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日本史 長崎県 徳川吉宗 風雲児たち 江戸時代 オランダ 歴史 社会 蘭学 杉田玄白 前野良沢 ターヘル・アナトミア 蘭書 シーボルト事件 ハルマ和解 解体新書
蘭学とは、江戸時代にオランダから日本に渡来した西洋の学問の事である。わが国の近代化の一助となった学問として知られる。
▽目次
蘭学とは何か
そもそも蘭学がオランダ由来の学問であることは冒頭に述べたとおりである。
名称も、オランダの漢字表記「和蘭陀」にちなみ、「和蘭陀の学問」という意味で「蘭学」と呼称した。
一口に「蘭学」というと、どうしても西洋医学や杉田玄白(1733〜1817)・前野良沢(1723~1803)が記した医学書『解体新書』などが真っ先に連想されがちである。確かにそれは間違いではないのであるが、実際「蘭学」の分野は多岐にわたる。
大まかに分けると、以下のとおりである。
- 語学……オランダ語
- 自然科学……医学、天文学、物理学、植物学、化学*1など
- 人文科学……西洋史、世界地理、外国事情など
- その他技術……測量術、砲術、製鉄など
当初、蘭学を学ぶのは自然科学や医学に関する職業を生業とする人々、すなわち医者や本草学者*2が主であった。
しかし、1840~42年のアヘン戦争の後、「隣国の清がイギリスに敗れた」というニュースが日本に入ってくると、その目的は次第に軍事科学に移行していった。
蘭学の歴史
蘭学の嚆矢は肥前国長崎生まれの天文学者・西川如見(1648〜1724)であるといえよう。西川は海外事情を通商関係の観点から記述した『華夷通商考』を記した。また、西川はかつて天文学者・小林義信(1601~81)について学んでおり、その知識をもとにヨーロッパの天文学にも応用しようと試みた。
芽生え
将軍・徳川吉宗(在職1716〜45、生没年1684~1751)の代になると、いよいよ蘭学が注目されるようになる。吉宗はかねてより国内の産業を盛り上げて生産力を向上させるために、海外の物産に興味を持つようになった。それにより、吉宗は禁書令を緩め、キリスト用以外の分野の蘭書(洋書)であれば読むことを許した*3。その中で、吉宗が特に興味を持ったのは植物学者・ドドネウスの著書『草木誌』(1659年刊)と動物学者・ヨンストンの著書『動物図説』(1663年刊)であった。
1740年、吉宗は儒者・青木昆陽(1698~1769)と本草学者・野呂元丈(1694~1761)に命じてこれらの書物の翻訳を命じた。
青木は『和蘭文訳』『和蘭文字略考』などオランダ語の辞書や入門書を残し、野呂は上記の洋書の抄訳(部分訳)を行って『阿蘭陀本草和解』(全8巻)を残している。両者のオランダ語の「解読」の功績は、のちに杉田玄白の『蘭学事始』にも紹介されており、玄白は青木・野呂の2名を「蘭学における功労者」とたたえている。
1765年には本草学者の後藤梨春(1696~1771)がオランダの地理や暦法、物産、科学機器などを紹介した『紅毛談*4』をこれにアルファベット25文字*5を掲載したため、幕府から厳しい処罰を受けて絶版を命ぜられたというが、現在は梨春に対する一連の処罰を事実ではないとする見方が強まっている。
というのも、この逸話の初出は『蘭学事始』に記された逸話であり、『解体新書』の翻訳活動以前の蘭学に関する事績に関しては玄白の少年時代に該当するものであるため、玄白が多少の誇張を含めて記述したと思われるためである。前述の青木・野呂の功績にしても、『解体新書』で述べられた功績はおおむね正しいが、オランダ語翻訳に携わっている最中の両者の状況が「多忙」とされているなど、やや誇張されているのである。
発展と受容
吉宗の禁書令緩和により、オランダ語の書物が翻訳できるようになった事から、1771年に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵(1739~86)、桂川甫周(1751~1809)によってドイツ人医師・クルムスが著した人体解剖書『アナトミーシェ・タベレン』のオランダ語翻訳版『ターヘル・アナトミア』の翻訳が始まった。
この翻訳作業は良沢が中心となって行っていたが、当初、玄白と淳庵はオランダ語を全く読めず、長崎に赴いてオランダ語の知識を持っていた良沢も、翻訳を行うには語彙が乏しかった。かつて良沢が教えを請うたオランダ語の通詞・吉雄耕牛(1724~1800)は長崎にいるので質問することも難しく、当然ながら辞書も無かったため、翻訳作業はむしろ暗号解読のようなものであったという。玄白はこの時の艱難辛苦の様子を「櫂や舵の無い船で大海に乗り出したよう」と自著『蘭学事始』に記している。解読から四年かかって、ついに『解体新書』が刊行された。
しかし、良沢はこの『解体新書』に著者として名前を残さず、序文を手掛けた吉雄耕牛によりわずかに言及されているのみである。この理由については色々の推測がなされているが、しばしば取り上げられる説としては、「この翻訳が完全なものではないことを自覚していた学究肌の良沢が自身の名前を出すことを潔しとしなかった」というものが挙げられる。『解体新書』刊行当時、良沢の功績は歴史の闇に埋もれていたも同然であったが、明治時代になって旧中津藩士・福沢諭吉(1835~1901)や杉田玄白と前野良沢の弟子であった大槻玄沢(1757~1827)の子孫により顕彰活動が行われ、良沢の功績が知られるようになった。
1796年、蘭学者の稲村三伯(1758~1811)が宇田川玄随*6(1756~1798)・岡田甫説とともに、より本格的な蘭和辞書『ハルマ和解』を編纂し、刊行した。オランダ語の部分を印刷するにあたって、当時はまだ珍しかった活版印刷が使用された。
蘭学の真価が認められ始めると、幕府は1811年に天文方に蛮書和解御用を設けた。
そこには大槻玄沢(1757~1827)と馬場佐十郎(1787~1822)の2名が翻訳者として任命され、ショメールが著した百科全書の翻訳に着手した。
同じ時期に、長崎の通詞とオランダ商館長・ズーフ(ドゥーフ)によって、蘭仏対訳辞書の和訳が行われ、蘭日辞書の「ズーフ・ハルマ」も完成した。
この蛮書和解御用は洋学所➟蕃書調所➟洋書調所と名前を変えて幕末期まで存続し、明治時代に設立された東京大学の源流となった。
このシーボルトの来日以前の1792年のラクスマンの根室来航や1804年のレザノフの長崎来航、1808年のフェートン号事件*7に伴い、英語やロシア語などオランダ語以外の外国語の研究が行われるようになり、蘭学はやがて「洋学」と呼ばれるようになった。
1823年にはドイツ連邦からシーボルト(1796~1866)が日本を訪れ*8、長崎の郊外に鳴滝塾を開いて高野長英(1804~50)、高良斎*9(1799~1846)、伊東玄朴*10(1801~71)、小関三英*11(1787~1839)、伊藤圭介*12(1803~1901)、二宮敬作*13(1804~62)、岡研介*14(1799~1839)などの多くの門下生を教えた。身分制度や年長による序列が遥かに強かった時代に、成績優秀者をひたすらに優遇する実力主義的な環境に身を置いた彼らは医者や学者として後世に名を残している。その傍ら、シーボルトは当地に病院を開き、そこで民衆を診察することを許されている。
シーボルト来日から2年後の1825年には薬剤師ハインリッヒ・ビュルガー(1804~58)が来日し、シーボルトの下で働いている。
弾圧と研究のジレンマ
シーボルトは長崎で教育活動や診察を行う傍ら、『日本』『日本植物誌』などの著作を手掛け、日本の風俗や生物相をヨーロッパに積極的に紹介する活動を行っていた。
1828年、シーボルトは日本での活動を終えて帰国しようとするが、その際に台風で船が難破し、彼の荷物から『大日本沿岸輿地全図』*15や葵の紋付の着物など、国外に持ち出すことが禁じられていた物品が出てくる事件が発生する。これが「シーボルト事件」である。このシーボルトの「『大日本沿岸輿地全図』や葵の紋付の着物を自国に持ち帰る」という行為は、国家機密の漏洩につながりかねない危険な行為だったのである。
この事件において、シーボルトは国外追放ならびに再来日禁止*16となり、シーボルトの弟子や画家・川原慶賀(1785~不詳)を含む支援者が程度の差はあれ処罰されることとなった。この『大日本沿岸輿地全図』を交友の証としてシーボルトに渡した天文方・高橋景保(1785~1829)はそのことが露見して天満町牢屋敷に投獄され、劣悪な環境のなかで死去した*17。
幕府はシーボルト事件並み、ないしはそれ以上の国家機密漏洩の防止策として、洋学への弾圧を開始した。
前述のとおり、いわゆる「異国船」の侵入に悩まされていた日本であったが、1825年に『異国船打払令』を発令した。それは、外国船が不法入国した際には、目的を問わずに一切の躊躇なく砲撃を仕掛けるというものであった。
1837年、漂流した日本人を助けて母国に送り届けるため、浦賀に漂着したアメリカの船・モリソン号に対して異国船打払令に基づいて砲撃する事件が発生した。モリソン号事件である。翌年、オランダ商艦長から日本に「外国船はイギリス(この情報は誤りで、実際はアメリカ)のモリソン号で、漂流民の送還とともに日本との通商を目的として浦賀に来航した」と伝えられた。
この報せは蘭学者たちの集まるサロンとも言うべき『尚歯会』にもたらされた。このサロンのメンバーである高野長英は『戊戌夢物語』を、同じくメンバーである渡辺崋山(1793〜1841)は『慎機論』をそれぞれ著して幕府の対応を批判した。
これらの書籍が老中・水野忠邦(1794〜1851)の腹心であり、大の西洋嫌いで知られた大目付の鳥居耀蔵(1796~1873)の目に留まった。そうして崋山らが無人島(現在の小笠原諸島)に渡る計画を立てたことを理由に逮捕した。しかし、当然そうした証拠がなかったため、この罪状は取り下げられ、「御政道批判」のかどで崋山には永蟄居、長英には永牢(無期懲役)の処分が下されることとなった。これが「蛮社の獄」の一連の流れである。なお、「蛮社」とは国学者からの蘭学への蔑称である「蛮学社中」が短縮されたものである。
幕府としてもロシアをはじめとする西洋勢力への警戒や、武家政権としての権威に関わるがゆえの打払令であっただろうが、研究の必要性自体は理解を示す幕臣もいたとはいえ、政治批判というのは政権を握る武士の権威を傷つける物であり、『戊戌夢物語』は夢・つまりはフィクションという体で防衛線を張っており、『慎機論』はメモ書き程度の私文書に過ぎなかったのだが、罪自体は時代的にはあり得る物だった。
しかし従来ならばここまでの処分が下らなかっただろうこの両者の逮捕には、鳥居の私怨もあるといえよう。
このモリソン号事件以来、幕府は白河・会津両藩による江戸湾の防備を再開したが、老中・水野忠邦は幕臣かつ尚歯会のメンバーで、欧米諸国の時事や洋学に明るかった江川英龍(太郎左衛門、1801~55)と鳥居に調査を命じた。そうして水野は江川の防備策の案を採用したが、鳥居の案に対しては「もっと西洋事情について勉強してから提出しろ」と却下することが多かった。大の西洋嫌いの鳥居からすればこれは非常に耐えがたいもので、この一件から、鳥居は一層洋学者への弾圧を強めていったのであった。
渡辺は永蟄居の処分により、一時は鬱状態になりしばしば自殺を考えたものの、妻や老母ら家族のすすめで子供の頃からの趣味だった絵描きに打ち込み、毎日知人の来客があったことで、徐々に気力を取り戻していった。しかし、幕府が「罪人の分際で何をするか」と知人との交友や絵を描くことを禁じたため、再び鬱状態に陥った渡辺は希死願念を強めていき、ついに自室で割腹自殺した。「蛮社の獄」から2年後のことであった。
一方、長英は蛮社の獄から5年後に発生した大火事(赤猫)に乗じて逃亡。「火事で牢屋は焼けてしまい、その結果多くの者が逃亡してしまったが、もし戻ってくれば罪一等を減じる。逃亡を続けるのであれば打首」という幕府の告知を無視して逃亡し、シーボルト同門の二宮敬作や尚歯会メンバーの江川英龍、宇和島藩主・伊達宗城(1818~92)の庇護を受け、『三兵答古知機』を著し、洋書の翻訳や藩の軍備の洋式化などに貢献した。やがて追っ手により危険が身近に迫ると硝酸で顔を焼き、名を「沢三泊」と改めて町医者として妻子とともに日々を送った。ところが、獄に繋がれている間長英と親交のあった者が、奉行所の役人に脅迫され、長英の逃亡について話してしまう。
1850年、ある夜に奉行所の捕方が患者を装って自宅に踏み込み、それが騙しの一手であることを見抜いた長英は逃走を図る。しかし、捕方たちが長英に一斉に掴みかかり、長英の頭蓋を十手で何度も激しく殴打したことで、長英は最早虫の息で立つことも不可能だったという。やむを得ず駕籠に乗せて奉行所まで護送する途中、長英はその中で長い呻き声をあげ、それが断末魔となった。
蘭学の発展的終焉
1849年に幕府は蘭書翻訳取締令を発令したが、1853年のペリー来航により開国したことで形骸化し、蘭学は学ばれ続けることとなった。蘭学者と時の権力者である幕府は協調と対立を繰り返してきたが、蘭学は幕末期にいて諸外国との交渉のための礎となった。
これにより、蘭学はそれまでの自然科学の学問から、国防のための学問に目的が変化した。鎖国派と開国派の対立が激化する中、幕府は国や藩の軍備を充実させるために蘭学を利用した。やがて、欧米諸国の時事や軍事情報への理解がなされるようになると、世論が開国に傾いていった。そうして、オランダ語以外にも様々な外国語、特に英語が広まったことで西洋文化が日本に導入されていった。高島秋帆(1798~1866)の西洋砲術、江川英龍の韮山反射炉、佐久間象山(1811~64)の大砲鋳造、永井尚志(1816~1891)・木村芥舟(1830~1901)の長崎海軍伝習所、勝海舟(1823〜99)の神戸海軍操練所は幕末期において実学的要素の強い洋学として知られた。
わが国への英語の導入には、福沢諭吉が大きく関わっている。長崎や大坂でオランダ語を学んだ諭吉は、開港したばかりの横浜へ買い物に赴いたが、これまで自身が必死に学んだオランダ語が全く使い物にならず、英語が主流の言語としてオランダ語にとってかわっているという現実を目の当たりにする。発奮した諭吉は英語を学び、1858年に慶應義塾を開き、多くの子弟に英語教育を施した。
そうして開国後しばらくはいまだ蘭学が隆盛であったが、次第に英語による学問、すなわち「英学」が主流となっていき、蘭学は西洋の学問の王座としての位を英学に譲ることとなったのである。
蘭学塾・及びその講師
- 天真楼(杉田玄白開講、場所ならびに開講年不詳)
- 芝蘭堂(大槻玄沢開講、江戸、1788年)
- 大槻玄沢は杉田玄白と前野良沢の弟子で、名の「玄沢」は「玄白」と「良沢」から一文字ずつ取ったものである。玄沢は1788年に江戸に芝蘭堂を開講。のちに蘭学入門書『蘭学階梯』を記し、蘭学者としての不動の地位を築いた。
- 鳴滝塾(シーボルト、長崎、1824年)
- 適塾(緒方洪庵、大坂、1838年)
蘭学を題材とした作品
- 手塚治虫『陽だまりの樹』
- みなもと太郎『風雲児たち』
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▷ コメント欄
- 闇に飲まれよ!(お疲れ様です!) -- 名無しさん (2025-02-23 22:23:59)
- シーボルト事件はシーボルトが出航する前じゃなくて、出航して嵐で難破して日本に戻った時に検査されて発覚したって風雲児たちに描いてあった気がするけど史実じゃちがうのか? -- 名無しさん (2025-02-24 00:41:51)
- ドイツ語の原題はアナトミーシェ・タベレン です -- 名無しさん (2025-02-24 15:33:48)
- 内容が濃いのは良いんだが、歴史の部分が詰め詰めでちょっと読みづらいな -- 名無しさん (2025-02-24 20:42:47)
- 真面目な記事で始めておいて余談とか二次元での扱いでギャグにするかと思ったら、最後まで真面目なノリで逆にビビった。とりあえず時代劇で蘭学と言えばファンタジーでの錬金術並みに無茶を通せる設定だと思うの -- 名無しさん (2025-02-25 11:17:42)
- 統一ドイツ帝国が出来るのは普仏戦争後。当時のシーボルトはバイエルン王国に属する貴族で、オランダ王国にいる侍医がシーボルトの知人でそのコネを活かして日本行きの船に乗せてくれた。シーボルトもヨーロッパの事情を話すのが面倒臭いから高地オランダ人なる造語でその場を凌いだ。話は変わるが、適塾で大村益次郎の前に塾頭をしていたのは久坂玄瑞の兄、久坂玄機。長州で将来を嘱望された英才だったが、黒船来航の1年後に35歳で病死。家督を玄瑞が相続したが、才能、見識では兄には及ばなかった。 -- 名無しさん (2025-02-25 12:01:19)
- 蘭学の名はオランダの漢字表記(阿蘭陀、和蘭陀、和蘭など)に由来することも書いておいた方が良いと思うんだ -- 名無しさん (2025-02-25 16:19:33)
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*2 現在でいうところの植物学者、動物学者、鉱物学者。薬とされる動植鉱物を「本草」と呼んだ
*3 ただし、庶民がこれらを読むことは禁止された。また、通詞(通訳人)のうちオランダ人と会話ができる者も蘭書の閲覧が禁止された。そうして通詞は仕方なくオランダ人から口頭でオランダ語を教わり、それを書き残すが文法を知らないため、日常会話や簡単な意志疎通こそできるが、アルファベットは全くといっていいほど読めなかったという
*4 読みは「こうもうだん」「おらんだばなし」の二説がある
*5 当時はiとjの区別がついていなかったためとされる
*6 元々は漢方医であったが、杉田玄白や前野良沢と交友関係にあり、蘭学に転向した
*7 長崎港にイギリス軍艦が侵入し、2名のオランダ商館員を捕らえ,人質解放の条件として薪水・食糧の給与を強要した事件。イギリス側の要求を受け入れるしかなかったことへの責任を取って長崎奉行・松平康秀が切腹し、佐賀藩主・鍋島斉直が100日の閉門を命ぜられた事件。この事件は1825年の異国船打払令の制定の一因となった
*8 この際、オランダ語の発音が不自然であったため怪しまれたが、「高地オランダ人」と国籍を詐称してうまく切り抜けている
*9 生徒の中でもシーボルトの信任が篤く、「シーボルト事件」によりシーボルトが長崎を退去することになった際には、二宮敬作と共に妻の滝や遺児・イネの養育のことを託されている
*10 「シーボルト事件」では難を逃れており、佐賀藩主・鍋島直正の侍医として召し抱えられたのち、牛痘種痘苗を紹介している
*11 苗字の読みは「おぜき」とも。のちに「尚歯会」に所属して「聖書」の翻訳を行っていたが、後述する「蛮社の獄」が発生すると、自らの身に難が及ぶことを恐れて自殺
*12 尾張出身の植物学者。「雄しべ」「雌しべ」の用語を考案
*13 シーボルトの信任篤く、妻の滝や遺児・イネの養育のことを託されている。イネが長じて後はイネに西洋医術を教授
*14 わが国で初めて「生理学」を研究した人物である。塾内においては代理教師に任ぜられるほどの秀才であった。塾を卒業したのちは岩国藩主に実力を認められ、専属の医師となった。しかしその翌年以降、前年に発生した「蛮社の獄」への連座に対する恐怖心を抱き、いつしかそれが肥大して幻覚的被害妄想的精神疾患にかかり、大坂に帰って静養に努めた。この時の病状を手記に書き表し、冷静に自らの症状と向き合いながら41歳の若さで死去
*15 伊能忠敬とその弟子が手掛けた日本地図
*16 1858年の日蘭修好通商条約締結により解除
*17 遺体は塩漬けにされたのち、死後開かれた裁判によって「斬首刑」が宣告され、遺体の首の部分が切り取られたという
*18 手塚治虫の曽祖父。手塚氏は曾祖父を漫画作品『陽だまりの樹』に主人公として登場させている
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