宮原浄水場低区配水池 - 呉市周辺の遺構まとめ
園か宮原一丁目バス停からよく見える ・呉鎮守府水道の歴史については二河峡取水口(呉鎮守府水道)のページへ ・近くに呉医療センター(旧呉海軍病院)がある 写真3枚目は呉市フォトバンクより引用 住所 広島県呉市青山町5−
園か宮原一丁目バス停からよく見える ・呉鎮守府水道の歴史については二河峡取水口(呉鎮守府水道)のページへ ・近くに呉医療センター(旧呉海軍病院)がある 写真3枚目は呉市フォトバンクより引用 住所 広島県呉市青山町5−
いなら橋梁の東側にある二河川東踏切からが綺麗に撮れる ・全体を撮りたいなら北にある新栄橋から撮るのがおすすめ ・近くに二河川公園と旧呉海軍工廠引き込み線跡がある ・同じ呉線の鉄道遺構として呉線の廃トンネルと呉線の目隠し板の支柱と呉線の架道橋がある
戦艦とは名ばかりの移動要塞である。浮かべる城どころか軍艦島である*1。金田は造船所には配備されたことはないが、用兵の専門家・海軍大学校教官・呉海軍工廠長を歴任し、軍艦建造にも関わった人物であった。長門建造の際、艦橋に色々詰め込んで従来の三脚檣では保たないと判って困っていたところ、
レンガの積み方明治時代の建築素材として広く使われている煉瓦(レンガ)呉市の旧呉鎮守府や旧呉海軍工廠、広島市の広島陸軍被服支廠跡など呉市周辺にはレンガ造りの遺構が多く存在します。レンガ建築には積み方によって大きく分けて『イギリス積み』と『フランス積み』に分かれます。明治時代に日本に
府水道』の一つ呉鎮守府水道の水源地としてはめずらしく、ダムではなく地下水を水源とするさく井型(井戸)の水源です。三坂地水源地は、大正10年の呉海軍工廠広支廠建設と同時にその工業用水の水源地として築造されました。当初、海軍はここに3つのさく井を掘り水源としました。これが現在の三坂地
な汽車時代のトンネルが12カ所ある ・同じ呉線の鉄道遺構として旧軍需部踏切と旧軍需部引き込み線跡と旧川原石駅跡と呉線の目隠し板の支柱と旧呉海軍工廠引き込み線跡と二河川橋梁がある ・同じ軍用鉄道として広島市に軍用鉄道宇品線がある ・呉線のトンネルとして川尻駅近くに日本一
の防空壕跡宮原9丁目にある防空壕跡坂の町である呉市特有の階段住宅の斜面に掘られた防空壕です。現在は更地や空き家が多くなりましたが、位置的に旧呉海軍工廠の裏にあるので在りし日は住宅が多く人口密集地域であったと思われます。となりに燈籠やレンガ造りの基礎があるので神社仏閣やお宮があった
シビレ峠小用港と秋月の間にある峠峠なので見晴らしがよく対岸の呉市まで見渡すことができるため、太平洋戦争前は対岸の呉海軍工廠造船船渠で建造中の戦艦大和が見えたらしいです。余談ですが、地名の由来は「景色がしびれるほど美しい」ということからきてるそうですが恐らく俗説かと思われます。この
れない ・海上自衛隊の宿舎は11棟あるが防空壕跡は3つある ・近くに海上自衛隊呉総監部(旧呉鎮守府第一庁舎)と海上自衛隊呉教育隊(旧呉海兵団)と戦艦大和建造ドック跡と歴史の見える丘がある 住所 広島県呉市青山町9-30
柱島山口県岩国市の沖26㎞に浮かぶ小さな島人口140人程度の小さな島ですが太平洋戦争中は南にある屋代島との間に日本海軍の錨泊地柱島泊地がありました。当時は、海軍との交流もあったようで連合艦隊司令長官山本五十六も柱島を訪れたことがあります。戦艦陸奥英霊之墓南東の洲鼻(V字型の岬部分
柱島泊地(戦艦陸奥終焉の地)山口県屋代島と柱島の間にある瀬戸内海の一部呉鎮守府と佐世保鎮守府は距離も近いため合同で作戦や訓練を行っていました。呉と佐世保の艦隊の待ち合わせに場所として使われたのがこの柱島泊地です。地理的には広島湾に位置するため呉の方が圧倒的に近いです。しかし、屋代
名と大破着底した戦艦榛名の写真慰霊碑に展示されています。砲弾(?)慰霊碑を囲む砲弾のモニュメント戦艦榛名・練習艦出雲のものなのかは不明です。呉海軍工廠火工部第二装填工場小用作業場火薬事故殉職者慰霊碑太平洋戦争中の昭和18年8月5日に、海軍工廠小用作業所で起きた火薬事故の殉職者を祀
A. 呉鎮守府は、大日本帝国海軍の鎮守府の1つです。広島県呉市に所在し、呉海軍工廠(海軍工廠)を運用していました。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E9%8E%AE%E5%AE%88%E5%BA%9C
陸奥記念館山口県屋代島にあります。太平洋戦争中期の昭和18年6月、目の前の柱島泊地に警泊していた戦艦陸奥が突然爆発を起こして沈没し乗組員1122名が犠牲になる事故がありました。戦後、海底から引き揚げされた遺品等が展示されている戦艦陸奥の記念館です。実際に引き揚げられた軍需品・日用
すると、周りの塀は後から作られたのとさすがに110年経っているので外壁の白い塗装や屋根は何度もやり替えているとの事です。余談ですが、呉市にも呉海軍下士官兵集会所がありますが、あちらは2回建て替えられているため明治時代の集会所が現存している江田島の集会所は非常に貴重な遺構と言えます
金毘羅公園(旧両城防空機銃砲台)大歳神社の下にある公園元々ここには讃岐出身の海軍工廠職人が作った金毘羅宮がありましたが大歳神社遷座の際に合祀され無くなりました。太平洋戦争中の昭和19年5月に防空機銃砲台が設置され『25mm連装機銃』3門が配備されました。砲台は大抵山の上など高いと
・江田島の教専寺に練習艦磐手の時鐘が保存されている ・近くに海上自衛隊呉造修補給所貯油所(旧海軍軍需部乙廻燃料置場)と吉浦中学校(旧呉海軍工廠女子動員学徒狩留賀寄宿舎)と吉浦の防空壕跡がある 住所 広島県呉市狩留賀町3-5
たのかピンポイントでここに爆弾が投下されたのかは不明です。集落の向こうは旧広海軍工廠会計部で現在は在日米軍基地になっています。奥に見えるのは呉海軍航空隊飛行場跡です。 備考 ・鳥居は2つあるが空襲で折れた鳥居は境内近くの小型のもの ・自動車で行くことはでき
指して行くといい ・漁港は柵等はないので落ちないよう注意 ・現在の日本製鋼所は国道2号線の北にある ・海軍の造船所として呉市に旧呉海軍工廠がある 住所 広島県広島市安芸区船越南5丁目1-1 駐車場 なし ト
禁止 備考 ・私有地の中にあるので立入と撮影は必ず許可を得てから行うように ・同じく戦争末期に作られた地下工場として呉海軍工廠長郷地下工場跡がある ・近くに三木谷医院(旧広海軍共済組合病院)がある 住所 広島県呉
終焉を迎えたと思うと感慨深いものがあります。また、姉妹艦の戦艦日向もとなりの情島で空襲を受け大破着底し終戦を迎えています。右奥に見えるのは旧呉海軍工廠製鋼部です。旧戦艦伊勢日向浮揚解撤記念碑太平洋戦争終戦後、戦艦伊勢を引き上げて解体した際に建立された慰霊碑また、第二次呉軍港空襲で
・最南端の南吉島地区は戦後に埋め立てられた土地で滑走路があったのは現在の光南地区のあたり ・呉市にも海軍が埋め立て地に作った呉海軍航空隊飛行場跡がある 住所 広島県広島市中区光南3丁目13 駐車場 なし
第六潜水艇殉難者記念碑山口県岩国市装港にあります。明治39年に建造された『第六潜水艇』は潜水艦黎明期における初の国産潜水艇でしたが、お世辞にも性能が良いとは言えない艦艇でした。明治43年、岩国沖で半潜航訓練中に事故で浮上できない状態のまま乗組員14名全員が酸欠で死亡するという事故
れており入ることはできない ・東側の引き込み線跡は住宅地で途切れてしまっているため広駅まではつながっていない ・呉駅にも同じような旧呉海軍工廠引き込み線跡が残っている ・近くに旧広海軍工廠と旧第11海軍航空廠と明磯神社の鳥居がある 住所
ルデコ調の橋でよく似た新栄橋があるので間違えないように ・全景を撮るなら南にかかる二河大橋からが綺麗に撮れる ・近くに呉共済病院(旧呉海軍共済病院)と二河川橋梁と呉憲兵隊跡がある 3項目と4項目の写真は広島県立文書館蔵の広島県立文書館資料デジタル画像より引用