音戸の瀬戸と音戸大橋 - 呉市周辺の遺構まとめ
音戸の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『音戸の瀬戸』は警固屋(本州)と倉橋島の間にある小さな海峡のことです。元々は干潮時に陸続きになるような砂州地形でしたが、海運の便を良くするため平安時代に平清盛が掘削して海にしたといわれています。音戸の瀬戸は船舶が航行可能幅が70mしかない非常
音戸の瀬戸瀬戸(せと)とは海峡の意味で『音戸の瀬戸』は警固屋(本州)と倉橋島の間にある小さな海峡のことです。元々は干潮時に陸続きになるような砂州地形でしたが、海運の便を良くするため平安時代に平清盛が掘削して海にしたといわれています。音戸の瀬戸は船舶が航行可能幅が70mしかない非常
三ツ子島倉橋島の北にある周囲約580mの小さな島三ツ子島は海軍呉鎮守府の検疫所である『呉海軍病院三ツ子島消毒所』が開設されたことにより海軍の島となりました。検疫所とは戦地から帰還した兵士からの伝染病の発生を防ぐための防疫施設で、元々は似島にありましたが老朽化のため昭和3年にここ三
れる細うどんを焼きうどんにし、お好み焼きに入れる蕎麦の代わりに細うどんを入れる呉焼きがある。意外と瀬戸内海の島が呉市に所属している事が多く、倉橋島や大崎下島(なお大崎上島は別の郡に所属)などは愛媛県と隣接している。大崎下島からは橋で愛媛の離島へ渡る事が出来たりする。また倉橋島の沖
鹿島鹿島は倉橋島の南東にある広島県最南端の有人島呉駅から自動車で約2時間で行くことができる鹿島は全周9.2km、人口約300人という小さな島です。山口県の柱島と同じくらいの大きさですが、柱島と違って「本州とつながっている」という大きな利点があるため、島にしてはそれほど過疎化が進ん
音戸渡船(おんどとせん)音戸渡船は、本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸約120mの海を行き来する渡し船で、かつて呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い航路」でした。現在は音戸大橋のおかげで倉橋島と本州は陸路でつながっていますが、昭和36年の開通以前は倉橋島に行くには船で行くしかありませ
海軍軍需部倉橋島燃料置場跡海軍軍需部倉橋島燃料置場は倉井一帯に建設された海軍の燃料基地倉橋島燃料置場は、有事の際の海軍の燃料貯蔵の一環としてここ倉橋島東部の倉井に重油の貯蔵基地を作る計画が決まり、昭和11年から用地買収が始まりました。その後、段階的に重油槽が建設され最盛期には36
の空襲により集落にある西芳寺と民家が数軒で火災が発生しました。西芳寺には今でも空襲の火災で焦げた跡が残っています。また、海軍軍需部の資料に『倉橋島尾立燃料置場』という燃料基地が尾立集落に存在したとありますが、地形的に見るととなりの伊目木(いめぎ)集落のことかと思われます。この防空
住宅北部北部 二河峡取水口(呉鎮守府水道) 灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡) 本庄水源地(本庄ダム) 鉄管道路 長ノ木隧道 東辰川の防空壕跡倉橋島倉橋島 音戸の瀬戸と音戸大橋 坪井(戦艦伊勢終焉の地) 情島(戦艦日向終焉の地) 三ツ子島(空母葛城・空母天城終焉の地) 重極湾(巡洋
室尾の民家の防空壕跡室尾集落は倉橋島南東にある集落で、コミュニティバスが通る集落の中では最大の集落です。集落の東側にある民家跡に防空壕跡が残っています。呉市周辺で見られる民家の防空壕跡は貴重品用と人間用で2つあるものが多いですが、ここは小型が1つのみです。貴重品用のみしか作られな
桂浜桂浜(かつらがま)は、倉橋島南部に位置する白砂と松林の海岸桂浜は古くから景勝地として知られており、その風光明媚な景観は多くの人々を魅了してきました。ここから海を眺めて詠まれた和歌が日本最古の歌集である万葉集に収められています。また、桂浜は平安時代に遣唐使船が潮待ちをした場所と
倉井(空母阿蘇終焉の地)倉橋島東部の倉井空母阿蘇は雲龍型空母5番艦として昭和18年6月に呉海軍工廠で着工しました。しかし、着工したのが太平洋戦争中期であったため既存艦の修理等が優先され建造は遅々として進みませんでした。昭和19年11月に呉海軍工廠最後の軍艦として進水したものの、戦
米空軍勇士之碑倉橋島中部の丸子山にあります。倉橋島・江田島に隠れている日本海軍残存艦艇を狙った昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際に、機体に損傷を受け藤の脇の民家に墜落しに亡くなった米兵の墓です。正確には空母艦載機のパイロットであるため米『海軍』勇士の碑とするが正しいのですが、当
情島(戦艦日向終焉の地)倉橋島大浦崎公園の沖合に位置する小さな島戦艦日向は伊勢型戦艦2番艦として大正時代に就役し、太平洋戦争中に後部を空母に改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。戦争末期に南方での戦闘を終え呉に帰投しました。当初は呉湾内に停泊していましたが昭和20年3月の第一次
い ・同じ海軍の作った燃料基地として広の虹村公園(広燃料置場重油槽跡)と吉浦の海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)と倉橋島の海軍軍需部倉橋島燃料置場跡がある ・近くに飛渡瀬第二応急防空砲台跡がある 住所 エアクッ
作った燃料基地として広の虹村公園(広燃料置場重油槽跡)と江田島の海上自衛隊呉造修補給所工作部エアクッション艇整備科(旧海軍飛渡瀬燃料置場)と倉橋島の海軍軍需部倉橋島燃料置場跡がある ・近くに吉浦の防空壕跡と狩留賀浜(巡洋艦磐手終焉の地)がある 住所
の作品。瀬戸内海の小島で石の運搬をしている一家が工業化の波に押され、島を出て新天地で暮らすことを決断するまでを描いた作品。舞台となった広島県倉橋島に長期滞在し、島の住民を多く登場させるなど、家族同様ドキュメンタリーの手法も交えて撮った。いわゆる民子三部作の第二作。目次1 物語2
得蔵寺得蔵寺は倉橋島南部にあるお寺桂浜のある倉橋漁港が見える上河内の集落にあります。ここには倉橋本浦で空襲を受けた駆逐艦楓の慰霊碑があります。駆逐艦楓戦没者慰霊碑駆逐艦楓は横須賀鎮守府所属の松型駆逐艦17番艦として、太平洋戦争後期の昭和19年10月に就役しました。松型駆逐艦は戦局
亀ヶ首倉橋島の東端に位置する曲がりくねった半島の先端部分。その形から『亀ヶ首』と呼ばれています。昔から瀬戸内海の船乗りたちは航海の目印として動物の名前を地形に付けており、他にも女猫の瀬戸などの地名が残っています。亀ヶ首射撃実験場跡亀ヶ首射撃実験場は艦艇に搭載する艦載砲の試験施設と
戸田本店音頭の瀬戸の倉橋島側にある明治28年創業の老舗料亭創業120年以上は広島県内でも最古の類に入る料亭です。呉鎮守府をはじめ日本海軍の高官がよく利用していた料亭で、連合艦隊司令長官山本五十六も常連だったという名実ともに「海軍さんの料亭」です。また、海軍士官の手記等にもよく名前
れました。その要塞群を管理する司令部として明治33年に広島要塞砲兵連隊が設置されました。広島湾要塞は「広島湾にある4つの海峡音戸瀬戸(本州-倉橋島間)・早瀬瀬戸(倉橋島-江田島間)・那沙美瀬戸(江田島-大奈佐美島-宮島間)・大野瀬戸(宮島-本州間)に砲台を建設すれば広島市と呉市に
上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)と江田島の海上自衛隊呉造修補給所工作部エアクッション艇整備科(旧海軍飛渡瀬燃料置場)と倉橋島の海軍軍需部倉橋島燃料置場跡がある ・近くに呉海軍航空隊飛行場跡と旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠がある
大浦崎公園(P基地跡)大浦崎公園は倉橋島の北東にある半島ここには太平洋戦争中に「P基地」と呼ばれる特殊潜航艇の工場や搭乗員の訓練施設がありました。正確には呉鎮守府第二特攻戦隊と呉鎮守府第十特攻戦隊大浦突撃隊、それに呉海軍工廠造船部大浦分工場を合わせてP基地と呼ばれていました。呉海
A. 音戸の瀬戸は、広島県の呉市にある本州と倉橋島の間に存在する海峡です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%80%AC%E6%88%B8
渡子の防空壕跡倉橋島北部の坪井から渡子(とのこ)の間の国道487号線沿いにあります。太平洋戦争の防空壕跡は呉市各地にありますが入口が塞いでないものはめずらしいです。艦艇終焉の地には防空壕が多く残っていますが、渡子は戦艦伊勢終焉の地である坪井と空母天城・空母葛城の終焉の地である三ツ
戦に備えて人間魚雷『回天』の搭載母艦に改装され、ここ重極湾(じゅうごくわん)でカモフラージュのため松や草木を置いて停泊していました。重極湾は倉橋島の南西にある北向きの湾で、両側に突き出した半島と目前に能美島があるため艦艇を隠すのに適した地形でした。しかし、昭和20年7月の第二次呉
音戸漁港のコンクリート船倉橋島北部の音戸漁港にある防波堤音戸漁港のコンクリート船は、安浦町にある武智丸と同じく武智造船所で建造されたコンクリート製輸送船です。太平洋戦争中の鋼材不足から金属ではなくコンクリートで作られた輸送船です。武智丸とは異なり自力で航行するできず潜水艦等で曳航
坪井(戦艦伊勢終焉の地)倉橋島の北東端戦艦伊勢は伊勢型戦艦1番艦として大正時代に就役し、太平洋戦争中に後部を空母に改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。太平洋戦争末期の昭和20年2月、南方での激戦にも生き残り呉湾へ帰投しましたが、海軍にはすでに戦艦伊勢を動かす燃料が無く3月の呉
いますが甲板部分は70年経ってもまだ健在で船の形をしっかり保っています。また、武智丸と同じ武智造船所で建造された曳航式コンクリート製輸送船が倉橋島音戸漁港に防波堤として沈設されています。余談ですが、「強度が脆く危険」といわれていた武智丸ですが、吃水が上がらず乗り心地が良く、コンク
ーダーが置かれています。展望台から望む呉市街地灰ヶ峰は標高737mと周りの山に比べて飛び抜けて高く、周囲にさえぎる物がないため天候の良い日は倉橋島や江田島の辺りまで見えます。夜景八九式12.7cm連装高角砲ナウル共和国に残る四〇口径八九式12.7cm連装高角砲の実物灰ヶ峰防空砲台
「江田島の玄関」と呼ばれる江田島中部にある港広島市から海上約7.5km、呉市からは海上約6kmと広島市と呉市の中間に位置する港です。江田島は倉橋島にある音戸大橋と早瀬大橋を経由すれば本州と陸続きになりますが、広島市や呉市街地から見るとかなり遠回りになるため旅客船を利用する人が多く
しゃれな建物でした。外壁に使われたレンガは当初外国産とされていましたが、その後の研究で地元安芸津で製造されたものと判明しました。花崗岩も呉市倉橋島で取れたものです。呉鎮守府と同じ年代の建築でこちらは工場ですが、明治30年代は工場の外壁素材は木かレンガしか無かったため腐食や火に強い
この辺りは中世のころから埋め立てが盛んに行われる場所で、当初はここも海でしたが明治43年に埋め立てられ鍋桟橋が作られました。鍋桟橋の利用者は倉橋島から呉海軍工廠へ通う島嶼部通勤者がほとんで全盛期には通勤ラッシュが起こるほど利用者がいました。碑文によると少なくとも2つの渡し船と待合
どちらのルートも車道なので登山という程ではないが距離は結構ある ・展望台から旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠、情島(戦艦日向終焉の地)、倉橋島の亀ヶ首射撃実験場跡が見える 住所 広島県呉市広町25 駐車場 あり
大浦突撃隊大迫支隊(Q基地跡)倉橋島の東端にある大迫港の北ここには太平洋戦争中の昭和19年4月に海軍の訓練基地が建設されました。対岸の大浦崎にあるP基地と対をなして「Q基地」と呼ばれていました。Q基地は海軍陸戦隊が持つ『特四式内火艇』の訓練基地として建設されました。元々は沖にある
いたためほぼ無傷で終戦を迎えました。また、戦後も復員船として活躍したので厳密にはここが終焉の地ではありません。楠田から瀬戸内海を挟んで対岸の倉橋島に三ツ子島があり「日本海軍最後の空母」の空母葛城の終焉の地が見えます。(写真右奥にある白い島が三ツ子島)「日本初の空母と日本最後の空母
A. 斎灘とは、瀬戸内海西部の海域で、狭義で安芸灘と区別した場合に用いられます。具体的には、東は魚島、西は倉橋島~愛媛県中島に至る範囲を指します。ただし、正確な区分は曖昧とされています。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E
方が明らかに身長が高いのが分かる。そのせいで他の海防艦どころか一部の駆逐艦より高身長になりがち倉橋CV:古川未央那御蔵型五番艦。バッジは亀。倉橋島に亀ヶ首と呼ばれる半島があり、呉の目と鼻の先という立地もあり戦前は兵器試験場として用いられていた。その縁なのか艤装に甲標的や大発動艇の
・丁の4つがあり最大4艦が接岸して物資や武装の搬入が行えるようになっています。また、『水路軍機第231號 呉港附近』という別の海図によると、倉橋島の南3か所に敵の潜水艦の侵入を防ぐため水中聴音機が設置されている様子が書かれています。余談ですが、呉鎮守府開庁後、軍港となった呉湾には
がるさま」という意味です。これは江田島の旧海軍兵学校の校歌の一部から取って命名されました。内部基礎と正面玄関のアーチは国会議事堂にも使われた倉橋島の御影石が使われています。また、レンガは明治時代のものでイギリス積みで作られています。兵器庫や弾薬庫として使われていただけあって、外か
、稲作よりミカン畑が多い農村でした。しかし食糧増産政策によりミカン畑は何割かを伐採し芋か麦を植えるよう指令が下りました。これは海越だけでなく倉橋島の他集落や瀬戸内海の他島でも同様に進められました。太平洋戦争終戦後の昭和20年代には、生徒数も増え一時100人以上となりました。しかし
め砲台跡も砂浜も残っていません。 備考 ・日新製鋼呉製鉄所の敷地内にあるため見学不可 ・全景は休山展望台から、正面は倉橋島北部の国道487号線にある三軒鼻バス停辺りから見える ・呉海軍工廠防衛のための砲台として他にも鍋山防空機銃砲台跡と鍋山防空砲台跡と
流館にまるれの模型が展示されてる ・同じ陸軍船舶練習部第十教育隊の基地跡として似島にも遺構がある ・同じような特攻隊の訓練基地として倉橋島の大浦崎公園(P基地跡)や大浦突撃隊大迫支隊(Q基地跡)がある 住所 広島県江田島市江田島町幸
・呉市の大和ミュージアムにB24爆撃機ロンサムレディ号とB24爆撃機タロア号の破片と銃弾が展示されている ・同じ趣旨の慰霊碑として倉橋島の米空軍勇士之碑がある ・呉市にも海軍の憲兵隊施設として呉憲兵隊跡がある ・近くに広島城(陸軍第五師団跡)と臨時帝国議会仮議事
るため場所が少しわかりにくい ・時期によって満席になっている可能性があるので電話予約して来店するのが無難 ・同じ海軍さんの料亭として倉橋島に戸田本店がある 住所 広島県呉市本通2丁目4-10 駐車場 なし(近く
渡子峠倉橋島北部の音戸と渡子の間にある渡子峠(標高108m)ここには太平洋戦争末期の空襲に備えて呉鎮守府所属の音戸防空砲台が作られました。音戸防空砲台は太平洋戦争末期の昭和20年1月に竣工し『四〇口径一〇式12cm単装高角砲』が4門配備されました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲
ためこのような大屋根が必要であったと思われます。造船船渠壁石モニュメント造船船渠の壁石を一部を保存したモニュメント壁石は諸説ありますが呉市の倉橋島産といわれています。防空壕跡旧第三船渠の前にある防空壕跡。3つ現存しています。中央の壕口は鉄製扉に換気扇がついており内部は鉄骨と壁が張