ナカヤマフェスタ(競走馬)

ページ名:ナカヤマフェスタ_競走馬_

登録日:2012/10/09(火) 02:12:36
更新日:2023/08/18 Fri 11:49:43NEW!
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『ナカヤマフェスタ頑張った!2番手!』



ナカヤマフェスタは、日本の競走馬。
ウマ娘 プリティーダービー』におけるナカヤマフェスタはこちら→ナカヤマフェスタ(ウマ娘 プリティーダービー)


【基本データ】

生年月日:2006年4月5日
父:ステイゴールド
母:ディアウィンク
母父:タイトスポット


通算戦績:15戦5勝[5-3-0-7]


主な勝ち鞍
2008年
東京スポーツ杯2歳S(G3)


2009年
セントライト記念(G2)


2010年
宝塚記念(G1)


【血統背景】

母ディアウィンクは

  • 父に米国芝G1での2勝を含む重賞7勝を挙げたタイトスポット
  • 母父になぜか日本では根付かないことに定評のあるダンジグ系の大種牡馬デインヒル
  • 母のセイレイも条件戦とはいえ中央競馬の芝2400-2500mで2勝を挙げた

という血統で、正直芝の方が向いていそうなものだが、
馬体重にして490kg前後と大柄で骨張った体型のせいかダート短距離路線で走り、20戦1勝[1-3-4-12]に終わった。
引退後は新井牧場に預託され、繁殖牝馬に。
見た目通りがさつで気が強く、あまり牝馬らしくない彼女は、程なくして牧場の繁殖牝馬たちのボスの座に収まった。


対する父ステイゴールドは

  • 社台グループの実績種牡馬が名を連ねながら、5代血統表にクロスがひとつもない超良血
  • 芝中長距離G1の20戦を含む5年50戦で着実に賞金を稼ぎ、微塵の衰えもなく引退に至る頑健さ
  • 特に最終年はG2とは名ばかりの魔境ドバイシーマクラシックと、G1香港ヴァーズを共に届くはずのない距離から異次元の末脚で差し切って勝利。内国産馬初の海外G1制覇でJRA賞特別賞を受賞

といったセールスポイントを持っていたが、
これは「極めて高いポテンシャルを台無しにする気性難」「5年も走ってようやく馬体が出来上がる程の晩成」という短所と不可分であり、
このため社台SSの錚々たる面子よりは一段下に評価され、日高と新冠の牧場を往復するシャトル種牡馬になった経緯を持つ。
馬体重430kg程度の小柄で華奢な姿は不安要因だったが、配合に困らない良血馬が安価で種付けできるということで中小牧場から人気を集めた。


そんなステイゴールドがディアウィンクの3頭目の配合相手に選ばれたのは2005年のこと。
種牡馬生活4年目で初年度産駒がデビュー直前であるが、「小さな産駒は売れにくいかと思ったら意外と良い値が付いた」「種付けが凄く上手い。お産も楽。産駒も健康で手が掛からない」と中小牧場にとって非常にありがたい特徴が評判となり、種付けの申し込みが増えていた時期であった。


【誕生からデビューまで】

産まれは北海道むかわ町にある家族経営の小牧場・新井牧場。


評判通りのスムーズな種付け・安産で生まれた「ディアウィンクの2006」。
生産者目線では何とも評価しがたい馬体ではあったが健康なのは間違いなく、それでいて聞き分けの良い素直で賢い仔馬だった。


2007年7月、セレクトセール2007に上場された幼駒は、「ナカヤマ」冠名でお馴染みの和泉信一氏、その代理人として来場していた二ノ宮敬宇調教師によって落札される。


同じステイゴールド産駒で(この時点では)あまり良血とは言い難いドリームジャーニーが朝日杯FSを快勝した翌年ではあるが、これが一発屋である懸念もあってか「非ブランド品」*1のディアウィンクの2006の値段は然程吊り上げられることはなく、落札価格は1000万円。


値段が手頃だったというのもあるが、その馬体に師がかつて調教助手時代に携わり、自らの「理想のサラブレッド像」と心に刻んだイーストボーイ*2の面影を見たのだという。


信一氏の娘である信子氏の持ち馬となり、冠名+「お祭りしましょう」と願いを込めてナカヤマフェスタと命名された。


ファンタストクラブ木村牧場で馴致訓練を受け、美浦トレセンの二ノ宮厩舎に入厩。


【デビュー、垂れ込む暗雲】

2008年に東京競馬場でデビュー。
新馬戦を勝ち、東京スポーツ杯2歳S(G3)を連勝し、2歳時点で有力視され早くから頭角を示す。
しかし勝者であるナカヤマフェスタが検量室へ戻ってこない。コーナーのポケットに入ったまま、脚を踏ん張って歩こうとしないのである。


ステイゴールド産駒独特の気性――常に自らの頭で考え、納得していないことは頑として拒否する気性が早くも鎌首を擡げ始めていた。


朝日杯FS(G1)には出走せず、年明けの京成杯(G3)に出走。
敗れはしたものの、2着に入り中山適性も示しクラシックレースの中心的存在になる。








はずだった…。








皐月賞(G1)では中団で動けず全くいい所を見せられず8着に敗れる。


続く、東京優駿(G1)も生憎の不良馬場で4着まで追込むのがやっとだった。


クラシックで苦い経験をした陣営は悔しさを糧に秋に備えた。


【荒れ狂う悍馬】

夏休み明け、この辺りからナカヤマフェスタの気性は急激に悪化する。


調教中に立ち止まって動かなくなる。立ち上がって暴れる。仕舞いにはセントライト記念前の追切で馬場入り後に蛯名騎手を振り落とした。


割と現役中から「ネタ」を発信する栗東トレセンに対し、美浦トレセンはこの手の不利な情報は隠す傾向にある。
それでも外部に漏れ聞こえてくるほど、ナカヤマフェスタは荒れていた。


セントライト記念(G2)では春の鬱憤を晴らすように、中団から伸びて快勝*3


「中山初勝利のナカヤマフェスタ! ダービー4着馬!」(塩原恒夫アナウンサー)


だが上記のような有様では最後の一冠どころか鞍上の命すら危うい。



そこで菊花賞に向けて、馬の気性を改善すべく陣営は徹底的な躾けに踏み切る。
二ノ宮師自ら馬場に入り、足を止めるたびに鞭を入れ、言う事を聞かなければ強く叱りつけた。


しかし人がそうであるように、指導に対する反応も馬ごとに個性がある。
厳しい指導に発奮する者もあれば、心を閉ざす者も……ナカヤマフェスタは、後者の極端な例であった。


菊花賞(G1)では走る気を一切見せずに後方待機のまま12着でレースを終え、
ならばと、中日新聞杯(G3)の2000mに挑むがまさかのブービー負け。この2戦連続の大敗が、彼の存在を薄くしてしまった…。


この結果を受け、陣営は思い切って調教の方針を転換。
押さえつけるのではなく、馬の自主性を尊重し、自ら納得して動き出すまで時間をかけて待つことにした。


4ヶ月余りの休養、その間に馬主である信子氏が死去。ナカヤマフェスタの権利は信夫氏が引き継いだ*4


復帰戦は東京競馬場でメトロポリタンS(オープン)に出走。騎手は新馬戦以外の全ての手綱をとった蛯名正義から柴田善臣に乗替わった。


これが功を奏したのか先行し風格を見せつけ危なげなく勝利。
成長を垣間見せる。


次走はいきなりステップアップし宝塚記念(G1)に出走。


レースは休養明けで緊張したのかスタート直後に横っ飛びで出遅れ、リズムの乱れたドリームジャーニーを尻目にナムラクレセントやアーネストリーらが引っ張る展開で、ナカヤマフェスタは後方待機でレースを進める。
直線アーネストリーが抜け出し、押しきりを図るが名牝ブエナビスタがそれを捉える…という攻防の中で後方から一頭、次元の違う脚で跳んでくる馬がいた。








(まさかの)ナカヤマフェスタである。






失礼だが、この時、彼の圧勝する展開を誰が予想しただろうか…。
(この時、グランプリ三連覇のかかった同じステイゴールド産駒のドリームジャーニーがいたから尚更である。)


後に来年の宝塚記念を制した馬と、その後天皇賞(秋)やジャパンカップを制した他、数々のG1を湧かせた最強牝馬に並びかける間もなく抜き去ったのは紛れも無いこの馬の実力である。
この時ナカヤマフェスタは8番人気。スイープトウショウの11番人気に次ぐ低人気勝利であった。


なお鞍上の柴田善臣も宝塚記念初勝利。
「とにかく気分屋な馬なので、道中は気分を損ねないようにと思っていました。前走はあまりにもスムーズに勝てましたし、最近は変な格好して止まることもないみたい。今はいい気分で走れていますね。いい時期に乗せてもらいました(笑)。今日も道中はすごくリラックスしていましたね」

──柴田善臣騎手、勝利者インタビューにて


【チームすみれの花】

完全に覚醒した彼は、これを手土産にフランスへと渡った。そう、数々の名馬が挑み続ける凱旋門賞(G1)への挑戦である。


宝塚記念とダービーでの走りから重馬場適性が見込まれたことももちろんだが、宝塚歌劇とパリを愛した信子氏への弔意でもあった。


二ノ宮師は、エルコンドルパサーでの経験をフルに活かし、今までの主流だった直行プランではなく、現地で一戦使ってからのローテーションを選択。
二ノ宮厩舎に限らず最近では、'12年と'13年に凱旋門賞に挑戦した池江厩舎のオルフェーヴルも前哨戦を挟んでいる。
やはり、馬も現地に慣れた方が結果を出せるのだろうか?


ここ2勝を挙げた善臣だったが、海外経験を考慮し再び蛯名が主戦に復帰。
善臣さんカワイソス


この時、当時クラシックを沸かせたヴィクトワールピサもまた凱旋門賞を目標に共に渡仏。
ピサにとっては、ここでの経験が後にドバイで世界の頂点に立つ糧となった。


前哨戦としてフォワ賞(G2)に出走。
ダンカン(たけし軍団の人ではない)の2着に敗れはしたもののフランスの馬場でも力を出せることを証明する(ピサは3歳限定レースニエル賞(G2)に出走し4着)。
本番、凱旋門賞は後方寄りに控えるが仕掛け時に前が団子になる苦しい展開の中でも渾身の差しで伸びたが、イギリス馬ワークフォースを捉えるまでには至らず頭差で敗れた(ピサは出番無しの7着)。
しかし、エルコンの半馬身差よりも差は縮まり、日本馬が凱旋門賞を制するのもそう遠くないと感じさせてくれたレースだった。


しかし、帰国後は怪我もあり完全に燃尽き、翌年の凱旋門賞は全く出番なく敗れ引退を発表。



馳 そんな日本にいても難しい馬が、突然海外へ連れて行かれるとどうなってしまうんですか。


蛯名 実はこれがちょっと意外でして。ナカヤマフェスタにとっては初めて訪れる場所なので、どこへ行けば帰れるのかもわからないから、嫌々ながらも大人しくしていたんです。日本で見せていたような扱いづらさもあまりなく、調教も普通にできていましたね。


馳 慣れない環境というのが逆に良かったんですかね。ステイゴールド自身もそうでしたが、ステイゴールド産駒って、海外に行くと日本で見せたことのないようなすごい走りをするじゃないですか。環境が変わると、悪さをするタイミングもなくなっちゃうみたいなことなんですかね。


蛯名 馬の防衛本能なんだと思います。草原に放たれた馬がライオンに襲われないようにいつも緊張感を持っていないといけないというのと同じで、新しい環境に置かれると集中していなければならないという意識が働く。特にその本能に長けているのがステイゴールドの血統の特徴なのかもしれません。


馳 それはおもしろい話ですね。スタッフのみなさんはエルコンドルパサーで挑戦されたときよりも現地の環境に対応できていたんですか。


蛯名 ええ。引き受け先の厩舎も同じで、競馬場内でもどこに何があるかというのがわかっていましたので。そういう意味では初めて挑戦したときと精神的にはかなり違ったと思います。結果は2着でしたが、日本ではG1勝ちが一つだったナカヤマフェスタが好走したことで、日本の競馬界が凱旋門賞に積極的にチャレンジするようになる一つのきっかけを作れたんじゃないかと思います。


――翌二〇一一年には再びナカヤマフェスタで凱旋門賞に挑むことになります。


蛯名 ナカヤマフェスタは頭の良い馬でしたから、二年目の挑戦のときはもう環境に慣れてしまっていました。調教場の出入り口がどこにあるかも完全に覚えていて、調教中にいきなり帰ろうとするんです。反抗して動かなくなることもあったし、どこかへ行ったまま戻ってこないこともあった。乗り手を振り落とすこともあって、実際、僕も落とされました。


──「『フェスタ』連載スタート記念 馳星周 × 蛯名正義スペシャル対談」より




【引退後】

凱旋門賞奮闘の価値を認められ、ブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬入り。
丁度父・ステイゴールドがビッグレッドファームに移動したばかりで、専用の無口が出来上がっていなかったのもあって、ステイゴールドのお下がりを着用した。サイズもピッタリ。小顔である。


ステイゴールドは気心の知れたスタッフでも隙を見せたら躊躇なく襲い掛かって来るような暴れ馬であり
本馬自身も現役時代の酷い気性難が知られていたため、スタッフも戦々恐々と迎えたが……実態は拍子抜けするほど大人しかった。


「普段は大人しいけど、雨が降ると放牧に出たがらなかったり、天気が良くても気分がのらないと放牧地へ向かう途中で立ち往生したりと、気分屋なところはありますね。周りの状況、人や他の馬たちの動きをよく観察してから次の行動に出るような賢さは父と共通してます。自分の中で納得すればちゃんと指示に従ってくれますから、手にあまるわけではありませんしね。ステイに似てないところは、何と言っても攻撃性がないところ。これは助かります

──坂本教文場長


種付け自体は「ガツガツ行かずに牝馬の出方をじっくり窺うため時間はかかるが、乗ってしまえば上手いし早い」とのこと。
何をするにも納得するまで考える時間が必要な馬ナカヤマフェスタとは、つまりそういう馬なのだ。



種牡馬としてはフェスタの気性難をより酷い形で継承した産駒が多いせいで活躍馬に恵まれず、ステイゴールド産駒としても他にオルフェーヴル・ゴールドシップと人気種牡馬がいるため大苦戦し一時は種付け依頼が0になったが、
産駒の一頭ガンコがG2日経賞に勝利し辛うじてまた依頼が再開し種付けを再開。2020年にはセントライト記念でバビットが勝利している。
ただそのガンコも引退後函館競馬場の誘導馬となったため、サイアーラインの継続は現状かなり厳しいと思われる。





栄光と衰退を繰り返す様は、まるで打ち上げ花火のような一瞬の煌めき。


ドリームジャーニーとは、また違うお祭り男(フェスタ)だったと言えよう。


【余談】

ブリーダーズ・スタリオンステーションでは親父と馬房が隣同士だった。2頭で馬房に来た猫を寂しく見送る姿が撮影されている。


「引退後は穏やかになった」と聞いた蛯名正義騎手が牧場に行ったのだが、ナカヤマフェスタは立ち上がって威嚇した。




追記・修正は、
『我が競争に一片の悔い無し!』と唱えてからお願いします。
by ドリームジャーニー


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  • ステゴ系統らしいっつうか何ていうか -- 名無しさん (2021-11-11 17:25:19)
  • 現役時代は制御不能とすら言われていた気性難。今ではすっかり優しい子になっているという。相当レースが嫌いだった様子 -- 名無しさん (2021-12-14 02:38:38)
  • ステゴ産駒の中には性根が穏やかな代わりにレース絶対拒否勢が居るからなあ。脅しや八つ当たりではなく、「死に物狂いで拒絶してる」から気性が最悪と呼ばれる奴 -- 名無しさん (2021-12-17 20:51:42)
  • ↑ゴールドシップ辺りもそういうケがあったみたいだけど「素質は本物なのに調教(と延長線上のレース)は本気で嫌がるせいで肝心の競走馬として極めて扱いづらくヒト側からすれば“競走馬としては『気性難』”と見なさざるを得ない」というわけか……。ステイゴールドも「幼少期は大人しかったが競走馬として扱うための段階に入り出すと抵抗しだし凶暴になりだした」らしいしなあ……血は争えない過ぎる…… -- 名無しさん (2022-11-16 18:50:26)

#comment

*1 同セールでは同じステイゴールド産駒でも社台ファーム生産の「シャンティーフレイズの2006」が上場されていた。後にステイマックスとしてデビューするが、新馬戦は勝ち上がったものの以降は最下位近辺をさ迷い、去勢、転厩、障害転向から平地へ出戻りと迷走し、2011年引退。競馬学校の乗馬となった。実際に走らせないと分からないものである。
*2 日本の競走馬(1979.04.23-1983.12.04)。スピードに優れ、新馬戦を4馬身差で圧勝、2着2回を挟み京成杯3歳Sをレコードで勝利。クラシックの年は皐月賞6着の後長期休養に費やしたが、古馬となってからの復帰戦・京王杯スプリングHを勝利。以後4戦は3着以内に収める活躍を見せた。しかし当時まだ3200mだった天皇賞(秋)に挑戦した後はスランプに陥り、1983年愛知杯で故障、予後不良となった。勝利したのは1200~1800mで、距離延長が厳しい典型的なスプリンターだったと言える。距離別のグレードレースが整備されたのは、彼の死から明くる年であった。
*3 余談だが、このセントライト記念はステイゴールド産駒がよく勝つレースで、11年のフェイトフルウォー・12年のフェノーメノ、と連勝した。
*4 これに伴い鞍上の勝負服も変更

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