地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ
呉YWCA 呉水交社跡 呉線の廃トンネル 呉湾 亀山神社 二河公園 二河川公園 東郷平八郎邸跡と東郷坂 青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡 旧澤原家住宅(三ツ蔵) 眼鏡橋(海軍第一門跡) 海軍第二門跡 海軍第三門跡 第六潜水艇遭難之碑 呉中央桟橋ターミナル(旧海軍第一上
呉YWCA 呉水交社跡 呉線の廃トンネル 呉湾 亀山神社 二河公園 二河川公園 東郷平八郎邸跡と東郷坂 青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡 旧澤原家住宅(三ツ蔵) 眼鏡橋(海軍第一門跡) 海軍第二門跡 海軍第三門跡 第六潜水艇遭難之碑 呉中央桟橋ターミナル(旧海軍第一上
宮原11丁目の防空壕跡宮原中学校前の国道487号線沿いにあります。道路沿いに4つの防空壕の入口が並んでいます。このうち3つにはパブリックの防空壕としてはめずらしくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆
此彼堂と彼岸堂三和町の和庄小学校近くにあります。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際にここ城家防空壕で亡くなった人を供養するお堂です。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃
両城の防空壕跡両城小学校の近くにあります。太平洋戦争後期の昭和19年以降は空襲に備えて呉市内にも各家ごとに防空壕が作られました。そうした家庭用防空壕とは別に、大通りや工場・学校・病院といったパブリックな場所の近くにも公共の防空壕が作られました。ここ両城にある防空壕は元々は海軍軍需
床下式防空壕跡川原石の古い民家に残るめずらしい床下防空壕跡太平洋戦争初期の防空壕は、各家庭でこのような家屋の床下や庭に家族が入る分の防空壕が作られました。一般的なものは、深さは約1.5mで床下に穴を掘って板を置き土をかぶせるという作り方でした。この防空壕跡も家屋の奥まで続いていま
す。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃げ込みましたが、太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆弾が使われたため、周りの建物が燃えることによる
室尾の民家の防空壕跡室尾集落は倉橋島南東にある集落で、コミュニティバスが通る集落の中では最大の集落です。集落の東側にある民家跡に防空壕跡が残っています。呉市周辺で見られる民家の防空壕跡は貴重品用と人間用で2つあるものが多いですが、ここは小型が1つのみです。貴重品用のみしか作られな
尾立の防空壕跡(西側)尾立(おたち)集落の西端の斜面にあります。大型で横長の壕口がコンクリートで塞がれた跡が残っています。ただし、防空壕は壕口が大きいと爆風を完全に防げない上に内部に支柱が必要になるため、もしかすると防空壕ではない可能性があります。尾立集落は、呉市街地が甚大な被害
宮原4丁目の民家の防空壕跡宮原小学校の近くの更地にある防空壕跡詳細不明ですが2つあることから民家の防空壕跡と思われます。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作ってあるため、このよ
一人。東大3年。マザコンでピザ。墓場島でのサバイバルゲームには反対していたらしい。「2年前」に何かをやらかしたらしいが…。二重の見張りの中、防空壕で寝ていた所を銃剣で首を一突きにされ殺害される。ドラマ版では(叫び声が周囲に聞こえないように)口に詰め物をされた上で、寝袋の上からメッ
される予定となりました。しかし、伐採を惜しむ声が多かったため空鞘稲生神社の境内に移植されることとなり、現在は見事な大木に育っています。空鞘町防空壕跡慰霊之碑本川の土手にあった防空壕跡原子爆弾の犠牲となった本川地区の住民は本川尋常高等小学校で火葬され、遺骨がこの防空壕へ埋葬されまし
仏様の防空壕正福寺の医王殿の裏にあります。防空壕としてはめずらしくレンガ造りの防空壕です。通常、防空壕は少しでも強度を上げるためにレンガよりコンクリートで作られますが実はこの防空壕は人間用ではなく仏像用です。通称「仏様の防空壕」と呼ばれたこの防空壕は、空襲が激化してきた太平洋戦争
宮原7丁目の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の街呉特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕跡です。宮原町には他にも複数の防空壕跡がありますが、ここの壕口は非常に大きく他の防空壕の2.5倍ほどあります。もしかしたら防空壕ではなく倉庫や地下工場の入口かもしれませんが詳細不明です。現在は
吉浦宮花町の防空壕跡吉浦宮花町は戦前から海軍の燃料庫(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)があった関係か防空壕跡が残っています。こちらは住宅地の中にある防空壕跡で、両側を石で補強してありますが高さは低く大人はしゃがんで入るのがやっとの大きさです。地元の人のよると「当時はもっと深く掘ってあっ
地下施設の換気口です。地下通路電話総合交換所につながる地下通路。第一庁舎裏の入口近くにあります。本来の用途は地下通路ですが太平洋戦争末期には防空壕としても利用され『鎮守府勤務員用防空壕』とも呼ばれていました。空襲警報が発令された場合は第一庁舎にいた職員はこの地下通路を降りて避難し
沖美町の防空壕跡沖美町高祖にある防空壕跡県道36号線沿いに防空壕跡が残っています。入口は3つあり中でつながっているものと思われます。また、入口はかなりていねいにレンガで組まれいて中央の入口には伝声管らしきものもあります。太平洋戦争末期に作られた防空壕は、物質不足のため斜面に穴を掘
です。三門前隧道王子マテリア呉工場前から長浜まで約2kmにわたって壕口が多数あります。地元住民の方のお話では「広海軍工廠と第11海軍航空廠の防空壕」との事です。ただし、当時の地図で見ると中で繋がっているため斜面に穴を掘っただけの防空壕(通称:タコツボ)ではなくトンネルになっている
足により配備は進まずそのまま終戦を迎えました。現在、半島は海水浴場やキャンプ場といったレジャー施設になっていますが、園内のあちこちに施設跡・防空壕跡・遺構が残っています。なお、「P基地」とは用途を隠匿するために使われた内部の通称で、正式には「大浦分工場」「特潜訓練基地」と分けて呼
は海水浴場となっていますが、万葉集や遣唐使船に関する記念碑が残されています。桂浜湾外に太平洋戦争末期に空襲を受けた倉橋本浦があります。桂浜の防空壕跡桂浜の西端にあります。防空壕跡と思われる人工的な壕口が2つあります。桂浜には中世の造船所である乾ドック跡がありますが、太平洋戦争の時
川原石の民家の防空壕跡川原石駅近くにある港町小学校(旧川原石小学校)の下にあります。地元住民の方にお聞きすると民家の防空壕跡とのことです。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作っ
宮原9丁目の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の町である呉市特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕です。現在は更地や空き家が多くなりましたが、位置的に旧呉海軍工廠の裏にあるので在りし日は住宅が多く人口密集地域であったと思われます。となりに燈籠やレンガ造りの基礎があるので神社仏閣やお
小用町の防空壕跡(国道沿い)国道487号線沿いに3つあります。写真1枚目は斜面を掘ったもので中型ですが経年による風化の影響で半分崩れてしまっています。小用港は戦争末期に戦艦榛名が凄まじい空襲を受ける戦闘があったことから防空壕跡もたくさんあります。小用町の防空壕跡(林道沿い)こちら
ひとつ川橋の防空壕跡ひとつ川橋にある防空壕跡大型の防空壕跡が国道沿いに残っています。近くに海上自衛隊第11海上訓練指導隊がありますが、ここは太平洋戦争終戦後に埋め立てられた土地で戦前からある海軍施設の付属防空壕ではないようです。宮ノ原集落の外れにあるため、集落の住民の防空壕であっ
津久茂の防空壕跡津久茂にある防空壕跡国道沿いに横穴式防空壕跡が2つ残っています。中はそこそこ広そうですが入口が埋められています。近くに海上自衛隊第11海上訓練指導隊がありますが、ここは太平洋戦争終戦後に埋め立てられた土地で戦前からある海軍施設の付属防空壕ではないようです。津久茂集
。南部砲台跡芸予要塞時代の遺構北部砲台跡と同じ造りですが状態は悪いです。兵舎施設と思われる遺構兵舎跡と思われる遺構ですが詳細不明です。幹部用防空壕跡毒ガス工場時代の遺構半地下コンクリート製の防空壕ですがこの防空壕を使えるのは幹部だけです。一般工員の防空壕は地面に穴を掘っただけの横
の搬送やインフラ復旧を行いましたが多くの隊員が二次被爆しました。なお、同じ陸軍の島である似島も臨時救護所に指定され負傷者が搬送されています。防空壕跡(船舶工場周辺)陸軍の島なので防空壕もたくさんあります。金輪島の防空壕は太平洋戦争中に約60カ所作られましたが大型で中が広く作ってあ
た。鎮守府の候補地として挙がるだけあって坂が多く目の前に島がありますが、尾道と向島の間にある尾道水道は大型船が航行するには少し狭い海峡です。防空壕跡尾道にも防空壕跡はあります。しまなみ海道で結ばれた因島(正面の向島のとなりの島)は戦争末期の昭和20年3月と7月に空襲を受けました。
には重極湾が終焉の地ではありません。瀬戸内海の島特有の海岸線まで山々に囲まれた静かな田舎ですがこの景色にも壮絶な歴史があることに感心します。防空壕跡重極の集落にある防空壕跡艦艇終焉の地には防空壕跡が残されていますが、こちらの防空壕跡も巡洋艦北上に関連する防空壕と思われます。重極湾
阿賀北の防空壕跡阿賀峠の東側にある防空壕跡かなり大型の防空壕ですが近所の方にお聞きすると人の手で掘られた素掘りの防空壕だそうです。その御仁も空襲警報が鳴ると一目散にここに逃げ込んだらしいですが、戦争末期になるとここより南の街はすべて空襲で焼かれてしまったとのことです。また、太平洋
宇和木新開の防空壕跡大谷橋の近くにある防空壕跡橋の西側の道路沿いに3つ残っています。付近には軍事施設はなく宇和木集落の外れにあるため、恐らく宇和木集落の住人のための防空壕かと思われます。 備考 ・大向釣士田港線(県道283号線)沿いにある ・近くにある地蔵
旧5万トンタンク跡飛渡瀬燃料置場の50000トンタンクがあった場所戦後長らく放置されていましたが、近年埋め戻しされ現在は農地となっています。防空壕跡旧飛渡瀬燃料置場から約1kmほど離れたところに2つあります。1つはかなり大型で入口に防爆壁がついています。防爆壁がついている防空壕は
八本松駅前の防空壕跡八本松駅の北にあります。1つはレンガ造りの坑門が作られていることから防空壕であると思われます。もう1つは畑の中にあるため防空壕ではなく用具入れ、もしくは石垣の亀裂の可能性がありますが詳細不明です。レンガ造りの坑門のある防空壕は民家の裏にあるものが多いため、恐ら
0年に民間企業に払い下げられ、現在はとなりの大竹市と同じく石油化学コンビナートとなっています。旧陸軍燃料廠旧興亜石油殉難者地岩国陸軍燃料廠の防空壕跡通常、市街地の防空壕は山の斜面に直接穴を掘るタイプ(通称:タコツボ)が一般的ですがこの防空壕は壕口が2つあるコンクリート製です。また
渡子の防空壕跡倉橋島北部の坪井から渡子(とのこ)の間の国道487号線沿いにあります。太平洋戦争の防空壕跡は呉市各地にありますが入口が塞いでないものはめずらしいです。艦艇終焉の地には防空壕が多く残っていますが、渡子は戦艦伊勢終焉の地である坪井と空母天城・空母葛城の終焉の地である三ツ
す。大正3年竣工なので呉鎮守府や昭和町の呉海軍工廠のレンガより新しいです。天井に送電のための碍子が付いているのが機械室という感じがしますね。防空壕跡学校の内外にたくさんあります。位置的に潜水艦桟橋と海軍吉浦貯油所の間に位置する火薬工場であったため、防空壕跡も多く作られたのではない
青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡海上自衛隊青山宿舎の敷地内にある壕口跡ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府法務部軍法会議所がありました。軍法会議所とは軍令や軍紀に違反した軍人を裁くための旧日本軍の司法機関です。防空壕跡と思われる壕口は3つありますが、防空壕なのかまたは隧道
利用されていたことがわかります。昭和10年には呉市で開かれた『国防と産業大博覧会』の会場として使用されました。また、太平洋戦争中は園内の山に防空壕が作られました。終戦後は進駐してきたイギリス軍が使用していましたが、現在は呉市に返還され戦前と同じく市民がスポーツを楽しむ場として利用
坪の内町の防空壕跡国道487号線の坪ノ内交差点かつて、ここにコンクリート製の防空壕がありましたが、現在は残っていません。 備考 ・かつて国道487号線の坪の内交差点の北側に存在していた ・近くに宮原11丁目の防空壕跡がある 住所
かるが浜駅は昭和3年に夏季臨時停車場として設置のが始まりで、それ以前は吉浦港か川原石港から船で海水浴に来るのが一般的でした。かるが海浜公園の防空壕跡かるが海浜公園に残る防空壕跡半島の南側は旧海軍軍需部乙廻燃料置場があったため、周辺も防空壕が多くここもその一部かと思われます。係船遺
であったと思われます。造船船渠壁石モニュメント造船船渠の壁石を一部を保存したモニュメント壁石は諸説ありますが呉市の倉橋島産といわれています。防空壕跡旧第三船渠の前にある防空壕跡。3つ現存しています。中央の壕口は鉄製扉に換気扇がついており内部は鉄骨と壁が張り巡らされています。また両
は共同生活はうまくいっていたが、戦争が進むにつれて諍いが絶えなくなる。そのため2人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池[3]のほとりにある防空壕[4]の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っ
唯一の遺構まるれの係留などに使われた突堤です。風化がひどいのかコンクリートで補強されています。兵舎跡・燃料庫跡慰霊碑の反対側は山があり兵舎や防空壕・燃料庫などがありました。現在は土石の採取により平地となっているため遺構はありません。幸之浦の防空壕跡幸之浦説教所の近くにあります。海
たる場所で普通の人間として生きたかったんだ……。友達や、愛する人の近くで――。周龍道この事件の犯人「巌窟王」彼の正体は松岡達によって12年間防空壕跡に閉じ込められていた日本人青年・狩谷純。父の狩谷教授が防空壕跡で見つけた金塊を独り占めしようとしたため、松岡による金塊強奪計画の巻き
青少年交流の家の防空壕跡江田島青少年交流の家にある防空壕跡2つあり、1つは天蓋が崩れて半野ざらしになっています。もう1つは壕口が大きく中から水音がするため内部が広そうです。作られた時期や用途は不明ですが、艦艇終焉の地の近くには防空壕跡が多く残っておりここにも標的艦摂津終焉の地があ
柿浦峠の防空壕跡柿浦峠にある防空壕跡レンガ造りの焼却炉・門柱・井戸が残っていることから何かの建物があり、その附属施設としての防空壕と思われますが詳細不明です。 備考 ・県道300号線沿いにある ・柿浦峠バス停の目の前にあるので注意していればすぐ見つかる
して転用されます。その後、昭和53年に少年院も老朽化のため閉鎖となりました。平成13年に建物はすべて解体されましたが、半島には旧海軍の作った防空壕や防波堤等が現在も残っています。山がちな場所を整地したため、平坦地で半島の先端だけ山が残っているという変わった地形になっています。阿多
のところ完全に不明。しかし戦争に関連させながら読むとある程度の推測は可能である。「私達この穴で暮らし生活し、そして生きてきた」 つまりここは防空壕だったのだろうか?「だが私達あのポケモン閉じ込めた」これは多分レジ系の事だろう。しかし何故彼らを?昔は奇形児や障害者を深い穴の中に閉じ
太と節子の兄妹は神戸を襲った空襲で家と母親を失い、親戚の叔母のところに居候することになる。しかし叔母の態度に嫌気がさした清太は家を出て2人で防空壕に住み始めるが……登場人物演者はテレビドラマ/実写映画の順。清太声:辰巳努 演:石田法嗣/吉武怜朗いきなり冒頭で死んだ主人公。14歳。
機関銃座の跡があり上からも攻撃を行えるようにしてあります。地下工場の空気孔地下工場の空気孔全部で2つあり工廠神社へ上る階段の途中にあります。防空壕跡串山のふもと(南側)の海軍工廠員工員養成所跡にあります。東側は海軍工廠員工員養成所と接しているため防空壕の数もそれなりに必要だったと
徹底的に破壊されました。また、太平洋戦争末期の呉海軍工廠の労働者はほとんどが召集された動員学徒や女子挺身隊などの女学生でした。多くの女学生は防空壕へ逃げ込みましたが防空壕自体を爆撃されて生き埋めになったり、爆風で地形が破壊され海水が入り込んで溺死したりと悲惨な有様でした。殉国の塔