地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ
呉YWCA 呉水交社跡 呉線の廃トンネル 呉湾 亀山神社 二河公園 二河川公園 東郷平八郎邸跡と東郷坂 青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡 旧澤原家住宅(三ツ蔵) 眼鏡橋(海軍第一門跡) 海軍第二門跡 海軍第三門跡 第六潜水艇遭難之碑 呉中央桟橋ターミナル(旧海軍第一上
呉YWCA 呉水交社跡 呉線の廃トンネル 呉湾 亀山神社 二河公園 二河川公園 東郷平八郎邸跡と東郷坂 青山宿舎(旧呉鎮守府軍法会議所)の防空壕跡 旧澤原家住宅(三ツ蔵) 眼鏡橋(海軍第一門跡) 海軍第二門跡 海軍第三門跡 第六潜水艇遭難之碑 呉中央桟橋ターミナル(旧海軍第一上
96:敵の姿が明らかになります…16:28:GM@4-1196:ジャン!16:28:青葉@4-1197:うわああああああああああああジャン!防空棲姫です。16:28:睦月@4-1201:「え、なになにー?」16:28:GM@4-1196:と、同時に偵察機は被弾 黒煙を上げて海に落
宮原11丁目の防空壕跡宮原中学校前の国道487号線沿いにあります。道路沿いに4つの防空壕の入口が並んでいます。このうち3つにはパブリックの防空壕としてはめずらしくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆
此彼堂と彼岸堂三和町の和庄小学校近くにあります。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際にここ城家防空壕で亡くなった人を供養するお堂です。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃
両城の防空壕跡両城小学校の近くにあります。太平洋戦争後期の昭和19年以降は空襲に備えて呉市内にも各家ごとに防空壕が作られました。そうした家庭用防空壕とは別に、大通りや工場・学校・病院といったパブリックな場所の近くにも公共の防空壕が作られました。ここ両城にある防空壕は元々は海軍軍需
床下式防空壕跡川原石の古い民家に残るめずらしい床下防空壕跡太平洋戦争初期の防空壕は、各家庭でこのような家屋の床下や庭に家族が入る分の防空壕が作られました。一般的なものは、深さは約1.5mで床下に穴を掘って板を置き土をかぶせるという作り方でした。この防空壕跡も家屋の奥まで続いていま
す。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃げ込みましたが、太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆弾が使われたため、周りの建物が燃えることによる
尾立の防空壕跡(西側)尾立(おたち)集落の西端の斜面にあります。大型で横長の壕口がコンクリートで塞がれた跡が残っています。ただし、防空壕は壕口が大きいと爆風を完全に防げない上に内部に支柱が必要になるため、もしかすると防空壕ではない可能性があります。尾立集落は、呉市街地が甚大な被害
室尾の民家の防空壕跡室尾集落は倉橋島南東にある集落で、コミュニティバスが通る集落の中では最大の集落です。集落の東側にある民家跡に防空壕跡が残っています。呉市周辺で見られる民家の防空壕跡は貴重品用と人間用で2つあるものが多いですが、ここは小型が1つのみです。貴重品用のみしか作られな
甲山防空監視哨跡世羅郡世羅町の今高野山にあります。ここには太平洋戦争に今高野山城跡の石垣を使って作られた防空監視哨がありました。甲山(こうざん)とは現在の広島県世羅郡世羅町の旧地名で太平洋戦争中はこの辺りは甲山町と呼ばれていました。昭和17年4月に日本本土に初めて空襲があったこと
宮原4丁目の民家の防空壕跡宮原小学校の近くの更地にある防空壕跡詳細不明ですが2つあることから民家の防空壕跡と思われます。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作ってあるため、このよ
ター?鳳翔@3-391:空母組時計とかいらんの?瑞鶴@2-1219:ありだねぇ 鳳翔@3-391:あ、戦場表ふりゅ?潮@2-1425:あとは防空窓とか?瑞鶴@2-1219:うむ、防空窓もありだね提督@425:ひえっ提督@425:戦場表振りたい?山雲@3-390:じゃあー 山雲は—
三津防空監視哨跡東広島市安芸津の正福寺山公園にあります。三津防空監視哨は、防空法が制定された昭和12年8月(日中戦争中)という広島県内の防空監視哨としてはかなり早い時期に作られた防空監視哨です。世羅にある甲山防空監視哨と同じ尾道防空監視隊所属でした。当初は三津町役場に設置されてい
されました。慰霊碑のある場所が広島西部第二部隊が駐屯していた旧広瀬国民学校ですが、現在は学校は無くなっており慰霊碑のみが残っています。広島県防空機動隊員慰霊碑防空機動隊とは空襲の被害軽減のため灯火管制・通報・消防・救護等を行う部隊防空機動隊は日中戦争中の昭和12年という早い段階で
年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた『高烏台砲台』。もう1つは陸軍砲台廃止後に海軍呉鎮守府が昭和16年に呉防衛のために転用構築した『高烏台防空砲台』です。現在、陸軍時代の砲台跡は公園となっているため多数残っていますが、海軍時代の砲台遺構は公園の外にあるためほとんど現存していませ
うん、父親って言うのはああいう物なのかな、って。」8.2 新しい闇の影9 終了処理10 後書き10.1 悪魔の化身(デビルリバース)《でかい防空棲姫》のデータ10.1.1 パラメータ(通常時)10.2 装備10.3 アビリティ10.3.1 パラメータ(混乱時)10.3.2 解説1
一人。東大3年。マザコンでピザ。墓場島でのサバイバルゲームには反対していたらしい。「2年前」に何かをやらかしたらしいが…。二重の見張りの中、防空壕で寝ていた所を銃剣で首を一突きにされ殺害される。ドラマ版では(叫び声が周囲に聞こえないように)口に詰め物をされた上で、寝袋の上からメッ
される予定となりました。しかし、伐採を惜しむ声が多かったため空鞘稲生神社の境内に移植されることとなり、現在は見事な大木に育っています。空鞘町防空壕跡慰霊之碑本川の土手にあった防空壕跡原子爆弾の犠牲となった本川地区の住民は本川尋常高等小学校で火葬され、遺骨がこの防空壕へ埋葬されまし
宮原7丁目の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の街呉特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕跡です。宮原町には他にも複数の防空壕跡がありますが、ここの壕口は非常に大きく他の防空壕の2.5倍ほどあります。もしかしたら防空壕ではなく倉庫や地下工場の入口かもしれませんが詳細不明です。現在は
仏様の防空壕正福寺の医王殿の裏にあります。防空壕としてはめずらしくレンガ造りの防空壕です。通常、防空壕は少しでも強度を上げるためにレンガよりコンクリートで作られますが実はこの防空壕は人間用ではなく仏像用です。通称「仏様の防空壕」と呼ばれたこの防空壕は、空襲が激化してきた太平洋戦争
螺山砲台跡螺山(つぶやま)は長浜集落と白岳住宅地の間にある標高238mの山かつてここに広海軍工廠防衛のための螺山防空砲台が作られました。螺山防空砲台は太平洋戦争前の昭和12年に竣工しており開戦時には『四〇口径三年式8cm高角砲』2門が配備されていました。開戦後は聴音機が追加され、
沖美町の防空壕跡沖美町高祖にある防空壕跡県道36号線沿いに防空壕跡が残っています。入口は3つあり中でつながっているものと思われます。また、入口はかなりていねいにレンガで組まれいて中央の入口には伝声管らしきものもあります。太平洋戦争末期に作られた防空壕は、物質不足のため斜面に穴を掘
篠尾山防空監視哨跡篠尾山防空監視哨は廿日市天満宮(篠尾山)にあったとされる防空監視監視哨篠尾山防空監視哨は昭和8年の戦時防空計画によって計画されました。昭和8年の時点ではまだ日中戦争も開戦しておらず防空法も制定されていないため、地元自治体が自主的に計画したものと思われます。有事の
吉浦宮花町の防空壕跡吉浦宮花町は戦前から海軍の燃料庫(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)があった関係か防空壕跡が残っています。こちらは住宅地の中にある防空壕跡で、両側を石で補強してありますが高さは低く大人はしゃがんで入るのがやっとの大きさです。地元の人のよると「当時はもっと深く掘ってあっ
05mと連峰になっている飛追山より高い山で、山頂に石仏像があるため仏ノ塔といわれています。ここには太平洋戦争中に呉港防衛のため呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。飛渡瀬第一防空砲台は太平洋戦争末期の昭和19年11月に着工され、秋月型駆逐艦の主砲と同じ『六五口径九八式10cm連装
分で読めます▽タグ一覧水母棲姫「艦娘か…今のうちに潰しておいたほうが良さそうだ。」飛行場姫「(マッチングしなくて)イライラするんだよ…。」防空棲姫「甲提督ってのはさ、甲提督になろうとした瞬間に、失格なんだよ。」戦わなければ生き残れない!『艦これアーケード』の第捌回(第八回)期間
飛渡瀬第二応急防空砲台跡飛渡瀬第二防空砲台跡は太平洋戦争末期の昭和20年1月に作られた応急防空砲台標高77mの江南の高台にあり『八八式7.5cm野戦高射砲』3基が配備されていました。防空砲台にしては低すぎる山ですが、東の海沿いに海軍飛渡瀬燃料置場(後の海上自衛隊貯油所)があったた
地御前キラキラ公園(旧地御前村防空監視所)地御前は日本三景の1つ安芸の宮島の北対岸にある街宮島街道沿いの街として史跡も多い地御前ですが太平洋戦争中に海軍の防空監視所がありました。地御前防空監視所は昭和17年4月に日本本土に初めて空襲があったことを受け、今後予想される大都市へを空襲
鍋山防空機銃砲台跡鍋山はかつて旧呉海軍工廠製鋼部(現日新製鋼呉製鉄所)の後ろにあった山ここには太平洋戦争中に呉海軍工廠防衛のための防空機銃砲台が作られ、昭和17年8月に『40mm連装機銃』1基が配備されました。その後、戦局の悪化と呉海軍工廠の後ろの山という位置的な重要性もあって、
は海水浴場となっていますが、万葉集や遣唐使船に関する記念碑が残されています。桂浜湾外に太平洋戦争末期に空襲を受けた倉橋本浦があります。桂浜の防空壕跡桂浜の西端にあります。防空壕跡と思われる人工的な壕口が2つあります。桂浜には中世の造船所である乾ドック跡がありますが、太平洋戦争の時
海軍工廠西海岸応急防空砲台跡海軍工廠西海岸応急防空砲台はかつて旧呉海軍工廠製鋼部(現日新製鋼呉製鉄所)の海岸線にあった応急防空砲台旧呉海軍工廠製鋼部のある半島の付け根部分の南西側海岸線に構築され、昭和20年1月に『四〇口径一〇式12cm高角砲』が5門が配備されました。通常、防空砲
秋月防空砲台跡秋月防空砲台跡は秋月港の後ろにある飛追山にあります。飛追山は標高170mと防空砲台を築くには低くまた江田島でも最も陸地が細いところです。しかし、西の江田島湾には海軍兵学校があり東の呉湾には呉海軍工廠があるという戦略的には重要な場所です。秋月防空砲台は太平洋戦争中期の
源車や測量車を無理やり接続して、女傑ディアナ・マコニー少佐の指揮の下、一度きりの発射に懸けるオーシア軍。一機やられるだけでアーセナルバードの防空圏が大幅に縮小する(詳細は後述)ため撃たせるわけにはいかないと、戦車隊、爆撃部隊、ヘリボーン部隊にロケット砲部隊、果ては暗殺部隊まで投入
串山公園(旧串山防空機銃砲台)串山は旧呉海軍工廠本部の後ろにある山山と言っても標高は63mしかなく簡単に登れる山ですが太平洋戦争中の昭和17年に防空機銃砲台が作られました。串山防空機銃砲台は当初『坪ノ内機銃砲台』として昭和17年8月に完成し13mm4連装機銃2基が配備されました。
足により配備は進まずそのまま終戦を迎えました。現在、半島は海水浴場やキャンプ場といったレジャー施設になっていますが、園内のあちこちに施設跡・防空壕跡・遺構が残っています。なお、「P基地」とは用途を隠匿するために使われた内部の通称で、正式には「大浦分工場」「特潜訓練基地」と分けて呼
川原石の民家の防空壕跡川原石駅近くにある港町小学校(旧川原石小学校)の下にあります。地元住民の方にお聞きすると民家の防空壕跡とのことです。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作っ
です。三門前隧道王子マテリア呉工場前から長浜まで約2kmにわたって壕口が多数あります。地元住民の方のお話では「広海軍工廠と第11海軍航空廠の防空壕」との事です。ただし、当時の地図で見ると中で繋がっているため斜面に穴を掘っただけの防空壕(通称:タコツボ)ではなくトンネルになっている
現ギミックを妨害するように。更に戦力ゲージでは甲作戦限定で戦艦水鬼改が随伴で常時2体いるという、ダブルネオダイソン改体制でダブルネ級改と共に防空巡棲姫を守る鉄壁の城塞としてこちらを待ち受ける。2020年梅雨/夏イベントではダイソンシリーズより速い登場で第二海域に登場。ダブルゲージ
小用町の防空壕跡(国道沿い)国道487号線沿いに3つあります。写真1枚目は斜面を掘ったもので中型ですが経年による風化の影響で半分崩れてしまっています。小用港は戦争末期に戦艦榛名が凄まじい空襲を受ける戦闘があったことから防空壕跡もたくさんあります。小用町の防空壕跡(林道沿い)こちら
渡子峠倉橋島北部の音戸と渡子の間にある渡子峠(標高108m)ここには太平洋戦争末期の空襲に備えて呉鎮守府所属の音戸防空砲台が作られました。音戸防空砲台は太平洋戦争末期の昭和20年1月に竣工し『四〇口径一〇式12cm単装高角砲』が4門配備されました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲
吉松山防空砲台跡吉松山は広市街地の北東(船津神社の裏)にある山ここには太平洋戦争末期の昭和20年に広海軍工廠防衛のため呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。広の大抵の高い山には広海軍工廠を守るための防空砲台が多く作られましたが、ここもその1つです。砲台床砲台床は全部で4つあります
ではないかとの説も上がっている。輸送完了後は即座に戦力ゲージが出現…というわけにもいかず、ギミックを解除する必要がある。と言ってもギミックは防空優勢2回なのでそのまま基地だけ再編成して出撃していればすぐに終わる。E-3-3/戦力ゲージ戦力ゲージを出現させたあとはルート短縮を実施す
2:ほいほい榛名@2-1617:今は家具何もない状態?GM:診療台がある榛名@2-1617:見落としてた榛名@2-1617:とりあえず安定の防空窓(2)天津風@4-1026:扶桑用に七面鳥とか(2)榛名@2-1617:教卓があった方がいいでしょうー。大井@4-282:かなGM:ほ
灰ヶ峰展望台(灰ヶ峰防空砲台跡)呉市の象徴的な山である灰ヶ峰「呉市で2番目に高い山」こと灰ヶ峰ですが太平洋戦争中は山頂に呉鎮守府所属の防空砲台がありました。砲台は基本的に山の上に作られますがここ灰ヶ峰は標高737mと周りの山に比べて飛び抜けて高い山です。しかし、海軍の砲台があるこ
ひとつ川橋の防空壕跡ひとつ川橋にある防空壕跡大型の防空壕跡が国道沿いに残っています。近くに海上自衛隊第11海上訓練指導隊がありますが、ここは太平洋戦争終戦後に埋め立てられた土地で戦前からある海軍施設の付属防空壕ではないようです。宮ノ原集落の外れにあるため、集落の住民の防空壕であっ
4:25:大和@746:コインは3枚、本来ならここで買う定番は診療台セット なのだが14:25:大和@746:今回はそうも言ってられないので防空加工窓がオススメっぽい14:25:矢矧@2-79:ですね14:26:吹雪@996:灯火管制しなきゃ・・・14:26:大和@746:あ、そ
津久茂の防空壕跡津久茂にある防空壕跡国道沿いに横穴式防空壕跡が2つ残っています。中はそこそこ広そうですが入口が埋められています。近くに海上自衛隊第11海上訓練指導隊がありますが、ここは太平洋戦争終戦後に埋め立てられた土地で戦前からある海軍施設の付属防空壕ではないようです。津久茂集
宮原9丁目の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の町である呉市特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕です。現在は更地や空き家が多くなりましたが、位置的に旧呉海軍工廠の裏にあるので在りし日は住宅が多く人口密集地域であったと思われます。となりに燈籠やレンガ造りの基礎があるので神社仏閣やお
市を囲む9つの連峰の1つとして日佐護山や休山等と連なっていることから景色が良く登山の名所として知られていますが、太平洋戦争中に呉鎮守府所属の防空砲台が作られました。三津峰山の防空砲台は南部と北部に分けられており南部には『四〇口径一〇式12cm単装高角砲』が4門、北部には訓練生用の
阿賀北の防空壕跡阿賀峠の東側にある防空壕跡かなり大型の防空壕ですが近所の方にお聞きすると人の手で掘られた素掘りの防空壕だそうです。その御仁も空襲警報が鳴ると一目散にここに逃げ込んだらしいですが、戦争末期になるとここより南の街はすべて空襲で焼かれてしまったとのことです。また、太平洋