ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ

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登録日:2010/03/13(土) 00:06:33
更新日:2023/08/17 Thu 18:09:26NEW!
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ヤコプ・ルートヴィヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809年2月3日 - 1847年11月4日)とは、ドイツの作曲家・ピアニスト・指揮者。


指揮者を職業として独立させ、現在にまで至る指揮法を確立した創始者。また、バッハの音楽を復興させた功労者でもある。


そしてシスコンである。


後述の理由により、本人は「フェリックス・メンデルスゾーン」と名乗っていた。



生涯
1809年、ハンブルクのユダヤ人銀行家の家に生まれる。
父親の代でユダヤ教からプロテスタント(ルター派)に改宗し、父親はそれを記念して「メンデルスゾーン・バルトルディ」と改姓した。
しかしフェリックスは「そんな厨二臭い名前イヤだ」と言って、終生「バルトルディ」を使いたがらなかった。


6歳でピアノを始め、2年後の1817年にはパリやベルリンで音楽教育を受ける。
1820年にオペラやヴァイオリン・ソナタを作曲し、その1年後には「弦楽のためのシンフォニア 第1~6番」を作曲する。
1823年のクリスマスプレゼントに祖母から、バッハの「マタイ受難曲」の写筆スコアを贈られる。


1826年に「《夏の夜の夢》序曲」を作曲する。


1829年、マタイ受難曲の復活上演を行う。1835年にはライプツィヒ・ケヴァントハウス管弦楽団の指揮者となり、1841年にはベルリンの宮廷礼拝堂楽長に就任する。


1843年、ライプツィヒ音楽院を開校して院長となる。


1847年5月、姉のファニーが突然死する。


悲しみにくれたフェリックスは神経障害を起こし、一時回復するも11月4日に亡くなる。


最期の言葉は「疲れたよ、すげぇ疲れた」だった。



作品
【夏の夜の夢】
1826年に作曲した序曲を気に入ったヴィルヘルム4世の勅命で、1843年に劇付随音楽として作曲された。序曲と結婚行進曲が有名。
シェイクスピアの戯曲を元にしている。


【ヴァイオリン協奏曲】
ベートーヴェンとブラームスの作品を含む「三大ヴァイオリン協奏曲」の一つ。世界中のヴァイオリニストが憧れる名曲。


【交響曲第4番「イタリア」】
1831~33年にかけて作曲された交響曲。イタリア旅行中に書き始められ、躍動的で叙情に溢れる作品。



その他
一度見た楽譜や一度聞いた音楽を、完璧に記憶する能力があったという。


多数の言語を自在に操り、ドイツ語やラテン語、イタリア語、フランス語、英語を話していた。また、水彩画は画家顔負けの実力を持っていた。


姉・ファニーは女性音楽家の先駆者であり、弟・フェリックスの良きライバル・理解者であった。
ユダヤ人ゆえの迫害を受けるフェリックスを優しく慰め、二人でピアノを演奏したり絵を書くなどして、弟を精神面から献身的に支えた。
フェリックスは姉を、ツェツィー(洗礼名「ツェツィーリア」)と呼んで慕った。



死因はクモ膜下出血だったといわれるが、姉も父も突然死しており、何らかの遺伝的な病が原因ではないかと推測される。



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