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“酷吏軍師”と恐れられた諸葛亮(『三才図会』より)
諸葛亮(しょかつりょう、180年/181年 - 234年)は、蜀漢(蜀)の政治家。字は孔明(後述)。爵位は武郷侯。諡号は忠武侯。
ちなみに後漢の最後の皇帝・愍帝[1](劉協)と生没年が同じである。身の丈は8尺[2]ほどもあった。主君である劉備の弟・劉亮と同諱である。
父は諸葛珪[5](後述)、母は章氏、継母は宋氏、兄あるいは従兄は諸葛瑾(後述)、弟は諸葛均、叔父あるいは父は諸葛玄(後述)、従弟あるいは弟は諸葛誕(後述)[6]。姉は蒯祺夫人[7]・龐山民[8]夫人。
正室は黄婉媜[9]、側室は麋氏[10]。息子は諸葛瞻[11]・諸葛懐、娘は諸葛果[12]ら。
姪は諸葛氏[13]、甥あるいは従子は諸葛恪・諸葛喬[14]・諸葛融兄弟(諸葛瑾の子)と諸葛望(諸葛均の子)[15]と諸葛靚(諸葛誕の子)ら。
瑯琊郡陽都県[16]の人。187年ころに父母を失い、叔父・諸葛玄の庇護を受ける。193年の曹操の徐州無差別虐殺に遭遇した。
197年に叔父が亡くなると、荊州牧・劉表のもとに仕官を試みるも、失敗したため挫折して南陽郡鄧県隆中に弟の諸葛均とともに引きこもって、下僕に自炊させて優雅な読書生活をした。その間に司馬徽・徐庶・龐統[17]らと交わり、龐徳公[18]から“臥龍先生”と呼ばれた。さらに遊学仲間の崔州平[19]・孟建・石韜・馬良と馬謖兄弟らと交流した。
207年、幹部候補の書記官を求めた劉備の訪問を数回受けて、劉備のもとに念願の仕官を果たした[20]。翌208年に劉備の命で呉の孫権のもとに使節として赴き、曹操と戦うように周瑜とともに説得して成功した。
213年、龐統が益州で戦死したため、関羽を荊州の公安に委ねて、張飛・趙雲とともに援軍を率いて、劉備とともに益州牧の劉璋を降した。
以降は『蜀科』という厳格な法律を編集し、その限度を知らない苛烈さに法正が「『蜀科』は苛烈すぎます。温かみがありませんし、もっと緩和してもいいんでは?」と言うと、諸葛亮は「劉璋時代はあまりにも放漫的で無法状態だった。わしはかつての高祖(劉邦)の「法の三章」と逆のことをやるんだ」といって取り合わなかった[21]。ただし、これは後世の史家によって、矛盾もあり否定されている部分もあるという。
215年から216年にかけて、要職に就いて驕慢であった犬猿の仲の彭羕の人格を危険視して、劉備にこれを讒言すると、劉備は彼を江陽郡太守に左遷させた。これを恨んだ彭羕は後に馬超に謀反を唆したため、これを聞いた諸葛亮は彭羕を酷刑するように劉備に上奏して、このために彭羕は37歳で処刑された。
219年夏、劉備の養子(実子とも)の劉封が、副将の孟達に命じて魏の房陵郡太守の蒯祺を攻め滅ぼし、同じく副将の魏延に命じて蒯祺一族を皆殺しとした。蒯祺は諸葛亮の姉婿だったので、劉封を激しく怨んだ。そこで諸葛亮は同年に劉封が上庸郡を攻略して、申耽(征北将軍)・申儀(建信将軍)兄弟が劉封に降伏すると、申兄弟を西郡城太守に任命させるように劉備に進言した。間もなく劉備が蜀王(漢中王)になると、劉封を差し置いて劉備の年少の子・劉禅[22]を太子にすべく上奏し、かくして劉禅が兄(劉封)を差し置いて太子となった。220年に劉封はもともと仲が悪く、蜀漢を裏切った孟達と申兄弟に惨敗して、成都に逃げ戻った。既に丞相に昇格した諸葛亮は義兄の蒯祺の仇を討つべく「封公子はわが君が蒯祺を生かして捕虜にする君命に背きました」そして、「封公子は生来剛毅で、次世代(劉禅)では統率できないでしょう。ここで死を賜るべきです」と進言した。こうして劉封は自決して果てたのである(後述)。同時期に政敵の法正も逝去したので、諸葛亮の発言力の影響は強大化した。
223年に劉備が逝去する前に、李厳(李平)とともに枕元に召されて遺託を受けた[23]。さらに屁理屈で虚言が多いことを理由に、諸葛亮自身がこれを疎んで左遷した漢嘉郡[24]太守・黄元[25]が反乱を起こしたが、蜀郡太守・楊洪の進言で間もなく鎮圧された[26]。
その後、後主(劉禅)を補佐し、蜀漢の国営に専念した。同時に鄧芝を呉の孫権のもとに派遣して、かつて関羽によってこじれた盟約を修復させた。225年、李恢・馬忠をそれぞれ5千人を率いさせて、自らも馬謖[27]と同伴させて、1万5千人を率いて、呼応した永昌郡の主簿の呂凱、王伉らとともに、西南夷で反乱を起こした雍闓[28]・高定元・朱褒[29]らを滅ぼし、有名な「七縦七擒」で盟主の孟獲を降した[30][31] 。
227年、『出師の表』を奉り、魏を討つ北伐を動員した。秦州・雍州まで進撃して、安定郡太守の崔諒・南安郡太守の楊陵・金城郡太守の韓徳と4人の子である韓瑛・韓瑤・韓瓊・韓琪兄弟はあっさりと蜀漢に帰順したが、天水郡太守の馬遵は秦州・雍州刺史の郭淮に従って、上珪に向かって隴西郡太守の游楚とともに抵抗した。同時にかつての盟友の孟達と連絡を取った。魏に冷遇された孟達は喜んで呼応したが、費詩が「所詮、孟達は小人物です。まともに対応しないほうがよろしいです」と諌めたが、諸葛亮は聞き容れなかった。そのため、翌228年春に孟達は妻の甥の鄧賢と腹心の李輔の裏切りで、司馬懿の電撃的襲撃を受けて敗死した。
しかも、同年晩春から初夏にかけて、祁山付近の街亭[32]で馬謖[33]が諸葛亮の命に背いて、かえって張郃の軍勢に惨敗したため、激怒した諸葛亮は馬謖をはじめ参軍の張休・李盛らを処刑した[34][35][36][37](『街亭の戦い』)。そのため、後主(懐帝)・劉禅に奏上して「わたくし諸葛亮は敗戦の責任をとるため、官職を三階級降格させたく存じます」と願い出たため、丞相はそのまま続けて、上将軍から右将軍に降格する旨を拝命した。
同年冬に、魏の大司馬・曹真[38]配下で陳倉の守将・郝昭と王生[39]を攻略したが、郝昭と王生は配下の薛則・董禧・陳造・蘇顒・萬政に命じて、堅固に防御したので惨敗して撤退したが、謝雄・龔起に命じて追撃した曹真の部将の王双[39]を討ち取らせた。229年、陳式[40]とともに建威県から武都・陰平の両郡を攻略し、二郡を占拠した。その功績で、右将軍から大将軍に昇格した。231年、鹵城に向かい上邽付近にいた前述の秦州・雍州刺史で建威将軍の郭淮・後将軍の費瑶・征蜀護軍の戴陵[41]らを破った[42]。
同年秋に司馬懿と戦うも食糧不足で撤退したときに、司馬懿の厳命で追撃した老将の張郃とその副将の鄭文を木門道で弩を放って射殺した。帰還すると、片腕の李厳が腹心の苟安とともに食糧輸送怠惰の廉で、即刻に李厳を懲戒免職し流罪とした[43]。さらに苟安を50回の杖刑に処して、これを庶民に落とした。
このときから魏延と衝突を繰り返した長史の楊儀に対して頭を痛めた。232年に、おなじく魏延ともめた腹心の劉琰(劉炎)をやむなく更迭した[44]。234年、五丈原に出陣し、食糧輸送を容易にした木牛流馬を指揮する督運領に、かつての李厳配下の岑述(岑威)[45]を任命した。同時に、司馬懿と対抗すべき蘭坑で屯田を行なったが、度重なる過労のために重病となり、床に臥せるも秋8月23日に55歳で逝去した(『五丈原の戦い』)[46]。
『諸葛亮集』の著者でもある陳寿は諸葛亮崇拝者だったが「諸葛丞相は政治・行政家としては100年に1回しか登場しないほどの逸材で、時代にあった政策を行ない、公正な政治を行なった。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛丞相を畏れつつも敬服した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲[47]・蕭何に匹敵される」と述べている。
ただし、軍事面に関しては、本伝(諸葛亮伝)の評においては精通しておらず、融通が利かず戦いの成果を残せずに、彼の魏延とも円滑関係を保てない要因にもなっており、魏を滅ぼすことができなかったのは応変の将略には長じていなかったからであろうかと疑問を呈している。その一方、『諸葛亮集』では過労のために天命が尽きて知力では司馬懿と争うことはできなかったのだとも語っている。
要するに、諸葛亮は政治家としては100年に一度に輩出するほどの一流であり、戦いの構想を練る「戦略家」としては優れているが[48]、軍勢を統率して戦いを実践する「戦術家」および「軍略家」としては適格者ではないのである。
『東観漢記』・『元本』[49]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
劉禅の不興を買い処刑された李邈は生前に「諸葛亮は権力に執着し強力な軍勢を率いて、前漢の外戚の呂産・呂禄と霍禹のように専制かつ独裁的に振る舞っておりました。彼は狼虎のように[73]機会を狙っておりました。諸将を統括する宰相の勢力が強大な場合は、辺境の長官に赴任させてはならないもので、わたくしは常に危惧を感じておりました。現在、諸葛亮が逝去したのは、陛下のご一族にとって安泰の結果となり、辺境の異民族は安堵したということでありまして、これは多くの人々にとって喜ぶべき事であります」と上奏した[74]。
また、『諸葛孔明 ~影の旋律~』(渡辺精一)と『三国志_きらめく群像』(高島俊男)によれば、諸葛亮の出自の氏素性が曖昧である点に尽きるが、陳寿と裴松之は『諸葛氏系譜』の検証を怠ったのだろうか?今後の歴史の成果が待たれるのみである。
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