登録日:2012/03/12 Mon 00:48:43
更新日:2023/08/18 Fri 11:50:14NEW!
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競走馬 皇帝 三冠馬 三日月 競馬 g1馬 サラブレッド 夢の第11レース ルナ ダービー馬 ライオン ボス 種牡馬 顕彰馬 菊花賞馬 皐月賞馬 故馬 天皇賞馬 年度代表馬 長寿 叙事詩 最優秀5歳以上牡馬 トウカイテイオー 父子でのダービー制覇 岡部幸雄 憎たらしい程強い シンボリルドルフ 84年クラシック世代 無敗の三冠馬 永遠なる皇帝 シンボリ牧場 競馬に絶対はないが、シンボリルドルフには絶対がある symboli rudolf ルドルフの背 ヘロド系 ふじりんご
85年、ジャパンカップ。
ある男が言った。
「競馬に絶対はないが、その馬には絶対がある」
勝利より、たった3度の敗北を語りたくなる馬──
シンボリルドルフ
永遠なる皇帝。
その秋、日本は世界に届いていた。
──2013年 JRA ジャパンカップCMより
シンボリルドルフとは日本の元競走馬、種牡馬。
現代の競馬界といえば、当項目と同じく無敗での三冠を制したディープインパクトとその息子コントレイル、2011年の三冠馬オルフェーヴルが記憶に新しいだろう。
だが、今なお競馬ファンの間で「日本史上最強馬は誰だ?」という話になると、有力候補に挙がる存在である。通称「皇帝」「七冠馬」。
※馬齢表記は産まれた年を0歳とする現代の表記に合わせています
『ウマ娘 プリティーダービー』におけるシンボリルドルフはこちら→シンボリルドルフ(ウマ娘 プリティーダービー)
(以下、「ルドルフ」と表記)
【データ】
生誕:1981年3月13日
死没:2011年10月4日(30歳)
父:パーソロン
母:スイートルナ
母父:スピードシンボリ
調教師:野平祐二(美浦)
戦績:国内15戦13勝 海外1戦0勝 計16戦13勝[13-1-1-1]
主な勝鞍
1984年
弥生賞(G3)
皐月賞(G1)
日本ダービー(G1)
セントライト記念(G3)
菊花賞(G1)
有馬記念(G1)
1985年
日経賞(G2)
天皇賞春(G1)
ジャパンカップ(G1)
有馬記念(G1)
【誕生】
それまでにパーソロンとスイートルナとの間に産まれた仔はどれもあまり大成しなかった。
というのも、母父スピードシンボリの母がハイペリオンの2×3(父方の2代前と母方の3代前が同じ馬)の強い近親配合のために血が偏ってしまったのである。
一応、初仔として生まれたシンボリフレンド(つまりルドルフの全兄)はその素質を認められていたが、気性難のため重賞勝利は京王杯SHの一勝にとどまった。
しかしそんな中に産まれた4番仔。額には白く浮かぶ三日月のような模様、それは母の名であるスイートルナ(ローマ神話の月の女神)を連想させた。
しかも誕生後立ち上がる迄の時間はわずか20分と、普通の競走馬のおよそ半分。
この時からルドルフは他馬とは違うモノを感じさせていた。
【現役時代(3歳まで)】
北海道のシンボリ牧場で育ち、神聖ローマ帝国初代皇帝「ルドルフ一世」の名を与えられたルドルフは、名手・岡部幸雄を背に、新潟の新馬戦を断然の一番人気に応えて勝利した。
新馬線について岡部は後に、「1000mの競馬で1600mの競馬を覚えさせた」と語っている。
次戦に選ばれたいちょう特別(現サウジアラビアロイヤルカップ)でも難なく勝利。
当時の岡部の騎乗を見て、調教師の野平は「1600mで2400mの競馬をしている」とコメントしている。2戦連続で距離を間違えるなんて、岡部くんはあわてんぼうだなあ。
3戦目には2歳王者を決定する朝日杯(現朝日杯FS)に出走する選択肢もあったが、陣営はあえて同日に行われるオープン戦への出走を決めた(結果?当たり前のように勝ちましたが何か?)。
実は、ルドルフのオーナー和田氏は当時にしては珍しいほど海外志向の強いオーナーであり、この決定も全て「ジャパンカップのため来日した海外競馬関係者に、こんなすごい馬が日本にいることを見せつけたい」という彼の思いがあったからだと言われている。
3戦3勝というパーフェクトな戦績で、クラシック戦線に名乗りを上げたルドルフ。ところが、近くに厄介なライバルが存在した。
ルドルフと同じく3戦3勝でクラシック戦線入りし、さらには共同通信杯を勝利していち早く重賞馬となっていたビゼンニシキ(以下、ビゼン)である。
ただ強いだけならいざ知らず、面倒なことに、デビューからビゼンの鞍上を務めていたのもまた岡部だったのである。そのため、当時の競馬ファンの間では、ルドルフとビゼンどちらが強いのかということに加え、岡部がルドルフとビゼンどちらを選ぶのかということも議論の対象となっていた。
岡部もまたそれを焚きつけるかのごとく、「僕が選んだ方が強いと思ってください」などと強気な発言を残した。
両雄の初対決の舞台となったのはG3弥生賞。
そして岡部が運命を共にしたのは……ルドルフであった。
後に岡部はこの選択について、「選択するとか迷うとかそういう次元じゃなかった。問題なくシンボリルドルフ。」とプロポーズコメントしている。
ただその結果、岡部はビゼン陣営から不倶戴天のごとく嫌われるようになってしまっている。そらそうよ
迎えた本番弥生賞。ルドルフは最後の直線で逃げるニッポースワローをとらえ、ビゼンの懸命な追撃も意に介せず見事優勝。初の重賞勝利を飾った。
なおこのレース、ルドルフは初めて1番人気を譲り渡している(ビゼンに次ぐ2番人気)。ビゼンのwikipediaではこのことがルドルフにとって屈辱だったと書かれているが、1番人気で負ける方がよっぽど屈辱ではないだろうか…
余談だが、このレースで最下位の14着になった馬の名前はカスケードという。後の大ヒット漫画では主人公最大のライバルとして立ちはだかる彼だが、今回は相手が悪かったといえよう。
次はクラシック一冠目の舞台皐月賞である。
勝っておきたいルドルフと、逆襲に燃えるビゼン。対照的な2強同士の対決に競馬ファンは胸を躍らせ、単枠指定もまたこの2頭となった。
強い調教を重ねた結果、前走から体重が22kg減となったルドルフ。それを不安視する声も一定数見られたが、ルドルフはそんな声をあざ笑うかのごとく、ビゼンとの激しい叩き合いを制しレースレコードで勝利した。
表彰式で鞍上の岡部は、おもむろに天へ人指し指を掲げた。────「まずは、一冠。」
ルドルフの三冠、さらにはその後に続く輝かしい未来を、半ば確信したかのようなパフォーマンスであった。
そのパフォーマンスに沸く競馬ファンの中には当時まだ競馬学校生徒であった武豊の姿もあった。
彼が約20年後、日本近代競馬の結晶とともに同じパフォーマンスを披露することになるのは、また別の話…
次戦はクラシック2冠目、競馬の祭典日本ダービー。
当時すでに類まれな実績を残し、トップジョッキーの一人に数えられていた岡部であったが、ダービージョッキーという称号には手が届かずにいた。
自身の500勝達成記念パーティーの場(1978年)で競馬学校同期の伊藤正徳騎手に「僕は技術にしても何にしても岡部君には負けます。ただ、ひとつだけ勝てるものがあります。僕はダービーに勝っている*1けど、岡部君はダービーを勝っていない」と煽られ、それまでの笑顔から一変無表情になったこともあった。
そんな中迎えたルドルフとのダービー。
岡部は十分勝算はあると感じつつも、「もしルドルフでダービーを勝てないようなら、自分には一生ダービーを勝てるチャンスなんて来ないだろう」という重すぎる覚悟でレースに臨もうとしていた。
一方世間では、ルドルフ不在のダービー前哨戦NHK杯を快勝し3度目の正直に燃えるビゼンもまた有力候補と目されており、ルドルフとビゼンの頭文字をとって「SBダービー」と呼ばれていた。
2頭の枠連(当時は馬連が存在しなかった)は銀行馬券(=買ってもお金が増えない馬券)と呼ばれ、今なお投票額最高記録を維持している。また、ルドルフの強さを恐れた他陣営の回避が続出し、出走頭数は戦後最少となる21頭となった。それでも多いとか言わない。
そしてレース本番では、ゼッケン番号19番スズマッハが逃げる展開となった。ルドルフは8・9番目につけたが、今までと違い中々前へ行こうとしない。
「いつもより手応えが悪い…?」不安に駆られた岡部。向こう正面で初めて、ムチを入れた。
ところが、そのゴーサインをルドルフは完全無視。一向に反応する気配がない。一体どうしたんだシンボリルドルフ…
「このままだと負けるかもしれない…」観客が、実況が、そして岡部本人がそう覚悟した、その瞬間であった。
「しっかり、つかまってろ」
岡部にしか聞こえなかった、しかし確かに岡部に届いた、ルドルフのささやき。
その刹那、直線で自らハミをとって急加速。前方にいたスズマッハ、フジノフウウン、スズパレードを差し切り、見事先頭でゴール版を駆け抜けた。
この瞬間、前年のミスターシービーに次ぐ2冠を達成。無敗での2冠達成は、「幻の馬」トキノミノル、「カミソリの切れ味」コダマに次ぐ、史上3頭目の快挙であった。
…いうなれば、まるで馬自身が仕掛けどころを自分で理解していたかのようなレースであった。ゴールの位置を理解して逆算し、レース展開を組み立てる。
ルドルフはそんなおとぎ話のようなことを、ダービーという一世一代の舞台で成し遂げたのである。「皇帝」としての片鱗は、すでに存分に現れていたと言えよう。
「ルドルフに競馬を教えられた」と後に岡部が話したのは有名なエピソードである。そんな岡部は表彰式にて、天にVサインを掲げた。
新しく伸びた中指には、ルドルフと共にダービーを勝てた喜びの想いが込められていた。
その後右肩の故障の治療に専念し、秋はG3セントライト記念から始動した。重賞とはいえ、たかがG3の舞台。こんな所で不覚をとるルドルフではなかった。
本番では4馬身差、レコードタイムのおまけつきで圧勝。力の差を見せつけた。
なお、2着に入ったオンワードカメルンは菊花賞の優先権を得たものの、自分の4馬身先を走っていた皇帝に恐れおののき菊花賞を回避する事態にまでなった。
また、同レース7着サクラクラウンの鞍上小島太騎手は、レース後検量室で「あの馬はバケモノだあ」と叫んだという。失礼な、皇帝陛下だぞ
そして舞台は三冠目の菊花賞に移る。もはやルドルフの勢いを止められる者は、同世代にいなかった。
初の京都、初の3000を不安視する声もあったが、競馬ファンの多くは3冠達成を信じており、単勝もいつも通り1倍台であった。
本番の菊花賞。熱気に包まれる京都競馬場を18頭が颯爽とかけていく。最後の直線、斜行芸人ニシノライデンを差し切り、ゴールドウェイの追撃も振り切り見事優勝。
日本競馬史上初めて、無敗の三冠馬が誕生した瞬間であった。
「赤い大輪が、薄曇りの京都競馬場に大きく咲いた!
三冠馬、八戦八勝~!
我が国競馬史上、不滅の大記録が達成されました京都競馬場!」
──『菊花賞』 杉本清御大アナ──
…当時の競馬ファンの興奮など、想像に難くない。前年にトウショウボーイの息子が三冠を達成するという夢のような光景を見たと思ったら、今度は日本初の無敗三冠馬の誕生を目の当たりにできたのである。
表彰式で岡部は、お約束通り三本指を天に掲げた。名手と呼ばれた男の夢が、また一つ叶った瞬間であった。
見事三冠を制し、世代最強となったルドルフ。陣営はなんと、ジャパンカップへの参戦を表明した。
長距離戦の菊花賞から中1週という過酷なローテでの参戦(当時は今とレースの開催時期が異なっていた)。おまけに何と、当時のルドルフは下痢が続き体調が最悪の状態。
無謀とも取れるこの行為は、前年の三冠馬ミスターシービーとの対決を望む陣営の思いの現れであった。
なお、ミスターシービーは前年のジャパンカップには出走しておらず、海外競馬関係者から「国際大会を日本最強馬が回避するなんて」と批判されたりした。余計なお世話だ。
ルドルフ以降に三冠を達成したナリタブライアンも菊花賞から中2週のジャパンカップを回避して有馬記念に出走。
ディープインパクトやオルフェーヴルの時代には菊花賞とジャパンカップのレース間隔が中4週に延長されていたが、両馬ともジャパンカップは回避して菊花賞の次走に有馬記念を選択。
コントレイルは菊花賞から中4週でジャパンカップに出走したが、翌月の有馬記念は回避した。
菊花賞から中1週でジャパンカップに向かうローテーションがいかに過酷かがわかるだろう。
世間では三冠馬同士の対決ということで熱気が高まっていた。「一体どっちが強いんだ!?」
また、今では信じられないことだが、当時のジャパンカップは外国馬の独壇場。日本馬は一度も一着をとったことがなかった。そんな中で発表された、三冠馬2頭の出走。競馬ファンの間では、日本馬初のJC制覇への期待も大きく膨らんでいた。
「シービーなら、ルドルフなら、世界相手でも勝ってくれる!」様々な思いが交差しながら、第4回ジャパンカップは幕をあけた。
一番人気は前走の天皇賞秋で一切のブランクを感じさせない豪脚を披露し優勝した日本総大将ミスターシービー、その後イギリスのベッドタイム、アメリカのマジェスティーズプリンスと続き、体調不良と中一周が心配されたルドルフは生涯最低の4番人気だった。
レースが始まると、10番人気のカツラギエースが大逃げを打つ展開となる。一時は2着に10馬身もの差を広げるが、直線に入るとみるみるその差が縮まっていく。このまま馬群に沈み、後は後続の叩き合いになると思われた。
だがしかし!!
どういうわけか、カツラギエースの足が衰えない。頑張っても頑張っても、最後の差が中々縮まらない。
結果、脅威の粘り腰を見せたカツラギエースが見事逃げ切り優勝。日本馬初のジャパンカップ制覇は、誰も予期しない形で達成された。単勝配当は4060円にまで昇った。
日本調教馬初の快挙も場内は異様なムードが漂い、ルドルフの初黒星(3着)ともなった。なお、一応シービー(10着)には先着した。したけれど……
ただ一方、この時の3着は菊花賞からジャパンカップに出走した3歳馬の最高着順として長らく記録された(ウイニングチケットとスペシャルウィークは菊花賞から中2週で出走し同様に3着)。
これが更新されたのは菊花賞とジャパンカップのレース間隔が中4週に見直されてジャングルポケットが勝利した2001年になってからのことであった。
誤解のないよう記しておくが、カツラギエースは決して弱い馬、ラッキーな馬だったわけではない。クラシック期からミスターシービーのライバルとしてしのぎを削っており、先着したことだってある。同年の宝塚記念にも勝利している、れっきとしたG1馬であった。
ただ、三冠馬2頭に海外の強豪が出走するジャパンカップという舞台では、この馬の実績が見劣りしていたのもまた事実だった。そんな中で披露した見事な逃げ切り勝ちは日本、いや世界中に驚きと感動を与え、鞍上の西浦勝一騎手は「世界のニシウラ」と称えられるようになった。
余談だが、このレースに憧れて騎手を志した少年が大阪にいた。その名も佐藤哲三君。
約20年後、彼は同じジャパンカップの舞台で、あの日見た夢を叶えることとなる。一体何の偶然か、その時の3着に別のシンボリが来ていた。
カツラギエースは有馬記念を最後に引退を表明していたため、ルドルフもリベンジを果たすべく有馬記念に参戦。シービーも同じく参戦した。
三冠馬が3歳時に有馬記念に出走するのは初めてのことだった(セントライトは有馬記念創設前の三冠馬であり、シンザンとシービーは3歳時に有馬記念を回避。セントライト古すぎん…?)。
「勝ち逃げなど許さない…」ジャパンカップで土をつけられたお礼参りをするべく、ルドルフ陣営、シービー陣営は熱く燃え、激しい舌戦を繰り広げた。一方エース陣営は、「メンコと勝負服の柄をお揃いにしてみました^^」と、楽しそうにしていた。
レース当日はルドルフが単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。
競馬ファンは前走のジャパンカップを勝利したカツラギエースではなくルドルフが勝つと予想したのである。
菊花賞から中1週というハードな日程で体調が整わないまま出走し、そんな中マジェスティーズプリンスとの叩き合いを制して3着に入線したルドルフの怪物性を当時の競馬ファンは見抜いていた。
レースではジャパンカップと同様にカツラギエースが逃げる展開となったが、ルドルフはそれをマークする形で道中2番手をキープ。
最後の直線で悠々とカツラギエースを抜き去り2馬身差をつけて完勝。見事リベンジを果たし、現役最強馬の称号を手にした。
しかも秋4戦目であるにもかかわらず従来のレコードタイムを更新する破格の内容だった。なお、三冠を達成した年に古馬G1を2戦した三冠馬は日本競馬史上ルドルフだけである。
表彰式にて鞍上の岡部は親指を除く4本指を高らかに掲げた。指3本などでは到底表現しきれないポテンシャルが、ルドルフの中には秘められていたのだ。
無敗での三冠達成と有馬記念の勝利を評価され、1984年の年度代表馬に選出された。
【現役時代(4歳以降)】
明けて古馬となったルドルフ。その始動に選んだのはG2日経賞だった。
前年に1着6回3着1回という異常な成績を出していたことが高く評価され、単勝オッズは驚愕の1.0倍。100円元返しにまでなっていた。
そして本番、ルドルフは大方の期待通り、いやそれを遥かに超えるような、あまりに強すぎる走りを披露することになる…
レースが始まると、第1コーナーに入る前にルドルフが突然スッと先頭に立つ。まるで、ライバルたちの足の遅さに辟易し、こらえきれなくなったかのようであった。その後は一度も先頭を譲ることなくゴール板を通過して優勝。最後の直線で何故か加速し差を広げる一幕もあった。
このレース、実はもう一つ恐ろしい事実が存在する。レース中、ルドルフはゴールまで終始馬なり。鞍上の岡部はムチどころか追うことすらしていなかった。
すなわちこのレース中、岡部はルドルフから落ちないよう手綱を持っていただけだったのである。
ルドルフが勝手に走って、勝手に逃げて、勝手に勝った。そんなレースだったと言えよう。
…何を言っているのかわからないそこのあなた。一回レース映像を見てみてほしい。「すごい」という感想を通り越して、もはや恐怖すら感じるレースである。
「賞金付きの公開調教」「野平がお茶目すぎて調教とレース間違えた」と言われる有様。
努力や才能などではどうにもならない、生物種としての格の違い。そんなものすら想起させられるような、皇帝の一方的蹂躙劇だった。
往年の競馬ファンにルドルフのベストレースを聴くと、勝手に仕掛けたダービーや国内ラストランの有馬を差し引いてこの日経賞を挙げる者もいる。それほどまでに強烈で、まさしく伝説のレースであった。約40年後、ドバイの舞台で似たことをする天才少年(リンク先は父)が現れることなど、この時はまだ誰も知る由もない…
公開調教前哨戦を楽々乗り越え、次に挑むは本番天皇賞春。菊以来の長距離の舞台で、ルドルフは3度目、そして最後となる、先輩三冠馬ミスターシービーとの対決に赴くこととなる。
過去2度の対戦(JC、有馬)はともにルドルフが先着。年度代表馬の座もルドルフが得ており、シービーの勝利は厳しいと思われた。
しかし、当時の競馬ファンはシービーが大好きだった。愛された天馬トウショウボーイの息子にして、最後方からの豪脚による華麗な追い込み、グッドルッキングな顔立ち、カッコいい名前と、とにかく人を惹きつける何かがシービーにはあった。
「俺たちのシービーなら、皇帝にだって打ち勝ってくれる…!」そんな思いを抱いていたのは競馬ファンだけでなく、当のシービー陣営もであった。
打倒ルドルフを掲げ、今までの追い込み作戦すら見直すように。こうして、いつの間にか悪役になってたルドルフとシービーの最後の決着は幕を開けた。
レースではルドルフが中団、シービーが最後方近くといういつものポジション。道中、2年前の菊のごとく、シービーが途中でスパートをかける。追い込みを捨て、スタミナ勝負でルドルフと張り合うつもりであった。場内は大歓声。またあの「大地が弾んでミスターシービー」が見られるかと期待が高まった。
だがしかし…かつての輝きを見せたのもここまで。直線入り口で失速したそのスキを逃すルドルフではなかった。あっという間にシービーを差し切り、先頭のスズカコバンも見事にとらえて優勝。シンザン以来の5冠馬が誕生した瞬間であった。
菊花賞、有馬記念、天皇賞春の中長距離3連覇はもちろんルドルフが初めてであり、現在に至るまでルドルフとドラマ俳優マンハッタンカフェの2頭しか達成してない偉業である。
シービーは何とか5着と掲示板に食い込みはしたものの、この後の休養中骨膜炎を発症し引退。3度行われた夢の3冠馬対決は、全てルドルフの勝利という形で幕を閉じた。
表彰式で岡部は、いつも通り天に大きく5本指を掲げた。
20年近く日本競馬界の目標となっていた「神馬シンザンを超えろ」というスローガン。今ここに、超えるとはいかずとも肩を並べた優駿が生まれたのである。
その後資金稼ぎ宝塚記念に登録をしたルドルフ。ところが、その直前に転倒し、左肩を故障してしまう…
この故障は思ったより根深く、宝塚記念のみならず予定されていた海外遠征も中止(同牧場のシリウスシンボリのみ渡欧)。一時はなんと引退さえ噂されるほどであった。
ところが、一か八かで行った笹針治療が功を奏し、何とか体調が回復。引退を撤回し、天皇賞秋にぶっつけ本番で臨むこととなった。
迎えた本番天皇賞秋。ルドルフの枠番は大外の17番枠と、非常に不利な位置。ケガ明け一発目ということもあり、普通の馬なら無事走ってくるだけで十分なくらいの状況だった。
ところが、こいつはただの馬ではない。既に歴史的名馬としての地位を確立しつつある皇帝シンボリルドルフである。
そのため、多くの不安要素を抱えながらも、世間では「何やかんやルドルフが勝つっしょ」という意見が大半であった。初の天皇賞春秋連覇を期待されたルドルフは実際単勝人気1.4倍に支持された。
レース本番、ルドルフはまさかの出遅れとなり、最後方からのスタート。ハイペースの流れになったものの、向こう正面で一気に加速。直線入口で先頭に立つと、そのまま後続と叩き合い。函館記念を連覇していたウィンザーノットの競り合いを制し、見事天皇賞連覇達成…
の、はずだった。
アッと驚くギャロップダイナ!根本康広~!
──天皇賞秋 堺正幸アナ──
最後の最後に超伏兵、13番人気ギャロップダイナ*2の強襲に屈し、2着。
かつてのJCに続き、伏兵に足をすくわれる形で敗れてしまったのである。東京競馬場は大きなどよめきに包まれた。
ところが、前述した通り、ルドルフは休養明けのぶっつけ本番かつ大外枠からの出遅れ。勝てる要素など微塵もない中での、差のない2着入線。
思わぬ敗北であることには間違いないが、ルドルフの強さに疑いがかかることはなく、むしろ更に評価が高まることとなった。まあでも、もしここを勝っていたら某稲妻に先んずる天皇賞連覇、某覇王に先んずる秋古馬三冠、某アイちゃんに先んずるG1八勝だったので、もったいなかったよなとも思う
レース直後の野平調教師は「競馬に絶対はない。だがシンボリルドルフには絶対がある」と言い切った。
敗戦後も陣営のルドルフへの信頼は微塵も揺らぐことがなかった。この言葉が単なる負け惜しみでないことは、今後2戦で確かに証明されることとなる。
なお、この天皇賞秋にまつわるエピソードとして、敗戦の後ルドルフが馬房の中で悔し涙に暮れていたというものがある。
眉唾物ではあるが、頭良すぎて勝手にベストタイミングでスパートするような馬だし、「敗北」という概念を理解していたとしても不思議ではないような気もする。
次走は前年の雪辱を晴らしたい世界の舞台ジャパンカップ。
重馬場での開催となったが1番人気に支持され、お手本のような好位抜け出しの横綱競馬で余裕の勝利。正直、「いつも通り勝った」くらいしか書くことがない…
ジャパンカップ史上初の1番人気での優勝馬となった。ついでにギャロップダイナ(7着)へのリベンジも果たした。
なお、2番手争いを制し2着になったのは船橋より参戦した11番人気の地方馬ロッキータイガーであり、史上初の日本馬ワンツーとなった。
なお、重馬場や不良馬場での開催となったジャパンカップで1番人気を背負って勝利した競走馬は日本競馬史上ルドルフだけであり、他の重馬場・不良馬場開催となったジャパンカップの1番人気馬は重馬場に泣いてことごとく負けている。
表彰式で岡部は、久しぶりに6本指(片手5本+人差し指)を空に掲げる。ついに片手じゃ足りなくなった
ルドルフがシンザンを超え、前人未到(前馬未踏?)の領域に足を踏み入れた瞬間であった。
エースとルドルフによる2年連続の日本馬JC優勝は日本中に勇気を与えた。
ところが、ルドルフ勝利以降、再びJCは外国馬の独壇場となり、日本馬は優勝からしばらく遠ざかってしまう。奇しくもそのジンクスを打ち壊したのは皇帝の血を継ぐ不屈の帝王であった。
年末には国内ラストランとして有馬記念に出走。当たり前のように1番人気に支持され、当年の二冠馬ミホシンザンの挑戦を受けることとなった。
当時調教師の野平は世間の声以上にルドルフへ全幅の信頼を寄せており、「勝つのは当たり前。国内最後なんだから、いつもより強い勝ち方で勝ってくれ。」と岡部にパワハラ依頼。負けることなど頭の片隅にもなかったのである。
レースでは3コーナーで早々に先頭に立ち、そのまま先頭を譲らず4コーナーを回る。2番人気のミホシンザンが並びかけようとするも直線に入るとさらにルドルフは加速して後続を突き離し、4馬身差をつけて圧勝。この時に鞍上の岡部騎手が入れた鞭はたったの2発であった。
「ルドルフ出た!ルドルフ出た!ルドルフ出た!
世界のルドルフやはり強い!3馬身4馬身、日本のミホシンザンを離す!
日本最後の競馬、最後のゴールイン!!
…ルドルフ圧勝いたしました~!
日本でもうやる競馬はありません!あとは世界だけ!!」
──『有馬記念』国内ラストラン 盛山毅アナ──
ルドルフは3歳時の有馬記念も1番人気で勝利していたため、1番人気での有馬記念連覇という大記録達成となった。1番人気で有馬記念を連覇した競走馬は日本競馬史上ルドルフだけである。
有馬記念を連覇したことにより積み上げたG1勝利数は7勝、八大競走の勝利数は日本競馬史上最多の6勝(皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞春、有馬記念×2)となった。
この八大競走最多勝利記録はいまだに単独1位であり破られていない。
表彰式で岡部はいつも通り天に7本指を……掲げなかった。日本なんかでは終わらないという想いの現れか、普通に忘れていただけか、真相は闇の中である。
1985年の年度代表馬投票では満票で年度代表馬に選出された。
なお、2年連続で年度代表馬に選出されてなおかつ満票で選出されたこともある競走馬は日本競馬史上ルドルフだけである。(そもそも「満票で年度代表馬」という事象自体、日本競馬史上たったの5例しかない)
その後、多くのファンの期待を背負って海外遠征に挑戦。
……実は、今後の方針について馬主の和田と調教師の野平の対立が激しくなり、イザコザが消えない状態での出発となっていた。
ここら辺少し闇深で記すと長くなるので詳細は割愛するが、気になる諸兄は調べてみてほしい。
そんな中異国の地で全く見知らぬスタッフに管理されることとなったルドルフ。
いくら皇帝といえどそんな状態でいい結果が出せるはずもなく、アメリカのサンルイレイSでの6着(なんとレース中に故障していた!)を最後に中央GⅠ7勝という記録を残し1986年に引退、種牡馬入りした。
日本の宝がこのような形で夢を絶つことになったことへの批判は未だ根深い。
【引退後】
斬れ味鋭いスピードや重厚なスタミナ、というよりはどんな怪我にも屈しない類まれな精神力、天下一品の頭脳で勝負してきた面が大きいルドルフの強さは産駒に遺伝しにくいのではとの意見があった。しかし、初年度産駒からいきなりの超大物、トウカイテイオーを送り出した。
……が、それっきりであり、そのトウカイテイオーも強力な後継を確立できなかったこともあって、彼の父系の存続はかなり厳しい状況である。
なお他の代表産駒はアイルトンシンボリ(ステイヤーズステークス連覇)、ツルマルツヨシ(朝日チャレンジカップ・京都大賞典)、牝のキョウワホウセキ(4歳牝馬特別・東京新聞杯)。
2004年をもって種牡馬として引退した後は功労馬として余生を過ごしていたが、2011年10月に繋養先の千葉シンボリ牧場で死去。30歳没(人間だと85歳くらい)という大往生だった。
亡くなる前年の2010年には、ジャパンカップの第30回を記念して東京競馬場のパドックにその姿を見せ、非常に高齢であるにも関わらず*3とてもそうとは思えない若々しい姿を見せている。しかもその賢さも健在で、カメラを向けられるとピタッと止まるファンサ配慮まで忘れていない。
「あまりに毛ヅヤが綺麗すぎる」「オープン戦くらいなら今から走っても勝てそう」「もうこの後のJCにしれっと参加してもいいんじゃね?」など、一年後亡くなる馬へのコメントとは到底思えない感想が寄せられた。
まだ見たことのない人は、ぜひニコニコか何かで映像を見てみてほしい。そこではきっと、思わず平服してしまうような、威厳に満ちた皇帝の姿が見られるだろう。
【総評】
ルドルフのレースには好位からの差しが多くつまらないという声もあるが、実際ダービーは豪快に追い込み、日経賞では逃げ切りと、多彩な脚質を使える馬だった。
ルドルフの中央GⅠ7勝は、その後、最多勝記録として長い間残り続けることになる。
テイエムオペラオー、ディープインパクト、ウオッカ、ジェンティルドンナ、キタサンブラックと、肩を並べる馬は現れてきたが、7勝の壁を超える馬は長年現れなかったのだ。
この現象は「ルドルフの呪い」といわれていたが、2020年の天皇賞(秋)でアーモンドアイ*4が8勝目をあげたことで、ようやく解けることになった。
その後アーモンドアイはラストランとなった同年のジャパンカップも優勝し、中央GⅠ9勝という新しい最多勝利記録を樹立している。
2022年には「障害競走の絶対王者」オジュウチョウサンが同年の中山グランドジャンプを制してこの記録に並び、現在はこの2頭が達成した9勝が中央GⅠ最多勝利記録となっている。
日本競馬に燦然と輝くGⅠ7勝、無敗の三冠の偉業。現在でも保有し続ける日本競馬史上単独1位の八大競走勝利記録。
大崩れもせず、常に実力を発揮し続けたルドルフは、ディープインパクトのような豪快なレース運びこそないものの、名馬の鑑になるのは当然のことだろう。
ちなみに主戦騎手の岡部は、ルドルフの強さについて「作戦次第でディープインパクトにも勝てる」「欠点の少なさではディープインパクトよりも上」と評している*5。
競馬の永遠のテーマである、史上最強馬。
ルドルフの三冠から数十年たった現代でも彼が話題にあがるのは、皇帝とまで言われた圧倒的な気品や勝負センスが観る者を魅了したからに他ならない。
【余談】
実は厩舎ではかなり気性が荒い暴君気質だったらしく、関係者に付けられたあだ名は「ライオン」。
一方で厩舎の外では暴れる事もなく堂々とした立ち振る舞いを見せており、好き勝手に振舞っていい場所とダメな場所をきちんと理解していたという。そんな所で賢さ発揮しなくていいから…
漫画『馬なり1ハロン劇場』(よしだみほ)では、引退後初代牝馬三冠馬メジロラモーヌとの間に10冠ベイビーとも言われた仔(後のメジロリベーラ)を授かった1カットで初登場。
その後はトウカイテイオーの父親や三冠馬の代表としてちょいちょい出番があり、死後も他の歴代三冠馬共々たまに登場している。
また一巻では「小学生で一緒のルーちゃんとギャロちゃん」なんて設定で往時の天皇賞(秋)も回想されている。本当はルーちゃん一年生ならギャロちゃんは同級生じゃなく二年生なのだが。
ちなみに史実ではいまいち特定のライバルに恵まれなかったルドルフだが、本作ではオカベユキオ*6を巡って争い、弥生賞と皐月賞で(色々な意味で)ぶつかり合ったビゼンニシキがライバルという扱いになっている。日本ダービーは忘れろ。
作者にとっては初めての推し馬なため愛着があるそうで*7、最終巻では他の三冠馬と共に表紙を飾り、カラー口絵では青薔薇の花束を銜えたルドルフの姿が描かれている。
だが、なぜか途中から馬なのに白馬の曳く馬車や天馬が引くチャリオット(没後)に乗って登場する貴族キャラと化し(余談だが他の馬の霊は雲に乗っている)、作者公式Twitterの背景画像でも貴族ルドルフが普通のテイオーと共に描かれていたり。中にはシンボリ牧場の後輩シンボリクリスエスが自ら・息子トウカイテイオーが困惑しながら・しまいにはオカベを乗せるために自分が馬車馬になっていた事まで。
また単行本『よしだみほ ウマ世界読本』収録の短編『ダービー馬を振り回したシンボリルドルフのわがまま』では、後輩シリウスシンボリの視点からルドルフの現役時代と先輩が急遽取りやめたせいで独り海外遠征をする羽目になったシリウスが描かれている。
漫画『優駿たちの蹄跡』シリーズではリキサンパワー回で「同期のスター」として触れられた僅か一コマぐらいしか出番が無かったが、『新』でようやくメイン級で登場*8。
「ルドルフの涙」に魅入られたある女性の結婚までのドタバタを軸に、天皇賞(秋)での敗戦後に馬房で散々キレ散らかしてから涙を流したエピソードが拾われた。
ちなみにこの回に登場した涙を流すルドルフの写真の撮影者である今井寿恵氏については、同じく『新』のトウカイテイオー回で詳しく紹介されている。
メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも出演。「威厳に満ちながらも気さくで優しいけど童顔で何故か壊滅的なセンスのダジャレばかり披露するトレセン学園の生徒会長」として描かれている。詳しくは当該項目参照
勝ち方を極めたい。
「この馬を初めて見た時、いずれクラシックを制する馬だと思いました」
「岡部君にも ルドルフは、ずーっと君が乗らなければいけないよ と言ってきました」
「1000mの新馬戦で1600mの競馬をさせ」
「1600mの いちょう特別 では府中の2000mを意識して乗ってもらいました」
「もちろん岡部君も合意の上で」
「デビュー前から常にルドルフは負けない、と言い続けてきたのも」
「我々はこの馬の並はずれた素質に最初から気づいていたからです」
「ルドルフは人知を超えた馬」
「この馬を授かったこと自体が奇跡なんです」
「五冠を達成(当時)、史上最強馬としての名声を得たルドルフ」
「より見事なレースぶりでみなさんの期待に応えさせたいと思っています」
野平祐二調教師談
――JRA ヒーロー列伝 No.17 シンボリルドルフ
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- 中山2500で勝てる馬はそうはおらんやろうな…ほ -- 名無しさん (2021-10-21 06:17:50)
- 一番好きな馬なのにページが薄かったので、大幅に追記しました。 -- まさてる (2023-04-30 19:08:29)
- お目汚し大変失礼しました -- まさてる (2023-04-30 19:08:52)
- ↑岡部氏が書いたんじゃなかろうなと思わされるぐらい濃厚な追記をありがとう -- 名無しさん (2023-05-06 12:42:52)
- 声に出してみると「リルドの部分がめちゃくちゃ発言しにくい子。 -- 名無しさん (2023-06-21 07:26:17)
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*2 何と当時一介のオープン馬。出走を決めた社台の吉田総帥ですら勝てるとは微塵も思っておらず当日は京都にいたほど。ただ、本馬はこの後安田記念優勝、有馬2着等の実績を残し、この勝利が決してフロックではないことを示し(、同時にルドルフの株もあげ)ている。
*3 ルドルフはこの時29歳。人間では80歳以上に相当するといわれる程の高齢である。
*4 父ロードカナロア。主な勝ち鞍は2018年牝馬三冠などで、「平成最後の三冠牝馬」とも呼ばれる。
*5 誤解無きよう補足しておくが、岡部自身はむしろディープインパクトの熱狂的なファンである事を公言している。
*6 基本的に本作では競馬関係者の名前はカタカナ表記となっている。
*7 ちなみに作者は過去の経験から「広く浅く多くの馬を愛する」をモットーとしている事を公言しており、ルドルフは数少ない例外となっている。
*8 ただし、このシリーズではかなりの名馬であってもなかなか取り扱われないというのはそれほど珍しい話ではない。他にも『新』のメジロラモーヌ回まで主役としてはおろかライバルとしてすら殆ど触れられなかったメジロ軍団や、何故か『新』のハーツクライ回でスルーされて『令和』の主役回まで出番が皆無だったディープインパクト等の様なケースがある。
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