登録日:2011/11/22 Tue 13:14:43
更新日:2023/12/05 Tue 10:58:01NEW!
所要時間:約 7 分で読めます
―歴史学、それは太古のロマン―
歴史学とは、広義では過去を相手に研究を行う学問の総称を、狭義では史料の叙述から過去を考察する学問を差す。
※最初に断っておくが本項目は最初はぶっちゃけ面白くないし役に立たないので、途中まで読み飛ばしてもらってOKである
●概要
歴史学という現在の学問体系となるのはルネサンス以後であるが、過去を相手に考察を行うという試みは遥か昔から行われてきた。
代表的な先達は「歴史の父」ヘロドトスや『史記』をまとめた司馬遷らであろうか。人々は昔から過去がどんなものであったか、という興味を持っていたのだろう。
歴史学というのは過去の人間がどのように考えてどのように生きていたのか、というのを文字史料から探っていく学問のことを言う。
ところで過去から現在を見る、とか過去を教訓に、とはよく聞くがこれは実は要注意な考え方である。詳細は後程述べたい。
●歴史学と他の学問
歴史学と似たような印象を受ける学問に考古学がある。考古学も歴史学も昔のことをやるには違いないのだが、狭義には両者には明白な違いがある。
歴史学が文字史料を検証するのに対し、考古学は遺物や遺跡を研究対象とする。
しかし、両者は全く分断されている訳ではなく、文献資料と考古学資料をつき合わせ、連携して検証を行うことも珍しくない。
尤も、文字史料の解読になると考古学より言語学とか文献学の分野となる。また文学や哲学、その他人文科学系統の学問も過去を相手にすることは少なくない。
これらの学問の中でも過去を相手にする分野ならば、広義では「歴史学」と呼ばれることもある。
※ここからはさらに専門的な話になる為、ワケワカンネーという人は是非読み飛ばして下さい。
●史料主義と史料批判
科学が実験を、数学が計算や証明を学説の拠り所とするように歴史学は「史料」を論拠とする。
その為、歴史学において史料の持つ価値は極めて大きい。この考え方は現在の歴史学では欠かせない考え方である。
また学問上の議論においては史料自体の信憑性が問われる場合が多い。その場合、同時代の史料同士の比較検証が行われる。
これを史料批判と呼び、やはり非常に重要な考え方である。
●歴史叙述の視点(メタヒストリー)
先程の史料批判にも関連するが、「どの角度から(どのような立場の人間により)書かれたか」 というのは史料自体の内容と同じぐらい重要である。
その人間の主観は史料を書く際に重大な影響を与えることは言うまでもない。
そもそも、史料は人間が書くものである為「事実そのものではなく、事実を見た/聞いた人間が書いたもの」であることは念頭に置かねばならない。
もちろん、これは現在の我々にも言える。我々もまた歴史を考える際に無意識に主観が影響を与えているのだから。
人間が歴史を認知する際の考え方はアメリカの歴史学者にして哲学者のヘイドン・ホワイトが「メタヒストリー理論」として提唱した。
●歴史的現在と現在
先程「過去から現在を見る」とか「過去を教訓に」という考え方が要注意である、と述べたがその理由を記していきたい。
社会通念や道徳というのは今も昔も変わらない、何てことは全くない。
当時の人間の常識と今の我々の常識とは非常に大きな違いがある。そして歴史を考える上で必要なのは当然ながら前者である。
この事を考えず、過去の価値観を一切考慮せずに今の常識で過去を考えるとその歴史は大きく歪んだものになってしまう。
歴史が教訓的な捉えられ方をされて来たのは事実だが、当時の人間が同じように考えていたと保証はない。
教育では確かに役に立つだろうが、学問ではむしろそのような考えは害にしかならないことは頭に入れておくべきであろう。
ただ研究者でも、また自覚があっても犯してしまいがちな間違いなのも事実である。
堅い話はこの辺にしておこう。
ここからは役に立ちそうな話を述べていきたい。
●歴史の教科書は事実か
結論から言えば、「事実に最も近い学説である可能性すら低い」。
説明の前にまず断っておくが、過去のことを推理するという歴史学の性質上「事実」と断言できるものは、ない。
今巷の歴史学が述べているのは事実に最も近いと思われる憶測である。
まぁそれでも最新の学説に近い…と思いきやそうでもない。史学研究の最前線たる大学の歴史科に入った人はまず講師からこう言われるだろう。
「教科書で色々習ったよな、スマン、ありゃ嘘だった」(※意訳)
これには色々な理由がある。列挙すれば
Ⅰ.内容がかなりぼかされ簡略化してあり、易しい反面実際の学説と微妙に食い違う為
Ⅱ.文章を作っているのが爺ちゃん婆ちゃんの先生であり、最新の学説に追いつけていない為
Ⅲ.一単元を1人で作る為、その記述に対する反論が載らない為
Ⅱに関して言えば、大学によっては
「教科書の叙述は大体20年程度遅れている」なんて通説もあるほど。
例えば江戸時代の身分制「士農工商」や奈良時代の有名な「宇佐八幡宮神託事件」は近年存在自体が疑問視されている。
ただし、士農工商についてはそういう名称でも内容でもないが似たような身分制ではあったらしい*1。
歴史学というのは新しい史料や学説が見つかればその度にいくらでも揺らぐものである為、教科書のものが事実だ、なんてことは全くもってないのだ。
●歴史学的に正しくないものの識別法
様々な人により様々な学説が紹介されている歴史学だが、その中にはトンデモなものも少なくない。ではそれはどのように識別すればいいか。
この辺は「参考資料」もしくは「出典」を見れば、内容を全く見なくても判定ができる。
歴史学では兎に角史料・出典の明示を重視する。
これは先程「●史料主義と史料批判」で述べたが、端的に言えば数学における数、カレーにおけるカレールーぐらい重要であるということだ。
その為歴史学では出典表記がテンプレート化されており、ほぼ例外なくこの通り書かなければならない。テンプレート化の方式は以下の通りである。
著者・編集者・翻訳者名、『著書名』、出版社名、出版年
基本的にこの形式か「、」が半角スペースになるものかが正しい書き方である。
学術論文クラスになるとさらに詳しく書かねばならないが、一般書レベルではこの辺りの書かれ方がしてあるはずである。
一例を挙げると、
Wiki籠もり 『冥殿のアナルに見る文化的特性に関する考察』 民明書房 2011
というのが歴史学的に正しい書き方であり
「冥殿のアナルに見る文化的特性に関する考察」 Wiki籠もり 民明書房 2011
のように形式が間違っていたり順番が入れ替わっているならば、その本の著者は歴史学の高等教育を学んでいない可能性が極めて高い。
歴史学は出典の明記を非常に神経質に行う為、例えミスであっても致命的な欠陥だと言ってよい。
●インターネットの信憑性
インターネット上にも様々な歴史の検証サイトがあるが、残念ながらそれらの多くは「学問的な信憑性は非常に乏しい」と言わなければならない。
それは、出典を明示しないというインターネット自体の風潮が歴史学とは対照的なことに由来する。
歴史学では出典を出していない時点で論外である。
また例え出典を出していても先程のテンプレートに則っていないならば、まず信頼するに値しないと断定してよい。
これらを基準にして見ていけば、恐らく多くのサイトが引っかかると思われる。
上に述べたことをしっかり守っているサイトならば、一般書レベルとしてなら信頼してもよいだろう。
●創作で好き勝手やってるけどいいの?
歴史学の研究者は割とその辺は寛容である。ぶっちゃけ見てて面白いのでもっとやれって人も結構いる。
この手の創作から歴史学に入門する人も多く、例えフィクションでも知識を持ってから見ればそれはそれで新しい発見があったり感心することもままある。
ただ嫌ったり苦手とする人ももちろんいるため、話す相手がそうだと分かったなら無闇に話題を持ち出したりしない位の心遣いをしたい。
長々と語ったが本項目から歴史学に興味を持ったり、興味を深めて頂けたなら幸いである。
歴史学は学問としての敷居はさほど高くないので、興味を持った方は是非とも入門して頂きたい。
歴史学はいつでも君を待っているぞ!
[#include(name=テンプレ2)]
この項目が面白かったなら……\ポチッと/
#vote3(time=600,7)
[#include(name=テンプレ3)]
▷ コメント欄
- 為になった メタヒストリーの話とか -- 名無しさん (2017-08-26 06:41:21)
- 出典の書き方が正しくても、論文誌や専門書ではない一般書の場合は出典自体が信用できない…… -- 名無しさん (2020-01-21 18:42:31)
- ↑作者がどの界隈の人で出典もどういったものかは頭の片隅にいれておいたほうがベター -- 名無しさん (2023-07-03 18:42:38)
#comment
コメント
最新を表示する
NG表示方式
NGID一覧