オフサイドトラップ(競走馬)

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登録日:2011/11/22(火) 02:56:43
更新日:2023/08/18 Fri 11:49:54NEW!
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無事な馬でさへあれば、いつかは必らずチャンスにも恵まれる。


いかに素質のすぐれた馬でも、故障になつてゐては、常にチャンスを見逃してゐなくてはならない。


ところが馬さへ無事なら、さういふ駿足の見逃してゐるチャンスに、自然にぶつかることになる。


さういふ例は、これまでの競馬にも、数限りなく指摘できる。


馬主にとつては、少しぐらゐ素質の秀でてゐるといふことよりも、常に無事であつてくれることが望ましい。



無事之名馬の所以である。



───「優駿」1941年6月号  菊池 寛「無事之名馬」より










オフサイドトラップ


1991年生
父 トニービン
母 トウコウキャロル
母父 ホスピタリティ
馬主 渡邊隆
主な勝ち鞍…七夕賞、新潟記念、天皇賞(秋)



オフサイドトラップは当時史上最年長タイの7歳(旧表記8歳)でG1勝利をあげた日本の競走馬である。
名前の由来はサッカーの高等戦術「オフサイドトラップ」より。
馬主はエルコンドルパサーで知られる渡邊隆。


幼駒時代~ダービー 影との闘い

渡邊オーナーは大の血統マニアであり所有する馬はすべて自らが考えた配合であった。
オフサイドトラップもその例にもれず、親子二代で所有する牝系のトウコウキャロル*1に凱旋門賞馬のトニービンをつけることで産まれた。


トウコウキャロルの初仔であったためか、オフサイドトラップの馬体は貧相で牧場からもあまり期待はされていなかった。
しかし、そのトウコウキャロルの調教師にして日本ダービー優勝馬アイネスフウジンの調教師でもあった加藤修甫調教師に素質を見いだされ厩舎入りを約束される。
その後、同じトニービン産駒であるウイニングチケットやベガなどの活躍が認められトニービンの評価はうなぎ上り。
オフサイドトラップもそれに呼応するかの如くすくすくと成長し、小柄ながらも新冠地区の品評会では最優秀賞を獲得するまでに至る。
彼に異変が起きたのは入厩後、調教を行っていたある日のことだった。




「足に熱がある。」




…幸いにも症状は軽く、遅れこそすれど無事にデビューを果たす。
そして現役一年目は新馬戦を2戦2着2回とまずまずの好成績で終えた。


年が明け1994年、後に相棒となる安田富男騎手とのコンビで挑んだ未勝利戦にて初勝利を挙げるとそこから一気に500万下セントポーリア賞、OP若葉Sと3連勝を飾る。後のオークス馬チョウカイキャロル青葉賞勝ちのエアダブリンといった実力馬に勝利し陣営は勇躍クラシック初戦・皐月賞へ進むことを決める。3連勝にしてここまでの連帯率は100%であり、彼はこの時紛れもない有力馬の1頭だった。






「熱があります。」






悪い予感は現実のものとなってしまった。前と同じ、右前脚に熱が籠りだす。しかも前より確実に重くなっていた。
加藤調教師は悩んだ。かつての担当馬アイネスフウジンにも同じように脚部不安があったが、一度きりのクラシックのために調教を重ねた結果、屈腱炎によって引退に追い込まれてしまったからだ。
同じ道を歩まんとするオフサイドトラップに対し、陣営はやはりクラシックへの挑戦を決める。
にわかな期待と不安が入り混じる中、ついに脚の熱は治まり皐月賞に出走した。




……だが時代の主役はオフサイドトラップではなかった。
1994年クラシックの舞台には、今なお最強馬の1頭として語られるスーパースターがいた。











“シャドーロールの怪物”ナリタブライアン












1994年クラシック三冠 ナリタブライアンが皐月賞をレコードで圧倒的な勝利を飾り、日本ダービーを1.2倍という驚異の人気ぶりで華々しく勝利を飾る中、オフサイドトラップは7着・8着と実力差をまざまざと見せつけられる。
それは展開の不利や怪我の有無などを超越した絶望的な力の差であった。



だがオフサイドトラップの絶望とその物語はここから始まる。
日本ダービーの次走、GⅢラジオたんぱ賞を4着で終えた後…彼の右前脚は大きく膨れ上がっていた。






屈腱炎






すねの裏側…人間でいえばアキレス腱に相当する腱繊維が変成・断裂することにより発症する。骨折のように直接命に関わるわけではなく、主な症状としては痛みを伴う腫れや腫脹などがある。
また、罹患した片方の脚をかばいもう片方の脚も罹患するのが典型であった。



だがこの病の真髄は後遺症にある。
その場で死に至らず完治さえすれば、あるいは元のパフォーマンスを見せられる場合のある骨折に比べ、屈腱炎は一生を通して脚を蝕む「不治の病」「競走馬のガン」と呼ばれている。


治療には平均して一年と他の怪我に比べ多くの時間がかかるため馬主がそれを見て諦めるケースも多く、復帰率はおよそ20%と競走馬の怪我の中でもダントツの低さを誇っていた。


さらに一度断裂した腱繊維は元のように規則正しくは生成されず、いびつな再生をした腱繊維はちぎれやすくなり著しい再発率の高さと著しい勝率の低下をもたらす。
たとえG1馬であろうと復帰後に勝利する例は少なく、ましてや重賞を勝つ例は数十年たった今現在でさえ片手に数えるほどしかない。その上重賞未勝利馬ともなると…その可能性は絶望であった。


先ほど述べたウイニングチケットを始めとする1993年クラシック三強「BNW」やアイネスフウジン、そのほかにも数多の名馬たちを引退に追いやってきた。
近年は幹細胞移植技術等の医学・獣医学の発展によりカネヒカリのように復活Vを飾る例があるものの、キングカメハメハやキズナ、ロジャーバローズなど未だに引退の原因となることも多い。



あるいは彼らのように功成り名遂げたならば引退して種牡馬になる道があるかもしれない。しかし重賞も制しておらず、馬体も小さなオフサイドトラップは走り続けるしかなかった。*2
ブライアンに敗れ見失った栄光を探すため……何よりも、生きるために。



クラシック夏~4歳 一度目の長期療養

「1日1日膨らんだり縮んだりして。それこそ餅みたいに。その度にレーザーを当てたり、冷やしたりの繰り返し。毎日が足との闘いでしたね。」
担当厩務員の椎名昇氏は当時をこう語っている。
90年代に屈腱炎へ対する効果的な治療法はない。

  • レーザー照射による症状の緩和や血流促進
  • 熱を持った脚の冷却
  • テーピングで固定

などの応急処置で自然治癒を促すほか手立てはなかった。椎名厩務員は休むことなく朝早くから夜遅くまで、痛みにあえぐオフサイドトラップの治療に邁進する。また、加藤調教師は短い時間で他の馬のように成果を上げられるよう調教に工夫を凝らした。



1994年12月、オフサイドトラップは意外にも早く戦線復帰を果たす。
これは屈腱炎が比較的浅かったことに加え、陣営の献身的な治療とオフサイドトラップの人に従順な性格が功を奏した結果だった。さらに幸運なことにファンは怪我で沈んだクラシックの期待馬を忘れていなかった。復帰戦のOPディセンバーSにて彼は一番人気に推されたのだ。その結果は三着ながらも屈腱炎の影響を鑑みれば好調なリスタートとも言えるだろう。翌年の1995年1月にはGⅢ中山金杯に出走し、またもや一番人気に推されるが遅咲きの大器・サクラローレルの8着に終わる。それでもなお次走2月のOPバレンタインSで一番人気に推され、三戦目にしてやっと期待に応え勝ち星を掴む。




……しかし


久方ぶりの栄光に浸ることもできなかった。






屈腱炎再発






それは再発というより悪化と言うべきだろう。明らかに前回より腫れは大きくなっている。さらに右足を庇い続けた左足まで再発していた。屈腱炎が不治の病たる所以を腫れた両前脚によってまざまざと見せつけられ、サクラローレルが同世代最後の大物として出世街道を駆け上がっていくのを尻目にオフサイドトラップは未来が見えない休養を余儀なくされる。*3



4歳~6歳 二度目の長期療養

「冷やすとか、温めるとか、そんなことじゃ追っつかない。痛がってね。もうだめかな、とあきらめていた。乗馬でも何でもいい。可愛がってくれれば。本気で行き先を探していた…」
椎名氏は当時をそう語っている。
二度目の屈腱炎に対し、陣営内でも「引退」の二文字が浮き上がっていた。だがそのような中において現役続行を望む声が出る。他ならぬ馬主の渡邊隆氏である。


…走れない馬は馬主にとって損でしかない。普通の馬主ならばここで引退をするのが賢明な判断とも言えるだろう。しかし今現在オフサイドトラップに種馬の道は無い。その上小さな馬体は乗馬にも向かないため引退はすなわち死を意味していた。それに加えオフサイドトラップの血筋は渡邊オーナーの父喜八郎氏の大事に守ってきた血統でもある。この二つの要素が、渡邊オーナーの決断に大きく影響したのは間違いないだろう。しかし全くの見立てがなかったとも言い切れない。デビュー前から脚に不安を抱えてきたオフサイドトラップに対し、加藤調教師は全力での追い込みを控えながら調教していたのだ。それでもなおクラシックの舞台に躍り出ることのできたオフサイドトラップ。彼の未完の器に対し、渡邊オーナーにもいつしか大成する予感があったのかもしれない。
兎にも角にもオフサイドトラップは現役続行、すなわち生きるチャンスを得ることができた。しかしながら、馬主による採算度外視の決断はオフサイドトラップと陣営を暗く重い未知の領域での戦いに誘った。
椎名厩務員はこれまで以上に必死で看病し、加藤調教師は調教を負担の少ない坂路のみに絞った。それに加え屈腱炎に温泉が効果があると聞けば温泉に連れていき、馬肉を貼れば腫れがひくと言われれば馬肉を貼るなど藁にも縋る思いで治療に奔走した。


だが前回のように5か月では到底回復などせず、結局戦線復帰したのは10か月後…1995年12月であった。
復帰戦は前回同様OPディセンバーSである。さすがにファンの心も離れていたのか、あるいは主戦騎手の安田富雄騎手から加藤和宏騎手に乗り替わったことも影響したのかオッズは5番人気にまで落ちる。しかしオフサイドトラップは直線から力強い末脚で先頭集団に食らいつき、前回同様に3着でゴールする。



……しかし
必死の努力をあざ笑うかの如く、彼の脚に魔の手が忍び寄る。






屈腱炎再悪化






元々回復したわけではなく、症状が安定しかろうじて走れるようになっただけだった。だがそれを祟ってか脚は再悪化をしてしまう……「不治の病」を抱えレースに臨むというのはこういうことだった。繰り返すようだが普通ならばこれは有無を言わさず引退して然るべき怪我である。そしてオフサイドトラップはまたしても長い療養期間に入ることとなる。もはやここまで来た陣営の思いは一つだった。
「とにかく、オフサイドトラップを走らせれるようにするんだ…」
再び陣営の必死な治療が行われる中ニュースが入る。同期にして三冠馬に名を連ねた、あのナリタブライアンが引退を発表した。原因は屈腱炎だった。


1996年11月…なんと11か月の療養を挟みオフサイドトラップは戦線復帰をする。
OP富士Sで4着をとり、三年連続でOPディセンバーSに出走。クビ差の2着だった。
その後は重賞中心でのレースを行う。GⅡアメリカジョッキーズクラブカップ、4着。GⅢ東京新聞杯、3着。GⅢ中山記念、4着。GⅢダービー卿チャレンジトロフィー、2着。好走を繰り返したからかどれも2~4番人気の高評価だった。
しかし勝てない。長期療養後はどれも好走こそすれどなぜか勝利に手が届かない。


……そして
次走であるGⅢエプソムC(4番人気)で三度目にして中山金杯以来の掲示板外着である6着に沈んだ後、陣営を絶望の底に突き落とす報せが入った。






屈腱炎再再発






6歳~7歳 三度目の長期療養

もはやここまでだ…
誰しもがそう思った。





















「もう一年だけ走らせよう。」
長く悩んだ末に加藤調教師は言った。
そして渡邊オーナーは、それを了承した。
陣営の鬼気迫る願いと執念がそこにはあった。


同期はほとんど引退していた。ナリタブライアンを始めとするダービーを共に走った馬はもはや一頭も残っていない。GⅢ中山金杯でオフサイドトラップを負かし、その後は両足骨折で死の淵を彷徨いながらも頂点に君臨したサクラローレルでさえまたしても屈腱炎で引退していた。
サクラローレルは「晩成馬」と言われる。だがオフサイドトラップは未だ重賞を未勝利、さらに脚に爆弾を抱えながら、そのサクラローレルよりも長く現役を続けていた。もはやそれはおおよその常識からかけ離れたものであった。
1998年3月、オフサイドトラップは7歳にして不治の病を三度退け4度目の現役復帰を果たした。



7歳~新潟記念 復活の日

もはや彼がナリタブライアンとダービーを走った馬であると何人が分かっていたのだろうか…OP東風Sでは7番人気(10頭立て)だった。しかしそれでも例のごとく好走し、されども2着になる。続くOP韓国馬事会杯も2着、GⅢ新潟大賞典では最も好走しついに初の重賞を勝利するかと思われた。しかし、脅威の粘りを見せる逃げ馬サイレントハンターにクビ差届かず2着で終わる。思えばまるでデビュー時から何かが頑なに勝利を拒むかのように、勝てそうな所で勝ちきれないレースがずっと続いていた。さらに続く二度目のGⅢエプソムCは3着であった。
ここで陣営は思い切った決断をした。騎手の乗り替わりだ。
長年の相棒であった安田富男騎手から蛯名正義騎手に鞍上を替えた。
そして次走GⅢ七夕記念、前4走の好走によりオフサイドトラップは2番人気に推し直されていた。


……レース展開は思いもよらぬ方向へ動き出す。16番人気であり同じ7歳馬であったタイキフラッシュが予想外の逃げを行った。はじめは誰しもがバテると予想したが彼は自ら作ったレース展開を最大限活用し、追跡者を寄せ付けない。
このまま逃げ切ると皆が思ったその時、一頭の馬が前に躍り出た。
オフサイドトラップだ。小さな体とずたずたの腱で力強く走り抜ける。おおよそ7歳とは思えぬ末脚でタイキフラッシュに追いすがる。そしてゲート直前、ついに彼はゴールを一番で抜けた…


オフサイドトラップは重賞を勝利した。7歳にして初、前回の勝利から実に4年と5か月が経過していた。陣営と彼の常軌を逸したたゆまぬ努力が5年の時を経てついに結実した。
続くGⅢ新潟記念、彼は最終直線にて伸びきれず3着に甘んじるかと思われた。しかしここでも末脚が2度伸びる。今度はハナ差で、彼は重賞連勝を遂げた。
夏のローカル戦ではあるものの地獄の淵を彷徨っていた7歳馬が重賞を2連勝した。捲土重来のごときその活躍はまるで何か憑き物が落ちたかのようでもあった。
あるいは、別の何かが憑いたのかもしれない



秋の天皇賞 再来

7歳にして絶頂期を迎えたオフサイドトラップ。彼の次走はGⅠ秋の天皇賞に決まった。
オーナー渡邊隆氏の父喜八郎氏の愛馬プレストウコウが春秋共に予想外のアクシデントに見舞われ二度も盾の戴冠を成し遂げられず、その後は氏の悲願となった天皇賞。その息子隆オーナーの所有馬エルコンドルパサーに並ぶ稼ぎ頭であり、親子二代で培った血統を持つオフサイドトラップがそこへ挑むのは至極当然の帰結だった。*4


しかし問題が起きる。蛯名正義騎手は秋の天皇賞において彼のお手馬であるダイワテキサスに騎乗することが決まったのだ。急遽代わりのジョッキーを指名することとなり、オフサイドトラップの前走新潟記念にて二着でもあるベテランの柴田善臣騎手に白羽の矢が立つ。…その後、ダイワテキサスが故障により秋の天皇賞を回避することとなる。しかし加藤調教師は「一度決めたことなので変わらずお願いする」と柴田騎手を指名し続けた。この選択が果たしてどうなるのか…それは誰にも分からない。


オフサイドトラップはナリタブライアンに敗れたダービーから4年の月日をかけついに1998年11月1日、帰ってきた。同期は誰一人として残っていないGⅠの大舞台に…その上あのナリタブライアンは、1998年9月27日に胃破裂ですでにこの世を去っていた。同期の怪物が栄光をほしいままにしていたその時、死の狭間を彷徨っていた馬はその怪物が生涯に幕を閉じた時もまだ走っていた。



……だが、1998年11月1日の東京競馬場…この年の秋の天皇賞は何かが違った。ほとんどの観衆の注目は「ある馬」に注がれている。






“異次元の逃亡者”サイレンススズカ






あの武豊騎手をして「理想のサラブレッド」と言わしめた、希代の逃げ馬にして言わずと知れたスターホースである。彼は秋の天皇賞に望む前に重賞5連勝を含む6連勝を成し遂げ前走、前々走ではそれぞれグラスワンダー・エルコンドルパサー・エアグルーヴといった名馬たちから逃げ切る快進撃を見せていた。彼はGⅠであるにも関わらず1.2倍という驚異の支持を受けていた。それは4年前にしてオフサイドトラップの前回走ったGⅠでもある日本ダービーにて、ナリタブライアンの受けた支持と全くの同率でもあった。なんというめぐり合わせなのだろうか。オフサイドトラップが長く苦しみぬいた果てに戻ってきたダービー以来の東京競馬場には、前回の相手に匹敵する圧倒的な強者が待ち構えていた。


会場に詰め掛けた競馬ファン、そして専門家の誰もが
「よほどのことが起きぬ限り秋の天皇賞はサイレンスズカで決まりだ。」
と考えていた。
夢は望みになり、望みは確信に変わり、さらに先まで夢は膨らんだ。
「サイレンススズカと武豊がどう勝つのか。果たしてレコードを打ち立てるのか。さらに予定されているJC、そしてアメリカ遠征でも華々しい成績を、すべての人を魅了する圧巻の走りを見せてくれるのだろうか…」
話はサイレンススズカでもちきりだった。その当時秋の天皇賞には「一番人気は勝てない」「大欅には魔物が潜んでいる」などというジンクスがあった。しかし観衆は『サイレンススズカはそのジンクスを破る』だと確信し夢を乗せ、サイレンススズカと武豊も期待に応えるべく生涯最高のコンデイションで望んでいた。


愛馬を送り出す陣営、そして騎乗する騎手の中で一位を目指さぬものなどいないだろう。
しかしこのときばかりは、サイレンススズカ陣営以外で確信をもって勝てると考えていたものはどれほどいたのだろうか。
前年度覇者・エアグルーヴの連戦回避、毎日王冠で煮え湯を飲まされたグラスワンダー・エルコンドルパサーの○外出走不可はあったにしても歴史と権威ある天皇賞にてフルゲート18頭が揃わず、僅か12頭立てであったことが如実に示している。
しかし出て来る強豪も当然ながらいる。春の天皇賞覇者メジロブライト・前年度有馬記念覇者シルクジャスティス・宝塚記念2着のステイゴールドなどをはじめとする馬たちがサイレンススズカを仕留めるべく参戦していた。
オフサイドトラップはそれらの中にあって6番人気であったが、にわかな予感もあった。父トニービン産駒の特徴で東京競馬場とは相性が良いとも言われている。*5更に最終追い切りでは過去最高の状態を見せていた。加えて前2走での劇的な復活も相成っていたこともあり、彼もまた生涯最高のコンディションで秋の天皇賞に挑んでいた。
運は天にあり。大舞台のチャンスに全身全霊、すべてを賭けていた。
だが彼に対する陣営の、そして少なくとも会場に駆け付けたファンの気持ちは同じだっただろう。



「無事に戻ってきてほしい。」



パドックには誰がつけたのか「全馬無事に戻ってきてね」という横断幕が貼られていた。
そしてゲートは開いた。


沈黙の日曜日

レースが始まると同時にサイレンススズカは飛び出し後続との差を開きながら快速で飛ばしていった。オフサイドトラップは連勝中に見せた中団待機の戦法を捨てて2番手の逃げ馬サイレントハンターの次、単独3番手につけていた。彼はこの時力を抑えることもなく、走りたいように走っていた。
しかしサイレンススズカは見ている次元が違う。グングンと後続との差を広げ1000m57秒4という驚異のレコードタイムで逃げていた。普通ならばすぐにバテるであろう。しかし今日逃げているのはサイレンススズカなのだ。12頭立てにして超縦長の展開により実況のカメラは全馬を収めるため見たこともないほど縮小していく。観客たちはまるで前祝いかのように歓声を上げていた。


サイレンススズカはさらにペースを上げ、単身で東京競馬場名物の大欅を過ぎて最終コーナーへと向かっていく……






……だが






『ああっとサイレンススズカ!サイレンススズカに故障発生です!何という事だ!4コーナーを迎える事なくレースを終えた武豊!沈黙の日曜日!』


なんと彼は走り終えることなく骨折によりその脚を止めた。観衆の悲痛な叫びが響き渡る。彼は必死に耐えた。コース上で走りを止めた馬は後続を巻き込み大惨事を引き起こす恐れもある。彼は鞍上の武豊を庇うようにコースの外側に逸れていく。沈黙の日曜日、現役最強馬サイレンススズカは圧倒的な実力をもってしてなお府中の魔物に喰われてしまったのだ……






……その瞬間、ほとんどの観衆からは結果など忘却の彼方に忘れ去られた。その時多くの人にとって、1998年秋の天皇賞に価値はなくなってしまったと言えるだろう。


それでもレースは続いている。
そこに意味を見出すのは数少ない人々、何よりレース上にて疾風の中駆け抜ける11頭の優駿と11人の騎手に他ならない。


勇気一つを友にして

柴田騎手は外側に逸れるサイレントハンターを見た。それはまるで何かを避けてるかのようであった。
それを見た柴田騎手は冷静に状況を推察した。



「サイレンススズカになにかアクシデントがあったんだ。」



しかしそれにとどまらない。氏は起きたことに対し騎乗馬に対し何ができるのか、その後の展開を組み立てた。



「東京競馬場の構造上サイレンススズカはレーンの外側に避け、内側が空くのではないか?」



…だが鞭を入れ加速したい気持ちを抑えた。オフサイドトラップの末脚は長くは続かない。加速するのは東京競馬場の長い直線コースに入ってきてからだ。
柴田騎手はじっと抑え第4コーナーに差し掛かる。予想通りだった。サイレンススズカは外側に逸れさらにそれを受け後続のサイレントハンター、その上第4コーナーで距離を詰めてきたメジロブライトまでが不利を食らっていた。柴田騎手は落ち着いてオフサイドトラップを最短コースに導く。そして最も有利な形で最終直線へと入った。


オフサイドトラップは先頭との距離を詰め必死に走った。柴田騎手は後続がすぐに追いかけてくると予想していた。だが誰も伸びてこない。府中に起きた悲劇の最中、最も状況を俯瞰で捉えていた一人と最も長く走りもがき苦しんだ1頭のみが状況を冷静に捉え走っていた。残り400m地点、先頭のサイレントハンターを抜かす。不利を食らったメジロブライトと共に馬群に沈んでいった。
だがただ一頭、ステイゴールドが馬群を飛び出してきた。鞍上はあの蛯名騎手だ。ステイゴールドの飛ぶような末脚は着実にオフサイドトラップへ追いすがる。陣営は必死に祈っていた。どうかあと少しだけ粘ってくれ……だがステイゴールドは追いすがり、ついに二頭一列に並ぶ。オフサイドトラップ悲願のGⅠ勝利はステイゴールドにとって代わると思われた…


……恐らく、何もないだだっ広い平地であったら一秒と持たずに抜かされただろう。しかしステイゴールドを栄光の前で長らく踏みとどまらせオフサイドトラップと同じ年数、これから彼を長い旅路に追い立てる悪癖の一つがここでも起きてしまう。左への斜行癖だ。
彼はオフサイドトラップに追いすがり追いつくとも同時に内ラチに突進するかの如く左へ進んでいった。そして追い抜くと思われた刹那、彼は内ラチを沿うようにして失速していった…






未だサイレンススズカの悲劇にどよめきが上がる中ファンと陣営が目にしたものは、オフサイドトラップが一着でGⅠのゲートを抜けるさまだった。7歳馬での勝利…G1ではスピードシンボリ以来の26年ぶりであり、天皇賞では初という快挙となる。屈腱炎を三度克服した馬ではこれまで一頭もいなかった。恐らくこれからも現れることはないだろう。東京競馬場が不吉などよめきに包まれる中柴田騎手はまず力強く右手を掲げ、次にオフサイドトラップを労い優しく頭をなでた。


栄光なき勝利

陣営は愛馬を出迎えた。
渡邊オーナーは父の夢であった天皇賞をついに我が物にした。
加藤調教師は因縁深い不治の病からついに愛馬を守り抜いた。
椎名厩務員は5年もの長い苦労と苦悩がついに報われる時が来た。
氏はこの時のことを「僕の馬は何度も地獄の淵を彷徨ったんだ。勝てた理由は、いままで生きていられたから。馬主さんが馬を大事にする人で本当によかった。」と語っている。


だが、観衆はオフサイドトラップを快く出迎えなかった。
殆どの視線は競争を止めたサイレンススズカに注がれている。実況のテレビ中継も神妙な様子で事実とサイレンススズカの安否を祈るばかりであった……




アナ:柴田善臣騎手です。おめでとうございます。
柴田:ありがとうございます。
アナ:検量室に戻ってきたとき思わずヨッシャという雄叫びがありましたけども。
柴田:気分よく競馬できたので、成績がこういう成績ですので、まあ笑いがとまらないって感じです。
アナ:スタートから道中どうですか?
柴田:本当に気分よく馬が走ってくれたので、僕としてはただ乗っているだけという感じでした。  
アナ:サイレンススズカにアクシデントがありましたけれど、その辺りは気がつかれましたか?
柴田:だいぶ手前で気がついて、サイレンススズカがどっちの方に動くのか心配になりましたけど道が上手く空いてくれたので、それをサイレンスと一緒に入るようなことになったんですけどうまく捌けて。サイレンススズカにはちょっと気の毒でしたけど。
アナ:直線も力強かったですね。
柴田:そうですよね…何で後ろ来ないのって感じでしたけどね。
アナ:初騎乗ですね。オフサイドトラップ。
柴田:はい。
アナ:8歳馬*6にしてのG1。すごい馬ですね。
柴田:大した馬です。偉い馬です。
アナ:オフサイドトラップに一言。
柴田:本当に頑張ってくれたので。僕は何もしてないので、ありがとうと言ってやりたいです。
アナ:柴田善臣騎手でした。おめでとうございます。


~勝利騎手インタビュー~



柴田騎手は上記のインタビューにて特に「笑いが止まらない」という部分でサイレンススズカファンを中心にかなりの顰蹙を買ってしまった。
だが、柴田騎手は少なくとも『サイレンススズカを貶す意図』はない。彼はサイレンススズカの安否も心配している上に、その言葉は苦労を重ねたオフサイドトラップへと向けられている。
何よりも勝利騎手インタビューはまず騎乗馬や陣営、そしてファンのためにあるものでもある。
これに対し「不謹慎だ」などと言うのはお門違いも甚だしいと言わざるを得ない。


柴田騎手はその後ウィナーズサークルにて「数少ないオフサイドトラップファンの皆さん、応援ありがとうございました」と呼び掛けている。






…その後サイレンススズカは懸命な治療がなされたが回復には至らず、残念ながら安楽死の措置が取られてしまった。そして後世において1998年秋の天皇賞は多くの人々に『オフサイドトラップが勝った』レースとしてではなく『サイレンススズカの悲劇の舞台』として記憶されることになる。だがこのレースはオフサイドトラップやサイレンススズカ、そして出走した馬たちの皆がそれぞれ全力を尽くしゴールを目指した結果でしかない。それを貶める事は競馬自体、ひいてはスポーツ全般の意義を否定するも同義である事を努々忘れないように。




果しなき流れの果に

オフサイドトラップはその後、年末のグランプリ有馬記念に出走。だがグラスワンダーの遥か後の10着に沈んだ。有馬記念はファンからの人気投票で選ばれるため、ファンが用意してくれた栄光の花道とも言えるだろう。この1戦を引退レースとし、ターフを去った。
期待を背負い故郷から飛び立ったオフサイドトラップ。彼は紆余曲折を経て数多の絶望を乗り越え、ついに故郷へ凱旋した。常に一番近くで支えてくれた相棒である椎名厩務員との別れの時、彼は何か悟っていたのかいつになく甘えていた。


引退後は種牡馬になったが、その生活もまた恵まれたものではなかった。
「現役時に怪我の多いこと」
「勝ち鞍であるはずの上記の天皇賞の影響」
「種付け技術の向上」
が重なることで種付けの機会が失われ、数や質はおおよそ天皇賞馬とは思えぬものとなる。
結局彼は目立った子孫を残せないまま、2003年に早々と種牡馬を引退した。



その後は繋養先となった観光牧場に引き取られ功労馬として平穏無事に暮らす。*7
そして2011年8月29日、20歳で亡くなった。
引き取り主の方曰く「GⅠ馬らしい最期だった」という。






フィクション作品への登場

漫画『馬なり1ハロン劇場』に計4回登場。
1回目(6巻「最強の宅配便」)では日本ダービーに出走したトニービン産駒の一頭、2回目(6巻「どっちが得か考えてみよう?」)では同期達が次レースを選ぶ際の対戦候補、3回目(7巻「チョコちょ~だい」、バレンタインS回)ではラスト一コマでノーザンプリンセスからの手作りチョコを手にした馬と地味な役だったが、4回目(18巻「観戦会」)はメインキャラに抜擢。初年度産駒がデビューする2002年に「サッカー系名前」繋がりでサッカーボーイの元に招かれ、彼とワールドカップ…ではなくボーイの息子が出るラジオたんぱ賞を観戦している。
なお同作は1998年後半連載を休止していたため天皇賞(秋)は漫画化されなかったが、15巻「おやぢギャグ」にて当時8歳(現7歳)のダイワテキサスが重賞連勝からのオフサイドトラップの最年長天皇賞勝利超えを目標にし、彼の偉業が前向きに認められていた。




追記・修正は、鋼の意志でお願いします。


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  • 類義語:ダンツシアトル -- 名無しさん (2021-05-05 11:50:43)
  • ウマ娘で唯一存在から消滅がほぼ確定してる競走馬(上記天皇賞(秋)がアニメでもう既に描写済みだがそこを同一馬主だったエルコンドルパサーが勝っててオフサイドトラップ存在すらしてない) -- 名無しさん (2021-06-07 15:24:20)
  • 怪我や痛みの恐怖は想像を絶するだろうけどそれを乗り越えて走った果ての勝利、スズカの悲劇の印象が強いけど彼の不屈の精神も忘れないであげて欲しい。 -- 名無しさん (2021-09-18 09:50:44)
  • 確かにオフサイドはファウルだが…レッドカード出すのはやりすぎだと思う -- 名無しさん (2021-10-05 11:38:19)
  • 編集してて気づいたけど、加藤調教師はオフサイドトラップが亡くなった翌年に亡くなってるらしいね… -- 名無しさん (2022-04-08 14:07:07)
  • >あるいは、別の何かが憑いたのかもしれない
    同じ屈腱炎でターフを去らざるを得なかった同期たちの後押しだったんじゃないかと今でも思ってる -- 名無しさん (2022-04-08 14:49:47)
  • この馬とダンツシアトルとプレクラスニーは似ている…気がする -- 名無しさん (2023-01-17 03:09:51)
  • 現役期間の半分以上が闘病生活のオフサイドトラップに無事之名馬はずいぶんと皮肉がきいてる -- 名無しさん (2023-08-10 01:10:46)

#comment

*1 渡邊オーナーの父 渡邊喜八郎氏も馬主であり、史上初の葦毛クラシックホースであるプレストウコウの馬主で知られる。トウコウキャロルは喜八郎氏が所有するミヨトウコウという牝馬の娘であった。
*2 引退馬の主なセカンドキャリアとして乗馬があるが、馬体が小さいとその引き取り手も見つからずに廃用となる場合が多い。
*3 サクラローレルは中山金杯勝利後に両前脚骨折によって死の淵をさまよい、その後も怪我に苦しめられる。彼もまた絶望と戦い続けた馬であった。
*4 当時○外(外国産馬)にはクラシック三冠と天皇賞への出馬資格がないためエルコンドルパサーは出馬できなかった。
*5 余談だが、サイレンススズカは母ワキアへのトニービンの種付けの予定がうまくいかず代理でサンデーサイレンスに種をつけられ生まれたというエピソードがある。
*6 旧馬齢表記
*7 初めに繋養先となった牧場は経営不振で閉鎖されてしまったものの、引き取り手が見つかり次の繋養先が決まったという。功労馬でも人知れず処分されてしまう例はあるため、この点は幸運であったと言える。

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