが、かなり呑気に楽観視していたのか、対戦車砲制圧の砲戦車に加え、ドイツの突撃砲をモデルにした駆逐戦車の新中戦車(乙)や歩兵支援用の直協戦車などが計画される。
しかも、ある意味日本らしく、武装内容も長砲身高初速ながらも微妙そうな57㎜砲や一世代前の短砲身75㎜砲といった感じのショボいもの。
同時期、大陸の向こう側では、同盟国のドイツがアメリカや日本陸軍の第一の仮想敵だったソ連の連合軍との間で、長砲身75mm砲を搭載した戦車同士の打ち合いが起きており、日本が構想していた突撃砲モドキや砲戦車などよりも高い性能を持っていた。
大陸の向こう側にいる彼らは、机上の空論を挟みながらも自分たちなりの答えを見つけ機甲兵器の開発運用に邁進していたが日本だけは戦前の試行錯誤状態から抜け出しきれていなかった。
日本はヨーロッパ方面のことは知らなかったわけではないが、ドイツがソ連に勝利目前という「ナチスの虚勢」を信じ、どうも戦車開発は気長にやればいいと考え、砲や装甲の厚みを徐々に増やしていく形で生産のノウハウをコツコツとためることを重視したようである。
またアメリカとの戦争は海軍の領分として現実逃避していたからともいわれ、その戦場となる南方の地形的に戦車の機動戦は難しく、例えアメリカ(+イギリス)であろうとも大型戦車の揚陸・運用は出来ないだろうし、極東地域に回す余裕もないだろうと楽観的に構えていたようだ。
あーもうめちゃくちゃだよ(1943年~)
1943年(昭和18年)6月下旬に行われた会議にて、ドイツとソ連の戦争の推移から、兵器体系が大きく変更され、砲戦車の役割が対戦車砲の制圧から対戦車戦闘へ戻る。
開発完了状態だったホイがこの変更により不採用となり、当然その後継案の計画も消滅する。代わりに現れたのが七糎半砲戦車(甲)こと、三式砲戦車である。(この他にも砲戦車の計画が存在したが割愛)
だがこの直後、またもや大変更が起こってしまう。今度は日本とアメリカの戦争である太平洋戦争の戦局悪化の報が届くようになり、兵器生産開発の予算資材配分がその殆どを、対空砲・航空機・輸送艦船に集中することとなる。このため昭和19年度の新型中戦車及び新型砲戦車のリソースがなくなってしまい、前年度の余った予算と資材をやり繰りしなければならなくなる。
(ちなみに昭和18年11月には、陸軍が当分投入されないと思われていた、30tクラスのM4中戦車が多数配備される。徐々に驚異となっていく新型戦車の対処に頭を抱えることとなる*13。)
チヌや三式砲戦車の開発理由として、一般的には新型戦車が間に合わないからといわれるが、実際には事実上の開発中止に近い状態だった。その三式砲戦車やチヌですら、既存兵器の予備部材を使用するということで、ようやく許可が降りたという有様である。
結末(1945年)
前年にチヌとともに完成した三式砲戦車だったがその量はかなり細々としたものであり、3月~4月に方針転換がなされ、チヌの生産量は昨年と比較してかなり増加したものの、三式砲戦車の生産量は変わらず、約40両が生産されたにとどまる。
三式砲戦車は先述の通り、チヌとの混成で砲戦車部隊に配備された他、自走式野砲としての機能も残されていたため、一部は自走砲大隊に配備する計画もあったが定かではない。
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- あーもうめちゃくちゃだよで吹いた -- 名無しさん (2022-10-24 00:55:29)
- こういう複雑な工程をできるだけ簡略化した対戦車車両は日本にこそ向いていたはずなんだけどねえ -- 名無しさん (2023-05-04 02:17:36)
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*2 正確には駐退複座器。発砲する際に発生する反動を軽減する機器
*3 一応、4㎜程度の装甲カバーで覆われていたが、離れた場所で破裂した砲弾の破片しか防げないレベルであり、戦車と混成で使うには心許ない。
*4 狙いを定めるために、レンズに目盛りが刻まれた望遠鏡みたいなもの
*5 ホニは11°ずつだったのが、三式砲戦車では15°ずつに拡大したという書籍もある。
*6 中の人が、拳銃やサブマシンガンを撃つための穴。普段は栓で塞いである。
*7 日本陸軍の管轄にあった輸送船は、20~30tの重量を積み下ろせる主デリック1基と、3~5tの重量を積み下ろせる補助デリック10数基が搭載されていることが多かった。しかし、デリックでの積み降ろしはかなり時間がかかるため、揚陸中に空襲を受けせっかく下ろした物品が燃えカスになったり、降ろしてる途中で輸送船後と沈められることもあった。
*8 戦車部隊の幹部たちは左右に30度ずつ動かせれば実用に問題がないとしている。
*9 山砲も野砲も同じ75mm砲であるが、砲身長が異なるため初速に差がある。山砲は山岳地帯での運搬を考慮して軽量に作られていた分、野砲よりも性能が低い。
*10 このようなことが出来たのは、ホニが砲兵隊主導だったとはいえ、戦車隊との共同開発でもあったことによる
*11 この同時期に団砲戦車や連隊砲戦車なる概念が現れているが、いずれも砲塔式ないし、限りなく砲塔式に近い形式が望まれていた時点で戦車部隊は固定砲塔兵器を嫌っていたことがうかがえる。
*12 天板に設置された平たい円筒状の出っ張り。周囲を見渡すために、覗き穴や潜望鏡がたくさんついている。展望塔と訳されることもある。
*13 日本陸軍の対戦車戦闘は主に肉薄攻撃と呼ばれる、戦車に爆弾を直接のせる戦法で対処しており、アメリカ軍にとっては恐怖だったものの、日本視点では思うような戦果をあげることができず、むしろ損害が多かった。肉薄攻撃に次ぐ対処法としては47㎜対戦車砲による待ち伏せだったが、これも日本視点ではいまいちであり、本来対戦車兵器でない野砲を対戦車砲に流用している。
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