登録日:2012/09/26(水) 22:54:23
更新日:2023/08/07 Mon 13:51:32NEW!
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鉄道 路線 廃線 気動車 滋賀県 江若鉄道→江若交通 湖西線 東の関東、西の江若 琵琶湖 pitapa
江若鉄道とは、かつて滋賀県を走っていた非電化路線である。
路線廃止後も江若交通と改め、地域のバス輸送に活躍している。「途中」という名前のバス停があり、途中が終点になるバスも走らせている。
ちなみに「えわか」鉄道ではない、「こうじゃく」鉄道である。
お間違えのないよう。Who loves ya, baby ? それは「刑事コジャック」
だが、なんと現在の社名のローマ字表記はKojakuではなくKojak。
公式ホームページもhttp://www.kojak.co.jp
車内アナウンスの声は森山周一郎……じゃないんだろうな。
◎開業
元々この江若鉄道は、関西地方(近江)と北陸地方(若狭)を結ぶ目的で設立され、鉄道路線もそれを目指して建設が進められた。
琵琶湖のほとりに最初の路線が開通したのは1921年。
その後1931年にも路線延長がなされ、琵琶湖西岸の縦貫鉄道が開通した。
ただ、その後の路線延長は資金難や沿線が過疎地域だった事もあり断念、関西地方と北陸地方を結ぶ路線が全通するのはその後数十年の間待つ必要がある。
また、本来の目的であった若狭地方への路線延長は未だに計画止まりとなっている。
それでも路線は活気にあふれていた。
琵琶湖という観光資源を抱えた路線は多くの客を運び、夏場の水泳シーズンには臨時列車も多く走り、国鉄からも客車を借りたと言う。
また、途中駅までは京阪電気鉄道の石山坂本線と並行しており、1960年代初頭にはそこから大阪の淀屋橋までの相互直通運転も計画されていた。
ただ、ネックとなったのは線路の幅。
国鉄とも貨物乗り入れを行っていた江若鉄道は1067mmなのに対し、京阪側は1435mm。
フリーゲージトレインも存在しないどころか、あのタルゴすらまだ軌間変換仕様が登場していなかった頃。
エンジンなどの問題もあり、色々と試験が行われたものの結局没となった。
◎車両
前述の通り琵琶湖という観光資源を抱えた江若鉄道は、戦前から多くの気動車を投入していたことでも知られている。
都会の人たちが蒸気機関車の煙で不快な思いをしては大変だ、という事が主な要因だったらしい。
そのため、画期的な車両を次々に投入していった。
以下に、その代表的な車両たちを記載する。
- C4形/C6形(キニ4~キニ6)
路線延長後の1931年に投入された気動車。
メーカーによって形式が違うが基本的な構造は同じである。
当時日本を走っていた気動車が12m級などの小型車両だったのに対し、この形式は日本初の大型車体(18m)を有する気動車として登場した。
私鉄のみならず国鉄の気動車設計にも大きな影響を与え、気動車の歴史において重要な形式となっている。
廃止までずっと主力として活躍し続けた事からも優秀さが裏付けられるだろう。
- C9/C10形(キニ9~キニ13)
1935年から1937年にかけて製造された気動車。
基本設計はキニ4~キニ6と同じであるが、前面は当時流行していた流線形となっている。
その中でも、当時京阪電鉄の特急列車として活躍していた「びわこ号」と良く似た形状をしており、
同じような前面を持つ他社の気動車も含めて、「びわこ形気動車」とも呼ばれている。
こちらも戦前戦後通じて主力として活躍したのだが、キニ12は1960年に車体更新が行われ、キハ12として生まれ変わった。
溶接技術などの進歩により非常に近代的な車体に仕上がった…
…のだが、肝心の先頭部は「アイスホッケーの面」とも称される恐ろしく不細工な形になってしまった。
その後このような近代化工事が行われなかった原因はこれかもしれない。
- キハ17
戦後の江若鉄道は、国鉄で廃車されたキハ04系やキハ07系などの旧型気動車を数多く投入している。
その中で、元キハ04系であるキハ17は1965年にお座敷気動車に改造された。
これまでは客車を使用していたが機関車が必要と言う不便さからバトンタッチしたという。
現在各地で走っているトロッコ気動車たちの草分け的存在かもしれない。
サントリーをスポンサーとし、畳敷きの車内ではビールが振る舞われた。
ただ、いざ走ると線路の貧弱さから車体は大揺れで大変だったそうな。
- DD1351
1957年に投入された大型ディーゼル機関車。
貨物輸送や多客時の客車輸送に活躍していた。
外見は、当時の国鉄や私鉄などで多く見かけ、現在もその活躍を続けるDD13形に非常に似ているが、決してパクリではない。
むしろこちらの方がどの車両よりも先に登場している(DD13形の1号機が製造されたのは1958年)。
実はこの車両、DD13形の先行試作車も兼ねて登場したのである。
そのため、本家と違う部分も外見内装問わず数多い。
営業運転後の成果は、現在のディーゼル機関車たちの活躍を見れば言う事は無いだろう。
- 気動車列車
1960年代以降、在籍していた気動車や客車のうち一部に新たな改造が行われた。
当時の気動車は連結運転を行っても全ての車両が別々のエンジン制御やブレーキ制御を行っており、それぞれの車両に運転士が乗る必要があった。
それを改め、先頭車両から全ての車両の動力を制御できる、「総括制御」が可能な編成が造られたのだ。
前面に扉をつけた貫通型への改造などが行われ、多客時やラッシュ時には絶大な輸送量を誇っていた。
ただ、それ以外の運用には車両によって少々不便を強いられたようである。
最後まで総括制御に対応していない車両たちが残ったのもそれが原因かもしれない。
◎廃止、その後
その多彩な気動車群から関東鉄道と並び、「東の関東、西の江若」とまで呼ばれた江若鉄道。
しかし、それでも戦後進展していたモータリゼーションには苦戦を強いられた。
客が自動車に取られる中、接続先の京阪電気鉄道の傘下となり、合理化政策を勧めて路線を維持していた。
しかし、1969年をもって鉄道事業は廃止される事となる…
が、その理由は赤字では無かった。
国鉄が新たに路線を建設する事が決定したためである。
この江若鉄道の路線は、前述の通り関西地方と北陸地方を結ぶ計画で建設されたのだが、実は将来的に国鉄に買ってもらうという最終目標があったのだ。
そんな中で舞い込んだ新路線の建設の話。
路線廃止の代わりに、路盤を転用してもらう、当時の駅を出来る限り引き継いでもらうなどの条件を出し、交渉は妥結した。
そして、江若鉄道廃止から5年後、琵琶湖のほとりを走る高速路線である国鉄(→JR西日本)湖西線が開通したのである。
路線が廃止された一方、最後まで活躍を続けた気動車たちは次々に新たな職場に移籍した。
中古車も多いが優秀な車両たちが揃っている事と相まって、「東の関東」こと関東鉄道を始め日本各地で次なる活躍を始めた。
勿論ディーゼル機関車たちも同様に、各地に散らばって活躍を続けた。
ただ、さすがに老朽化と移籍先の赤字には勝てず、江若鉄道の生き残りは残念ながら現在は1両も残っていない。
現在、湖西線の和邇駅から北小松駅の間は駅間距離が他と比べて比較的短いという特徴がある。
まさにこれこそ、江若鉄道の駅をそのまま引き継いだ名残なのである。
また、これ以外にも車窓から廃線跡が確認できる場所もある。
江若鉄道は江若交通と改めて地域のバスとして活躍、一方の湖西線も関西~北陸間の重要路線として今も活躍している。
さらに、現在建設中の北陸新幹線から湖西線に、フリーゲージトレインを用いての乗り入れも計画されている。
形は違えど、線路の幅を乗り越えた直通運転が数十年の時を超えて実現するかもしれないのである。
琵琶湖のほとりを走る鉄道の歴史は、まだまだ終わらない。
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