呉市戦災遭難者供養塔と和庄防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ
呉市戦災遭難者供養塔寺西公園にあります。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で亡くなった人を供養する地蔵尊です。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃げ込みましたが、太平洋戦争
呉市戦災遭難者供養塔寺西公園にあります。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で亡くなった人を供養する地蔵尊です。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃げ込みましたが、太平洋戦争
年3月、南方での激戦から帰還し練習艦磐手他の旧式艦と共に海軍兵学校の練習艦となりました。当初は呉湾に停泊していましたが昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で攻撃を受けて海軍兵学校前(津久茂沖)へ移動し、さらにここ中町港で錨を下ろして樹木で偽装していました。しかし7月の第二次呉軍港空襲
航空機や搭乗員は無く、さらに燃料も不足していため瀬戸内海から出ることはありませんでした。当初は呉湾に停泊していましたが昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で攻撃され軽微な損害を被り、ここ三ツ子島北側(北端と小島の間の辺り)へ避難してきました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では他の艦
此彼堂と彼岸堂三和町の和庄小学校近くにあります。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際にここ城家防空壕で亡くなった人を供養するお堂です。第二次呉軍港空襲は市街地へ爆撃が最も大規模に行われた空襲で、呉市は火の海となり民間人だけでも約2000人が亡くなりました。ほとんどの人は防空壕に逃
太平洋戦争末期の昭和20年2月、南方での激戦に生き残り呉港に帰投しました。しかし、他の艦艇同様に燃料不足で航行できない状態のまま3月の第一次呉軍港空襲で攻撃を受け、自力で航行不能なまでに大破しました。その後、ここ飛渡瀬まで曳航され偽装をされましたが、7月の第二次呉軍港空襲で再び攻
し訓練や出撃ができないまま姉妹艦の駆逐艦樫と共に倉橋島倉橋本浦でカモフラージュのため松や草木を置いて停泊していました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では、倉橋本浦で偽装していた艦艇も標的となりました。駆逐艦楓を狙った爆弾の1つがここ得蔵寺の裏に落ちました。その縁もあり、太平洋戦
期の南方での激戦にも生き残り、昭和19年12月に呉に帰投しました。当初は修理のため呉海軍工廠付近に停泊していましたが、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲を受けてここ小用港の北に移動し、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲を受け大破着底し終戦を迎えました。巡洋艦出雲は明治33年に就役した
い航空戦艦です。太平洋戦争末期の昭和20年2月、南方での激戦にも生き残り呉湾へ帰投しましたが、海軍にはすでに戦艦伊勢を動かす燃料が無く3月の呉軍港空襲で損害を受けてここ坪井へ移動しました。しかし、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で再び空襲を受け大損害を被って大破着底し終戦を迎えま
に内部に支柱が必要になるため、もしかすると防空壕ではない可能性があります。尾立集落は、呉市街地が甚大な被害を受けた昭和20年7月2日の第二次呉軍港空襲と同じ日に空襲を受けました。この日は集落で葬儀が行われており「第二次呉軍港空襲に参加していた米軍機に、火葬場からの煙を目標と誤認さ
ました。音戸防空砲台は太平洋戦争末期の昭和20年1月に竣工し『四〇口径一〇式12cm単装高角砲』が4門配備されました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では呉湾内に停泊していた海軍残存艦艇とともに対空戦闘を行いましたが、戦死者を出しました。現在、砲台の一部は戦没者霊園となっています
は元より海軍の将兵にも愛され歴代呉鎮守府長官着任の際や、呉港を出入りする海軍艦艇の将兵たちもその都度参詣していました。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で稲荷神社と手洗舎以外はすべて焼失しましたが、太平洋戦争終戦後の昭和30年に再建され今日に至ります。余談ですが、おおむね海軍に協力
それほど大きくないのですが、公園周辺は平坦地が多く防空壕を掘れるような斜面が無いため集中的に作られたものと思われます。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際は、避難してくる人が殺到して入りきれない状態でした。御典橋公園の東側にあります。皇太子時代の昭和天皇の行脚を賜った際に建てられ
ます。なお、海軍工廠時代からこの方角を示す用語が使われていたかは不明です。米軍機による機銃掃射の弾痕(北側)北側に残る昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の米軍機の機銃掃射の弾痕南から襲来した米軍機は一度上空を通過し、反転して攻撃したきたため北側に弾痕が集中しています。また、外壁の色
るため修理の見込みが立たず、海軍工廠では他の艦艇の修理を優先させたため巡洋艦青葉はここ警固屋に係留されました。その後、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲では移動できない浮き砲台となりつつも対空戦闘を行いました。しかし、7月の第二次呉軍港空襲で2回の攻撃を受け大破着底し終戦を迎えまし
改造した世界でもめずらしい航空戦艦です。戦争末期に南方での戦闘を終え呉に帰投しました。当初は呉湾内に停泊していましたが昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で攻撃を受けてここ情島に移動し、燃料不足から浮き砲台となりましたが7月の第二次呉軍港空襲で大破着底し終戦を迎えました。太平洋戦争終
を受けて損傷、2月11日に一航戦から除籍された。龍鳳はというと輸送任務からの帰投後に練習空母に戻るが、ろくに活動できぬまま45年3月19日の呉軍港空襲で大破炎上。防空砲台として最低限の要員のみ残して係留されたまま終戦を迎えた。○大和どっからどう見ても戦艦である。間違っても空母じゃ
からないことをする」と嘆いたという話があります。旧海軍工廠塔時計大正10年に呉海軍工廠造機部の屋上に設置された時計塔昭和20年の二度にわたる呉軍港空襲にも生き残り終戦まで動いていました。昭和56年に有志の手によりこの入船山記念館の入り口に移設されましたが、終戦から70年以上経った
かれています。軍需部第二区前は「駆逐艦繋留場」「小型艦艇用」と書かれており駆逐艦や潜水艦の錨泊地となっています。太平洋戦争末期の昭和20年の呉軍港空襲の際も駆逐艦雪風、駆逐艦磯風、駆逐艦初霜などがここに錨泊していました。呉海軍工廠製鋼部前は「特設艦繋留場」と書かれています。特設艦
は無く、輸送や訓練用の空母となりました。太平洋戦争末期の昭和20年以降は訓練用空母となりここ秋月に停泊していましたが、昭和20年3月の第一次呉軍港空襲で空襲を受け大破しそのまま終戦を迎えました。生存者の手記によると「龍鳳は甲板がめくれ上がっても空が真っ赤になるほどの対空砲火で応戦
米空軍勇士之碑倉橋島中部の丸子山にあります。倉橋島・江田島に隠れている日本海軍残存艦艇を狙った昭和20年7月の第二次呉軍港空襲の際に、機体に損傷を受け藤の脇の民家に墜落しに亡くなった米兵の墓です。正確には空母艦載機のパイロットであるため米『海軍』勇士の碑とするが正しいのですが、当
を行う警察のような組織です。また、戦時下には民間人に対しても軍事機密の保持や防諜のための取り締まりを行います。ここには昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で撃墜された米軍機の乗員が捕虜として収容されていました。昭和20年8月の原子爆弾投下では爆心地から至近距離であった司令部の建物は一
は倉橋島の南西にある北向きの湾で、両側に突き出した半島と目前に能美島があるため艦艇を隠すのに適した地形でした。しかし、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では重極湾に隠れていた巡洋艦北上は空襲を受け大破しました。また、重極集落や隣接する江の浦集落でも米軍機の爆撃や機銃掃射を受け住民が
き、昭和20年からここ倉橋本浦で姉妹艦の駆逐艦楓らとともに訓練を行っていました。しかし、燃料不足で出撃の機会は無いまま昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で攻撃を受けそのまま終戦を迎えました。駆逐艦樫は太平洋戦争終戦後も復員船として活躍し、その後はアメリカへ賠償艦として引き渡されたた
海軍兵学校の練習艦として使用されました。太平洋戦争中の昭和17年に戦局悪化と艦艇不足を補うため再び巡洋艦となりますが、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲でここ狩留賀浜沖で空襲を受け大破着底し終戦を迎えました。また、姉妹艦の巡洋艦出雲も小用港で空襲を受けて沈没しています。対岸に江田島
る窪地南部砲台の聴音機跡か探照灯跡と思われますが詳細不明です。南部砲台には昭和20年1月に四〇口径一〇式12cm単装高角砲と探照灯が配備され呉軍港空襲の際も応戦しました。兵舎跡の石垣三津峰山の展望台付近にあります。練習生用兵舎の石垣が3つと建築資材と思われるレンガの破片が散乱して
と太平洋戦争終戦まで新兵教育の場となりました。太平洋戦争末期にはとなりの海兵団練兵場に応急防空砲台を作って防空戦に参加しますが、昭和20年の呉軍港空襲で被害を受けます。太平洋戦争終戦後は、進駐してきた英連邦軍に接収され昭和31年まで英連邦軍の施設として使用されました。翌昭和32年
子島消毒所を開設します。昭和16年に太平洋戦争が始まると患者疎開のため愛媛県松山市や島根県松江市等に分院を開設します。昭和20年7月の第二次呉軍港空襲では、赤十字をつけた呉海軍病院も容赦なく攻撃され病棟が全焼し多数の死傷者が出るなど甚大な被害を受けます。しかし、医薬品などは近くの
た。この辺りは呉鎮守府開庁の明治以降に新しく住み始めた海軍軍人や海軍工廠の職人が多く住んでいたといわれています。また、両城は太平洋戦争末期の呉軍港空襲で焼失しており戦前からの建物は残っていませんが、この階段は戦火を免れたため階段沿いある住宅の一部や明治時代のレンガ塀が現存していま
のなのかわかりませんが、護岸が残っていることからここが海岸だったと思われます。また、太平洋戦争終戦までここは駆逐艦の錨泊地であり昭和20年の呉軍港空襲の際も駆逐艦雪風、駆逐艦磯風、駆逐艦初霜等が錨泊していました。 備考 ・二川公民館の裏の草野球場の駐車場の奥に
水浴場や宿泊施設を開業します。このころの料亭は宿泊もできるものが多かったのでその延長で事業拡大をしたものと思われます。残念ながら昭和20年の呉軍港空襲で全焼し当時の建物は残っていません。しかし、太平洋戦争終戦後わずか2年後に営業を再開し昭和48年に現在の建物に建て替わり営業を続け
メージを受けた米国海軍にも一時的に参加している。戦争中盤以降はTirpitz攻撃、イギリス東洋・太平洋艦隊での活動が中心となり、日本近海では呉軍港空襲、海鷹*14に対する空襲も行っている。沖縄戦にも参加しており、前述の特攻機による突入を受けつつも軽微な損傷で切り抜け、終戦を迎えた
、満身創痍の武蔵に対して激励の信号を送りながら命令を受けて去ったが、海戦を生き延びた。しかしその利根も燃料不足から呉で浮き砲台と化し、そして呉軍港空襲にあたって伊勢・日向・榛名・大淀・青葉などとともに大破着底。戦後は引き上げられ解体、資材として戦後日本の礎となった。なお、利根の艦
の装備が先行実装されるまでは伊勢改二の実装や2018年4月作戦および5月作戦で伊勢型と榛名をあからさまに強調した装備が先行実装されたことから呉軍港空襲モチーフのイベントになるのではないかと予想する声もあった。あと磯風や浜風の乙改実装から坊ノ岬沖海戦を予想する声もあった。が、201
駆逐艦アンダーヒル撃沈)伊58(多聞隊、通常雷撃で重巡洋艦インディアナポリスを撃沈する大戦果)北上(元重雷装巡洋艦、回天搭載用に改装されるが呉軍港空襲で大破)開発経緯日本が誇った独自技術の粋を集めた酸素魚雷。スピード・航続距離・航跡が見えないステルス性・推進力が高いため大量の炸薬
脱走、行方を晦ませたとか。○伊号第四〇四潜水艦44年七夕に進水。翌年8月末を竣工予定としていたが、全工程の95%を完了したところで7月28の呉軍港空襲により大破。戦後の接収を恐れ、技術隠匿を期し自沈処分される。51年12月に浮揚、資材として解体された。○伊号第四〇五潜水艦43年9
合艦隊の栄光を彩った空母機動部隊最後の闘いを記録した映像を回収することも出来た。その後。礼号作戦・北号作戦に参加。無事に生き残り本土に帰還。呉軍港空襲で着底大破するまで戦い抜き、波乱の艦生を全うした。ゲームでは対空装備と主砲しかないという史実を反映してか、最初は雷装も対潜も0とい
ていました。太平洋戦争末期の昭和20年7月に、ここ倉井沖で特攻兵器用爆弾・魚雷の爆破実験の標的艦にされ大破しそのまま終戦を迎えました。第二次呉軍港空襲時の米軍機の攻撃により着底したという説もあります。建造途中の状態で自軍の特攻爆弾実験のために使われて沈むという当時の日本の苦しい状
機の爆撃・雷撃訓練の標的艦となり瀬戸内海で訓練を行いました。太平洋戦争開戦後も日本周辺から離れることはなく、戦争末期の昭和20年7月の第二次呉軍港空襲でここ津久茂沖で空襲を受け大破着底し終戦を迎えました。一説には他の場所に避難する燃料が無かったためともいわれています。位置的には江
。明治36年には私立淡水小学校と改称されましたが、大正8年には呉市に経営が移り清水通尋常小学校と改名しました。しかし、昭和20年7月の第二次呉軍港空襲により校舎は焼失しました。太平洋戦争終戦後の昭和22年に、八幡国民学校と合併し現在の和庄小学校となりました。現在、跡地には記念碑と
ンです。屋根にある錨と桜の紋章は戦前まで天皇家の家紋である菊の御紋だったという説もあります。第一庁舎は太平洋戦争末期の昭和20年7月の第二次呉軍港空襲で空襲を受け外壁を残して全焼しました。終戦後、昭和20年11月に呉鎮守府は閉庁し進駐軍が接収しますが、外壁しか残っていない第一庁舎