真筆遺文を漢字のみで(S区切り) - あなごクンのうぃき
王信S聖人S非S賢哲仰S今賢聖之尊重S以S則S龍象之軽S知S何S妄言S吐S強S誹謗S成S誰人S以S悪比丘S謂S哉S委細聞S欲S矣S主人S曰S後鳥羽院S御宇S法然S有S選択集S作S矣S則S一代之聖教S破S遍S十方之衆生S迷S其S選択S云S道綽禅師立聖道浄土二門而捨聖道正帰浄土之文S
王信S聖人S非S賢哲仰S今賢聖之尊重S以S則S龍象之軽S知S何S妄言S吐S強S誹謗S成S誰人S以S悪比丘S謂S哉S委細聞S欲S矣S主人S曰S後鳥羽院S御宇S法然S有S選択集S作S矣S則S一代之聖教S破S遍S十方之衆生S迷S其S選択S云S道綽禅師立聖道浄土二門而捨聖道正帰浄土之文S
顕密二道8阿難尊者8見壊法者8行於険径8若善比丘8聖徳太子8理同事勝8無令断絶8深密経等8法雲法師8法華已前8普賢菩薩8易信易解8摩訶止観8後鳥羽院8常楽我浄8安楽行品8天台座主8大通結縁8大蒙古国8多留難故8多怨難信8多宝如来8又大日経8十二門論8出広長舌8七百余年8題目計8金
ゲだったとか坊さんだったという訳ではない。かるた遊びが百人一首の知名度を大幅に上げているが、この和歌はかるた遊びの被害者かもしれない。99.後鳥羽院人も愛し 人も恨めし あじきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身はhr(height=3,color=#8a2be2)人を愛しくも恨めし
是我弟子5日本一州5日本一同5於悪世中5故上野殿5擲置他方5摩耶夫人5摂受折伏5或赤日出5成仏往生5念仏三昧5御弟子等5得白癩病5得具五眼5後鳥羽院5安然和尚5婆羅門等5娑婆国土5如是展転5天王如来5大荘厳仏5大小乗経5報身如来5坐於道場5在家出家5四十二年5善哉善哉5呵責挙処5
顕密二道8阿難尊者8見壊法者8行於険径8若善比丘8聖徳太子8理同事勝8無令断絶8深密経等8法雲法師8法華已前8普賢菩薩8易信易解8摩訶止観8後鳥羽院8常楽我浄8安楽行品8天台座主8大通結縁8大蒙古国8多留難故8多怨難信8多宝如来8又大日経8十二門論8出広長舌8七百余年8題目計8金
が凋落してしまった。後に天皇の位を継げる皇統が後鳥羽上皇の子孫しかいない事態となってしまったため、天皇の先祖が怨霊ではまずかろうということで後鳥羽院へと改諡され、ある程度は復権している。とはいえ、即位した後嵯峨天皇は、後継者争いを引き起こした末に次の天皇の決定を幕府に丸投げすると
なれば。めでたきものとて翫たまふ。また懸に立て鞠より外他念もなき故に。祈禱とも後世の緣とも成と云也。一、懸を植。蹴鞠の道を定ておかるゝ事は。後鳥羽院の御宇に不殘定置給ふ也。天狗楓とて賀茂松下庭にいまだ有也。此懸は後鳥羽院始て植給ひしかゝり也。一、根本の鞠の足の次第の事賀茂成平。其
せみの小川の 清ければ 月も流れを たづねてぞすむ (鴨長明)099.あさひさす みもすそ川の 春の空 のどかなるべき 世のけしきかな (後鳥羽院)100.玉島や 川瀬の波の 音はして かすみにうかぶ 春の月かげ (順徳院)新撰百人一首の歌人一覧001.天智天皇 (てんじてんの
明日まで人は つらからじ この夕暮を とはばとへかし (式子内親王)055.見わたせば 山もとかすむ 水無瀬川 夕べは秋と 何思ひけむ (後鳥羽院)056.大堰川 松の尾山の 麓ゆけば 神さぶる身の かげぞ映れる (慈鎮和尚)057.吾が庵の 嶺より出でて 行く月の 傾くかたは
A. 後鳥羽院宮内卿は、鎌倉時代初期の女流歌人であり、後鳥羽院に仕えていた人物です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%86%85%E5%8D%B
百諭 沓沢慈眼藤河百首 難題百首 藤原定家結題百首 難題百首 称名院(藤原公豊)詠富士山百首和歌 釈契沖詠白山百首歌 釈弗隠衣川百首 源義経後鳥羽院御百首抄後鳥羽院隠岐国御製百首後柏原院御着到百首和歌寂蓮結題百首寂然法門百首訶騖秀百首 内野常正詠牽牛花百首歌 一柳春
85 文明九年石清水社法楽百首和歌部 385 内裏百首続歌(明応四年水無瀬宮法楽百首)和歌部 385 明応七年住吉社法楽百首和歌部 386 後鳥羽院御百首和歌部 386 土御門院御百首和歌部 386 順徳院御百首和歌和歌部 387 伏見院御百首和歌部 387 後小松院御百首和歌部
時松殿基房押紙於年中行事事398.繪難房必批難繪事399.伊豫入道幼少時畫不動明王像事400.右大臣賴朝無法拜見御寶藏繪事401.藤原信實畫後鳥羽院御幸繪事402.順德院御位時,向藏人孝道尋撥面繪事403.後堀河院御時負付繪貝事404.後堀河院御時以左京大夫信實繪北面等影事405
覧001.池水に 汀の桜 散りしきて 波の花こそ 盛りなりけれ (後白河院)002.我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け (後鳥羽院)003.大方に 思ふゆゑかと たちかへり 治まらぬ世を 心にぞ問ふ (後醍醐天皇)004.わきて今日 待つかひあれや 松が枝の 世
家饗時,中務卿宮與右大臣有圍碁事而碁手賭錢事422.久安元年列見朝所盃酌後圍碁事423.花山院依右大臣忠經侍妻墾志,于七半勝後出家事424.後鳥羽院御時伊豫國博弈者天筑冠者之事425.修理大夫時房前勝負雙六事426.法深房與刑部房付圍碁勝負而爭論事偷盜
男の 行くとふ道ぞ おほろかに 思ひて行くな 益荒男の伴 (聖武天皇)005.われこそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き浪風 こころして吹け (後鳥羽院)006.四方の海 浪をさまりて のどかなる 我が日の本に 春は来にけり (亀山上皇)007.花に寝て よしや吉野の よし水の 枕の
也。是絬所にて可撤て。こと/゛\とひらめかさずして可取にやすき樣に。かねて衣のうへに着之參べし。刻限にとるべし。新制裝束は裳をとらず。されど後鳥羽院御時。裳ひらめきてうるさしとて。可着指貫よし仰下さる。裘袋絹衣これ着指貫事。荒凉の所爲にあらず。可隨人。布ころもにさしぬき。兼尊律師
よひに 更ゆく鐘の こゑきけば あかぬ別の 鳥はものかは (小侍從)067.花さそふ 比良の山風 ふきにけり こぎゆく舟の 跡見ゆるまで (後鳥羽院宮内卿)068.あだにちる 露の枕に ふしわびて うづら鳴なり とこの山かぜ (俊成卿女)069.椎ひろふ 賤も道にや まよふらん
禎元 藤原知家, 藤原定家 219 後京極殿御自歌合 ごきょうごくどのおんじかあわせ 建久9 九条良経, 藤原俊成 220 後鳥羽院御自歌合 ごとばいんおんじかあわせ 嘉禄2 後鳥羽天皇, 藤原家隆 220 定家卿自歌合 ていかきょうじかあわせ
山路の露に ぬれにけり あかつき起の すみ染の袖 (小侍從)074.きくやいかに うはの空なる 風だにも まつにおとする ならひありとは (後鳥羽院宮内卿)075.山ざとの いなばのかぜに ねざめして よぶかくしかの 聲をきくかな (中宮大夫師忠)076.いかだしよ まてことゝは
り みたらしや みそきにふくる 夜半の川かせ (昭訓門院春日)058.石川や あはぬちきりを むすひをきし 花田のおひの うつりやすさは (後鳥羽院下野)059.久しくも おもほえねとも すみよしの まつやふたたひ をひかはるらむ (忠房妻)060.幾かへり すまの浦人 わかため
101.中山太政入道賴時除目時,每夜換取筥文三說事102.光明峰寺左大將道家於除目時改置他人誤置之硯矩事103.後鳥羽院習內辨作法事104.後鳥羽院習白馬截禮儀事105.依天慶五年藩客戲例,順德院即位時仿賭弓事タグ一覧: カ
皇は、鎌倉幕府の成立や承久の乱など、鎌倉時代の政治・社会に大きな影響を与えた人物として知られています。また、和歌や音楽にも優れた才能を示し、後鳥羽院政期と呼ばれる時代を築きました。しかし、承久3年(1221年)の承久の乱によって、後鳥羽天皇は隠岐参考URL:https://ja.
礼門院右京大夫 (けんれいもんいんうきょうのだいぶ)057.藤原俊成女 (ふじわらのとしなりのむすめ)058.宮内卿 (くないきょう) = 後鳥羽院宮内卿059.静 (しずか) = 静御前060.虎 (とら) = 虎御前061.塩屋朝業女 (しおのやともなりのむすめ)062.阿仏
道前太政大臣)097.来ぬ人を まちてやうしの 天神を いのるりしやうの 身も小石川 (権中納言定家)098. (従二位の家隆)099. (後鳥羽院)100.百敷や ふるきみてらや きね川の なを有がたき やくしなりけり (じゆんとく院)神社仏閣江戸名所百人一首の名所一覧001.
奈良の小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける (従三位家隆)099.人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物おもふ身は (後鳥羽院)100.百敷や ふるき軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり (順徳院)タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:脚注*
090 綾小路俊量卿記 あやのこうじとしかずきょうき 090 朔旦冬至部類記 さくたんとうじぶるいき 091 後鳥羽院御践祚次第 ごとばいんごせんそしだい 091 後光厳院御践祚記 ごこうごんいんごせんそき 091 後三条院御
んおんまりのき 貞治2 二条良基 353 享徳二年晴之御鞠記 きょうとくにねんはれのおまりのき 享徳2 一条兼良 353 後鳥羽院御記 ごとばいんぎょき 354 成通卿口伝日記 なりみちきょうくでんにっき 藤原成通 354 蹴鞠略記 し
63.源空上人念佛往生事并請公胤僧正上人為導師事064.高辨上人非例人事并春日大明神上人留給渡天事065.越後僧正親嚴所持法華經事066.向後鳥羽院聖覺法印尋一念多念事067.賜准后長谷觀音寶珠事068.大中臣長家書寫大般若經事069.別當兼光使廳再興結緣經事并顯俊
陽師吉平預知地震事297.九條大相國伊通淺位時,望井底見丞相之相事298.中原貞通說醫書事299.播磨相人相野宮公繼事300.後鳥羽院命陰陽頭在繼占千手經紛失事タグ一覧: カウンターページ全体:今日:昨日:
不詠事190.花園左大臣家侍青柳歌事并紀友則初雁歌事191.四條大納言公任三月盡夜,難長能歌事192.別當惟方於配所詠述懷歌得召還事193.後鳥羽院御時俊成奏和歌不免定家敕勘事194.壬生家隆臨終迴向七首和歌事195.大納言宗家衣室歌再迎之事196.德大寺右大臣公能隱歌於師子形枕
57.天治元年十月鳥羽院御幸高野,於還幸途次競馬事358.保延三年八月於仁和寺馬場御幸日吉內競馬事359.下野敦近鞭祿前懸而蒙後鳥羽院不興事360.秦公景令下野敦景勤仕競馬事361.右大將重盛拜賀夜佐伯國方乘惡馬事362.播磨府生貞弘試乘陰陽師之馬而一去不返事363
記 さらしなにっき 菅原孝標女 329 高倉院厳島御幸記 たかくらいんいつくしまごこうき 治承4 土御門通親 329 後鳥羽院熊野御幸記 ごとばいんくまのごこうき 建仁元 藤原定家 330 海道記 かいどうき 貞応2 鴨長明? 330 南
の小川の 夕ぐれに 薄着をしたる 家隆くつしやみ (正三位家隆)099.後鳥羽どの ことばのつづきの 面白く 世を思ふゆゑに 物思ふ身は (後鳥羽院)100.百色の 御歌のとんと おしまひに もゝしきやとは 妙に出あつた (順徳院)外部リンク 狂歌百人一首(蜀山人)タグ一覧: カ
録公事部 272 六条院御即位記(師元記)公事部 272 高倉院御即位記(頼業記)公事部 272 安徳天皇御即位記(頼業記)公事部 273 後鳥羽院御即位記(定長記)公事部 273 順徳院御即位記公事部 274 花園院御即位記公事部 274 光厳院御即位記(後円光院関白記)公事部
959 貞徳翁筆記雑部 959 寒川入道筆記雑部 960 月刈藻集雑部 962 鹿島問答(破邪顕正義)雑部 963 旅宿問答雑部 964 後鳥羽院御霊託記雑部 964 大織冠像破裂集(先代破裂集)雑部 965 後宮略伝雑部 966 公宴部類記雑部 967 初任大臣大饗雑例雑部
ける。あんなに仲が良かったのに……。そして頼家が失脚し実朝の鎌倉殿就任が決定すると、実朝の乳母としてとうとう政治に本格参戦。しかし鎌倉を狙う後鳥羽院の刺客、源仲章相手に実朝を守るどころか無防備を晒したりと早くも幸先が思いやられたが、果たしてその予想通り、実朝が本格的に政治を摂るよ
歌品経和歌経文和歌慈鎮和尚三百年忌経文百首聴講法華経詠序品和歌経文和歌経文和歌悼長源院和歌法華経歌うなひ松龍山詠(近衛前久)権現十三年忌和歌後鳥羽院四百年御忌栄窓院殿三十三回忌和歌貞徳忌辰追福百首勧心和歌集久昌院三十三回法楽経文和歌久昌寺御法楽和歌長歌宗祇追福和歌長雅居士追悼百首
てつねにゆづれ。其人或は上手或は可然人。或は又いたくあてつかぬ人に時々やるべし。是等口傳集にも見えたり。詮は練習也。鞠高の數鞠を常に好べし。後鳥羽院勅定にも侍し。立蔀の內にて二三百もける程にてこそ上手とはいふべけれと云々。尤有其謂哉。さほどならずとも四五十もすぐにちらさでけるほど
ゴリオ暦1207年2月25日*43 グレゴリオ暦1207年2月26日*44 明月記*45 グレゴリオ暦1207年2月27日*46 明月記, 後鳥羽院御集, 明日香井和歌集*47 興福寺別当次第, 興福寺別当記, 華頂要略, 興福寺寺務次第, 大乗院記録抜書*48 吾妻鏡*49 グ
聖和歌註(下河辺長流)和歌二十一首秘註(平間長雅)和歌月のしるべ(釈法臣)本末歌解(岩政信比古)恋愛詩評釈(服部躬三)十四 點取和歌及詠草留後鳥羽院御点取永正二年点取諸卿御点取和歌勅点和歌御褒詞和歌霊元帝御添削百首題点くらべ文政十年諸家詠草留天保中諸家詠草留弘化中諸家詠草留嘉永中
日*8 グレゴリオ暦1207年4月11日*9 グレゴリオ暦1207年4月12日*10 百練抄, 明月記, 鴨御祖社歌合, 賀茂別雷社歌合, 後鳥羽院御集, 明日香井和歌集*11 グレゴリオ暦1207年4月13日*12 グレゴリオ暦1207年4月14日*13 百練抄, 明月記*14
年歌合建保五年歌合右大将通光家歌合右大将家道家歌合定家卿百番自歌合四十番謌合建保五年歌合建保七年歌合建保七年歌合日吉社大宮歌合慈鎮和尚自歌合後鳥羽院自歌合草木歌合定家家隆両卿撰歌合家隆卿百番自歌合日吉社撰歌合石清水若宮歌合光明峰寺摂政家歌合卿相侍臣歌合名所月歌合日吉社歌合定家卿自
ばならず、それには熊野詣の盛行と西国三十三所における熊野那智山の位置という2つの点を見なければならない[9]。前者の例として挙げられるのは、後鳥羽院の13回、後白河院の27回といった参詣であり、こうした盛行に影響されて三十三所の順路が影響を受けて、12世紀後半には那智山を一番札所
絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである(いずれも怨霊を恐れられたゆえに「徳」の字を奉られた。なお、讃岐院
後鳥羽院御記巻首闕着沓襪樣。具足するところは便宜の閑所なるベし。內々の會などにて。無骨ならずば。庭にても閑所の方にむきて。ひきかくして結べし。わろくしなせば無禮に見えてわろき事あり。緣のきはなどにつめよりてうしろむくはくるしからず。緣のきはなれば簾中よりも見えずかたはらの人もみず
入事なり。大事也。能々しつくべし。是はひきく大枝の下の料。又はつよく身にそふ鞠の料也。又鞠は長の數鞠このむベし。木の外の鞠中の鞠自在に覺ゆ。後鳥羽院の御書にもそのやうのせられたり。かやうの類多し。いづれもをも練習して持べし。居ながら數鞠ける事有。延足若はゑんの下懸の邊に。橘柑子椿
書云。不可違出仕之法。彼識者に訪べし。出仕する人々は猶しゝら烏帽子を着也。庶品絹狩衣。平絹指貫。生白帶。沓は黑赤可隨時。後鳥羽院御時。故相公幷故刑部宗長卿共に黑沓也。範茂卿相公に弟子也。朱漆の沓のうへを一はりぬりかへして着之。韈は故相公無文藍革也。宗長卿は或うらがへし或又有文を用
の石の 人こそしらね かはく間もなし異浦の丹後(宜秋門院丹後)- わすれじな 難波の秋の 夜半の空 こと浦にすむ 月は見るとも若草の宮内卿(後鳥羽院宮内卿)- うすくこく 野辺の緑の いろ/\に あとまで見ゆる 雪の若草下もえの少将(俊成卿女)- 下もえに 思ひきえなん 煙だに
奈良御集代々御集亭子院御集延喜御集天暦御集円融院御集花山院御集五葉集崇徳院御百首崇徳院御集後鳥羽院御集遠島御百首遠島御百首抄土御門院御集土御門院御製百首順徳院御集順徳院御百首順徳院御製百首抄内裏名所御百首後嵯峨院御百首亀山院御集嘉元仙洞御百首伏見院御集伏見院御製伏見院御百首後宇多