一式陸上攻撃機

ページ名:一式陸上攻撃機

登録日:2014/10/13 Mon 22:47:10
更新日:2023/12/21 Thu 13:13:43NEW!
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一式陸上攻撃機は、大日本帝国が運用した攻撃機であり、驚異的な双発機である。
連合艦隊司令長官である山本五十六が撃墜された際に乗っていた機体としても有名である。



性能諸元

全幅:24.88m
全長:19.63m
全高:6.000m
主翼面積:78.125m2
自重:8,050kg
総重量:15,451kg
発動機:火星二一型(離昇1,850馬力)
最大速度:437.1km/h(高度4,600m)※防弾ゴム未装着時は468.6km/h(高度5,000m)
実用上昇限度:8,950m
航続距離:2,500km(爆撃)/6,060km(偵察)※防弾ゴム装着後は5,613kmまで低下
爆弾:60kg爆弾12発、250kg爆弾4発、500kg又は800kg爆弾1発
魚雷:800kg魚雷1発
固定兵装:7.7mm旋回機銃3挺(前方・側方)20mm旋回機銃2挺(上方・尾部)
乗員:7名(主/副操縦手、主/副偵察手、主/副通信手、搭乗整備員)


開発史

大日本帝国では、保有できる艦艇を制限されておりその分を航空機で補うという方法を見いだした。
それが陸上攻撃機「陸攻」の始まりである。
その経緯で生まれたのが特殊偵察機を元にした九六式陸上攻撃機であった。
が、細長い胴体により兵器搭載量や航続力が劣っており更なる高性能機が要求された。海軍上層部は次の要求をした。


九六式陸攻の後継機は、発動機を強化し航続距離を4800km以上に延伸させよ


という無茶ぶりもいいところな要求だった。
なぜかと言えば、当時の機体は4000km台だと四発機に匹敵するものであり、あのB-17でさえ爆弾を搭載しても3500kmが精一杯であった。
その中で双発機でこれだけの航続距離を誇れと言うのだからあまりにも非現実的な要求だったのだ。
三菱は海軍に対して四発機にしたらどうかと頼んだが、その会合で議長を務めていた和田操(海軍航空技術廠長)の怒りを買っただけで却下されてしまうのである。
このため当時としてはオーソドックスな双発機として開発される事になり、三菱はこれを達成するために様々な努力をした。
海軍は既に九六式陸攻が日中戦争の渡洋爆撃で中国軍の保有するI-15やカーチスホークといった複葉機に撃墜されていることからより高性能な機体を求めたのである。


ちなみに上記の経緯からか、仮想戦記ではしばしば一式陸攻を四発化した様な大型陸上攻撃機が登場するが、実はこんな後日談があったという。

本庄 ところがね、この4発ということについては、皮肉というか、結果的には4発案が通らなかったのは、私にはありがたいことになったんです。
   というのは、もし4発にして、そのかわり装備は完全にしろということになっていたらね、これはこまったろうと思います。
   というのが、こういう装備をしたり、大きな搭載量をカバーすることのできるような部品なんかが十分でなかったんです。
   大きなプロペラとか、防弾に使うダハード鋼の生産量が足りないこととか、それに穴をあける技術がないこととか、ゴムの生産量とかね。
   だから、もし4発案が通っていたら、ずいぶん大変だったと思うし、できなかったでしょうね。
   えらい責任をとらされるところだった。
――今では、4発でなくてよかったと思っていらっしゃいますか。
本庄 そうですねえ、なにしろ、私の専門外のところでひっかかっちゃうということでね。

出典:『保存版 銀河/一式陸攻 軍用機メカ・シリーズ13』(私は“過酷な要求”にこう応えた),雑誌「丸」編集部,光人社,1994年,P136
DC-4Eの国産化着手(13試陸攻の深山)、渡洋爆撃機(TB)の構想、中島の手で18試陸攻の連山を実用化寸前までこぎ着けるなど大型機を軽視していた訳ではないが、
当時の日本にとって四発陸上機の量産・配備は過ぎた代物で、大型飛行艇(九七大艇や二式大艇)の整備が限界だったのである。


技術的特徴

まず、胴体は空気抵抗を減らすために太い葉巻型にした。これが本機のトレードマークとなった。同じ機体はアメリカのB-26にも見られるが別に参考にしたわけではない。
続いて燃料タンクであるが、その太い胴体なら燃料をいっぱい積めるのではと思われるが胴体の真下は爆弾層になっており、上部は乗員の居住区画になる。しかも、発動機は九六式陸攻の「金星」よりも強化された「火星」を使う都合でどうしても大量の燃料が必要になる。でなければ長く飛べない。結局のところ、その燃料は翼に入れなければならなかったのだ(ここ注目)。
更に九六式陸攻より旋回性能を上げるためあえて小さい尾翼を用いた。見かけに判じて抵抗が少なく当時の操舵方式である人力でも容易に機体を動かせたのである。
なにより、九六式陸攻になく本機より搭乗員が喜ぶであろう部分と言えば人力で収納していた車輪を電動式に変えたことである。それだけでなく、九六式では半分出ていた車輪を一式では完全に収容し空気抵抗の低減に貢献したのである。


戦歴

完成した一式陸上攻撃機は、早速日中戦争に投入されたのだが目立った損害はなかった。
これは、既にデビューした零戦が制空権を掌握していたために中国空軍が活動をほぼ封殺されていたからである。
その後、日米開戦に向けて一路主戦場を中国大陸から太平洋に切り替えることになる。


本機は日米開戦と同時にフィリピン諸島のアメリカ陸軍の基地を爆撃したのを始め、太平洋の諸島で連合軍相手に善戦した。
なかでも、いちばんの成績がマレー沖海戦である。イギリスはマレー半島に上陸した日本軍を迎え撃つため戦艦2隻を中心とした部隊を派遣した。
が、長大な航続距離を誇る陸攻隊総計57機が包囲し周囲から雷爆撃を敢行。遂にこの2隻を撃沈し世界中を驚愕させた。対して日本側の損害は数機だけである。


しかし、翼に燃料を満載した本機は敵戦闘機の迎撃には脆弱である事が開戦後に露呈した。日本軍の制空権が揺らぎ始めた1942年8月以降は被害が急激に増大、慌てて自動消火装備や防弾装備などの増設を行った。
当時の日本の技術と工業力の問題から本機の防弾装備や自動防漏装置は高性能化する敵戦闘機の攻撃に対し十分な性能を持つとは言いがたかったものの、消火装置は質、数共に充実したものが搭載されていた。


実際、この時期に発生したギルバート諸島における戦闘では、護衛戦闘機がいないという絶望的な状況ながら米軍制空圏の強行突破に成功、出撃部隊の大半を失いながらも空母「インディペンデンス」に魚雷を命中させた。
後のマーシャルの戦いでも野中五郎中佐率いる1式陸攻9機が空母「ヨークタウン」を雷撃し全機帰還するなど、一定の成果を上げている。


米軍の側からも一式陸攻の防御力は高く評価されており、先述のギルバート諸島における戦闘で陸攻隊を迎撃した駆逐艦の艦長は、多数の戦闘機に一方的な銃撃を受けながら火災も爆発も起こすこと無く進撃を続け、ついには雷撃を成功させた挙句逃げ切ってみせた一式陸攻の防御力を賞賛した。
もっとも支那事変から参加しているベテラン中攻乗りの評価は厳しく、防弾装備と自動消火装置を備えた22型でも「これとても比較的効果は薄かった」と批評している。
陸上爆撃時は、侵入高度が8,000m~8,500mの場合だと対空砲火による被撃墜機は比較的少数で済んだが、6,000m~7,000mでは多大な被害が生じたという。


本機のパイロットとして有名な人に、高橋淳曹長があげられる。
ガダルカナル島の戦いにて、海面スレスレを飛ぶ一式陸攻の有名な写真があるが、それのパイロットである。
なお死亡フラグというものを嫌う人であり、部下が遺書を書くことを禁止して「どんなことをしてもお前らを連れて帰ってくるから」と言ってたそうな。
ちなみにこの方、90歳を超えても現役のパイロットを続けていて、2014年には世界最年長としてギネスに登録されている。
高橋氏は令和3年12月7日逝去された。満九九歳、享年百歳。



その後

後継機であるはずの16試陸攻(泰山)の開発中止、雷撃も可能な15試陸爆の銀河が誉エンジンの不調、生産が遅れたことにより、1943年以降も戦力として使われた。
しかしながら制空権を完全に掌握された状況では、本機は『死に行くようなものだ』と忌み嫌われた。
より高性能である銀河でさえ容易に撃墜される状況では、本機の活躍の場は無かったのだ。
ちなみに銀河飛行隊を率いた鈴木瞭五郎大尉によれば、対艦・対地爆撃で25乃至50%、雷撃時は50乃至75%が撃墜されるという大損害を被ったそうである。


その窮状に、日本軍は人間爆弾・有人ミサイルとの悪名高い特攻機『桜花』の母機として転用するに至る(G4M2E、24型丁)。
しかし鈍重になってしまい、当初の第一次桜花特攻では野中五郎少佐の率いる18機が全滅、アメリカ側から再び七面鳥狩りと評される結果を招いてしまった。


最終型である34型(G4M3)では防弾性能の強化と引き換えに航続性能は低下した。
防弾ゴムを内張にした影響で、燃料搭載量が22型の6,490リットルから4,398リットルと3割以上減少したせいである。
タンクはカネビアン式と呼ばれる仕様にしており(天然ゴムよりも燃えにくい人工ゴム)被弾しても燃えにくい構造となっていたが、設計者の本庄季郎によれば「不完全なもので、全然無防備のものより、発火までに敵弾の発射数が多少多くなる程度のもの」で十分とは言えなかった。
当時は既に制空権を握られていたので、陸攻が昼間に飛んで敵に近づけるのは奇跡に属しているとされ、攻撃機として使われた例は少ない。(特攻の主体も次世代機であったので)


なお、戦後に残った機体は白に塗装し緑色の十字架を書いて高官輸送機として使われた。





追記・修正は陸攻を拝んでからお願いします。


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  • とくに嫌いじゃないけど好きでもない飛行機だな。 -- 名無しさん (2014-10-13 22:54:12)
  • 二式大艇の印象が強すぎて、こっちのイメージが今いちわかない。 -- 名無しさん (2014-10-13 22:55:16)
  • せやな -- 名無しさん (2014-10-15 13:11:46)
  • あったなぁ -- 名無しさん (2014-10-15 13:55:46)
  • あまり格好よくないね -- 名無しさん (2014-10-15 14:32:58)
  • 受け継がれた機体ってなんだ -- 名無しさん (2014-10-15 14:54:14)
  • せやな -- 名無しさん (2014-10-15 19:34:09)
  • 一式は日本海軍航空機を知る際に零戦の次くらいには見ると思うなー。所感 -- 名無しさん (2014-10-15 23:35:06)
  • 四発機のくだりは仮に認められたとしても当時は設計できませんでしたというオチがあるんだけど何故かスルーされがちなんだよな。本庄氏自身の証言だから嘘じゃないのに -- 名無しさん (2014-10-16 00:24:11)
  • ↑だせえ話だぜ -- 名無しさん (2014-10-16 15:50:54)
  • 長い胴体部分と後方旋回機銃が良い味出してる -- 名無しさん (2014-10-16 23:13:21)
  • 一式が「ライター」なんて呼ばれるようになったのは戦後からで、末期でも対空砲火で撃墜された機体のが多いんだそうな -- 名無しさん (2014-10-16 23:30:00)
  • ん、間違えた。末期じゃなくて戦時中かな -- 名無しさん (2014-10-16 23:31:02)
  • 日本海軍における攻撃機の内、単発は艦上攻撃機、双発は中型陸上攻撃機(中攻)ないし中型飛行艇、三~四発は大型陸上攻撃機(大攻)ないし大型飛行艇(大艇)という分類になってるから新型中攻開発で四発にしてくれという要求が通る筈ないんだよね -- 名無しさん (2014-10-18 17:06:28)
  • 映像作品では音速雷撃隊が有名だな -- 名無しさん (2015-03-08 07:49:15)
  • この機体と零戦の影響で日本軍機といえば紙装甲のイメージが強い -- 名無しさん (2015-07-20 12:17:22)
  • 米軍も防御力を高く評価したってそりゃ単に戦闘機の射撃がヘタクソで弾が当たってないだけだろ。後期にいたっても消火装置と薄っぺらいゴム被覆しかないのに防御力もクソもあるかよ -- 名無しさん (2021-01-22 21:41:00)

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