劉表

ページ名:劉表

登録日:2020/10/24 Sat 23:00:00
更新日:2024/05/23 Thu 10:49:06NEW!
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中国史 三国志 三国演義 劉表 後漢 皇族 群雄 荊州 劉備 中立 世界史 儒者 見なかったことにしよう 優柔不断 無気力 軍閥 後漢皇族 孫家三代の宿敵 ←勝てなかったよ…… 州牧 鎮南将軍 成武侯 仮節 清流人士 プロトタイプガンダム



劉表りゅう ひょうは「三国志」の時代の人物。
字は景升。
後漢末期、荊州地方に割拠した軍閥の長として名高い。
後漢朝廷からの官職は「荊州刺史」、「鎮南将軍、荊州牧、成武侯、仮節」。




【生涯】

◇前歴

西暦142年、山陽郡は高平県(山東省鄒城市)の出身。なお鄒城市は春秋戦国時代儒者孟子の故郷である。
前漢の景帝の四子・魯の恭王、劉余の子孫とされる。
身の丈八尺(186cm)の長身で、顔立ちや立ち居振る舞いには温厚な気品と威厳があった、という。


少年時代から儒者として一流の教育を受けて育ち、太学にまで進んで大儒者として大成する。
その教育の成果で、激しい気性を見せない柔和な性格に育ち、上述の気品も相まって、周囲の声望を一身に集めたという。
他の学生たちとも広く付き合い、「八交」とか「八友」「八及」「八俊」とかいうグループ(というか私党)を組んで、互いに名声を高めあった。


ただ、そのグループ名と所属メンバーがまったく安定しないことからわかるように、これは彼らの能力が高かったことを示すのではなく、徒党を組んで互いに褒めあうことで相互に名声を高めあうという、いわば就職互助組織のようなものであった。
当時は、そうした「虚名を高めて抜擢を求める」人物が多かった。諸葛亮の「伏龍」や龐統の「鳳雛」や司馬徽の「水鏡」とか、馬良馬謖の「馬氏の五常」も、そのたぐいである。それで「中身がない人間」も多かったが、そういう時代であった。


それでも、そうした工作が奏功して、劉表たちは清流人士として名声を固めていったが、それが党錮の禁で目をつけられてしまう。
同郷の先輩をかばったことで劉表自身も摘発対象となり、一時は逃亡生活を余儀なくされた。


八年後、黄巾の乱に対処するべく党錮の禁が解除されると、劉表も大将軍・何進に招かれ、幕僚(北軍中侯)に収まった。



◇荊州へ

190年、袁紹を盟主に「反董卓連合」が起き、再び天下が大いに乱れる。
長沙太守の孫堅は連合に所属する過程で手当たり次第に攻略しつつ北上、荊州刺史の王叡も殺害した。
すると朝廷(実質は董卓)は、その後任として劉表を荊州に送り込んだ。
(董卓執政以前から、後漢では皇族を各地の地方官に送り込む政策を取っている。劉焉劉虞劉繇・劉岱などがこれにあたる)


しかし当時の荊州は、多数の地方豪族・山賊・水賊が人民を抱えて勢力を誇り、しかもそれらを袁術が背後で扇動・支援していた*1
そのため劉表は荊州の本庁・漢寿には接近すらできず、北部の宜城にとりあえず仮寓する羽目になった。


そんな劉表に手を差し伸べたのが、荊州の地方豪族の一派、蒯良・蒯越と蔡瑁たちである。
しかし彼らも、劉表を阻む地方豪族(代表者は長沙太守を称する蘇代、華容長を名乗る貝羽)とは本来同じ穴の狢。
つまり劉表の徳に感じ入ったとかいう話ではなく、単に「豪族同士の抗争に勝って、一獲千金のごとく荊州を支配したいから、劉表を担ぎ上げた」だけだった。早い話がヤクザの縄張り争いだ。
ただ、劉表の地位や名声にはそれなりの価値もある。彼の「皇族」「正規の荊州刺史」「著名な儒学者」という名声は、それ自体では何の役にも立たないが、権力と融合すれば霊妙な権威として、何かと役に立つ。


それで劉表と蔡瑁・蒯越・蒯良は手を組むことになる。
劉表は荊州事情に詳しく兵も持っている蔡瑁・蒯越らの「盟主」となり、その助言と助力を得つつ、
反対派の豪族たちに「まずは話し合いましょう、何ごともそれからです」と呼びかける。
かくして参集した豪族たち五十五人に対して劉表は……


「はい、静かに、静かに。一同静かにぃ。はい、これからあなた方を皆殺しますぅ
「手の空いた勢力圏は全て、この劉表の権力基盤とさせていただきますぅ。感謝するように」


と伏兵を差し向けて血祭りにあげた
かくして荊州豪族の勢力図に空白と混乱が起き、機を逃さず劉表・蔡瑁・蒯越らが連合して荊州に進出。
張虎、陳生など、依然残っていた豪族も、あるいは討伐してあるいは説得し、ついに荊州一帯の制圧を達成する。



同時並行して反董卓連合にも参加しているが、名目だけでありこれといって行動はない。



◇勢力拡充

反董卓連合は、連合特有の脆さを発揮して、あっけなく瓦解。
董卓も長安遷都で連合軍の矛先は免れたものの、中原への主導権を完全に喪失する。
かくして中原の情勢は、袁紹グループと袁術グループに分かれた。


劉表はこの情勢下で、袁紹と結託して袁術を背後から牽制する構えを取った。
その袁術は背後を安定させるべく、傘下の孫堅軍団に荊州攻略を要請する。
劉表軍は孫堅の猛攻を防げず、本拠地・襄陽への籠城を余儀なくされるが、劉表軍の大将・黄祖の伏兵が放った矢が孫堅に直撃、間一髪で切り抜ける。
さらに193年、袁術が自ら曹操攻撃のため出撃するとその背後を封鎖。南陽への退路を断ち、曹操に大敗した袁術を、揚州の寿春へと追い落とした。


袁術グループ最強戦力であった孫堅軍を破り、いままた袁術をも去らせた劉表は、荊州の立場をいよいよ盤石なものとする。



やがて196年には、董卓の元幹部・張済が南陽に進出し略奪を開始するが、彼もまた流れ矢にあたり戦死する。
荊州の官僚は喜んだが、劉表は
「彼は飢えて困窮して落ち延びてきたというのに、わたしは主人の礼を忘れて彼と戦い、ついに彼の死を招いたわけだ。わたしの本意ではないし、ましてや祝賀を受けるわけにはいくまい」
と述べた。
この温情ある言葉と意向が、張繡(張済の甥にあたる)を初めとする張済残党にも伝わった。
感激した彼らは劉表の傘下として宛城に駐屯し、荊州を北方から守る藩屏となった。
197年にはこの張繡が曹操軍を(一度は降伏しながらも)撃破し、曹操の長男・曹昂、側近の典韋らを戦死させる大勝利を得る。
劉表はこの直後張繡に援軍を送り、連携して曹操追討を行ったが、失意のはずの曹操軍の伏兵に襲われて返り討ちに遭った。
それでも劉表・張繡の同盟はよく機能し、以後も曹操の侵入を阻み続ける。


198年には、かねてより劉表と嫌いあっていた長沙太守・張羨ちょうせんが、長沙・零陵・桂陽の三郡を率いて反乱
対して劉表は自ら主力軍を率いてこれを討伐、かなり苦戦したが張羨が病死したのもあって討伐を果たす。
かくして劉表の勢力は「南は零陵・桂陽を収め、北は漢川に拠り、土地は数千里、兵士は十数万」といわれる、当時でも指折りの大軍閥に成長する。


荊南平定後、南に接する交州の牧・張津とのあいだで対立が発生した。199~203年にかけては兵火も交えている。
しかし交州軍は兵力に乏しく、荊州進出は果たせぬまま、張津が部下に殺されて幕を閉じる。
劉表はそれに乗じて、部下を交州刺史や蒼梧太守として送り込み交州も手に入れようとしたが、
その部下が対立したことや、曹操らの後漢朝廷も交趾太守・士燮*2を抱き込み劉表を阻ませたことで、うまく行かなかったようである。



◇中立偏安

当初、荊州は騒乱の地であった。
在地豪族はギャングのごとく抗争を繰り返し、外部からは流民がなだれ込む。庶民は豪族の支配下に収まって徴税・労役を免れ、やせ細るは国家ばかりとなっていた。
劉表はそんな荊州にあって、蔡瑁・蒯越ら豪族たちとうまく共存しあい、場合によっては鎮圧して、安定をもたらすことはできた
その乱世に見合わぬ安定にひかれて、王粲や邯鄲淳といった戦乱を避けた学者・儒者も大量に流入し、襄陽は時代離れしたサロン的な雰囲気もにぎわったという。
劉表自身、「荊州星占」などの著書があり、その成立にはそうした学者や儒者たちが関わっている。



しかしそうした荊州内治の安定に対して、劉表は荊州から進出することはしなかった


196年に献帝が長安から脱出し、曹操が擁立して袁紹と対立しだすと、劉表は献帝にも引き続き使者を送る*3一方で袁紹との同盟も維持する、という煮え切らない態度を取り出す。
それで両方を手玉に取る策略…が劉表の真意かはわからない。だが、結果としては単なる中途半端で終わってしまった。


200年に入ると袁紹と曹操の対立がいよいよ激化。
名将張繡*4が曹操に降り北の防御が失われても、「官渡の戦い」が勃発して曹操軍の圧迫が薄れても、汝南郡で劉備らが暴れまわっても、その劉備が落ち延びてきても、袁紹遺族を平定するべく曹操が五年にわたる北方遠征に乗り出しても、東で孫策が荊州防衛線を全滅させても、孫権が黄祖を討ち取っても、
劉表は頑として動かず、ひたすら荊州に蟠踞して形勢を眺めていた。


確かに、来たる時を考えて戦力を温存するのも一つの考えではある。しかし、天下の情勢は決して一定しないもの。曹操と袁紹のどちらが勝つにしても、どちらかが必ず勝つのだ。そして勝った方は負けた方を併合して強くなる。共倒れはない。
どちらが勝っても中原の覇者となる袁紹と曹操が激突しているあいだこそ、第三勢力的な劉表がもっとも自由に動ける時期であり、東西北のどこにも進出できた。
いっそのことどちらかにはっきりと味方するというのでも、高く評価されて地位を得られた可能性は高い。
にもかかわらず、劉表はどっちつかずのままただひたすら傍観していた。


内部豪族の反対が強くて動こうにも動けなかったという訳では決してない。
韓嵩・蒯越・劉備らがどれだけ諫めようとも、劉表は曹操が対袁紹戦に尽力していた七年もの間、ついに行動を起こさなかった
彼がしたことといえば、かつての張繡のように劉備を新野に駐屯させて藩屏とし、夏侯惇らの進撃を防いだだけだった。



そして、強大な国力を持っていながら、長期的なプランもなく、ただひたすら立ち尽くしているだけでは、乱世においては攻められるだけだ。



袁家残党との決着をつけ、北方を平定した曹操は、劉備らの懸念通りに目標を南方・荊州に見定める。
そして、許昌を初めとして中原を収め、いままた袁紹の勢力をも併合した華北曹操政権は、もはやどれほどの知恵があろうと正面からの打倒は不可能な存在となっていた。



◇急逝

しかし、劉表が曹操対策に頭を悩ませる必要はなかった。
曹操がいまだ到着しない208年、劉表はいきなり病に倒れ、あっさりとこの世を去ってしまったのである。享年六十七歳。


ところで劉表には子供が二人いた。
長男は劉琦で、これは先妻・陳氏(203年に没)の子。
次男は劉琮で、蔡瑁の一族・蔡夫人の子。
当たり前だが、外戚である蔡瑁も現在の正室である蔡夫人も、劉琮を立てたいと願っている。
それでなくても、蔡瑁一族は劉表を擁立した大豪族。ありていに言うと、荊州劉表政権は蔡瑁・蒯越ら荊州豪族が作り出した政権だった。


前提条件だけでも、劉琦が跡を継ぐ可能性は限りなくゼロである。
それどころか彼には命の危険さえあった。
劉琦はなんとか、劉備の幕僚諸葛亮の助言を受けて、戦死した黄祖の後任として江夏の防衛線に赴任したが、実質は逃げたのと同じである。
残った劉琮は、晴れて劉表の後釜として、荊州の支配者になった。


後に曹操の名参謀賈詡は曹操の後継者問題で劉表と袁紹の例に出して「劉表も袁紹も、長男を立てないから破滅した。長幼の序に基づいて曹丕を立てるべき」と主張した*5とされる。
だが、祭り上げられただけの劉表&その遺児と、トップとして権力を確立していた曹操では、前提条件があまりにも違いすぎたのであり、長幼の序などと言う事を言っていられる状況になかった事は留意しなければならないだろう。


そして、そのときには、もはや曹操の大軍が宛城を出て、荊州の玄関を叩いていた。


そして劉琮・蔡瑁・蒯越は、あっさりと曹操への投降を決意する。


さっきも言ったが荊州劉表政権とは、実質は蔡瑁・蒯越ら地方豪族の政権である。劉表はあくまでも盟主に過ぎない。
ということは、別に劉表や劉琮にこだわる必要はない。それが劉琮だろうが曹操だろうが、荊州を安定させて我々の身を保全してくれるなら、誰だっていい。
そして曹操は荊州に対して、別に悪い感情を持っているわけではない。豪族の大物である蔡瑁は曹操と昔話に興じるレベルの知り合いでもあった。
無駄な意地を張る必要はないし、抗っても勝てるはずもない。いや、曹操は献帝を擁立しているので「後漢朝廷への帰属」「もとから後漢帝国の官僚だったのであり、その本分に帰す」を大義名分とすれば、むしろスムーズに勝ち馬に乗れる。


ここに、蔡瑁・蒯越ら荊州首脳部は特に戦うこともせず曹操に降伏。劉表の19年の統治が幕を閉じた。


……ただしその後、曹操軍が赤壁の戦いで敗北したため、荊州は「乱世のオアシス」から、曹操・劉備・孫権が激しく争う「乱世の最前線」になってしまうのであるが。


【評価】

劉表は儒者として有名であり、そちらの教養や気品は高く評価されている。
必要とあれば果断な措置を取れるし、殺しを忌んだりもしないのだが、あまり強い野心があるわけでもないのか、やたら優しいエピソードも多い。
どうも年齢を重ねて権力欲が薄れていった節もあり、実権を握る蔡瑁・蒯越らを除こうとはせず、彼らが劉琮を擁立したがっているのを察して、その成り行きに任せようと思っていたようだ。


ただ、曹操が七年にわたって河北攻略に没頭していた唯一無二の時期に、ひたすら拱手傍観して太平楽を決め込んでいたのは、やはりいただけない。
政治家としてはそれでよかっただろうが、群雄としてはやはり彼の対応は的確とはいいがたく、結局彼の死後、荊州はバラバラに分断されて三国時代における最前線になってしまうのである。


「わたしは、内には職責を失わず、外には盟主に背かず、以って天下の大義を実践している。そなたは、なにを怪しみ諫めるのだ?」
とは、曹操・袁紹間の中立政策を批判されたときの反論だが、劉表の中途半端さがどことなく漂っている。



また軍事能力が意外と悪いようで、正面決戦を展開するとたいがい圧倒されている。
それでも、袁術・孫堅・孫策・張済・張羨などを打ち破ってはいるのだが、

  • 袁術は背後を断っただけで正面決戦はしていない。倒したのは曹操
  • 孫堅・張済は矢が命中したから勝てたが、戦術レベルでは押されていた
  • 孫策が攻め込んだときは黄祖の防衛線がほぼ全滅、孫策が後で暗殺されたから助かった
  • 張羨が病死するまでは勝てなかった

など、軍事手腕で勝ったというよりも運が味方したようなところがある。


また守りには強いが攻めるには弱く、

  • 張繡に撃破された曹操軍を追撃すると伏兵で返り討ちにされる
  • 交州を狙って策略を巡らすとことごとく失敗する

と、荊州からの進出はたいてい失敗している。
上記した中途半端な外交も、それで懲りてしまったとも取れる。
勝ち戦の運も実力の内といえばそうなのだが、幸運を当てにする訳にも行かないという立場そのものは間違いではない。



そのため後世には、優柔不断で軍事手腕に欠けると評されている。それが、ある意味「儒者のイメージ」に合致しているのも、彼をそう認識させる遠因ではあろう。


もっとも、なんだかんだで生涯通して荊州は守り通しており、防御には強かった節もある。
東は孫家・西は劉璋・南は張羨・北は張済と敵に囲まれながらも、最終的にすべて撃退できた。
群雄としてはそれなり以上の力量と存在感はあったわけだ。少なくとも、なにもできずに散っていった劉岱や袁遺よりは大物である。



余談だが、劉琮や蔡瑁たち降伏組は演義では赤壁前後に殺されているが、史実ではいずれも曹操政権で重用され、高い地位に登っている。
劉琮は降伏直後に青州刺史になる。これは名目だけだったが、その後も清廉さを評価され、諫議大夫・参同軍事になったという。ただ曹操は「孫権に比べれば家畜のようだ」とくさしたが。
蒯越に至っては、曹操が「荊州を手に入れた事より蒯越を手に入れたことの方が嬉しい」と言うほどに評価されていた。


乱世の英雄とはなりえなかったにせよ、家族や旧臣が大国でそれなりの地位につけたというのは、むしろ幸せだったといえる。
また、演義では触れられていないが、蔡瑁と組んだ張允は、劉表の甥(姉の子)である。



【三国演義の劉表】

孫堅が、反董卓連合に所属しながらも玉璽をネコババしたことで袁紹と決裂すると、本拠地の長沙に帰ろうとする孫堅を阻むべく、袁紹の依頼を受けて荊州軍を率いて立ちはだかる場面で初登場*6
演義では、前任の荊州刺史を孫堅が因縁つけて殺した話、劉表が在地豪族をだまし討ちにした話などがカットされており、最初から荊州刺史であったように見える。
その後は孫一族との戦いや、張繡と組んで曹操を追撃する場面などでちょくちょく登場。史実からして荊州圏だけしか活動しないため、袁術や呂布ほどの活躍はない。


劉備が荊州に落ち延びてくると、現地の支配者として本格的に登場する。
演義では「品はあるが優柔不断」という史実の評価に加えて「お人好しで優しい」点が強調されている。
実権を握る蔡瑁が劉備を毛嫌いしており、暗殺まで行うのだが、劉表は蔡瑁の策略を止められない反面、劉備への信頼と交誼を無下にもせず、最後まで彼をかばう。


一度、蔡瑁が劉備の野心むき出しの詩を偽造した際は、その場では「劉備め許すまじ!」と激怒したが、
数歩歩くと「いや? 劉備は確か詩を書けなかったはずだな?」と思いいたり、「そうか、蔡瑁の策略だな!」ということまで読みつつも、
蔡瑁の権力を思い起こして「さりとて今さらどうしようもなかろう……」と悟り、
すべて呑み込んだうえで「なかったことにする」という、聡明な一面も見せている。


ただし悲しいかな、非活動的な人物であることは史実と共通しており、
十分な実力がありながらも外征を行わず後手に回り続け、劉備も人柄には敬服しつつも、彼の動かなさにはじれったさを感じていた。


死後は息子たちが曹操に降伏するのは史実通りだが、劉琮は暗殺され、蔡瑁は周瑜の策略にはまって内通を疑われる形で殺されてしまう。



総じて、演義の劉表は、正史の記述から血生臭いエピソードを抜き取り、晩年(劉備帰投後)をベースに、
「個人としては優しく聡明であるが、半端に枯れて優柔不断な面があり、蔡瑁・蔡夫人など周囲の動きに翻弄されてしまう人物」
として完成している。



【各作品】

  • 横山三国志

基本的に演義と同様。
蔡瑁が劉備を嵌めようと門に野心たっぷりの詩を書きつけた時には劉備が詩を嗜んでいなかったことを思い出し、剣で詩をガリガリ削りながら一言。
「何も見なかったことにしよう」


  • コーエー三国志

恰幅のいい中年男性として描かれる。なぜか鎧を着るグラがほとんどない。
勢力のイメージカラーは水色。勢力相性は劉備と曹操の中間にあり、孫権とは真反対。


軍事能力は中の下だが、知力は70前後、政治力と魅力値は80台と、内政面はそこそこ。
袁紹同様、数値は低くなくバランスもいいのだが、特技を含めて突き抜けたところを感じられない、絶妙なバランスである。


ただ難儀なのが軍事能力の低さ。
劉表本人の低さは君主なのでまだいいとしても、配下まで文官向けの人材が多く、優秀な武将・強力な猛将が非常に少ない。
黄忠はともかく武力・統率力80どまりの文聘がナンバーツーというのはあまりにも薄すぎる。
というか、その文聘を含めて「文官業務もできる武官」が大半であり、武官特化型は非常に少ない。
魏延邢道栄がそれにあたるが、前者は義理が低くて引き抜かれる可能性があるし、
後者はかませそこまで頼もしい武勇の士では無い。それでも「斬れっ」とは行かないのが劉表軍の層の薄さ
在野の武将を探そうにも、猛将タイプはほとんど孫呉系のため、勢力相性が悪すぎる劉表政権には居ついてくれない。
開始年代によっては甘寧が所属している場合もあるが、それは甘寧が去って行く歴史イベントを見るためであり、ゲーム開始後ほどなくして勢力からいなくなる。
ただ、在野に眠る諸葛亮龐統徐庶らを得られれば、計略面では大きく戦力強化できる可能性もある。
呂布軍や馬騰軍などの「強力な武将は多いが内政役や参謀が少ない」というパターンとは真逆に位置する。


ぶっちゃけ最適解が新野にいる劉備軍を速攻で滅ぼして関羽・張飛・趙雲らの勇将を配下にするという方法なのだが、それをやったら劉表のイメージが台無しと言うか、
それなら劉備軍でプレイして劉表軍を滅ぼせばそれ以後の展開は同じだし、イメージもあまり損なわない。


プレイヤーからの人気はあまり高くないのか、劉表勢力のプレイ日記は少ない。
曹操や劉備のような主役級ゆえのとっつき易さもなければ、厳白虎や公孫恭のように詰みに等しい状況をひっくり返すやりがいも無い、微妙な立場のせいか。
劉表がCOM操作でないと見られない歴史イベント(劉備の雌伏関係や甘寧亡命、荊州分裂など)も多いのでなおさらである。



  • 三国無双

2より登場するが、いまだにモブ武将。孫呉の宿敵で劉備の恩人なのにモブ武将。
基本的には孫呉シナリオの序盤、荊州の戦いにて敵総大将として登場するが、初登場の2では汎用のボイス以外の台詞がなかったり(ステージ内で喋るのは終始蒯良)、3では開始早々孫堅から罵倒されたりと扱いは余りよろしくない。
6では魏シナリオの宛城の戦いにて、張繍軍の同盟相手として劉表軍が敵援軍として登場するが、劉表自ら出陣というシチュエーションに加えて邂逅台詞の「私としたことが……。立場も忘れ、勝負に興じてみたくなったわ*7のコンボによりやたらとアグレッシブな劉表を見ることができる。


虚名を駆使して乱世の群雄を遠隔操作し、以って覇を唱えんとする奸雄。普段は温厚篤実な君子として振る舞っているが、時折すさまじい邪悪さやゲスな本性を剥き出しにすることも。
しかし、実は天下への野心などは持っておらず(あるいは諦めており)、謀略を弄んで天下に挑んでいる気分を味わっているだけというのが彼の正体。
しかも本人は半分自覚していなかったそれを諸葛亮に暴露されてしまう。
さらに、文化事業も「己が文化の一部となることで永遠の存在になる」という意図が隠されていたが、それも「劉表ごときでは無理」とこきおろされ、覇気がしぼんでしまう。
そのまま死亡した劉表は、かつての恰幅の良さなど見る影もないほどにしなんでいた。
……といっておきながら、のちにその諸葛亮自身も虚構の世界で謀略を弄ぶだけの存在で、現実に立脚していないことを突き付けられてしまい、打ちのめされるという、ものの見事な[[ブーメラン>ブーメラン]]も炸裂するのだが


なお史実の劉表は186cmの長身だが、蒼天の劉表は最初から小柄。
また諸葛亮との対談直前に「最近やたら尿が近い」と呟いていて体調が悪かった模様で、そこに諸葛亮の言葉で止めを刺されたような格好となった。



  • 恋姫†無双

名前は出るが本人は未登場。黄祖は出たのに。


  • 三国志大戦

雑多な勢力が纏められた「他軍」に配置され、最初期から登場。なお黄祖は他軍だが蒯越と蔡瑁は魏軍。
晩年頃の雰囲気を纏っていて平和が一番とか言っており、守り切った手腕と風評からか防柵・魅力の特技も持たされている。
だが計略の「指鹿為馬の計」の効果が直接戦闘に関与しないからか内容が凄まじく、諸葛亮も司馬懿も周瑜も等しく知力0のアホに早変わりしてしまう知力-10という強烈な効果に加え、大きな効果範囲と低い消費士気を持つためいろいろなコンボが出てきた。
特にホウ統の「連環の計」と組み合わせ、試合の4分の1ほどの長時間全く動けずほぼ棒立ちにさせられる「馬鹿連環」が代表格で、他に一発当たれば絶対即死の「馬鹿落雷」などもあった。
決まれば相手の方が馬鹿らしくなってしまうのは流石に問題があったためか、3で漢勢力に再配属されたついでに計略も「荊州からの援軍」という割とシンプルで使い勝手が悪い回復計略にされた。
魅力も取り上げられてしまい、表情もとても暗い。


リブート後も漢勢力に配置されたが、今度は壮年頃の謀略家の雰囲気を醸し出していて再び知力を下げる計略を持たされている。
防柵と引き換えに魅力を取り戻したが、肝心の妨害計略同士のコンボが大幅に弱体化したことや他に有力なライバルが多いことからイマイチパッとしない。


演者はプロトタイプガンダム
漫画版では名前が出た直後に、配下の蔡瑁アッグガイ&黄祖ゾゴック裏切られて暗殺されたことが発覚し、影も形もないまま退場するという悲惨な扱い。
ただ孔明から立派な人物と評されたり、同じく配下だった黄忠&魏延からは慕われて蔡瑁への敵討ちを果たしてくれたりと人格者として描かれていたのが救いか。
アニメ版では遂に本人が登場したものの、史実の「優柔不断」という面が殊更強調されてしまい曹操軍が進撃してきたのを知るや否や即座に逃亡してしまった。それ以後出番なし。
こちらでは死なずにこそ済んだものの、漫画版での描写から人格者としての劉表の登場を期待していたファンを心底ガッカリさせた。





「わたしは、内には追記・修正を怠らず、外には利用規約に背かず、以ってアニヲタWikiの大義を実践している。そなたは、なにを怪しみ諫めるのだ?」


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  • 最近はアレコレと暗殺事件の黒幕にされたり、何かと腹黒にされたりと、動かなかった事で無辜の怪物化が進行してる -- 名無しさん (2020-10-24 23:40:27)
  • 荊州は全部劉表が征圧してたもんな、四英傑がやってきたのも劉ソウが降伏した後曹操が太守として派遣したからで。 -- 名無しさん (2020-10-24 23:54:53)
  • 吉川版の温厚博学、世の賢才集まり侮りがたしに対する「それは壮年時代の定評で老いて病も患い、長所は短所となった今こそ討つべし」ってのは結構面白かった -- 名無しさん (2020-10-25 03:52:18)
  • 「袁紹と劉表の事を考えておりました」とは酷い皮肉だ -- 名無しさん (2020-10-25 06:57:36)
  • 三国時代の群雄を象徴する人物、ほしゆ -- 名無しさん (2020-10-25 18:00:10)
  • 他人を引き付ける徳の高さを持ち、頭も十分に回る…んだけど、掴みかかった重要な好機をことごとく逸しているというか、状況を好転させるチャンスを何度も目の前にしながら一歩を踏み出せず、結果ボロボロになっていくという、フランス革命の頃のルイ16世あたりが人物としては近いんだろうか -- 名無しさん (2020-10-25 18:19:20)
  • 馬鹿連環という字面の強さ -- 名無しさん (2020-10-25 18:37:46)
  • 治世の名君であっても乱世の英雄ではないって感じだな -- 名無しさん (2020-10-29 07:00:03)
  • 三国志の英傑って大体「デカい」という記号みたいに身の丈八尺と伝えられてるからなあ…関羽(周りの英傑よりデカい)や呂布(その関羽よりデカい)と言ったのもいるが -- 名無しさん (2020-11-07 08:15:23)
  • そうか、劉備は劉表にとっては張繍の後継者的な位置づけなんだな -- 名無しさん (2020-11-07 12:35:51)
  • あくまで地方公務員として自分の任された領地を守っただけなのに妙にディスりすぎじゃない? -- 名無しさん (2021-02-04 17:21:13)
  • いや、劉表は荊州のボスになってからは朝廷に収めるべき税金を私蔵し、自分で経営に使い、皇帝のみに許される儀式を行ったりしていたらしい。そう考えると「地方公務員」というよりやはり「乱世の群雄」だろう。その割に積極性がないから中途半端になるんだろう。
    それと蒯越が「平和な時は仁愛と道義を第一にする。混乱の時代は策謀を第一とする」といったらしいが、まさしくその通りで、どう考えても乱世という時代に「地方公務員の本分を守ること」は大間違いだと思うな。 -- 名無しさん (2021-02-05 10:21:31)
  • 積極性の無さは地方豪族政権だからとしか。あいつらは自分のためにしか動かんからな -- 名無しさん (2021-02-05 14:19:29)
  • 曹操には自前の戦力(曹仁曹洪夏候一族etc)があったから、反発豪族は自前の戦力で抑えられた。流浪の劉備でさえ自前戦力を抱えていた。有力な自前戦力のない劉表は流されながら舵取りをするのが精一杯だっただろう。一部の豪族が外征を支持してくれても勢力が分裂したら詰むから、外征消極派の言い分をもっともらしい言葉で支持せざるを得なかった可能性もある。外征に出ないのが問題と言うよりも、外征に出るだけの統一力のなさの方が問題だったと感じる(そんな能力持っている方がチートな気もするが)。 -- 名無しさん (2021-02-05 17:49:34)
  • この時代の名士は名声ばっか求めて中身のない連中が多かったりする。 -- 名無しさん (2021-02-14 11:11:39)
  • ↑2 そんな一般人が「チート」と思うようなができる人物こそが歴史の「英雄」と呼ばれる人物なんだろう。当時の人物で言えば、同じような立ち位置ながら豪族たちを強力に統率して幽州や河南にまで遠征した、あの袁紹がそれに当たる。 -- 名無しさん (2021-02-16 08:36:26)
  • 跡継ぎ問題で批判されるけど荊州有力者の祭家の血を引く劉綜の方が豪族たちの受けはよかった。 -- 名無しさん (2021-02-27 21:33:47)
  • もし劉備が若い頃に詩を書いてたら蔡瑁が偽造した詩を劉備作と信じ込んだ劉表がブチ切れて劉備を誅殺してたかもしれないな。でも劉備がいなくなったからといってそのまま三国志が終わるわけがなく曹操と孫権が天下を競い合う「二国志」になってたかもしれないが -- 名無しさん (2022-12-30 00:55:43)

#comment(striction)

*1 彼自身、ほど近い汝南郡の大豪族である。
*2 交州一の大豪族で、交趾のみならず交州の実質的な支配者。南海貿易で巨万の富を築いた。三国志では地味だが、ベトナム史関連では超有名人。
*3 まだ李傕・郭汜が献帝を擁立していたころから、劉表は献帝に使者を送っており、官職も与えられている。
*4 名軍師賈詡を抱え、曹操を奇襲策で危機一髪に追い込んでいる。
*5 ただし、賈詡は外様で処世術に非常に気を使っていたため、遠回しに「劉表と袁紹のことを考えていた」とだけ言って曹操に自身の主張を悟らせた。
*6 なお、反董卓連合には史実では参加しているのに、演義では参加していないことになっている。
*7 なお、劉表固有の台詞という訳ではなく、君主系モブ武将共通の汎用台詞。

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