洪武帝/朱元璋

ページ名:洪武帝_朱元璋

登録日:2020/08/23 Sun 02:08:46
更新日:2024/05/23 Thu 10:13:52NEW!
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朱元璋しゅげんしょう(大元天暦元年(1328年)~明洪武三十一年(1398年))とは、モンゴルのくびきを打ち破った英傑であり、乞食山賊上がりの素性怪しい輩であり、献策諫言を受ける度量を持つ賢人であり、文人を憎悪する無学の徒であり
民を安んずる政策を取る聖王であり、功臣殺戮に明け暮れた邪悪であり、家族を溺愛する素朴な男である。


え?属性が矛盾している?事実なんです…




生涯

果てなき地獄の底から

大元の天暦元年(1328年)、現在の安徽省鳳陽県の農村で朱五四*1と陳氏*2の間に末っ子として生まれる。
従兄弟も含めて八番目の子だったため、重八と名付けられた*3。朱五四は貧しい小作農でしかなく生活は苦しいの一語であったと思われる。
さらには大元は朱元璋が生まれた頃には大元の人材登用の弱点故に無能が多く高官についていたり、その無能らが汚職や収奪を繰り広げ民を苦しめ
クビライの孫で後継者だったテムルが早逝した後は後継者候補が軍閥などを巻き込み不毛な後継者争いを繰り返し、延祐7年(1320年)からの13年に至っては7人の皇帝が立っては排除されるのを繰り返し国中が疲弊しきっていた。
折り悪く14世紀は小氷期に突入しており天候不順に見舞われ飢饉が増加しており*4、終いにはパクス・モンゴリカと呼ばれるユーラシア大陸の大部分にもたらされた安寧と活発な交易が仇となり
当時致命的な死の病であり、感染拡大を防ぐ術が浸透していなかったペストのパンデミックが発生しユーラシア大陸を飲み込んでいた。
13年で7人もの皇帝が立っては消えた理由は権力争いもあるが、基盤がガッタガタなのも大きな原因であろう。
上も下もドッタンバッタンユーラシア中を軋ませながら破滅に突き進む、そんな時代だった。


そんな地獄のような情勢下で父が至正4年*5(1344年)に黄河の氾濫に飲まれて死ぬと朱一家は「詰み」を迎えた。
飢饉に巻き込まれて重八を残し、実家に残っていた家族は全員餓死という悲惨な結果を迎えてしまったのだ。
重八はなんとか生き延び皇覚寺という寺に身を寄せるが、貧農の末っ子みたいな小僧を養う余力はあんまりなく托鉢僧として旅に出された。
体の良い追い出しに近いと言えるだろうか…
しかし重八は托鉢を受け生き延び、寺で最低限の教養を身につけただの貧農の子からすると大きく見聞を広げていた。
そんな中、大元の支配は破綻を始める。まず嚆矢として海賊呼ばわりされた方国珍が浙江で蜂起。水軍を操り大元の物流網を寸断し暴れ回る。
さらには宋代に興った白蓮教が末法の世めいた世相をバックに信者を獲得し各地で蜂起し始めたのだ。


動乱の渦の中へ

方国珍は大元から招安*6を受け早々に離脱するが、北宋徽宗の子孫を名乗り蜂起した韓山童*7・韓林児親子や徐寿輝ら白蓮教勢は止まらなかった。
叛徒はみな紅い頭巾をしていたため紅巾の乱と後世呼ばれる大乱の中、皇覚寺が焼け落ち重八はまたも居場所を失ってしまう。
ここで重八は運命を占いに託した。その結果紅巾軍に身を投じるが大吉、と出たため韓林児の軍の中でも有力であった郭子興の元に馳せ参じ、英雄としての道を…
歩み始めようとしたのだが、スパイと思われて殺されそうになった。あらら。


ここで天命が尽きてもおかしくはなかったが、郭子興が顔を見た際に面構えを殊の外気に入ったため嫌疑は解け幕下に迎え入れられた。
改めてここから英雄・朱元璋*8の道はスタートした。
この時期に昔なじみの朋友にして後の明軍最強の将帥・功臣第一の徐達、天性の軍才を誇る猛将常遇春、謀臣李善長らを得る。
彼らとの出会いの後朱元璋は「貴方こそこの乱世を鎮める人物。然るに、同じような境遇である漢の高祖・劉邦*9を真似れば良いのです」という李善長から受けた指針のもとに動き、大元軍に徴兵された農民に働きかけ支持を広げ郭子興幕下でも有力な将軍として頭角を現していく。
更にこの頃、功績を認められ郭子興の養子である馬氏を娶る。後に賢夫人と呼ばれ、外付け式ストッパー兼良心として活躍する馬皇后である。


呉国公を自称し、郭子興軍の中枢として存在感を増していたがその郭子興が至正15年(1355年)に亡くなると実子の郭天叙、妻の弟の張天祐、そして娘婿の朱元璋に三分されたが
その後まもなくして前者二人の軍が大元に敗れて戦死したため、結局郭子興軍を一人で吸収することとなる。
ちなみに、二人の軍は大元からの降将の言葉に乗って攻め入ったところそいつが内通者でボコボコにされたという終わり方であったが、一説によると朱元璋はその事を知りながら黙認していた
つまり郭子興の実子・妻の弟という血縁面では立場が上である邪魔者を都合よく排除できる、と考え敢えて彼らを死地に追いやったという説がある。
天叙の弟である天爵もまもなくして陰謀を巡らせたとして排除されており一定の信ぴょう性はあるが証拠はない。


ともあれ、紅巾軍でも屈指の実力者となった後、「膨らんだ軍を養うには江南の富が必要である」と帰結し、当時の本拠地を半ば放棄し退路を断ち長江を渡って江南に侵入し集慶路*10に攻め入りこれを陥落させる。
応天府と名を改めるとここを本拠地とした。半ば山賊の群れであった朱元璋軍だったが、応天府に落ち着くと新たな国を作るための施策を取り始めた。
この政策の実施で朱元璋を見込んだ名軍師劉基らさらに人材を集めることにも成功した。
かくして荊北から江西を支配する徐寿輝の天完、別に紅巾軍とは関係ないが反旗を翻していた蘇州拠点の張士誠の周と並び立ち長江流域の覇を競うこととなったのである。


天子への道

まず戦うこととなったのは、徐寿輝配下の実力者で実権を握ると徐寿輝をハンマーで撲殺し、大漢皇帝として即位した陳友諒であった。
至正20年(1360年)、長江を大艦隊を率いて下り応天府を目指し始めたのだ。朱元璋軍は動揺し、降伏すべきとの進言すら出るほどであった。
それほどに大漢艦隊は圧倒的な勢力だったのである。
朱元璋本人もかなり弱気だったが、劉基のみが毅然と「敢えて陳友諒を応天府に引き込み、伏兵にて撃滅すべし!」と言い放ち、朱元璋もこれを容れて大漢軍を迎え撃つ覚悟を固める。
大漢軍は応天府まで猛烈な速度で進軍し、突入を図るが陳友諒の顔見知りで朱元璋軍から降伏した康茂才を全面的に信頼し、これが偽降であることを見抜けずものの見事に策にかかり、竜湾にて伏兵により壊滅的打撃を受け撤退。
その後朱元璋軍は大漢を押しまくり、陳友諒の当初の拠点であった江州*11などを奪い更に上流の武昌*12に撤退させるなど有利を築くことに成功した。
この不利を挽回するべく大漢は至正23年(1363年)に周王改め呉王を自称した張士誠の呉が朱元璋を攻める間隙を縫って再び大艦隊を興し、奪われた南昌奪還を目指す。


しかし南昌の留守居部隊が大艦隊による包囲を三ヶ月弱防ぎ続け時間を稼ぐと、朱元璋も呉を撤退させた後大船団を組織し南昌に向かう。
大漢艦隊は南昌の包囲を解き鄱陽湖に布陣し迎え撃った。
当初は巨艦を多く擁し圧倒的な威圧感を誇った大漢艦隊が朱元璋の艦隊を圧倒し、朱元璋座乗の旗艦が斬り込みを受けるなど苦戦したものの
朱元璋水軍の主力を成す兪通海率いる艦隊の火砲により鈍重な巨艦を焼き払うなど徐々にペースを取り戻し、戦闘三日目には吹き荒れた東北の風を利用し、火薬を満載させた火船七隻を決死隊が敵陣に突入させると数百隻を焼き払い無数の敵兵を屠る大戦果を挙げる。
この大火計により腹心であった弟陳友仁を失うなど士官にも大打撃を受けた大漢艦隊は撤退しようとしたが、朱元璋直率の伏兵が逃げ道を塞いでおり兵站も切られた大漢軍は瓦解。陳友諒は突破を図るが矢を受けて戦死した。
この鄱陽湖の戦いにより大漢は継戦能力を実質失い、翌年には跡を継いでいた息子の陳理が降伏。長江中流域はすべて朱元璋の手に収まることとなった。
ちなみに勘のいい読者であればお気づきになられたと思うが、この鄱陽湖の戦いは羅貫中が赤壁の戦いの描写の参考にしたとされ、巨艦を鎖でつなぎ陣にしていた点や決死隊の火船特攻、逃げようとしたところに伏兵がいたなどの描写は鄱陽湖の戦いに即したものになっている。


大漢を滅ぼすと朱元璋は呉国公から呉王に名乗りを変え、同じく呉王を名乗った張士誠との対決姿勢を鮮明にし、徐々に拠点を落とし追い詰めていく。
その進撃のさなか、大元の内紛に付け込み一時は朝鮮半島や上都や大都にも侵攻していたが、本気を出した大元の軍閥の功績稼ぎに使われズタボロにされた挙げ句、張士誠に攻め込まれて大ピンチであった紅巾軍の首領で一応名目上の首領と言える韓林児を保護することとなった。
しかし宋*13の龍鳳12年(1366年)、朱元璋の招聘に応え応天府に向かう途上船が転覆し溺死した。これをもって紅巾の乱は朱元璋を輩出するという成果を残し終焉した。
朱元璋が配下に指示し特に用もなくなった韓林児を処分したという説もあるが、明確な証拠は残っていない。
朱元璋は韓林児の事故死後に白蓮教を一転して弾圧しているし、勢力が大きくなればなるほど不満分子は出るし韓林児が火種になる確率は大きくもなる。なるほど排除したほうが合理的…アッハイ証拠はありません。


その後朱元璋軍は呉を追い詰め、1年弱の包囲戦の末隆平府*14を落とし張士誠を捕縛。
呉を滅ぼし、何度も大元に背いたり招安を受けたりして出世を重ねた末に独立勢力になっていた浙江の方国珍も朱元璋に降伏。
こうして江南を統一した朱元璋は応天府で大明の皇帝として即位。洪武元年(1368年)正月、の誕生であった。
朱元璋は一世一元の制を敷き改元を封じたため後世洪武帝と呼ばれることとなる。
ちなみにこの明という国号は地名に由来したものではなく、白蓮教の別名明教から採ったと言われる*15。白蓮教は弾圧する一方でルーツは紅巾軍にあることは認めていたのかもしれない。
とにかく、この後は残された敵は長江の北、大元の皇帝及び各軍閥である。


中華統一・北伐事業

洪武帝は洪武元年の即位後すぐに徐達に大軍を預け北伐を敢行。
当時の大元で最強の軍閥を率いたココ・テムルが陝西軍閥の李思斉と交戦中であったことから華北には大きな軍事的空白があり
それを突いて破竹の勢いで北上。ココ・テムルも引き返してきて明軍に当たるが敗れ北方に撤退してしまう。
同年8月には大元皇帝トゴン・テムルは大都放棄を決断。全軍民を中原から撤退させた。こうして明は華北を奪還することに成功した。
しかしその後も本拠地に帰った大元*16はモンゴル高原に君臨し北の災いとして明を苦しめ続けることとなる。
その後、トゴン・テムル没後皇太子アユルシリダラが即位する間隙を縫い大都の更に北方にある応昌府*17を奪い、
洪武4年(1371年)には徐寿輝の天完崩壊時に独立した最後の紅巾勢明玉珍が築いた明夏を滅ぼし四川を獲得するなど順調に領土拡張を進めた。


しかし洪武5年(1372年)、モンゴル高原に踏み込もうとした徐達率いる15万の軍勢が体制を立て直したココ・テムル率いる精兵に大敗。
この後アユルシリダラはココ・テムルに中原奪還作戦を託し南下させる。
一時期は山西地方北部まで盛り返すなど明を苦しめたが洪武8年(1375年)にココ・テムルが病死すると流れが変わり
再び明がモンゴル勢力に対し優越。モンゴル貴族支配下の雲南や甘粛地方、満州を奪い取る。
そして洪武21年(1388年)、ブイル・ノールの戦いでトグス・テムル*18の軍を散々に打ち破り圧勝。
即位から21年かけてモンゴル勢力を本拠地モンゴル高原に完全に駆逐することに成功し、かつての唐が中華として支配した領域を概ね回復することが出来た。
江南から興った政権が中華統一を果たしたのは後にも先にも明のみである。


こうして再び漢民族の栄光を取り戻した洪武帝であるが、外征のみならず内政においても尽力していた。自身が農民出身故か農本主義に基づいたかのような政策を実施。
特に小作農など下層の民に優しい統治を図った。工部の官吏や国立学校である国子監の学生を総動員して各地の堤防を修繕したりもした。
一方で魚鱗図冊や賦役黄冊を制作し戸籍や賦役、土地の状態は厳然と管理するようにしたし、衛所制や里甲制はかなりの負担となったのは事実である。
アメだけでは統治は成り立たないので仕方ないね。
さらには家族を信任し、養子に取った建国功臣が一人沐英らを重用したほか、『救荒本草』を著した周定王朱橚や北平の守りとして対モンゴル戦で活躍した晋恭王朱棡、燕王朱棣ら皇子を各地に封じ明の柱石とした。
温和な性格であった皇太子長男・懿文太子朱標が洪武25年(1392年)に急死したことは洪武帝を大いに悲しませたという。
朱標の死後は皇太孫とした朱標の子朱允炆のための体制づくりに腐心し、洪武31年(1398年)に亡くなった。
即位31年という長きにわたる治世であったが、その間に元末の荒廃から中華を立て直したと言えるに足る功績を残した。
歴代の王朝開祖と比べても十分すぎる資質を持った英雄天子といえよう。




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…とまあ、いままで出来る限りアレな部分は回避してきたのだが、この人を語る上で粛清を外すわけには行かないのである。
うん、決断力もあるし、部下に任せるということも出来るし、宋や大元で発達した商業本位ではなく農本主義政策を採ったこと自体も朱子学を信奉している以上そうなるのは理解の範囲内ではある。
あるいは、当時は経済も疲弊し交鈔の大暴落や銅の枯渇など通貨の発行にも困るという部分はあったので商業本位の立て直しは至難であったと言える部分もある。
故にここまで書いてきた部分は賛否あるにしても概ね賛寄りである。ただ、ここから先は否寄りの事績が多い。


大粛清

背景事情

華北から江南に根拠地を移しそこで力を蓄えて統一政権を築き上げたわけであるが、江南は華北に比べると疲弊も少なく南宋の故地であり
南宋代から続く大地主や南人*19官僚、知識人などが多かった。つまりはまあ、ブルジョワジィかつインテリゲンチャに担がれた訳である。
一方洪武帝という人はどういう人であったか、といえば英雄の器を持つ男であることは確かなのだが、所詮貧農の末っ子に過ぎない。
たまたま寺に行っていたため生き残り、その寺で読み書きを学び、乱世の中で英雄としての才覚を開花させたが、歯車が狂えば父のように黄河に飲まれたり餓死、病死していたような階級の生まれである。


そもそもの問題として金持ちで裕福な人生を送ってきた連中と反りが合うわけがなかったわけである。
それでも、大元、北に逃げて北元となったモンゴルの驍将ココ・テムルが健在だった頃は気に入らない連中でもしっかり利用せねば中華統一は覚束なかったため、そこまで亀裂が発生することはなかった。
そこで亀裂を起こして勢力瓦解させるようでは三流の群盗。そこはさすが洪武帝、中華帝国開祖は伊達ではなかった。
しかし洪武8年(1375年)、ココ・テムルが病死し北元の圧力が大いに減退すると、北伐よりも新国家の体制づくりが至上命題となる。この頃には中華各地から様々な人材を集められるようにもなっていた。
つまりどういうことかといえば、気に食わないやつを排除し理想の体制づくりをする好機が来たのだ。いや、来てしまった…というべきか…


また、華北で決起した頃からの功臣やその功臣が推挙した者らも威光を笠にきて横暴を振るう例はままあった。
正直こういうのは王朝初期のあるあるネタの範疇であり、漢の高祖劉邦、唐の太宗李世民らも通ってきた道であるし、問題を解決するには一定程度粛清が必要だったりする場合はある。
皇帝権を高めようとするならば臣下の利益と当然ぶつかってしまう。それは仕方のないことではある。


しかし洪武帝の粛清が殊更言われるのは、その並外れた猜疑心が家族以外に誰彼構わず、時に溺愛していた家族にすら向けられたことである。
功臣第一の名将で昔なじみの友でもあった徐達や姉の子であった李文忠にすら謀殺した、あるいは自殺するよう仕向けたという疑惑すらあるほど。
馬皇后も死の床に臥せった際「私が死んでしまったら治療を失敗したと責められてあの人に粛清されてしまうかもしれない」と考えたのか、医者を寄せ付けなかったという。無茶苦茶な猜疑心である。


また、当時東シナ海や南シナ海沿岸は倭寇わこうと呼ばれる海賊が跋扈しており、北方のモンゴル勢力と合わせて頭痛の種となっていた。
明を通じて北虜南倭ほくりょなんわ*20と言われ帝国を脅かし続ける事となるのだが、この頃の倭寇はいわゆる後期倭寇の倭人偽装の明人が率いる海賊団ではなく、
南北朝時代で統治が緩みっぱなしの九州の松浦党などの南朝系武士団が、元寇の復讐戦や南朝方の物資獲得を期して行っていたらしく、ガチの倭人、つまり日本人による略奪であった。


そこで周辺国に朝貢を求める使者を出していた洪武帝は日本に対してかなり強いトーンで「朝貢しろ、倭寇を取り締まれ!」と書状を出していたが
九州の覇権は当初倭寇を派遣していた、あるいは配下が倭寇をやって戦力を供給していた可能性が高い南朝の懐良親王が握っており、明の要求に100%応じられる状況ではなかった。
それどころか鎌倉幕府式のやり方で使者をぶった斬る(流石に全員ではなかったが)暴挙に出る始末であった。
その後、明の趙秩が上手いこと繕って日本が冊封に応じたという形で片付けたためとりあえず懐良親王の暴挙は大問題になることはなかった……が、冊封を受けた証である日本国王の印綬を懐良が受け取ることもなかった。
明からの使者が日本に国王印を持ってきた頃には今川了俊率いる北朝軍が北九州を制圧していたからである。そんな調子だったので倭寇は収まるわけもなし。
一応南朝と違い北朝側は明との交易を考えて倭寇を抑える意思はあったものの、肝心の統治力を巡らしきれていなかったのだ。


終いには倭寇が収まる様子もないのに、懐良名義で送り込まれる朝貢貿易で一儲けしようとする九州諸侯のニセ外交使者のあからさまなカネ狙いかつ無礼粗暴な態度に明は悩まされた。
洪武帝は大変憤激し、「あんな国とはもう交渉を持たん!」とキレていた。とはいえ格上のこっちが感情任せに切るのも…と思ったのか洪武帝は日本の悪名を利用しようと考えた。
外患誘致をでっち上げて粛清の口実を作る、そのための材料にぴったりだったのだ。


空印の案

驍将ココ・テムルの病死でモンゴル軍の組織的抵抗力が弱まった洪武9年(1376年)に洪武帝が仕掛けた粛清事件。
決算の提出の際、再計算が必要な計算ミスなど帳簿上のミスが見つかった場合一から書き直し、各地の長官に認印をもらうという形になっていたのだが
当時はコンピュータもないため、何度となく再提出となれば書き直しにも時間はかかり、その上で許可を貰い直すため仕事がどんどん溜まっていくという事になってしまう。
それを防止するために、慣例としてすでに認印を押された白紙の決算書を用意し、それに書き直して提出するのが習慣となっていた。つまり多重チェック回避策が慣例化していたのだ。押印、ヨシ!
しかし洪武帝に見つかり咎められ、「こんなもん不正の温床じゃねぇか!粛清!と宣言し各地の地方官を処刑・僻地への左遷などの厳罰に処す事としたのである。
これにより多数の官僚が殺されたり左遷されたりした。


まあなんとなく察しはつくだろうが、急に地方官(要するに、都道府県や市役所の公務員)を大量処刑したりしたらあっという間に業務が回らず帝国の統治は止まる。
しかし明はここからも安定的に統治を進めた。つまりどういうことかと言えば、代わりになる洪武帝肝いりの人材を用意した上での粛清ということである。
空印文書への追及はそのきっかけづくりにしか過ぎなかった、ということである。


行革にすら血生臭さが漂うのがなんとも、という感じはあるが、当時の官僚は土地を持っていたりするため束になって抵抗された場合帝国の屋台骨が揺らぐので、やるなら即断即決で命を断つのが最も安全。そういうものなのだ。
この結果人員は洪武帝肝いりの人材に一新、さらに元の時代から存置されていた地方行政の最高機関・行中書省が解体され、皇帝の意思を地方にダイレクトに伝える体制が完成したのであった。


胡惟庸の獄

元が残した遺制のうち、皇帝権とぶつかるものとして行政のトップにして六部を統べる中書省、その頭の左右の丞相がいた。
建国当初は親友で軍人である徐達、文人らしいいやらしさもあるが慎み深さがありあからさまにやらない李善長のコンビであったためにそこまで問題にならなかった。
しかし、洪武帝が李善長の娘婿である胡惟庸を信任し宰相につけた辺りから中書省の雲行きが怪しくなる。
端的に言えばこの胡惟庸、失脚する宰相のテンプレみたいな人材だったのである。
宰相になるくらいなので能力は舅の李善長に劣らないのだが如何せん性格が強欲、嗜虐的で俗人だった。
明史などには洪武帝の軍師であり諫臣でもあった功臣・劉基は胡惟庸が毒殺した、とあるくらいである。
ちなみに劉基は徐達らと共に胡惟庸の宰相就任に難色を示していた。んまあ怪しい。
そんな胡惟庸だったが、空印事件においては陣頭指揮を執り大いに活躍。彼が引き上げた酷吏*21の陳寧とともに積極的に処刑や左遷に従事した。
そのため敵はどんどん増えていった。しかしその一方中書省を胡惟庸派、後に胡党の汚名を着る配下でガッチリ固めた胡惟庸にスキはない、はずであった。
洪武12年(1379年)に占城(チャンパ)から朝貢の使者が来たという報告*22を洪武帝に怠るまでは、だったが。


翌洪武13年(1380年)、旧暦の正月2日という年始も年始に胡惟庸と腹心の酷吏陳寧は逮捕される。謀反という罪状であった。
もちろん、逮捕から四日後には処刑された。密告者及び一族諸共であった。あっ…(察し)
正史などには様々な理由が書き連ねられているが、まあそれっぽいのをでっち上げただけだろうというのが通説である。
洪武帝の目標は唯一つ、中書省の解体、宰相の廃止及び皇帝権の強化であった。
中書省の胡惟庸派は胡党とされ、中書省諸共に粛清された。さらにこの事件は江南の裕福な地主層、士大夫の基盤にまで延焼を起こす。
ライバルを蹴落とす口実として「アイツは胡党だ!」と言いがかりをつけて逮捕させるという手法が流行したのだ。
洪武帝はその訴えを特に吟味もせずの積極的な処刑を推奨したため犠牲者は増え続け、15000人以上とも言われる。
この粛清の嵐の只中、李善長ら功臣にもその手は伸びたのだが、そこは馬皇后と皇太子朱標が必死になって食い止めてこのときは事なきを得た。
しかし、胡党というレッテルはまだまだ毒として蔓延する事となる。
その胡党探しのために御史台を廃止し都察院に改め監察強化、さらに皇帝の目・耳として近衛軍の一部を改組し錦衣衛とし、秘密警察めいて暗躍させ恐怖政治を敷くのであった。


なお、宰相職廃止はさすがに職務が皇帝に集中しすぎて負荷が大きすぎたためか、洪武帝時代でもう秘書職として内閣大学士職が置かれ、
永楽帝期には諮問機関として内閣を作り大学士複数名を閣僚として採用するなどして地位を固め後世にはさらなる権限委譲を受け、
しまいには内閣大学士筆頭は実質大元までの宰相と同等の存在として振る舞うこととなった。
ただし洪武帝が定めた祖法には宰相に準ずる皇帝の政治代執行人の設置は禁じられており
政治の中枢に座るという意味で法的根拠はまるでなかったがため、かつての宰相ほど政治を壟断することは出来ず皇帝の気分次第で首がすげ変わる(物理)程度の存在でしかなかった。
そのため皇帝への阿諛追従に終始したり讒言であっけなく失脚もあった。


郭桓の案と林賢事件

胡惟庸の獄から五年後、洪武18年(1385年)に戸部尚書(長官)の郭桓が北平の布政司*23と結託して食糧を着服する事件が発生。
洪武帝は当然のごとくカンカンであった。六部は中書省解体後皇帝直属の機関として再編し皇帝の手足として働くよう改組した、はずだったからである。
当然のごとく戸部のみならず六部の長官は全員誅殺、他にも中央地方を問わず官吏、さらに官吏と結託して着服したとみなされた商人など民草も多く処断されて数万人を超える犠牲が出たという。
ストッパーの馬皇后が3年前に病死し、皇太子朱標も止めるには力が弱くこの粛清を止めようにも周囲はどうしようもなかったものと見られる。


更に翌年、貿易港寧波の責任者であった林賢が胡惟庸の「反乱計画」に関わっていた「胡党」であるとして処刑された。胡惟庸同様、一族根絶やしであったという。
その後、林賢と胡惟庸の「反乱計画」が明かされた。胡惟庸の命で林賢が日本と結び、兵を招き入れる手はずとなっていたということであった。
無論、これはでっちあげである。当時の日本に海外の反乱軍と結び外征をするような主体は存在していなかったからである。
室町幕府ならできなくはないとも言えなくはないが…南朝勢力や守護に任じた諸侯のことを考慮すればまず不可能と言っていい。
そもそも室町幕府を含めた北朝方は洪武帝の要求した倭寇の取り締まりに前向きであった。
日本の状況を把握せず、倭寇を送り込んでいる可能性のある南朝勢力が九州で強かった時期に最初の使者を送り込んだ明側のミスなのだが、まあそんな事は知る由もなかったということだろう。
前述の通りの日本国王の使者を騙るニセ使者が無礼極まりない態度でカネをたかりに来たようなことも多々あったため、貿易港のある寧波の責任者林賢を胡惟庸の「反乱計画」に通じた罪で処刑し
その後日本とは一切の通交を断絶する、ということにしたかったのがこの事件の真実に近いといえよう。
つまり林賢は格下の日本相手にこっちから癇癪起こして断絶、だと体面が悪いので日本が反乱軍と結んでいたとして断交するための理由付けのために始末されたという可能性がある。なんとまあ…


胡惟庸の獄とは分けたものの、どちらの事件も胡惟庸の獄から連続した事件である。そして「胡党」探しはまだまだ続く。


李善長の獄

とまあ、ここまで官吏や士大夫層に痛撃を与えて皇帝権を固めてきた洪武帝であるが、功臣たちはまだまだ多く存在していた。
ここに至るまでにも功臣の一人である甥の李文忠を微罪で葬り去り、親友にして軍功第一の徐達にも腫れ物が出来たところに蒸したガチョウを送りつけ落ち込ませて*24死去させた…と史書に記された程の執念をもって功臣狩りを行っていた。
次のターゲットとなったのは胡惟庸とつながりがありながら馬皇后らの嘆願、息子の嫁が公主=洪武帝の娘ということで粛清を回避した太師李善長その人であった。
1390年(洪武23年)、弟の李存義が胡惟庸の陰謀に加担したとして逮捕され、加担したことや兄の関与を「自白」すると李善長は進退窮まることとなった。
洪武帝も李善長は処刑ではなく賜死にして自裁させることで尊厳を守るくらいの配慮はしたが、一族は当然誅滅された。
そして功臣たちも李善長に加担した、陰謀を知りながら止めなかったとして19名が弁明の機会もなく処刑となった。
さらに洪武帝の執念が及ぶ前に天命が尽き死した功臣たちすら爵位を奪われる始末であった。
さらに連座で血の嵐が再び吹き荒れて15000人程度が犠牲になったという。
1392年(洪武25年)に最後の「胡党」が処刑され、かれこれ12年以上続いた胡惟庸の獄、胡党虐殺についに終止符が打たれた。


藍玉の獄

しかし1392年に皇太子朱標が死去。洪武帝は深い悲しみに包まれてしまう。
後継者としては朱標の子、皇太孫朱允炆を立てたが柔弱と思う朱標より若く、乱世の経験も乏しく自身に比べると果てしなく弱い…
洪武帝はそう見ていた。その祖父の心遣い?がさらなる粛清劇を呼び込むこととなった。ターゲットになったのはブイル・ノールの戦いの英雄、大将軍藍玉であった。
この藍玉は常遇春・馮勝といった優れた将軍に仕えて頭角を現し、馮勝失脚後は大将軍となり対モンゴル戦の主将として戦い、ブイル・ノールの戦いで圧勝してモンゴル勢力を駆逐してみせたのであった。
その圧勝ぶりは凄まじく、トグス・テムルこそ逃したが次子ティボドや妃・公主を捕らえるなど古今まれに見る大勝利であった。
この戦いの後大元から続くクビライ系の皇統が断絶。一時的にアリクブケ*25系のハーンが立つものの
チンギス・カンが統一したモンゴルはアリクブケ系の皇統を支持するオイラト、大元の後継者を自認するドチン・モンゴル、明に投降し衛所制の元仕えるようになったウリヤンハイ三衛と後世呼ばれた勢力に分かれ弱体化を余儀なくされた。
これにより、明建国後最初に手を付けた大業である大元討伐戦はひとまず終結。藍玉は英雄となったのであった。


このように大きな功績を残した藍玉であるが、性格には難が多く時法を守る意志も薄いところがあり、命令もないのに出撃する、勝手に部下の任免をするなど放埒な振る舞いが多かった。
それが災いしたのか真っ先に目をつけられ、1393年(洪武26年)に謀反の疑いで逮捕され速やかに処刑された。これが藍玉の獄開始の暁鐘となった。
功臣を中心に「藍党」「共謀者」が炙り出され藍玉他生存していた功臣のことごとくが弁明すら許されず殺害され、これに連座して2万人とも言われる人間の命が奪われた。
しかし藍玉は武功を誇り専横するちょっとアレな人物ではあったが、謀反を起こすような人物かどうかは微妙な線であり、やはり「藍党」「共謀者」探しからの功臣粛清が主眼であった。
洪武帝の狙いは孫の允炆、のちの建文帝のために少しでも功績があり誰かが担ぐ可能性がある功臣を減らす…そのための追加粛清こそがこの藍玉の獄であると見られる。


こうして念入りに丁寧丁寧丁寧に功臣を潰した結果、湯和・耿炳文・郭英の三人以外の功臣は全滅した。


文字の獄

この他にも文章にケチを付けて始末する文字の獄を積極的に行った。なんでかって?生まれ育ちに超コンプレックスを抱いており文人を激しく憎んでいたからである。
結局功臣粛清だとかそのへんもここにつながるので根が深い憎悪であったと言えるだろう。
例としては

  • 「天にあり」←道と盗は同じ読みだ!朕を盗賊流賊と謗るか!死ね!
  • 天の下、天は聖人を生じ、世の為にを作す」←光ィ!?キサマ朕が坊主だったのをバカにするか!しかも則と賊は同じ読みじゃないか!死ね!
  • 禿」←坊主だったのを揶揄するか!死ね!

などなど、激しい文章検閲及び揚げ足取り*26が行われこれでも命が数多散ったという。
徳川家康「おいおい、そりゃいくら何でもコジツケだろ」
禰衡「文章も碌に読めないとか、所詮貧民出だよね~♪ これだから無教養の権力者ってタチ悪い…あっ言っちゃったw」


意外な?影響で言えば西遊記は水滸伝や三国志演義等と同様、宋から明にかけて小説として完成していく過程にあったが、当時猪八戒は朱八戒といった。
ブタの妖怪に皇帝の名字、特に苛烈な文字の獄を行う洪武帝の国姓である朱をつけるのは命取りということで自主規制した結果が猪八戒という名になったのである。
尤も、皇帝と同じ文字を用いるとは「恐れ多い」としてこれまでも敬遠されていた*27事であり、この件に関しては当然ともいえるが…



「御製大誥」

タイトルに有るこの書物は、胡惟庸ら「胡党」がいかなる罪を犯し、いかに苛烈に取り調べられ無残に命を散らしたかを詳述し、その上で洪武帝の訓戒を書き記し
「どんなに偉くなっても悪事がバレたら皇帝はこのように君たちを処分する、こういうことを絶対にしてはいけない、絶対の忠誠を誓え」と迫るものである。
ちなみに「御製大誥」だけでも三巻作成され、この他にも李善長の獄編ともいえる「昭示姦党録」、藍玉の獄編である「逆臣録」など多数が発刊され、官僚必読の書として読み継がれたという。



結果

念入りに皇帝専制の実現及び朱家による皇統継続のため、空印の案で行中書省、胡惟庸の獄で中書省を取り潰し、郭桓の案で六部の独立性を奪い、李善長・藍玉の獄で取って代わる可能性のある功臣を始末してきた。
その結果かどうかは定かではないが、朱元璋の子孫たちは1644年(崇禎17年)に至るまで、300年弱に渡り中華の支配者として君臨することが出来た。
しかし、洪武帝が一番守りたかったであろう朱標、その子どもたちが朱家の祭祀を継ぎ、皇統として君臨することはなかった。
北方の守りに就いていた勇将でもあった四男・燕王朱棣が皇位を狙って反乱を起こし、建文帝を打ち破って皇帝(後の永楽帝)として即位したからである。これを靖難の変と呼ぶ。
この燕賊簒位…アッ(斬首)朱棣による君側の奸を排除する戦いが結果として甥っ子の殺害にまで至ってしまった悲しい事件により、朱標の血統は皇統から外れることになった。
なぜこうなったかと言えば、建文帝側には能力不足な功臣の二世や将たる資質がない文官が多く有能な将軍不在、方や対モンゴル最前線で精兵名将を従えていた朱棣が大きく有利であった、という説がある。
さらに言えば乱世を知らず柔弱な建文帝と、将たる資質をも持つ英雄・朱棣の差があるとも言われるが、そこを埋めるのが臣下の仕事であり、その臣下が前述の通り祖父の手で殲滅されていたのだから建文帝にはどうしようもなかった可能性が高い。


つまりおじいちゃんの気遣いのはずがとんだお節介だったということである。…お節介というか積極的に建文帝の朝廷を弱体化させた、といえるだろうか。
家族思いであるがゆえに、家族の地位を脅かしかねない功臣を始末した結果、建文帝政権の基盤を枯らし、朱棣ら実子の王たちに封土や軍事力を与え、家族一丸となって明という「大きな家」を守ろうとしたのが、雄略の大器であった朱棣の野心に火を付ける事となった。
あまりにも皮肉な話である。


ついでに言うと「家族に封土を与えて国家を分割し、それぞれ治めさせる」というやり方はどう見ても周代以前の封建制そのものである
1600年ほど前に始皇帝が封建制を全廃して、反対意見が起きた際の「皇族を分封させてもすぐに諸侯で内紛を起こすだろう」という始皇帝(李斯)の再反論に見事当てはまってしまっている。
そういえば劉邦の郡国制(封建制と郡県制の妥協システム)もすぐに内紛を経て終わっている。
1600年前に終わった封建制を持ち出したあたり、根本的に時代ズレしていたのだ。
とはいえ皇子に封土や王号を与えるのはこれまでの諸王朝においてもそう珍しいことではなかったが、洪武帝の場合軍事面での裁量など独立性を大きく与えすぎたところにミスがあったと言えるだろうか。
一応徴税権は中央政府に集約していたため、軍資金は自由にすることが不可能ではあったが…
建文帝政権は諸王取り潰し政策を行う中で一番の難物であった朱棣取り潰しに失敗して滅んだので、あまりに致命的であった。


余談になるが、永楽帝以後は領土削減などを行い諸王が反乱が出来ないような仕組みにはなった。
…が、万暦帝のように皇太子に出来なかった寵姫の産んだ依怙贔屓している子に異様に大きな封土や予算を与えて国庫を圧迫する例もあった。
そこまで可愛がっていた万暦帝の愛玩子・朱常洵さんは李自成軍に煮込み料理にされて食べられてしまいました。


また、宋代とは違い

  • 官僚の命があまりにも軽い
  • 言論の自由も存在しない*28
  • 下手なことも出来ないため文人は恐怖し朝廷から距離を置こうとしたがそれも叶わない

といったこともあって文人は怯えながら職についていた。
さらには明代は官僚の俸給が異様に安いため忠誠心や仕事意欲がかなり低く科挙も受験者数は異様に多かったため狭き門には変わりなかったが
問題が定型文(八股文*29)を覚えるとすぐに解けるような簡便なものになった*30ため、宋代よりバカ・無能*31でも突破しやすくなっていた。
このため国士たる気宇壮大な人材のみならず、士大夫として地盤を引き継ぎたいだけという意識の低い人材も結果的にではあるが積極的に集めてしまう事となってしまった。
これらが官僚の事なかれ主義を助長し、保身のために目立たずにいることを是とする空気で愚帝にも意見する硬骨の人材が減少することに繋がった。
それでも一条鞭法を全国に拡大適用し財政再建を成し遂げた張居正ら優秀な官僚は出ることは出たが、どちらかといえば少数派であった。


家族

主な人物のみを紹介。

  • 馬皇后

郭子興の養女で、郭子興が朱元璋を気に入ったがために嫁がせたという。明建国後に立后された。
性格は慎み深く献身的、驕らず質素を好みしかし時には夫に諫言するような芯の強さを持つ賢夫人と称揚されるに相応しい女性であり、猜疑心の異様に強い洪武帝も彼女には心を開いて接する事ができたと伝わる。また最も信頼する「側近」ともしていた。
例えば大漢の応天府侵攻の際は彼女の発案で城に蓄えていた財産や食糧を配下や市民に配布して人心の安定を図る、前述の通り功臣粛清を阻止するのは彼女であることが常であったなど洪武帝の欠けた部分を補う活躍をみせる。
とはいえ彼女も洪武帝同様生まれは良くなく無学文盲であったが、女官から字を学び自ら歴史書を読んで皇后の心得を学ぶなど向上心にも優れていた。なんなのこの人…
洪武帝も見てくれで勝る側室はたくさんいたが、本当に心を開いて100%信頼出来たのは馬皇后以外にいなかったようで、事あるごとに彼女を称揚し、彼女はそれを鼻にかけることは一切なかったという。
1382年、洪武帝を残して病死した際には慟哭していたと伝わる。胡党・功臣虐殺は馬皇后の死を境に加速し、その後の粛清も馬皇后ほどに効果的に止められる人物はいなかったという。


洪武帝は数多の側室を持ちエネルギッシュに子を設け家族を増やしていたが、新たな皇后を立后することはなかった。
新たな立后をしないことが=愛の証明とは断言できないが、他の例を見ても深く愛していたがためにしないことが多いので、まあそういうことであろう。
残虐無道な猜疑心の塊である洪武帝が人間朱元璋…いや、小作農の末っ子朱重八としてありのままでいられたのは彼女の前だけだったのだろうか。


後述の朱標ら5人の息子と2人の娘、7人の子に恵まれた…と明史にはあるが、息子たちの母は名もなき側室とも言われる。
洪武帝が息子の血統を箔付けし確かにするために史書の記述を書き換えるように仕向けたらしい。ただし確たる証拠はない。


  • 朱標

馬皇后との間に生まれたとされる長子。明建国後は皇太子として後継指名している。
温厚篤実な性格で、父の苛烈な粛清にNOが言える数少ない人物であったという。洪武帝はその性質を柔弱と断じてはいたが皇太子から降ろすことはなかった。*32
また弟たちの面倒見もよく、次男秦王朱樉・三男晋王朱棡らが父に疑われた際は弁護に奔走し、厳罰を撤回させることに成功した。
しかし母である馬皇后の死から十年後、父に先立って急死した。享年38歳。懿文太子と諡された。
最後のストッパーである朱標の死は更なる大粛清・藍玉の獄の原因であり、それが巡り巡って後継指名された皇太孫朱允炆の最期をも決めてしまった。


  • 建文帝/朱允炆(しゅいんぶん)

朱標の次男。洪武帝からすると孫。側室の子である。父の死後祖父から皇太孫として後継指名された。
靖難の変に至っても「朕に叔父殺しなんて不名誉を与えてくれるなよ?」と訓令して士気を下げたり、数少ない功臣でまともな将軍の1人である耿炳文をたった1敗であっさり更迭して朱棣に「あのジジイ更迭してどうすんだか、アレ以外なら誰が来たって楽勝じゃねぇか(意訳)」とあざ笑われたり
大敗して帰ってきた李景隆を更迭するでもなく何故か高位につけるという意味不明な行動をとって求心力を下げたりろくでもない戦争指揮能力を持ち、朱棣に敗れ燃える南京に消えた悲しき皇帝。
ただし減税路線や拷問廃止など仁政方向の政策を取っていたらしく、民からは慕われたという記録もある。乱世向きではなかったのだろう。
生存説が当時から流布されており、永楽帝の崩御後には偽物が出たこともあった。
永楽帝により明代においては「いなかったもの」として扱われ、清の乾隆帝による追号や明史の編纂過程でようやく復活することが出来た。


  • 朱棡(しゅこう)

洪武帝の三男。馬皇后との間の子らしい。明建国後は取り戻した華北の晋王に封じられた。
才気煥発で威風堂々とした智勇兼備の逸材であったが、性格に非常に問題があり周辺から讒言されることも多く、謀反を企てたという讒言を信じた洪武帝は彼を処そうとしたが
弟のピンチに長男朱標は必死に弁護に奔走。その結果罰を回避することが出来た。その後は行動を改めて真面目に温厚に生きるようになったという。
太原に拠点を持つ晋王であるため対モンゴル最前線で戦争指揮する役割であったが、朱棣に負けない才能を見せ大活躍し武功を重ねた。
父と同じく1398年に死去。もし存命であったならば建文帝や朱棣の行動にどういう対応を見せたのだろうか…


  • 永楽帝/朱棣(しゅてい)

洪武帝の四男。馬皇后との間の子とされる。明建国後は燕王に封じられた。
兄たちの中では朱棡に似て智勇兼備の逸材であり、対モンゴル戦で大いに活躍。企図した北伐をすべて成功させ、父より「北顧の憂いなし」と称賛されたという。
その後靖難の変を勝ち抜き帝位につき、建文帝派の官僚を無惨に葬り去る*33、自身の本拠地であった北平(大都)に遷都。北京と改めるなどして建文帝の即位の事実や自身の簒奪を徹底革除。*34
永楽帝の血統が崇禎帝まで連なったこともあり、明代には建文帝や靖難の変について論議することは不可能となった。
ある意味では洪武帝よりたちの悪い残虐無道なところもあったが、大百科事典と言える「永楽大典」や四書五経の政府見解≒科挙のベースとなった「四書大全」や「五経大全」の編纂や
鄭和に大艦隊を預け南シナ海~インド洋を股にかけ東アフリカやメッカまで朝貢を求める気宇壮大な大航海*35を7回決行。
さらに5度のモンゴル高原親征でただの一敗もせず全勝して見せるなど明を世界帝国にするため様々な大業を行ってみせた。まさに英雄天子であり、父の英雄成分を最もよく受け継いだ子であったと言えるだろう。
しかし、「四書大全」や「五経大全」は儒教の硬直化や科挙の難易度低下を招き、東廠設置による宦官登用開始は徐々に毒として明を蝕み
後続の皇帝たちは永楽帝の世界帝国路線と洪武帝の農本主義・恤民的な内政専念の両極端な政策の間で揺れるようになり、帝国の不安定化を招くなど功罪の多い男である。


この他に23男16女、側室は史書に記載があるだけで20人以上もいる。大家族である。
なお馬皇后に対しては深い愛情を見せた一方側室には結構酷薄で、馬皇后の死後後宮のリーダー格となった李氏や郭氏は外史*36によると不興を買って殺されているという。




その他

肖像画

皇帝然とした温和な老人のものと、極端にアゴがしゃくれて痘痕まみれのものが残っている。現存数は後者のタイプが多い。
郭子興軍に参加したときなど、顔にまつわるかわったエピソードや、明史にも「奇骨貫項」*37と記載されていることなどから温和な老人の方ではなくしゃくれ痘痕男のほうが本人に近いとされることが多い。



農民に対する態度

文人や商人など士大夫層には憎悪をむき出しにしてスキあらば文人や官僚には粛清
大商人には財産の剥奪及び荒れ地に強制移住の上開拓を強いる、あるいは粛清など強烈な敵視政策を行った。
が、農民に対しては非常に心を砕き、肉刑*38禁止や、大河を抱える中国大陸では政府の一番の仕事である治水事業に非常に積極的になるなど彼らを慮る政治を取っていた。
おそらく生まれが最下層の農民であったがゆえ、立場は変われど同胞意識が非常に強かったと思われる。
また、中小農民に対する商売が中心の商人には減税という形で助け船を出すこともあった。



後継者が遺訓を守ってくれない

洪武帝は後継者にむけて残した遺訓において様々なことを禁じていた。

  • 宦官を本来の後宮の小間使い以上に重用すること
  • 日本との国交を持つこと
  • 宰相やそれに準ずる職の設置

などである。
しかし、宦官の重用禁止は永楽帝が即位の際に正当性が足りなかったことから鄭和らを重用。
さらに錦衣衛の上部機関として宦官を長とする東廠を設置し、恐怖政治を推し進めたことで破られた。
この後宦官は東廠長官など重要な役職につくようになり、洪武帝が懸念したとおりに土木の変でやらかした正統帝の家庭教師・王振や天啓帝時代に明の滅亡を確定させた魏忠賢などが壟断。
宦官の跳梁跋扈と愚帝のコンボにより、明は大きく弱体化し滅びへの道を進むことになった。
洪武帝が忌み嫌った日本との国交についても建文帝が足利義満の国書を容れて勘合貿易を開始したところで破られた。


その後明はしばらく勘合貿易を続けるが、16世紀には寧波事件で大きな外交問題が起こったり、中国商人が日本商人と私貿易を行うために倭寇となり沿岸を荒らし回るなどせっかく落ち着いた倭寇が活発化するなど散々であり、
終いには豊臣秀吉*39が万暦帝期に朝鮮半島から明に侵攻することを企て、その通り道に選定された李氏朝鮮からの救援要請を受けて戦う羽目になってしまった。
なんとか追い払う事はできた*40が、国庫に大打撃を受けた上兵力を抽出した遼東方面軍が弱体化しヌルハチ率いる女真族の跋扈を許してしまう。
その結果生まれた女真族統一国家後金、のちの清に明は大いに悩まされることとなる。
守られていれば明は滅びなかったとは言わないが、宦官を重用せず日本に構わずにいたら歴史はだいぶ変わっていただろうか…。



明による日本侵攻

倭寇を取り締まるよう命令した国書を受け取った懐良親王による使者殺し及び「お前らが攻めてくるなら受けて立つぞ馬鹿野郎!(意訳)」と書かれた返書にガチギレした洪武帝は、日本侵攻を真剣に考えた事もあったという。
ただ、元寇の失敗を鑑みてそれは思いとどまったという。クビライの失敗は無駄ではなかったのであった。



創作関連

中国でも毀誉褒貶激しいが、ドラマ「大明帝国 朱元璋」は大ヒットを飛ばし日本でもCSで放送されたりした。朱元璋役はレッドクリフで趙雲役を演じた当時売れっ子であった胡軍。
小説類は…ほぼ存在しない。あの陳舜臣も計画は立てたが史料読みの時点で断念したという難物である。
2ch~5chでは妙な人気があった時期があり、その頃からあるネタスレ「朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ」は一応今でも存在する。
元ネタは暗黒TBSベイスターズ時代にその輝く頭と明るい性格でファンにほんのりと明るい光を灯した…かもしれない山下大輔監督のネタスレ「大ちゃんとともに苦難を乗り越えてゆくスレ」。
当項目冒頭の洪武帝のAAと中盤の建文帝のAAは朱元璋とともに苦難を乗り越えてゆくスレ出典である。ちなみにこのAAが生まれた時期は2003~2004年ごろである。



歴史家の評価

まあ色々あるが、清代の歴史家である趙翼の評価が一番端的でわかりやすいだろうと思うので紹介する。


「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」


……ここまで長々と書いてきたことがこれだけで十分に説明がつくのが悲しい。




追記修正は「一身において聖賢、豪傑、アニヲタを兼ねた才物」の方にお願いします。



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  • 文字の獄って要は君臣豊楽国家安康だろ -- 名無しさん (2020-08-23 02:26:34)
  • あちらが立てばこちらが立たず、欠点の無い統治者なんていないんだなって -- 名無しさん (2020-08-23 03:01:23)
  • 同じ人間なのか、これ(ドン引き) -- 名無しさん (2020-08-23 06:31:05)
  • 歴史の教科書でしつこく出てきたやつだ! -- 名無しさん (2020-08-23 08:47:25)
  • 暴君呼ばわりされるのは自分たちの既得権益を奪われたインテリの逆恨みも入ってると思う -- 名無しさん (2020-08-23 09:37:34)
  • 場所問わず負けた側はボロクソに言われるのが歴史の常だし、盛り過ぎな部分があったとしても偉大な功績は無視できない部分があったのは確か -- 名無しさん (2020-08-23 10:11:16)
  • 何というか、双子座のサガが実体化したような人物だな。 -- 名無しさん (2020-08-23 10:23:40)
  • 中国史史上でもガチでまったくの貧民、親戚無しで至尊の地位に上った男だからなー -- 名無しさん (2020-08-23 12:13:46)
  • 同じ農民出身皇帝の劉邦もヤk…土地の顔役で、毛沢東も庄屋のお坊ちゃんでどちらも富農だったのに対し(豊臣秀吉も最近は少なくとも豪農クラスの出身だった説が出てるし)、朱元璋はガチの水飲み百姓から天下人までのし上がったのがすごい。って全員晩年の粛清劇が凄い人ですね…。 -- 名無しさん (2020-08-23 13:52:20)
  • 信長と秀吉と家康がフュージョンした様な人だな・・・ -- 名無しさん (2020-08-23 13:54:01)
  • ↑3その上ブサイクで家族が全員餓死ってこれ人生ナイトメアモードだろ。 -- 名無しさん (2020-08-23 14:17:25)
  • 秀吉は中の下くらいかな金もコネも学もないけど文字読めて下働きこなせる程度の教養はあるんだし -- 名無しさん (2020-08-23 16:39:37)
  • 馬皇后が洪武帝を -- 名無しさん (2020-08-23 17:26:28)
  • ちなみに宦官を徴用するなっていうのも体制的に無理筋なんだよね、おまけ代わりに支えてくれる外戚もいないし… -- 名無しさん (2020-08-23 20:04:45)
  • なんかブサメンな顔とか経歴見ているとどこぞの海賊漫画の黒炭オロチみたいだなって思えてきた… -- 名無しさん (2020-08-23 21:02:57)
  • 宦官使うなってんならせめて代わりの官僚くらい残してクレメンス・・・(届かぬ思い) -- 名無しさん (2020-08-23 21:27:15)
  • ↑漢方孝孺、迫真の燕賊批判 -- 名無しさん (2020-08-23 22:40:11)
  • ↑4 劉邦の真似しろって言われたから呂稚がいるかのように功臣殺しまくっただけなのに・・・まあそれでも劉邦は文官や謀臣といった功臣は手にかけてないわけだが -- 名無しさん (2020-08-24 00:37:31)
  • 地盤のない人物だから粛清自体は仕方ないんだが、結果的には裏目ったね。奥さんや息子が善人で、家族の絆も強そうな辺りがまた哀愁を誘う -- 名無しさん (2020-08-24 00:48:09)
  • 洪武帝はダブる名前もないことだし、朱元璋という名も有名なのはその通りなんだけど、永楽帝のことも考えると項目名は「洪武帝」だけでもいいんじゃないかなーと思う。 -- 名無しさん (2020-08-24 00:59:31)
  • 官僚と皇帝、更にココに有力者が絡むので清のあの人並みばりにマジキチレベルで独裁するか、宦官という個人スタッフを使って仕事するかの二択ー(皇帝は全部自分でやりたい、官僚は決まりどおり粛々と処理したい) -- 名無しさん (2020-08-24 10:58:20)
  • 「特定の文字を元に『自分の過去への当てこすり』という言い掛かり同然の冤罪で粛清した」「とにかく数多の功臣が粛清された」とか怖い逸話ばかり聞くせいで「やっぱヨシフおじさんといい貧困層出の君主ってダメなのかな……」と思いきや、「自分が若い頃家族が死に絶えながらも、飢饉の真っ只中おそらくはその悲しみに暮れる間すらなく自分一人で生き延びる術を探さざるを得なくなる凄惨な過去があったから(主に悪い方向に出てしまったけど)、皇帝になって妻子に満足な遺産を残せるようなった後は磐石の治世を残してあげようとしたし、皇后が『治らなかったら医者が冤罪をかけられるかもしれない』とすら病床ですら案じたほど家族を喪う深い悲しみがあったからこそ新たに得た家族への愛情も家族を脅かし得るものへのへと強い警戒心もあった」と良くも悪くも「ただの人間」だったんだとわかってなんか安心した -- 名無しさん (2020-08-24 20:27:43)
  • だから王には血筋がどうしても必要という事なんでしょう 結局王と官の線引きをするって時にじゃあ何が線になるのかと言うと血筋な訳で それだけは官一人じゃ逆立ちしても手に入らないんだから犯しようがない 時代がそうとはいえ皇帝になってしまった事が彼の不幸その物だと思う -- 名無しさん (2020-08-24 22:33:55)
  • ↑実際組織を安定させる方法としては世襲制は未だに有効だしな -- 名無しさん (2020-08-24 23:54:37)
  • 読みが同じで後漢の初代皇帝である光武帝(劉秀)との対比が色々と面白い。あちらが(ある程度の誇張込みとは言え)いかにも穢れを知らない、完璧超人じみていて人間離れしたエピソードが多いのに対して、こちらは皇帝の椅子に座って尚、持たざる者だったが故のコンプレックスや家族に対する甘さといった「人間らしさ」をおおよそ捨て切れていないのがなんとも -- 名無しさん (2020-08-25 09:01:45)
  • 家康の方広寺の鐘の件、文字に関しては確かにイチャモンだがその結果求めた「淀君を人質にだし豊臣は参勤交代しろ」はそれほど理不尽な要求じゃないんだけどね(ていうかこれに従わないなら謀反企んでる扱いされてもしゃーない) -- 名無しさん (2020-09-06 19:26:56)
  • そもそも豊臣氏は家康と天下を争うライバルだから仕方ない。家康にしてみれば小牧長久手で覇権を争った相手の妻子にいつまでも膝を屈している理由はなかろうし -- 名無しさん (2020-09-06 19:51:43)
  • しかしこうして見ると『カイジ』の兵藤会長が慈悲の化身に見えるほどの暴君ぶりだな……民も虐げたより単純な暗君なら五代十国辺りにいくらでもいたし、事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ -- 名無しさん (2020-09-06 19:54:29)
  • 経歴だけ見ると虹の世界でも通用しそうだよな・・・ -- 名無しさん (2020-09-13 01:32:44)
  • 馬皇后は病状が悪化しても朱元璋が寄越した医者の診察は受けなかった。理由は結果的に自分が死んだら「治せなかった」を理由に粛清されるのが分かっていたからだという -- 名無しさん (2021-03-08 22:45:06)
  • 耿炳文も朱元璋の死後に粛清されてる。郭勛の子孫は結構後の世代まで残ったらしいが -- 名無しさん (2022-03-21 08:45:10)
  • 極貧に加えて容姿までブサイクとか人生ハードモードにもほどがある。そこから最終的には大帝国の建国者に上り詰めるとか化け物すぎますわ。確かにこの男には人類史最大の成り上がり者という称号がふさわしいな。 -- 名無しさん (2024-03-30 22:33:34)
  • 50歳で亡くなったらしい馬皇后が、もしもっと健康で長生きしていたら、この人の評価ももう少し変わっていたかもしれないなぁ。しかし無学のはずなのに、馬皇后はよくぞここまでの振る舞いと夫の暴走を止めるために尽力できたものだ。歴史は、時折あり得ないほどの天才を産み出すが、馬皇后もその一人だったのかもしれない。 -- 名無しさん (2024-03-31 10:59:47)

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*1 後に息子から世珍という諱と廟号などが追贈された
*2 これまた後に皇后位が追贈された
*3 長幼の序で付けた番号で呼ぶ排行と呼ばれるルールで付けられた便宜上の呼び名で諱ではないかもしれない
*4 前述の通りの文官の無能っぷりも拍車をかけている
*5 大元の元号
*6 賊を官位に付け、立場を保障することで取り込む反乱鎮圧策。水滸伝において梁山泊百八星が賊から官軍となったのはこの方式で呼び込まれたからである
*7 蜂起前に発覚し刑死
*8 紅巾軍加入あたりでこの名前に改名している。
*9 ちなみに劉邦も成り上がり者であることに変わりはないが、秦の村役人くらいの役職を貰えるくらいには育ちがよく、朱元璋とはそこまで似ていない
*10 南宋代の金陵、つまり南京
*11 現在の九江市
*12 現在の武漢市
*13 韓林児は徽宗の子孫を自称して宋の小明王として即位・自立しており、自前の元号を制定していた
*14 現在の蘇州市
*15 韓山童の「明王」、韓林児の「小明王」と同じ由来とする説である
*16 区別のために北元ともいう
*17 現在の内モンゴル自治区赤峰市ヘシグテン旗
*18 アユルシリダラの弟で皇位を継承していた
*19 大元における南宋民のカテゴリ
*20 北からはモンゴル人に侵攻され、南は倭寇が暴れまわって国が治安的な意味でヤバかった問題
*21 目的のため、あるいは上への点数稼ぎのために残虐無道な行為を平気でやるなど苛政を強いる役人のこと。はるか昔から存在する悪弊、あるいは必要悪的な存在だった。
*22 前述の通り朝貢を求める使者を四海に送っていたものの、返答があったのは高麗や占城などわずかに留まった。まあモンゴル系王朝が周囲に多いし…
*23 今の日本で言うところの県知事みたいなもの
*24 当時の医学では腫れ物にガチョウは毒とされていたので、知っていて送りつけるものではなかった。知らないでやったのかもしれないが、皇帝がそんなことはまずするまい…
*25 クビライと皇位を争った人物
*26 尤も文人側も卑しい身分から成り上がった洪武帝を快く思う訳がないので上記の文面も本当に洪武帝への侮蔑や当て擦りだった可能性も無くはない。 一見ただの文章だが考察すると暗に権力者への批判や当て擦りを詠った内容だったというのはそこまで珍しい事ではない。
*27 光武帝(劉秀)が後漢王朝を建てた際に「皇帝と同じ文字を使うのは恐れ多い」として秀才を茂才に変えたケースがある。
*28 宋代も現代日本ほど自由放埒になんでも言えるわけではないが、太祖趙匡胤の遺訓が生きており、あんまりにもなド失言でも命まで取られることは稀であった。
*29 対句の手法を用いた文体。
*30 最低限の文学的素養を八股文で求めつつ、教養であり難解な儒教の根幹をなす五経ではなく朱子学において重要だが平易なテキストである四書を重視したため、五経を重視した宋代より簡単なものとなった。
*31 エリート内での話であり、ガチの無知無能には突破はできなかった。
*32 明史には朱棣を後継者にしようとしたという話があるが、永楽帝の正当性付の空気があるので100%は信頼できない。
*33 例えば建文帝の最も信頼した側近で、当時高名な儒者であった方孝孺は永楽帝への従属を拒んだがために家族はもちろん門人や使用人までが処刑され、滅十賊と言われた。鉄鉉は八つ裂きにされ、同じく惨殺された妻共々犬の餌にされたとか…
*34 歴史書から抹殺すること。
*35 (行方不明となった建文帝探しの側面があったとも言われる。
*36 正史ではない民間編纂の歴史書。信頼性の少ない話も平気で乗っているのであまり信頼はできないが、官による編纂が激しい事件の場合、正史よりも参考になる場合もある。
*37 ざっくりいうと変な顔
*38 百叩きなどの体をいたぶる刑罰
*39 日本では洪武帝と並べて最下層から権力者になった英雄と並べられることも多いが、秀吉は一説には足軽の子で支配者層たる武家の端っこにはいたのに対し、洪武帝は農民階級の下層、小作農のなかでも最底辺に位置する階級の出身である。
*40 この時あまり戦功を挙げられなかったので、軍は粛清を避けるため李氏朝鮮の民衆を殺戮して回り首級を間に合わせている

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