ヤエノムテキ(競走馬)

ページ名:ヤエノムテキ_競走馬_

登録日:2023/07/29 Sat 02:48:18
更新日:2024/07/11 Thu 13:44:19NEW!
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競馬新時代の一翼担った名皐月賞馬 こよなく愛した「府中二千」

週刊100名馬No.6 ヤエノムテキ 表紙より



ヤエノムテキYaeno Mutekiとは日本の元競走馬


メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
ヤエノムテキ(ウマ娘 プリティーダービー)



目次


【データ】

誕生:1985年4月11日
死亡:2014年3月28日
享年:29歳
父:ヤマニンスキー
母:ツルミスター
母父:イエローゴッド
調教師:荻野光男 (栗東)
主戦騎手:西浦勝一→岡部幸雄
馬主:富士
生産者:宮村牧場
産地:浦河町
セリ取引価格:-
獲得賞金:5億1,830万円 (中央)
通算成績:23戦8勝 [8-4-3-8]
主な勝鞍:88'皐月賞、90'天皇賞(秋)


【誕生】

1985年4月11日生まれの栗毛の牡馬。
父のヤマニンスキーは重賞未勝利で、本来なら種牡馬になれるような実績では無かったが、父ニジンスキー、母の父バックパサーというマルゼンスキーと共通する血統だった為、マルゼンスキーの代用として種牡馬入りした馬。*1
母のツルミスターも4歳でデビューしたものの、球節をきたして上手く走れず、3戦未勝利のまま引退した馬にすぎず、血統背景は平凡で特に高い期待はかけられていなかった。
幼駒時代は他の馬と比較しても大柄な体つきをしており、牝馬の後ろを追っかけ回したり周囲の牡馬に相撲を吹っかけて下したりと非常に血気盛んだった模様。


母のツルミスターを管理し、ヤマニンスキーとの配合を進言した生みの親・荻野荻野光男厩舎でデビューすることになる。
しかし厩舎の調教助手は気性を嫌い誰も担当したがらず、アメリカで研修経験のある荻野光男調教師の長男・功が仕方なく担当したが調教は中々うまくいかなかった。むしろ陣営はヤエノダイヤという馬の方に期待を寄せていた。


【戦歴】

気性難の上に腰と前脚のコンディションも悪く、デビューは遅れることに。一時は獣医師から「普通に走るのもむずかしいかもしれない」と言われるほど危かった。
1988年、デビュー戦となる4歳新馬戦で勝利を飾り、次戦の沈丁花賞でも1着を飾り二連勝を飾る。
そして3戦目となったのが初の重賞戦であるG3の毎日杯。
これが後の最大の強敵であるかのオグリキャップと初めて競い合ったレースでもある。
同レースでは枠入り不良や慣れない重馬場といった要因に苦しめられ、後方から猛追してきたオグリキャップにもかわされ最終的に4着という結果に。


そして迎えるクラシック三冠1戦目となる皐月賞。中山競馬場が改修中のため12年ぶり東京競馬場での開催となった。
1枠1番という好ポジションからのスタートを切り、レース前半はサクラチヨノオー含めた前衛組を捉えつつ後方を走りながら息を潜め、最終直線の坂の手前で一気に加速、爆発的な末脚によって前を行くサクラチヨノオーをかわし、大外から猛追するディクターランドもかわしきって見事勝利。
同年代におけるクラシック三冠の冠の1つを得ると同時に、初の重賞及び芝レースの勝利がG1となった。
他にも「デビューから4戦目での皐月賞制覇」「11年振りの関西馬による皐月賞制覇」「騎手、調教師両者の初のクラシック優勝」「オーナー初の重賞優勝」といった数々の記録を残す結果となっている。


続くクラシック三冠目2戦目の東京優駿日本ダービー
皐月賞での勝利によって一気に注目の的となる中、サクラチヨノオーやメジロアルダン、その他サッカーボーイやコクサイトリプル、マイネルグラウベンといったライバルたち共に出走。
中断後方の追走から第三コーナー以降に追い上げを開始するも、皐月賞の時ほどの末脚は発揮できず、
前を行くサクラチヨノオー、メジロアルダン、コクサイトリプルの3等による競り合いを後方から眺める形で4着という結果に終わった。


サクラチヨノオーやメジロアルダンらクラシック期のライバルたちがケガでの長期離脱を余儀なくされる中、
ただ一頭、ヤエノムテキはその後もコンスタントに出走を重ね、OPレースのUHB杯やG2の京都新聞杯で勝利を重ねている。


そして11月、クラシック三冠3戦目となる菊花賞に出走。
しかし、スタート直後の直線以降は思うように伸びず、スーパークリークに突き放され、最終的に10着。
デビュー以来、常に入着を逃していなかった中での明確な、それも二桁台での敗北という苦い結果に終わる。期待されていた方のヤエノダイヤは神戸新聞杯を勝ちここでは7着だった。


その後も鳴尾記念や産経大阪杯などでの重賞勝利を重ねていくが、
同年の宝塚記念、天皇賞(秋)、有馬記念といったG1戦線では勝利を飾ることはできず、勝利が遠のいていく。


1990年の産経大阪杯での3着入賞を最後に主戦騎手が岡部幸雄氏に交代。
安田記念で2着、リベンジとなる二度目の宝塚記念で3着等、惜しい結果が続く中、
迎えることとなった1990年、こちらも二度目となる天皇賞(秋)。
岡部幸雄はメジロアルダンの主戦でもあったが、荻野師の「これで負けたら仕方がない」という調教を見て「勝つ確率はどちらがより高いか」という思想により、ヤエノムテキの騎乗を選ぶ。


当時平成三強の呼び名を得ていたイナリワンやスーパークリークはケガで離脱しており、ただ一頭、オグリキャップのみが共に出走。暴走するロングニュートリノ・ラッキーゲランを尻目に、ベテランの手腕で最内でジッと我慢させ、最後の直線でスッと前に出す。
同レースで伸びあぐねるオグリキャップを突き放し、最終直線で迫ってきたバンブーメモリー、メジロアルダンなどと接戦を繰り広げつつ、若手・横山典弘が大外から回してきた2着のメジロアルダンにアタマ差で1着。1989年産経大阪杯以来の1年以上ぶりの勝利にして2つ目のG1タイトル獲得となった。


天皇賞4勝目の岡部幸雄は「オグリ、アルダン、マキバサイクロンなどこれまで自分の乗ったことのある馬のなかから選んだ馬での勝利だけに気分がいい。春2回オグリキャップに負けているので、大一番で勝ててほんとうにうれしいですよ」とコメントしている。


ヤエノムテキのオーナーである(有)富士の社長、大池正夫氏は前年の大晦日に死去しており、正夫氏の妻である俊江夫人が表彰式に出席している。


その後出走したジャパンカップでの6着を経て、奇しくも同時出走なった1990年有馬記念。
返し馬で放馬してしまったアクシデントで緊張状態だった中山競馬場は盛り上がる。岡部幸雄は不満そうだが、ヤエノムテキなりのオグリキャップへの餞別だったのかもしれない。
2番手につける好スタートが最大の見せ場であり、伝説となったオグリキャップの復活優勝を後方で見据えながら7着という結果に終わり、共に引退した。
同世代に日本競馬史上でも屈指のアイドルホースであるオグリキャップが居た事から、その陰に隠れ過小評価されがちなものの、8勝の内の5つが重賞、G1タイトルも2つ獲得しているなど、平成三強の旋風吹き荒れた中で確かな結果を残しており、彼もまた紛れもない名馬である。
引退後、最優秀父内国産馬を受賞している。



東京の 二千に咲いた ムテキの舞い



【引退後】

引退後は種牡馬入り。内国産種牡馬として期待され、総額5億円の種牡馬シンジケートが組まれた。
種牡馬としてはそれほど目立った成績は残せなかったものの、産駒には東京湾カップやテレビ埼玉杯を制したムテキボーイなどがいる。中央では準オープンのユウキツバサオーが限界だった。
熱心なファンが結成した「ヤエノムテキ会」の会員がカイバ代を負担することでなんとか頑張り、2010年に種牡馬を引退するまで、13年で200あまりの産駒を残した。
日高スタリオンステーションで猫の「シロ」と遊びながら功労馬として余生を送った後、2014年3月28日に腸閉塞によって29年の馬生に幕を閉じた。


【創作作品での登場】

作品開始が1989年秋でかつ連載初期の未収録作品が多めのため、1990年有馬回等たまに「オグリの同期その1」くらいの扱いで顔と名前が映るくらいだったが、
引退から長い月日が経った2011年皐月賞編でメインとして登場し、かつての自分と同じ「東京競馬場での皐月賞」を同じ体験をした先輩達との観戦のため26歳という高齢ながら先に酒や座布団等を準備するバシリ役を担当
折角なので天国から降りてくる際若作りしてきたシンザン(1964年三冠馬)・メイズイ(1963年二冠馬)・キタノカチドキ(1974年二冠馬)・トウショウボーイ(1976年皐月賞)と言う錚々たる面子の中、シンザンがオルフェーヴルを応援するのを見守っていた。


実家に代々伝わるレースの流派で日々己を磨く武術家キャラのウマ娘。
性格も礼儀正しく古風で真面目な頑固者、と見せかけて根は血気盛んで結構子供っぽいらしい。


初出はスピンオフの漫画『ウマ娘 シンデレラグレイ』で、登場時の二つ名は「剛毅木訥武道少女」
本作中央編の裏主人公的存在でもあり、いくつかのエピソードが彼女視点で描かれている。


2021年4月下旬にサポートカードという形ではあるが、『シンデレラグレイ』初出のウマ娘では一番初めにゲーム内ユニットとして実装された。
同時に同期のサクラチヨノオーもイベントにモデル&声ありで登場している。
そして2022年4月19日に育成キャラとしても実装。これでオグリ世代としては5番目、『シンデレラグレイ』初出組では3番目のフル実装となった。


【余談】

4歳の頃は荻野厩舎の近所・庄野穂積厩舎のシヨノロマン(父・リードワンダー)に惚れていたらしく、調教にシヨノロマンが来ないか待つ、近くにシヨノロマンが来ると立ち止まるなどの行動を見せていた。残念ながら両者の交配は実現していない。


当時のファンの間では同期のバンブーメモリーと容姿が似通っていると評判だった。
実際の写真を並べると顔中央の白い流星部分、靴下も含めて、素人目には判断が難しいレベルである。


西浦騎手や岡部騎手は難しいヤエノムテキのことを考え、追い出しのタイミングをじっくり練り上げ、我慢できる競馬を教え込んでいた。種牡馬引退に際しては「環境や設備が整い、若い頃からずっとムテキをお世話して下さった担当者の目が行き届いたところでムテキの余生を過ごさせてあげたい」というファンの意向で日高スタリオンステーションで最期の日まで暮らすことができた。人との縁に恵まれた馬である。


気性難は最期まで治らなかった。「ぐいっぽ」という「グエッ、グエッ」と音を出しながら吸い込んだ空気を胃腸に入れる悪癖を繰り返し、場合によっては命の危機につながるため牧場関係者に頻繫に𠮟られていた。とはいえ、やんちゃで愛嬌のある馬だったそうだ。


1993年春、新冠町農協畜産センターで種牡馬をしている時、マナーの悪い見学者にたてがみや尻尾の毛を強引にむしりとらえ、暴れ狂う事件が起きた。それ故に長い間見学禁止になったという。


ヤエノムテキより期待されたヤエノダイヤは菊花賞後OP2着2回した程度で引退した。スーパークリークを破る実力馬だったが陣営は距離適性を見定めることができなかったようだ。種牡馬引退後、新ひだか町の中橋牧場で余生を過ごし、2014年頃に亡くなったそうだ。



ありがとう 美しき四白流星

優駿メモリアルパーク・ヤエノムテキ墓碑



追記・修正は、バンブーメモリーとヤエノムテキを見分けられる方がお願いします。


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  • 皐月に秋天、その他重賞もいくつかと間違いなく当時の強豪競走馬の一角、だけどその更に上を行く三強がいた時代というのが過酷すぎたのかなと… -- 名無しさん (2023-07-29 06:39:01)

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*1 とはいえ代用種牡馬としては十分すぎる成功を収めることとなるが、その初の重賞馬およびG1馬がヤエノムテキとなる

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