孫策

ページ名:孫策

小覇王と謳われた孫策

孫策(そんさく、174年/175年 - 200年)は、『三国志』に登場する人物。字は伯符。高祖桓帝[1]。項羽にちなんで「小覇王」と呼ばれた。

烈祖武帝孫堅と武烈皇后・呉氏との間の長男。太祖大帝孫権の同母兄で、同母弟は孫翊(孫儼)[2]・孫匡[3]ら。異母弟に孫朗(孫仁)。異母妹は弘咨夫人・陳某夫人・孫夫人ら。

正妻は不詳、愛妾は喬夫人(大喬)で、親友の周瑜[4]とは相婿同士である。子は孫紹・顧邵[5]夫人・朱紀[6]夫人・陸遜(陸議)夫人[7]・孫は孫奉。

概要[]

呉郡冨春県[8]の人。容貌にすぐれ、談笑を好み、父譲りの豪放磊落だったという。

184年、父・孫堅が曹操とともに黄巾党討伐に従軍すると、生母と弟らとともに盧江郡舒県に移住し、現地の名門御曹司の周瑜と出会い、意気投合して義兄弟の契りを結んだ。

191年に、南陽郡太守・袁術の配下であった父・孫堅が、宿敵の荊州牧・劉表[9]の部将である江夏郡太守・黄祖を討伐するために18歳で従軍するが、その戦いで父を失う(『襄陽の戦い』)。

孫策は部将の程普の提案で、劉表の部将の呂公と和議を結んで、亡父が捕虜にした黄祖を送り返して、かわりに父の遺体を引き取って丹陽郡曲阿県に戻り、丁重に葬って祭祀を続けた。葬儀を終えると、亡父の爵位であった烏程侯を同母弟の孫匡に譲り[10]、広陵郡江都県を拠点として、亡き父に代わって袁術に仕えて、その庇護をうけた。

ところが徐州刺史・陶謙は孫策のことを「鼻たれ小僧」と罵って、これを嫌悪した。孫策の母方の叔父である呉景が丹陽郡太守となっていたので、陶謙はこれを襲撃することを目論んだ。そこで、孫策は叔父のもとにいる生母と幼い弟と妹を曲阿県に移住させて、代わって自らは族兄の兪河[11]・袁術の部将である呂範とともに丹陽郡を拠点として、陶謙に備えた。

194年、呂範のすすめで、淮南郡太守となった袁術の近侍として仕えた[12]

淮南郡寿春県にいる袁術に面会した孫策は涙を流して「亡き父は董卓討伐に向かったときに、南陽郡であなた様と出会い、その配下となり庇護を受けました。不幸にも父は戦没し、あなた様のご期待に添えませんでした。わたくしもまだ若年のためにあなた様の庇護を受けました。どうか、わたくしの気持ちをお察してくださいませ」といった。袁術は孫策に薄気味悪さを感じて、何も返答しなかった。しばらくして袁術は「わしは君の(母方の)叔父である呉景を丹陽郡太守に任命した。また君の従兄である孫賁[13]もその都尉に任じて、その補佐をさせている。あそこは精鋭が多い土地である。君はすぐに丹陽郡にむかって、そこで募兵すればいいのではないか?」といった[14]

それを聞いた孫策は、丹陽郡宣城県に向かい数百人の兵を募集して、ひそかに袁術に唆された丹陽郡涇県の大帥[15]の祖郎の襲撃を受けて、絶滅に近い大敗して、孫策は周瑜とともに命からがらに敗走した。もう一度、孫策は袁術と面会して、さすがの袁術も今度は、亡父・孫堅の旧配下の軍勢である千数百人を孫策に返還した。

後漢の太傅・馬日磾[16]は、寿春県まで来たとき、孫策の噂を聞いて、これを召し出して懐義校尉に任命した。また、袁術の部将である張勲と喬蕤も孫策を敬愛した。これを聞いた袁術は自分の子・袁燿が凡庸であることを比較して「わしに孫策のような聡明な息子がおれば、安心して大往生できるのだが…」と嘆息して述べた。

あるとき袁術は孫策に戦功を挙げれば、九江郡太守にする約束をした。しばらくして、孫策の部下で軍律を犯して、おそれて袁術の陣営に逃げ込んだ者がいた。これを聞いた孫策は自ら乗り込んで、これを斬り捨てた。そのあとに袁術のもとに参内して自分の部下の不始末を詫びた。袁術は「兵士たちは軍律を犯す者が多い。わしはそれに対して厳罰せねばならん。なぜ君に詫びられる必要があろうか?」といった。これ以来、袁術の軍勢の中にも孫策を畏敬する者が続出し、孫策の名は高まった。

しかし、袁術は孫策の威光に嫉妬して、勝手に部将である丹陽郡の人である陳紀を九江郡太守にしてしまった。約束を反故された孫策は袁術に対して不信感を持つようになった。

195年に袁術は徐州刺史となった劉備を討伐するために、盧江郡太守・陸康[17]に米3万石を提供するように命じたが、陸康はこれに応じずに袁術は激怒した。孫策はかつて袁術の命で、陸康のもとに訪れたが、陸康は孫策に面会せず、自分の主簿に対応させた。孫策はこれに激怒して陸康を恨んでいた。それに目をつけた袁術は孫策を召し出して「わしは先の約束を反故して、誤って陳紀を任用したが、もし陸康を撃破したら、今度こそ盧江郡は君のものだ!」といって、陸康討伐を命じた。孫策は袁術の期待に応えて、見事に陸康を撃破してこれを追い払ったが、またしても袁術は約束を反故して、部将の劉勲を盧江郡太守に任命した。孫策は袁術にますます失望して、背を向けた。

これより以前に劉繇[18]が勅命で曲阿県を本拠とする、揚州牧として赴任した。以前は寿春県を本拠としていたが、袁術が寿春県を占領したために劉繇は南下して、曲阿県を本拠とした。孫策の母方の叔父である呉景はいまだに丹陽郡太守にあり、孫策の従兄・孫賁もその都尉として呉景を補佐したが、劉繇は丹陽郡を攻略して、これを陥落して両人を追い出した。

呉景と孫賁は九江郡歴陽県まで逃れて、そこに落ち着いて孫策に援助を歎願した。

一方、劉繇は部将の樊能と于麋を派遣して、東部の黄江津に駐屯させ、張英を当利口に駐屯させて、勢力を拡大させて袁術と対抗した。激怒した袁術は部将で瑯琊郡の人の恵衢を揚州刺史に任じて、歴陽県にいた呉景を督軍中郎将に任じて、孫賁と合わせて、張英を攻撃したが数ヶ月経っても、陥落することができなかった。

その報に危惧を感じた孫策は、周瑜とともに賢者として名高い張昭と張紘を自分の幕僚として招いた。

その後、孫策は寿春県にいる袁術に面会して「わが孫家と縁ゆかりある者が東方に多くおります。なにとぞ叔父・呉景を援助して、黄江津を攻撃することをお願いいたします。もし、黄江津を占領できれば、わたくしは郷里の冨春県に舞い戻り、数万の軍勢を得ることができます。その軍勢をもってあなた様が漢王朝を立て直すのに協力は惜しみません」といった。袁術は孫策が自分に不信感を持ってるのを感じ取ったが、宿敵の劉繇が曲阿県で根を張り、またかつての上司の陶謙の推挙を受けて会稽郡太守となった王朗がいるから、孫策が江東地方を平定するのは困難だろうと判断して、孫策の歎願を聞き届けた[14]

袁術は朝廷に上奏して、孫策を折衝校尉・殄寇将軍に任命させて、千五百人の軍勢を授けて、亡父の軍勢をあわせて3千人ほどであった。周瑜・呂範・朱治・宋謙および、父の代からの旧臣である程普・黄蓋・韓当のみならず、叔父の呉景・従兄の孫賁、族兄弟の兪河らを従えて、劉繇討伐に向かった。

しかし、孫策が歴陽県に到着すると、魯粛・諸葛瑾[19]・蒋欽・周泰・陳武・凌操[20]らも参戦し、その軍勢は6千~7千人ほども膨れ上がっていた。そこにいた生母・呉氏と幼い弟妹に対して、安全のために淮南郡阜陵県に移住させた。

195年末に孫策は長江を渡り、黄江津に駐屯した樊能・于麋を撃破し、さらに当利口に駐屯した張英も引き続き、撃破した。孫策は快進撃して、神亭山付近にある牛渚に駐屯した劉繇と対峙した。さらに劉繇の部将の太史慈と戦い[21]、一騎討ちをした[22]。さらに、牛渚の邸閣[23]を奪い取り、劉繇を撃破して、これを曲阿県に追い払った[14]

翌196年、彭城郡の相・薛礼と臨淮郡[24]の笮融らは劉繇を江東地方の盟主として、孫策に抵抗した。薛礼は丹陽郡秣陵県を本拠として、笮融はその南部を拠点とした。孫策は笮融を攻撃して、その軍勢千五百人の首級を取り、笮融は陣門を閉じて、出てこなかった。孫策は長江を渡り、秣陵県を攻撃して薛礼を包囲したが、薛礼は命からがらに突破して敗走した。

一方、樊能・于麋は兵を立て直して、牛渚を奪い返した。これを聞いた孫策は牛渚に向かい、樊能・于麋と戦い、一万余人の軍勢を捕虜とした。引き続き長江に渡り、笮融を攻撃した。しかし、孫策は流れ矢に当たって片股を負傷して、牛渚に引き返した。孫策の軍勢の中に笮融に投降した者がいて、「孫策は流れ矢に当たって、敗死しました」と笮融に告げた。すると、笮融は喜び勇み、部将の于茲を討伐させた。孫策も迎え撃ったが、わざと退却して敵を深追いさせて、伏兵が于茲の軍勢に襲撃して、于茲をはじめ千余人の軍勢は全滅した。勢いに乗った孫策の軍勢は、笮融の陣営に攻撃して、左右の者に「孫策はここにあり!」と叫ばせた。笮融は恐れてしまい、濠を深くして、ますます陣営を固めた。

そこで、孫策は笮融を棄てて、劉繇の別働隊の部将を広陵郡海陵県で打ち破り、さらに同郡の湖孰県・江乗県を占領して、楊州の大部分を平定した。孫策は寛容で人の意見を採り上げて、それぞれの適職につかせた。しばらくして、劉繇の部将だった太史慈とその配下の戈定や祖郎らも孫策の捕虜となり帰順したため、孫策は多くの人々の尊敬を集めた。

これを聞いた劉繇は戦意を失い、劉繇配下の郡守たちも守備を放棄して、劉繇と会稽郡丹徒県で合流して、長江を渡って豫章郡彭沢県を拠点とした。

曲阿県に入った孫策は今まで戦った部下たちに恩賞を労い、多くの民を安定させるように治安の秩序に尽力したため、揚州は安定した。また、部将の陳宝を派遣して、阜陵県にいる生母・呉氏と幼い弟妹たちを曲阿県に迎えた。

同時に孫策は寛大な政令を出した。「劉繇・笮融の配下の中でも降伏したり帰順する者がいれば、快く歓迎して一切の罪を問わぬこと。また、従軍を希望する者がいれば、その家族の賦役を免除せよ。さらに従軍を拒む者がいれば、そのままにして強制してはならない」という内容であった。多くの人々はこれに狂喜し、わずか十日間で四方から多くの募兵志願者が集まり、孫策の軍勢は3万人ほど増加し、孫策の威光はますます強大となった。

また、呉郡烏程県の人の鄒他・銭銅や前合浦郡太守だった嘉興県の人の王晟たちがそれぞれ一万余の軍勢を率いて孫策に対抗した。孫策は自ら討伐に向かい、撃破した。生母の呉氏が孫策に「王晟どのは、かつてお前のお父上とは家族ぐるみで挨拶するほどの親しい仲でした。彼の子弟たちはこの世になく、彼だけが残っています。お父上の旧友の誼として、彼一人でも見逃しておくれ」といった。孫策は母の言葉に従い、王晟は見逃して、その他の鄒他・銭銅とその一族は皆殺しの刑に処した[25]

その一方、呉郡の人で会稽郡東冶県を拠点とした厳虎[26]は土豪あるいは盗賊の頭目であり、広陵郡海西県を拠点とするで呉郡太守で名門の陳瑀[27]と同盟を結んだ。母方の叔父の呉景は孫策に討伐することを申し込んだ。孫策は「叔父上、厳虎は単なる野盗に過ぎません。大きな野望を持ってるとは思えず、いつでも捕虜できるでしょう」といった。

まもなく、孫策は自ら厳虎討伐に向かい、浙江を渡った。厳虎は防備を固めて、まずは弟の厳輿を使者として派遣した。孫策の陣営に入った厳輿は和睦を乞うた。孫策はそれに応じた。会見するときに、孫策はいきなり剣を抜いて、厳輿の織席を斬りつけた。「貴公が武芸に巧みだと聞いたので、戯れてやっただけです」と笑っていった。厳輿は「わたくしは刃物を見ると、そのように映り身構えるのです」といった。これを聞いた孫策は戟を手にとって、厳輿を突き殺した。

孫策は厳輿の首を斬って、それをその兄の厳虎のもとに送り届けた。弟が勇猛果敢だと自慢した厳虎は震えてしまい、思わず逃亡したが孫策の軍勢に追撃されて、東冶県を奪われて呉郡余杭県にいた前呉郡太守・許貢を頼った。孫策の部将・程普が余杭県討伐を申し込んだが、孫策は「許貢は主君の劉繇の忠義を持ち、旧友の厳虎を助けただけだ。これは士が心がけるものだ」といってこれを許さなかった。

その後、孫策は会稽郡太守・王朗が元丹陽郡太守の周昕とともに対抗したが、孫策は周昕を討ち取り、王朗は川を渡ってかつて厳虎が拠点とした東冶県に逃れた。しかし、孫策は王朗が教養の高い人物と評価したので、これを聞いた王朗は降伏した[28]、その部将の虞翻を配下として、会稽郡を本拠地とした。彼は自ら会稽郡太守となり、叔父の呉景をもとの丹陽郡太守にもどした。従兄の孫賁を豫章郡太守として、また、豫章郡を二分して、その片方の盧陵郡太守に孫賁の弟・孫輔を任命し、朱治を呉郡太守として、さらに張昭・秦松・陳端らが孫策の参謀となった。

また、孫策は奉正都尉・劉由と五官掾・高承を使者として、都の穎川郡許昌県[29]にいる曹操のもとに献上品を携えて、その忠節を誓った。曹操は愍帝[30](劉協)に上奏して、孫策を会稽郡太守として認めた[14]

孫策が強大になることを恐れた袁術は、孫策が任命した周尚[31]を追い出して、甥の袁胤[32]を丹陽郡太守として、孫策を監視させた。しかし、まもなく孫策は門下賊曹・祖郎に命じて袁胤を攻撃させ、袁胤は叔父の袁術のもとに敗走した[33]

197年正月に、袁術が「」の「仲家皇帝」と偽称した[34]。孫策はこれは漢王朝に対する反逆だと判断して、張紘を使者として絶縁状を叩きつけた。またこのことを曹操に知らせた。曹操は再び、上奏して孫策を討逆将軍に任じて、呉侯に封じた。

同年夏に、劉繇が43歳で逝去した。江夏郡太守・黄祖討伐の帰途に孫策は15歳になる劉繇の子・劉基に喪中の使者を出して冥福を祈り、劉繇の棺を引き取り、丹徒県でこれを丁重に埋葬した。その後、劉基は孫策に帰順した。同時に笮融は恨みを持つ住民に殺害された。

199年夏6月、袁術が劉備の攻撃を受けて、衰弱して病死した。まもなく孫策は曹操の命で、車騎将軍・董承[35]と益州牧の劉璋らとともに袁術と劉表を討伐することになっていた[14]

袁術の配下である長史・楊弘と張勲は軍勢を率いて、孫策に帰順しようとしたが、同僚の盧江郡太守・劉勲がこれを襲撃して、両人とその家族を捕虜にして財宝をすべて奪った。

これを聞いた孫策は本心を隠して、劉勲と同盟を結んだ。ちょうど劉勲は旧主の袁術の配下を吸収したので、有頂天であった。孫策は豫章郡の上繚党[36]が勢いを持っていたので、これを攻撃して傘下に収めるようにすすめた。劉勲はこれに乗じて、豫章郡に討伐した。

そのとき、孫策は亡父の仇である江夏郡太守の黄祖を討伐している最中だった。劉勲の動きを聞いた孫策は、劉勲の隙を狙って軽装の配下を従えて、昼夜兼行で盧江郡皖県を攻撃し、劉勲の配下はすべて降伏した。この報に驚愕した劉勲は、海昏県に向かおうとしたが、周瑜と孫策の従兄の孫賁・孫輔兄弟率いる8千人の軍勢と彭沢県で、撃破された。このとき周瑜は皖県の豪族・喬公のふたりの娘を捕虜にして、姉の大喬を孫策の側室に、妹の小喬を自分の側室とした[14]

劉勲は妻子を奪われて、従弟の劉偕とともに、荊州牧・劉表配下の江夏郡太守・黄祖に援軍を要請した。黄祖は息子の黄射を派遣して、劉勲を救援した。そこで孫策は汝南郡の人である李術を盧江郡太守に任命して、劉勲討伐に向かった。劉勲は西塞山にある流沂城で援軍を待機した。孫策は勢いに乗って、弟の孫権・周瑜・程普・黄蓋・韓当・呂範らに命じて劉勲を撃破した。ついに劉勲は従弟・劉偕とともにわずかの手勢を従えて、北進して旧友の曹操を頼った。黄射も撤退した。

勢力を増大した孫策が江東地方を平定したと聞いた曹操は怪訝な顔をして「今は狂犬(孫堅)の倅と、戦うわけにはいかんのだ」と叫んだという[37]

曹操自身も、袁紹(袁術の異母兄)と戦いの最中であり、ひとまずは自分の姪(弟の娘)を孫策の弟・孫匡と、自分の4男の曹彰[38]を孫策の従兄の孫賁の娘と縁組みをさせた。さらに、孫策の弟・孫権・孫翊を官職を授けて、その一方で揚州刺史・厳象に命じて、孫権を茂才[39]に推挙させた。

200年、曹操が袁紹と官渡で天下分け目の戦いに発展した(『官渡の戦い』)。孫策はその隙を狙って都の穎川郡許昌県を襲撃して、後漢の愍帝(劉協)を江東に迎えようと目論んだ。そのために、兵士を訓練させて、いつでも襲撃できるように備えていた。

一方、瑯琊郡の人で于吉という怪しげな道士がいて、人々の尊敬を集めていた。彼は会稽郡・呉郡あたりに布教していた。あるとき孫策は呉郡で酒宴を開いていた。そのときたまたま于吉が盛装して、そのあたりを通過した。孫策の臣下まで于吉を出迎えた。これを聞いて怪訝な顔をした孫策は兵士に命じて于吉を捕らえた。これを見た臣下たちは于吉の釈放を嘆願した。また、孫策の生母・呉夫人も「于吉先生はこの世に幸運をもたらし、皆の健康を祈っております。決して処刑してはなりませんよ」という有様だった。しかし、孫策は「母上、こやつは怪しげな妖術を使い、人々を誑かしておるのです。また臣下と人民の礼儀に応えておらず、このわたくしさえも尊重せずに自分を崇めよと尊大ぶっておるのです。生かしては災いとなります」といった。しかし、多くの臣下が執拗に嘆願するので、堪忍袋の緒が切れた孫策は「お前たちにはわからんのか?先年に、南陽郡の人である張津[40]が交州刺史のときに古代の賢君の教えに背き、漢王朝の法令を怠り、自ら赤い頭巾をかぶって、香を焚いて怪しげな道教の教えを普及させた挙句に、結局(張津)は南方の蕃族(異民族)に殺害されたではないか。このように道教は利益どころか有害であり、諸君はそれがわかっておらんのだ。わしは于吉という怪しげな男をすでに亡者と思っておる。もう嘆願はやめられよ」と叫んで、兵士に命じて于吉を処刑して、晒し首とした。それでも人々は于吉が仙界に戻ったといって、その死を認めずに于吉を祀って、崇拝することをやめなかったという[14]

当時、会稽郡余姚県に呉郡の人・高岱[41]という賢人が隠棲生活をしていた。この噂を聞いた孫策は会稽郡の丞・陸昭[42]命じて彼を招いた。高岱は左丘明の『春秋左氏伝』に精通し、孫策と議論したが高岱に論破されるたびに孫策は怪訝な顔をした。ある者が高岱を妬んで「高岱は閣下(孫策)が学がないと軽んじております。議論するに値しないと申しております」と讒言した。またその人物は高岱にも「閣下は勝気なご性質であり、たとえ議論になっても“わかりません”とお答えするべきです」といった。再び、孫策は高岱と議論した。はたして高岱は孫策の質問にすべて「わかりません」と答えた。それを聞いた孫策は高岱が自分を軽んじていると激怒し、逮捕投獄した。これを聞いた張昭や諸葛瑾などは高岱がすぐれた人物であり、死なせるのは惜しいので釈放して欲しいと歎願した。その数が日ごとに増大しているので、孫策は高岱が人心を得ている、いずれは自分の災いとなると判断して、彼を誅殺してしまった。享年30余りであった。

前述の前呉郡太守・許貢はかつて高岱に恨みを持って、暗殺を目論んだが取り逃がした過去があった。また、許貢は曹操に使者を出して、上奏した。「孫策は武芸に長けて勇猛です。かつての項羽と非常に似ております。彼を都に召し出して恩賞をはずんで、拘束するのです。孫策を地方に置くのは虎を野に放つようなものです。そのまま、放置なされれば、将来の災いとなりましょう」というものであり、そのため、曹操も孫策討伐を建議したほどであった[14]

はたして、孫策は許貢を監視していたので、孫策が派遣した目付が許貢の上奏文を差し出して孫策に見せた。孫策は激怒し、許貢を召し出して事の真偽を確認した。許貢は自分は何もしていないと弁解するのみで、逆鱗に触れた孫策は怪力を持っている兵士に命じて許貢を絞め殺した。さらに許貢の一族郎党も皆殺しされた[43]

許貢の末子だけは辛うじて一部の食客と命からがらに逃げ延びて、長江付近の民家に潜伏して、孫策に復讐する機会を窺った。

あるとき、孫策はわずかの供を従えて狩りに出かけた。許貢の食客3人は許貢の末子を民家に残して、孫策の兵士に変装して、側に近づいた。ふいに孫策はその3人を見て「貴様らは何者だ?」と叫んだ。3人の食客は「われらは韓当将軍の配下であり、ここで鹿狩りをしておるのでございます」といった。しかし、孫策は「韓当の部下に貴様らの顔は見覚えがないぞ!」と叫んで、弓矢を射てそのうち一人が倒れた。すると、残りの食客はあわてて孫策をめがけて射て、孫策の頬に当たった。それはトリカブトを塗られた毒矢であった。まもなく孫策の近侍が駆けつけて残りの食客を斬り捨てた。これを聞いた許貢の末子は、あわてていずこかに逃亡した。

頬に毒矢を射られた孫策の症状は重態であり、重臣の周瑜・張昭を呼び出して自分はもう長くないと言い聞かせた。孫策は「中原は混乱状態であり、江東と江南の地域をしっかり確保しておれば問題はない。皆の者、わしの後を継ぐ弟の仲謀(孫権)をしっかりと見守ってくれい」といった。そして、弟の孫権を召し出して、自分の印綬を孫権に渡して「江東・江南の軍勢を動員して、敵と対戦してこの大陸の群雄たちと割拠することでは、お前はわしに劣る。しかし、賢者を招聘して能力がある者を適職につけ、彼らに要職させることでこの国を保つことでは、お前はわしより優れている」と遺言して、同年夏5月5日の夜に孫策は逝去した。享年27だった。

229年に孫権が呉の皇帝[44]に即位すると、亡兄の孫策に「長沙桓王」の称号を贈った。同時の甥の孫紹(孫策の子)を呉侯に封じて、後に上虞侯とした。後に孫紹が亡くなると、その子の孫奉が継いだ。孫権の孫・孫皓[45]の代に、孫奉が孫皓に代わって帝位に即く巷の噂があり、それを恐れた孫皓は孫奉を誅殺して、その一族を皆殺しの刑に処し、孫策の系統は途絶えた。

陳寿は「孫策はすぐれた人物だが、父・孫堅と同様に軽佻で性急なところがあったために、最後は身を滅ぼしたのである。しかし、呉の基本体制は孫策が固めたものであり、値するものである。だが、弟の孫権は兄に対する崇拝は充分なものではなく、孫策の子を侯位のみしか与えなかったのは、兄弟に関する道義に欠けたものといわざるを得ない」と述べている。

そのことに関して、(東晋)の学者・孫盛は「孫策・孫権の兄弟は亡父の孫堅の遺業を受け継いで、相互にすぐれた見識と智略をもっていた。しかし、その基礎を築いたのは孫策である。孫権はそれを知りながら、甥の孫紹に王位の爵位さえも与えなかった。これは司馬遷の『史記』や左丘明の『春秋左氏伝』を読破した孫権が兄の子孫に権力を与えるとお家騒動になると判断して、わざと権力を削ってまで王位さえも与えなかったと、わたくしは思う。本来なら孫策は「高祖桓帝」の称号にふさわしい人物だと、わたくしは思う」と述べている[46]

脚注[]

  1. 呉書』孫策伝では長沙桓王。
  2. 孫松の父
  3. 孫泰の父。
  4. 周瑜の妻が大喬の妹の小喬。
  5. 顧雍の長子。
  6. 朱治の次子。
  7. 孫策の3人の娘は、いずれも孫紹の姉にあたる。
  8. 現在の浙江省杭州市冨陽県
  9. 前漢の宗室で、魯恭王・劉余成祖景帝の第4子)の末裔。
  10. 魏書
  11. 孫堅の従姉妹の子に当たる。
  12. 袁術は前年の193年に陳留郡封丘県で曹操に大敗して(『封丘の戦い』)、南方の淮南郡(九江郡)に追われた。
  13. 孫策の伯父・孫羌の子。
  14. 14.014.114.214.314.414.514.614.7 『江表伝』による。
  15. 実際は道教系の指導者である。
  16. 蜀漢)の馬超の親族に当たる。
  17. 陸遜の族父あるいは従祖父に当たる。
  18. 漢の宗族で、前漢の斉の悼恵王の劉肥(高祖・劉邦の庶長子)の孫である孝王の劉将閭(哀王の劉襄の次子、文王の劉則の異母弟)の末子である牟平共侯の劉渫の直系の末裔に当たる。
  19. 諸葛亮の異母兄、あるいは従兄。
  20. 凌統の父。
  21. このときの劉繇は尊敬する預言者の許劭(許靖の従兄)の存在を気にして、同郷の太史慈をすぐに抜擢しなかった。
  22. 『呉書』太史慈伝
  23. 食糧貯蔵庫のこと。
  24. 下邳国とも呼ばれる。
  25. 『呉録』
  26. 別名は厳白虎、『三国志演義』では東呉・徳王。
  27. 陳珪の従弟に当たる。
  28. 後に王朗は孫策の推挙を受けて、曹操に仕えることになった。
  29. 現在の河南省許昌市許昌県
  30. からは献帝と諡された。
  31. 周瑜の従父に当たる。
  32. 袁術の同母兄・袁冀(袁基)の子という。
  33. 再び、孫策によって周尚が丹陽郡太守となった。
  34. 同年秋9月に袁術は、私兵の部将の張闓に命じて、漢の宗室である陳湣王・劉寵(陳敬王・劉羨(後漢の明帝の次子)の曾孫)とその宰相・駱俊(駱統の父)らを偽りの酒宴で殺害させている(『魏書』武帝紀・『後漢書』『後漢書』陳敬王羨伝が引用する謝承箸『謝承書』(『後漢書』)/袁術伝・『続漢書』)。
  35. 本籍は冀州・河間郡で、孝仁皇后こと永楽太后の董氏(霊帝劉宏の生母)の甥(兄の子)で、驃騎大将軍の董重の族弟にあたる(裴松之の引用)。献帝(愍帝)の従父で岳父でもある。
  36. 道教系の宗教。
  37. 『呉歴』
  38. 別名は曹章。
  39. 孝廉の別称。
  40. 交州の民衆蜂起で殺害された朱符(朱儁の子、朱晧の兄)の後任。
  41. 字は孔文。
  42. 陸遜の親族。
  43. 前述の厳虎も含まれるという。
  44. 後の太祖大帝。
  45. 呉の後主・帰命煬公。
  46. 孫盛著『異同評』より。

関連項目[]

  • 袁術
  • 周瑜
  • 陸遜


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2ちゃんねる_(2ch.net)

曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...

2ちゃんねる

2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...

黄皓

黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...

黄忠

“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...

黄奎

黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...

麻生氏_(筑前国)

曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...

麻生氏

麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...

鹿島氏

鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...

鷹司家_(藤原氏)

曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...

鷹司家_(源氏)

曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...

鷹司家

曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...

鷲尾氏

鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...

鳩時計

ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...

鳥山氏

鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...

魏書

魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...

魏延

甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...

魏勃

魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...

魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...

高間慎一

高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...