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ジャパンマリンユナイテッド呉事業所新宮工作部(旧第11海軍航空廠兵器部新宮工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

ジャパンマリンユナイテッド呉事業所新宮工作部(旧第11海軍航空廠兵器部新宮工場)呉湾を囲む造船工業地帯の西北部旧呉海軍工廠地帯から呉湾を挟んで反対側の新宮町にかつて第11海軍航空廠兵器部新宮工場がありました。第11海軍航空廠は広にある広海軍工廠の一部で太平洋戦争開戦の昭和16年に

賀北部隊原爆被災者救援之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

賀北部隊原爆被災者救援之碑東広島市の西条中央公園にあります。『賀北部隊』は戦争末期に賀茂郡北部(現在の東広島市西条)にあった2個中隊約250名で結成された国土防衛隊です。広島市に原爆が投下された昭和20年8月6日に召集され翌7日に賀茂海軍衛生学校の看護練習生と共に救護に向かいまし

長浜の鉄塔 - 呉市周辺の遺構まとめ

長浜の鉄塔長浜集落の入江神社の前にあります。この鉄塔は空襲警報のサイレンを鳴らすのに使った鉄塔で錆ついていますが健在です。北に行けば旧広海軍工廠があるので、太平洋戦争末期の昭和20年3月と5月の広海軍工廠への大空襲では空襲警報のサイレンが鳴ったと思われます。また、呉市電の終点がこ

阿賀骸炭製造所ガス圧送室跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

広島ガス呉支店(延崎火力発電所跡)阿賀南にある現在の広島ガス呉支店明治43年に阿賀・警固屋・音戸の電灯電力を供給するため呉瓦斯株式会社が設立され、翌44年にここ延崎(現在の阿賀南)に火力発電所を建設し操業を開始しました。大正元年には広村・仁方町・川尻村まで供給を拡大し最盛期の大正

神原湯跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

神原湯跡神原湯はかつて宮原町にあった銭湯呉市は太平洋戦争終戦まで人口40万人の大都市でしたが、水源が限られていたため毎年夏になると水不足で断水するなど水道事情がよくありませんでした。貴重な水道水を無駄なく使うため呉市には昔から多くの銭湯があり市民に利用されていました。この神原湯は

切串港の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

切串港の防空壕跡江田島北東端の切串港にも防空壕跡が2つ残っています。となりは海上自衛隊呉弾薬整備補給所と中国化薬(自衛隊の弾薬を作っている会社)です。 備考 ・切串港(さくら海運)の近くに2つある ・同じ名前の港が江田島に2つあるので注意(呉ポートピアパー

CM(DVD MAGAZINEなど) - 森戸知沙希メモ

Hello! Project DVD MAGAZINE Vol.44 CMハロプロ女子会2015、ハロプロメンバーそれぞれの近況報告やぶっちゃけトークに期待!DISC1にはカントリー・ガールズ紹介映像も収録!https://youtu.be/3MlJ9xFJ8BM2015年1月2

宮原4丁目の民家の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

宮原4丁目の民家の防空壕跡宮原小学校の近くの更地にある防空壕跡詳細不明ですが2つあることから民家の防空壕跡と思われます。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作ってあるため、このよ

両城の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

両城の防空壕跡両城小学校の近くにあります。太平洋戦争後期の昭和19年以降は空襲に備えて呉市内にも各家ごとに防空壕が作られました。そうした家庭用防空壕とは別に、大通りや工場・学校・病院といったパブリックな場所の近くにも公共の防空壕が作られました。ここ両城にある防空壕は元々は海軍軍需

索引【な】 - 2典プラスアーカイブ

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ローグライク_ケオベの茸狩迷界 - Arknights wiki JP (アークナイツwiki)

大陸版情報を含む為、日本サーバーでは内容が異なる場合があります。ケオベの茸狩迷界 [大陸名:刻俄柏的灰蕈迷境] イベント概要開催期間:2021年2月25日(木)16:00 ~ 3月18日(木)3:59※ イベント開催期間:2021年2月25日(木)16:00 ~ 3月18日(木)

戦艦大和建造ドックの壁石 - 呉市周辺の遺構まとめ

戦艦大和建造ドックの壁石モニュメント呉市役所の前にあります。戦艦大和建造ドックの壁石でできたモニュメントですが、歴史の見える丘の造船船渠記念碑に比べるとコンパクトです。 備考 ・呉市役所の前にある ・同じ戦艦大和建造ドックの壁石でできた造船船渠記念碑が歴史

某Discord 足立淳・アウグスト・真鍋棒に関するログ その10 - 足立淳 @adatijun まとめwiki

参考 ヘイト二次創作の支援者たち ヘイト二次創作の支援者たち2 ヘイト二次創作の支援者たち3 ヘイト二次創作の支援者たち4 ヘイト二次創作合同の支援者たち 訴訟・告訴の支援者たち 訴訟・告訴の支援者たち2 訴訟・告訴の支援者たち3 日高屋公式Twitterのお知らせに対する支援者

第六潜水艇殉難者記念碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第六潜水艇殉難者記念碑山口県岩国市装港にあります。明治39年に建造された『第六潜水艇』は潜水艦黎明期における初の国産潜水艇でしたが、お世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国沖で半潜航訓練中に事故で浮上できない状態のまま乗組員14名全員が酸欠で死亡するという事故

板城村聴音照射所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

板城村聴音照射所跡東広島市の大迫山(標高343m)にある呉鎮守府所属の防空施設ここには太平洋戦争中の昭和19年3月に呉鎮守府所属の特設見張所があり、空中聴音機と探照灯が配備されていました。空中聴音機とは敵機が襲来する際のエンジン音を捉えて索敵する兵器で、レーダー技術の遅れた日本で

中野村聴音照射所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

中野村聴音照射所跡広島市と東広島市の市境にある標高514mの東中倉山(大谷山)ここには太平洋戦争終戦まで呉鎮守府所属の防空施設である中野村聴音照射所がありました。中野村聴音照射所は太平洋戦争開戦前の昭和16年に着工し、開戦後の昭和17年4月に竣工しました。ここには空中聴音機や探照

福屋八丁堀本店 - 呉市周辺の遺構まとめ

福屋八丁堀本店中心部の繁華街にある老舗百貨店福屋は昭和4年10月、広島発のデパートメントとして広島市中心部に当時としてはめずらしい鉄筋コンクリート4階建てで創業しました。6年後の昭和10年に東洋一の軍港といわれていた呉市に支店をオープンします。当時の呉海軍工廠の給料日には買い物を

二河川橋梁 - 呉市周辺の遺構まとめ

二河川橋梁二河川橋梁(にこうがわきょうりょう)は二河川にかかる呉線の鉄道橋呉線で呉駅から西(広島駅方面)に向かうと最初に渡る鉄道橋です。具体的な建設時期は不明ですが、橋脚部分がレンガもしくはレンガ化粧で作られていることから、おそらく戦前に建設されたものと考えられます。呉線には他に

雑魚場疎開地跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

雑魚場疎開地跡雑魚場町(ざこばちょう)は、現在の広島市中区国泰寺町の一部と小町の一部の旧地名雑魚場町のとなりには広島市役所があります。太平洋戦争中の市役所は空襲時の消火・避難指揮所として機能するため、市役所への火災の延焼を防ぐ目的で雑魚場町は建物疎開地となりました。『建物疎開』と

呉共済病院(旧呉海軍共済病院) - 呉市周辺の遺構まとめ

呉共済病院(旧呉海軍共済病院)呉共済病院は呉海軍工廠の医療機関として設立された病院当初は『海軍工廠職工共済会病院』といい、最盛期には約10万人が勤務する呉海軍工廠を医療面で支える病院として明治37年に作られました。呉は軍港という土地柄、海軍関連の病院が多数建設されましたがこの海軍

ダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

ダイクレ興産第2工場(旧砲熕部精密兵器工場)精密兵器工場は呉海軍工廠砲熕部の工場の1つ『砲熕部』とは海軍の兵器を生産する部署で、他の海軍工廠には無い呉海軍工廠のみに設置された独自部門です。この工場では艦艇に搭載する艦載砲や機銃の組み立てを行っていました。この辺りは明治22年に呉鎮

第六潜水艇遭難之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

第六潜水艇遭難之碑鯛の宮神社の境内にあります。第六潜水艇は改ホランド級潜水艇として潜水艦黎明期の明治39年に就役しました。初の国産潜水艦として建造されましたが、特殊潜航艇を除けば国産潜水艦としては最小でお世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国市装港沖で半潜航訓

アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋) - 呉市周辺の遺構まとめ

アレイからすこじま公園(旧潜水艦桟橋)元々は明治28年に呉海軍工廠の前身である呉鎮守府造船部が神戸からここに移転された際、花崗岩で作られた切石積護岸が築かれたのが始まりです。そのころ烏小島(からすこじま)という小さな島が南西の沖にあり、その烏小島が現在の公園の名前の由来となりまし

平原浄水場低区配水池 - 呉市周辺の遺構まとめ

平原浄水場低区配水池灰ヶ峰の南麓にある『呉鎮守府水道』の浄水場平原浄水場低区排水池は、同じ呉鎮守府水道の本庄水源地の関連施設として本庄水源地と同じく大正7年に操業を開始しました。当初本庄水源地は軍用水道である呉鎮守府水道の水源地として建設されたため呉市民は水道を使うことはできませ

旧澤原家住宅(三ツ蔵) - 呉市周辺の遺構まとめ

旧澤原家住宅(三ツ蔵)旧長ノ木街道に面した国の重要文化財澤原家は江戸時代から続く呉市の庄屋でこの独特の外観の蔵も旧澤原家のものです。灰ヶ峰への入口という市街地寄りの場所にありますが、太平洋戦争末期の市街地への空襲では奇跡的に被害を受けませんでした。また、前蔵ばかり有名ですが江戸時

アレイからすこじま公園駐車場(呉海軍工廠員養成所跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

アレイからすこじま公園駐車場(呉海軍工廠技手養成所・職工教習所・工員養成所跡)串山のとなりにあります。呉海軍工廠職工教習所は、呉海軍工廠で働く技術者を育成するための教育機関で大正7年に創設されました。元々ここではなく呉海軍工廠製鋼部や砲熕部の近くにあり、2年制の課程教育が行われま

二河公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

二河公園二河(にこう)公園は二河峡の下流にある二河川沿いの公園元々は海軍が明治30年頃に作った射撃場の一部でしたが大正5年に呉市に払い下げられ、大正天皇御即位の記念として公園として整備されました。昭和9年に発行された呉軍港案内では音楽堂・海光館・図書館・擇善館・慰霊碑の他、野球グ

呉海軍工廠職工殉職者各霊永供養塔 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉海軍工廠職工殉職者各霊永供養塔養運寺の境内にあります。詳細不明ですが、碑文から見るに呉海軍工廠で勤務中に亡くなった職人を慰霊するため、大正5年に寄付によって建立された慰霊碑のようです。 備考 ・養運寺の入口は坂の上にあるのでわかりにくいかも ・夜間は境内

二河川公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

二河川公園二河川沿いの呉湾に面した陸地の先端にある公園園内の庭園は明治時代に呉海軍工廠造船部第二船渠を建設する際に掘り出した岩で作られています。また、呉湾を挟んで海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部が反対側にあるため、自衛隊の艦艇を真横から見ることができるめずらしいポイントです。

串山公園(旧串山防空機銃砲台) - 呉市周辺の遺構まとめ

串山公園(旧串山防空機銃砲台)串山は旧呉海軍工廠本部の後ろにある山山と言っても標高は63mしかなく簡単に登れる山ですが太平洋戦争中の昭和17年に防空機銃砲台が作られました。串山防空機銃砲台は当初『坪ノ内機銃砲台』として昭和17年8月に完成し13mm4連装機銃2基が配備されました。

海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉地域事務所跡(旧下士官兵集会所)下士官兵集会所は呉港に艦隊が寄港した際に艦隊勤務の下士官が福利厚生を受けるため施設下士官とは兵卒と準士官の間にある軍曹・伍長といった階級のことです。下士官より上の準士官には海友社、その上の士官には水交社と呼ばれる別の福利厚生施設がありま

旧呉海軍工廠監視哨 - 呉市周辺の遺構まとめ

旧呉海軍工廠監視哨旧呉海軍工廠造船部の裏にある小型の監視哨跡後部に入口があり銃眼が4つ付いています。何の目的で作られたのか不明ですが、旧呉海軍工廠造船部が見渡せる高台にあることから防空目的かと思われます。元々、監視哨は2つありましたが駐車場を作るため1つは取り壊されました。

魚見山隧道 - 呉市周辺の遺構まとめ

魚見山隧道(うおみざんずいどう)魚見山隧道は国道31号線にある川原石と吉浦を結ぶ860mのトンネル。呉市から広島市に向かう道路のトンネルとして長年使われています。元々は太平洋戦争開戦の昭和16年に、軍都広島市と軍港呉を結ぶ道路の一部として着工しました。太平洋戦争末期の昭和20年1

呉線の目隠し板の支柱 - 呉市周辺の遺構まとめ

呉線の目隠し板の支柱呉線の吉浦駅と川原石駅の間にあります。呉線の車内から呉港が一望できる線路沿いに建てられた目隠し板のコンクリート製支柱で、太平洋戦争中まで車窓の高さに目隠し板が立てられ車内から呉湾が見れないようになっていました。「景色が良いのになぜ隠す必要があるのか?」という疑

川原石の民家の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

川原石の民家の防空壕跡川原石駅近くにある港町小学校(旧川原石小学校)の下にあります。地元住民の方にお聞きすると民家の防空壕跡とのことです。太平洋戦争中は各家庭に防空壕があり中に食料・水・炭(燃料)などの貴重品を入れておくことが一般的でした。また、緊急時には人も避難できるように作っ

宮原11丁目の防空壕跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

宮原11丁目の防空壕跡宮原中学校前の国道487号線沿いにあります。道路沿いに4つの防空壕の入口が並んでいます。このうち3つにはパブリックの防空壕としてはめずらしくT字型やI字型のコンクリート防火壁が付いています。太平洋戦争末期の空襲では『焼夷弾』と呼ばれる火災を発生させる目的の爆

旧呉市交通局築地中央工場(海軍軍需部被服工場跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

旧呉市交通局築地中央工場(海軍軍需部被服工場跡)二河川の近くにある広島電鉄呉中央営業所元々ここには海軍軍需部第二区として海軍の被服工場と倉庫がありました。太平洋戦争終戦後、昭和25年の旧軍港市転換法により呉市に譲渡され安芸阿賀にあった呉市交通局(呉市営バス)の整備工場がここに移転

海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部(旧呉海軍工廠艤装工場) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上自衛隊呉地方総監部練習艦隊司令部(旧呉海軍工廠艤装工場)現在は海上自衛隊の施設ですが、終戦まで呉海軍工廠の一部で艤装工場と艤装組立作業場がありました。艤装とはできあがった船体に内装や最後の仕上げをすることです。海軍工廠造船部では造船船渠の回転率を良くするため造船船渠で建造され

萬願寺 - 呉市周辺の遺構まとめ

萬願寺日佐護山のふもとにあるお寺境内最上の五重の塔から呉湾が一望できるため、太平洋戦争中は諜報活動を警戒して憲兵が常駐していました。戦前戦中は要塞地帯の近くで測量・撮影・模写などを禁止する『要塞地帯法』という法律がありました。特にこの萬願寺は造船部船渠の中まで見えるため用もないの

港湾監視所跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

港湾監視所跡アレイからすこじま公園駐車場から宮原13丁目交差点の間にあります。いつごろ、どのような目的で作られたのか不明ですが、呉海軍工廠の後ろにあることから防空監視用か守衛用に作られたものと思われます。余談ですが、ここに配属された兵士たちからは「天蓋付きたこつぼ(屋根付き防空壕

文明人之纂略002 - A Killer Park

文明人之纂略 作者:黒須輝002 言語く……苦しい。息が、できない!ここはどこだ?何も見えない……———アキラ!遠くで誰かが俺の名を呼んでいる!(俺はここだ!助けてくれ!)何故だ?声が出な

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地) - 呉市周辺の遺構まとめ

警固屋(巡洋艦青葉終焉の地)巡洋艦青葉は佐世保鎮守府所属の青葉型重巡洋艦の1番艦として昭和2年に就役しました。昭和9年から呉鎮守府所属となった巡洋艦青葉は日中戦争から活躍し、太平洋戦争開戦後も緒戦から活躍した歴戦の勇者でした。太平洋戦争末期の南方での激戦にも生き残りましたが大破し

鍋桟橋跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

鍋桟橋跡鍋桟橋はかつて警固屋町にあった桟橋この辺りは中世のころから埋め立てが盛んに行われる場所で、当初はここも海でしたが明治43年に埋め立てられ鍋桟橋が作られました。鍋桟橋の利用者は倉橋島から呉海軍工廠へ通う島嶼部通勤者がほとんで全盛期には通勤ラッシュが起こるほど利用者がいました

殉国の塔 - 呉市周辺の遺構まとめ

殉国の塔旧呉海軍工廠を見下ろす鍋山第一公園にあります。「呉のひめゆりの塔」といわれるこの慰霊碑は、昭和20年6月の呉海軍工廠空襲により殉職した工員や軍人を慰霊する目的で建立されました。昭和20年6月の呉海軍工廠への空襲では計290機の米軍機が1289発の爆弾を投下し、犠牲者の数は

音戸渡船 - 呉市周辺の遺構まとめ

音戸渡船(おんどとせん)音戸渡船は、本州と倉橋島の間にある音戸の瀬戸約120mの海を行き来する渡し船で、かつて呉市が誇る日本一の1つ「日本一短い航路」でした。現在は音戸大橋のおかげで倉橋島と本州は陸路でつながっていますが、昭和36年の開通以前は倉橋島に行くには船で行くしかありませ

高烏台公園(高烏台砲台跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

高烏台公園(高烏台砲台跡)平清盛が厳島神社を建てるため太陽を呼んだことで有名な景勝地音戸の瀬戸の本州側にある高烏台公園ここには明治時代から太平洋戦争終戦までの砲台跡があります。高烏台公園には大きく分けて2種類の砲台跡があります。1つは明治34年に陸軍が広島湾要塞の1つとして築いた

亀山神社 - 呉市周辺の遺構まとめ

亀山神社亀山神社は古来から続く呉市の総鎮守創建時期は不明ですが御鎮座は飛鳥時代の大宝3年と伝えられています。当初は『大屋津日売(おおつひめ)神社』と呼ばれており家屋や木の神様の名前の神社でした。呉市の名前由来として船の材料となる呉材が多く採れたことからこの名前になったという説があ

宮原浄水場低区配水池 - 呉市周辺の遺構まとめ

宮原浄水場低区配水池宮原浄水場の近代的な施設の中でひと際目立つレンガ造りの建物宮原浄水場低区配水池は呉鎮守府開庁の翌年である明治23年に、軍用水道である『呉鎮守府水道』の一部として建設されました。初期の呉鎮守府水道は二河峡取水口から取水した水をこの宮原浄水場で処理し、海軍施設に導

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部) - 呉市周辺の遺構まとめ

海上保安大学校(旧呉海軍工廠火工部)現在は海上保安官を育成する学校ですが終戦までは呉海軍工廠の一部でした。明治22年の呉鎮守府開庁と同時に呉鎮守府吉浦火薬庫がここに置かれたのが始まりです。その後、明治36年に対岸に呉海軍工廠が建設されると呉海軍工廠造兵部第六工場の火薬庫となりまし