十大弟子(仏教)

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登録日:2016/12/30 Fri 02:19:52
更新日:2024/02/01 Thu 13:56:12NEW!
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■釈迦の十大弟子


ゴータマ・シッダルーダの悟りにより導き出された解脱の法が、大宇宙の創造主たる梵天の願いにより衆生にも拓かれたのが現在の世界三大宗教たる仏教の始まりとなったが、その基盤となったのが仏となった釈尊の直弟子として教えを受け、師と共に修行に励み、阿羅漢果の境地に達した500人の弟子からなる釈迦教団であり、その中心として釈尊を支えたのが、特に優れた智慧と徳を持つ10人の弟子であった。


彼らは十大弟子、または釈迦十聖、等と呼ばれ、彼ら自身が仏教経典や説話にも登場する仏弟子の規範スターとして、今日でも仏教修行者達からの熱い尊崇を受けている。
謂わば仏教版アベンジャーズ……と言うよりは、仏教版X-MENと覚えておこう。


【十大弟子の一覧】

※梵:サンスクリット語
※巴:パーリ語


■智慧第一 舎利弗しゃりほつ(舎利子)

梵:シャーリプトラ
巴:サーリプッタ
仏の智慧に於いては、右に出るものが無かった。


弟子達の中でも特に釈尊の信頼の篤かったとされる弟子で、上首リーダーとして釈尊に代わって弟子達の説法を任される事もあったと云う程の智慧者。
日本でもお馴染みの『般若心経』で“しゃーりーし”と繰り返し名前を呼ばれているのが彼である。
舎利弗は親友の目犍連と共に、特に釈尊の片腕たる二大弟子とも呼ばれる。


マガダ国の王舎城(ラージャグリハ)北のナーラカ村(ナーランダー)のバラモンの家に生まれる。
本名はウパティッサ。
シャーリプトラとは“シャーリーの弗=子”と云う意味であり、それを音写して舎利弗しゃりほつ、プトラのみを漢訳して舎利子しゃりしとされた。


若き頃より悟りを求め様々なバラモンの下を訪れて話を聞いていたが、そんな中で最初に釈尊の弟子となった五人の弟子の一人であるアッサジ(阿説志)比丘と出会い、彼を通じて語られた「諸法は因より生ず。如来は其因を説きたまふ。諸法の滅をも亦。大沙門は此の如く説きたまふ。(『律蔵』)」のたった四句からなる「縁起の教え」の偈を聞いただけで釈尊の教えの基本を理解し開眼。
共に修行していた幼馴染みの目犍連を誘い、共に弟子入りを決意した。


当時の二人は懐疑論を唱えたサンジャヤ師*1の高弟として弟子達を導く地位にあったが、サンジャヤの教えをとうの昔に吸収してしまい、更なる真の解脱の道は無いものかと探っていた二人の前に開かれたのが仏教だったのである。
この事で、二人が指導していたサンジャヤ教団の250の弟子もまた、全員が釈尊の弟子となった。


釈尊の弟子となった舎利弗は間もなく阿羅漢果*2に至り、釈尊の右腕として教団を支えた。


また、後の仏教説話にて釈尊への反逆者とされたダイバダッタ(提婆達多)が500人の弟子を分裂させた時に彼等を連れ戻したのは舎利弗であるとされている。*3


舎利弗は釈尊よりも歳上の弟子であったとされ、後に自らの死を悟ると釈尊の許しを得て故郷に戻り、そこで母親をはじめとした親族に仏の道を説き、その弟子にして入滅したと云う。
この話が曲解されたのか釈尊は自殺を認めていた?等と言われる場合もあるが、そもそもの死の捉え方が輪廻からの解脱者である釈尊により拓かれた仏教では一般の“それ”とは違うのである。


■神通第一 目犍連もっけんれん(目連)

梵:マウドガリヤーヤナ
巴:モッガラーナ
悟りにより得た神通力に於いては、右に出るものが無かった。


舎利弗の隣村に生まれた幼馴染みで、矢張りバラモンの家に生まれる。
幼少の頃より共に世の中を憂い、長じてからは二人で世の救い(自分の救いではない)を求めて僧の道に入った。
舎利弗と同じくサンジャヤ師の高弟として教団を率いる立場にあったが、舎利弗が釈尊の教えの一端に触れて真理の道に到ろうとしているのに気付き、自らも釈尊の弟子となった。
既に修行の基礎があったからなのか、瞬く間に悟りに到ると、舎利弗と共に二大弟子として信頼されて弟子も指導した事から摩訶(偉大なる)目犍連とも呼ばれる。


釈尊と云うとオカルトを否定した現実主義者と言われたりもしているが、本来のオカルトは現在のように胡散臭い心霊ばかりを指す概念ではないし、そもそも釈尊の生きた時代では呪術は一般常識であり、弟子に注意を促したのも「頼まれたからって、そんなものばかりに気を取られて自分の修行を疎かにしてはいけませんよ」、と言っていただけなのである。
事実、仏教ですら最高の悟りを拓いた者は神通力を得るとされており、全知全能の神すら弟子にした釈尊は別格にしても、神通第一として名を馳せたのが目犍連であった。


※悟りを得るとみなぎる六つの力がこれだ!

  • 神足通じんそくつう

※遠い場所にも一っ飛び。

  • 天眼通てんげんつう

※少し先を予知する能力。蜘蛛男も吃驚だ!

  • 天耳通てんにつう

仏の耳は地獄耳ブッダイヤーはデビルイヤー

  • 他心通たしんつう

※心が読める。あの娘の心に自分が居なくても落ち込むな!

  • 宿命通しゅくみょうつう

※過去生(前世)が見える。他人に使うと悪徳商法と勘違いされること必至。

  • 漏尽通ろじんつう

真理を得れる。魯迅さんが痛がっている訳ではない。


目犍連は、説法により多くの衆生(人々)を教化させる一方、これらの神通力を使って教団に迫る危機をも退けた……一方で、三度の生命にも関わる襲撃を乗り越えた彼は、釈尊を憎む者達が賊を雇って襲わせるにしても、どうして他ならぬ自分が特に狙われるのかを疑問に思った。


そして、宿命通により自らの過去生を探った目犍連は絶望する事になる。
其処には目の視えない両親を疎ましく思い人気の無い場所に連れ出し、賊を装い殺そうとした過去生の己が見えたからである。


……その、愚かな想いが現世の業となっている事を知った目犍連は、盗賊に襲われた時にされるがままにされ、この四度目の襲撃により他の者ならばとても助かることはなかったと云うほどにズタボロにされた。
それでも死ぬ事の叶わなかった目犍連であったが、動けぬ身のままで神足通を用いて釈尊の下に赴き、先に涅槃に入る事を許されたと云う。
こうして、またも目犍連は舎利弗と同じく釈尊より先に入滅。
最も信頼を寄せる二大弟子に先に娑婆(現世)より去られ哀しんだであろう釈尊だったが、それから程なくして自身も涅槃に到ったのだった。
中国仏教では天道に居るかと思っていたら餓鬼道に堕ちていた母親を救うべく目犍連が釈尊から伝授された法にて救いだしたのが盂蘭盆の始まりであるとされており、その際に歓びと共に天に昇った母親がふしぎなおどりを舞っていたのが、日本で云う盆踊りの発祥とされている。


■頭陀行第一 大迦葉だいかしょう(摩訶迦葉)

梵:マハーカーシャパ
巴:マハーカッサパ
清浄な生き方に於いては、右に出るものが無かった。


摩訶迦葉まかかしょうの呼び名でも知られる大迦葉は、釈尊の入滅後に教団を率いていった人物として記録される。
この為、禅宗では釈尊に続く第二祖とされている。


マハーカッサパとは、偉大(マハー)なるカッサパ(カーシャパ)族の者と云う意味。この辺も釈尊と似ている。
本名はピッパリ。裕福なバラモンの家に生まれたが、釈尊と同様に自らの境遇に甘んじることがなく、道を求めて出家したいと願うような子であった。
そんな大迦葉に対して両親は早く妻を娶って子を為して自分達の後を継いで欲しいと迫った。
父母の願いを無下にすることも出来ない大迦葉は一計を案じ、黄金で光り輝く美しい娘の像を作らせると、この像より美しい乙女がこの世に居るのなら結婚しましょうと、無理難題を出す。


……しかし、金に物を言わせて人を使った両親はあっさりとこの条件をクリアーして嫁候補を見つけてしまった。
これを聞いたピッパリは自ら乞食坊主に化けて見に行くと、美しい娘が出て来て施しを与えてくれた。
その娘の名前はバッダー。彼女こそが嫁候補であると知ったピッパリは自らの素性を明かすばかりか、信心深い彼女に自らの本当の願いをも打ち明けた。
すると、バッダーもまたピッパリと同じ願いを抱いていたことが解り、父母を安心させるのみならず、互いを守る為に二人は結婚することにしたが、それでも決して肉体を重ねることはなかった。致すことは致した釈尊とは違う所である。


それから時が経ち、父母も亡くなってからの事。
二人は互いに真に求めるものを得る為に一切の財産を使用人に分け与えて暇を出すと、自分たちは乞食坊主となって何時の日にかの再会を約束し、それぞれに托鉢に出た。


そして、ニグローダの樹の下で坐す釈尊と出逢ったピッパリは弟子となり遂に悟りを得る。
そして、神通力でバッダーを捜し出すと彼女もまた尼僧として釈尊の教団に加わったのであった。


大迦葉は教団に入った後も着の身着のままで乞食による施しを受けながら、財産への執着を持たない修行(頭陀行)を貫いたと云う。


■天眼第一 阿那律あなりつ

梵:アニルッダ
巴:アヌルッダ
真理を視ることに於いては、右に出るものが無かった。


釈尊の一番上の従弟。
釈尊の説法の途中で居眠りをしてしまい、それを皮肉たっぷりに注意された事で釈尊の側では決して眠らないと云う明後日の誓いを立て
釈尊にも度々止められたのにやり遂げた結果、失明してしまうも真理を視る力を得た完璧肆式みたいな人。


後に、自らの衣がほころびていたのに気づき針に糸を通そうとしたが本来の視力を喪っているので上手く通せず、周囲の兄弟弟子達に「徳の高い人達よ、私を助けてもっと徳を積んだらDo-Dai?」と気軽に聞いたら釈尊がやって来てしまい、恐縮して断ろうとするも、釈尊に「徳を積んだ人と云うなら、貴方が拝む師である私より優る人はここに居ないって事なんだから大人しく徳を積ませなさい」と答えられてしまい、針に糸を通すばかりか衣まで繕ってもらった、と云う微笑ましい話が伝わる。


■解空第一 須菩提しゅぼだい

梵:スブーティ
』の理解に於いては、右に出るものが無かった。


『空』を語る『般若経』にて登場してくる。
祇園精舎を寄進した給狐独長者=スダッタ(須達)長者の弟スマナ(須摩那)の子で、その時に釈尊の教えに触れて感銘し弟子となった。


『空』の説明として語られる仏教説話にこんなものがある。
ラージャグリハで須菩提が説法した時のこと。
ビンビサーラ王はそれに感激して須菩提の休む小屋を寄進したが、施工業者が誤って屋根を葺き忘れた。


須菩提はそれにも文句を言わずに住み始めたのだが、不思議な事に一切の雨が降らなくなってしまつた。
困った人々が「尊者を濡らさない為に天が雨を降らせないのでは?」と噂しているのに気づいたビンビサーラ王は、漸く自分のミスに気付くと、すぐに小屋に屋根を付けさせた。
果たして雨が降りだすと、人々は天の恵みに感謝すると共に、須菩提の徳の高さに改めて感心したのだった。


……つまり、『空』を極めた須菩提にとっては、屋根の無い小屋であろうとも不完全でも何でもない代物であり、ただただ王から受けた供養*4に感謝していただけだったのだが、それでも天は須菩提を困らせまいとして雨を降らせなかったのであった。


■説法第一 富桜那ふるな

梵:プールナ
巴:プンナ
説法への覚悟に於いては、右に出るものが無かった。


十大弟子では最も古参とされる。
釈尊の最初の弟子となった五人の弟子の一人であるコンディンニャ(阿若僑陣如)の妹の子。
正式な名前は富楼那・弥多羅尼・弗多羅(プルナ(プンナ)・マイトラ(ミトラ)ヤニー・プトラ)といい、ミトラヤニーは母の名、プトラは舎利弗の場合と同じく“子”の意味の為に富楼那弥多羅尼子と漢訳される。


ある時、富桜那は釈尊の下を訪れて布教の旅に出たいと申し出ると、最後に教えを戴きたいと乞うた。
釈尊は応え、説法を終えた後で「何処に説法に行くのか?」と訪ねると「西の彼方のスナーパランタ国」だと云う。


スナーパランタ国の人々の気性が荒いと聞いていた釈尊はその覚悟を問うた。


「罵られ、辱しめを受けるかも知れませんよ?」
「殴らないのだから善い人だと思います。」


「殴られたらどうしますか?」
「棒で叩かれないのだから善い人だと思います。」


「棒で叩かれたらどうしますか?」
「刃物で切られないのだから善い人だと思います。」


「刃物で殺されてしまったらどうしますか?」
「世の中には自ら死を選ぶ人も居るのです。(苦しみから)殺してくれと願っている人すら居るでしょう。その時には私を悩みから救ってくれた善い人だと思うでしょう。」


と、セルフ“ムの修行”の様な解答をした。
釈尊はこの覚悟を聞いて富桜那を送り出し、富桜那は見事に西の彼方での布教を成功させたと云う。
舎利弗の質問に対して「七清浄」を説いたとされ、その教えは南伝仏教の修行論の基礎になった。


■広説第一 迦旃延かせんねん

梵:カーティヤーヤナ
巴:カッチャーヤナ
話を解りやすく伝える技術に於いては、右に出るものが無かった。


その能力を買われたのか辺境地域(アバンティ国)での説法を担当していたが、辺境の地では希望者が仏教教団に入るのに必要な「具足戒」の儀式に必要な三人の師と七人の比丘を集めるのに苦労するため、苦労して僧にしたソーナに伝言を頼み、釈尊からアバンティ国では五人の僧によって具足戒を為せることを許してもらえたと云う。
この他、土地の事情により守ることの難しい幾つかの戒を改めることも許したと云う。


■持律第一 優波離うぱり(優婆離)

梵:ウパーリ
戒律の詳しさに於いては、右に出るものか無かった。


元々は釈尊の出身でもあるシャカ族の奴隷階級の理髪師で、シャカ族の王族の若者六人が偉大なるシャカ族の尊者である釈尊に弟子入りする為に旅立った際の従者であった。


途中で若者達に帰るようにと言われたウパーリだが、おめおめと戻れば王子を弟子入りさせた事を咎められるかもしれぬと思い、若者達の先回りをして釈尊に逢うと弟子入りを懇願して許された。


その後、六人の王子も到着したが、彼らは何も言わずに釈尊や他の仏弟子のみならず、兄弟子となった優波離にも礼拝したと云う。
仏教教団ではカースト制度を否定していた事を伝える説話であり、後に優波離はその知識を活かして律蔵を編纂する責任者となったと云う。


■密行第一 羅睺羅らごら

梵:ラーフラ
規律を守ることに於いては、右に出るものが無かった。


釈尊の実の子であり、十六羅漢にも数えられる。
名前の意味は“障害”であるとして知られるが、他に“日食”や“月食”の意味もあるとされ、シャカ族が日月を信仰していた農耕民族であった事を考えると、どちらにせよあんまりいい意味ではないとも言える。


幼い頃より本音では出家したくて仕様がなかった釈尊が、自分を王家に留める為に作るのを薦められた息子が生まれた時に思わず呟いた「ラーフラ」と云う言葉が祖父のシュドーダナ王(淨飯王 )に伝わり、そのまま名前にされてしまったと云うのは有名な話。
……が、釈尊は羅睺羅が生まれてすぐに家を飛び出ているので、付けられ損とも言える。てか、言葉が通じない外国人じゃあるまいし周りもそんなDQNネーム付けるなよ。
……ただし、これについては普通に周囲が喜んでいるので、実は吉兆となる名(竜の頭=シャカ族の王となる者)であるとする説もある。


また、前述のように誕生直後に釈尊が国を捨てたとして語られる事が多いものの、釈尊が国を出た時には既に7歳であったとする説や、過去生の因縁により妊娠から6年間も生まれてこれなかった、とする説もある。
※「ラーフラ」の名は、この妊娠中に母親に付けられたとも言われる。


ともかくも、父であるシッダールタが出ていってから6年の後、釈尊は仏陀となって教団を率いると、その旅の途中で故郷にも帰ってきた。
これを国中が手厚く歓待したのだが、国に置かれた妻のヤショダラー(耶輸陀羅)の一言が更なる不幸(?)を呼んでしまう。


耶輸陀羅は羅睺羅に釈尊を示し、「あれがお父様です。行って、子が親から貰うべき宝を貰って来なさい」と言い、幼い彼はその通りにした。


しかし、釈尊は耶輸陀羅がどんな思惑を抱いていたにせよ既に解脱を果たして、この世に宝など持ちようがない身……。
そこで、釈尊は自分の持つ真の宝を与えようと舎利弗に命じて羅睺羅を出家させてしまった。


これを知った淨飯王と耶輸陀羅は嘆き悲しんだと云うが、時既に遅し。
仏(釈尊)の決定には逆らえないので、淨飯王は以降は父母の許しなく出家させるのはやめてくれ、と懇願して約束して貰い、更に後には耶輸陀羅も尼になったと云う。


羅睺羅には舎利弗と目犍連が付いて修行を見たが、まだ幼いので戒を受けられず見習いのままだった。
そんなある日の事、羅睺羅が便所に寝ているのを釈尊に発見されると云う事があった。


と云うのも、当時の仏教教団では年長の修行僧には個室が与えられていたのに対し、
若い比丘は在家の信者と共に大部屋に寝かされていたのだが、大部屋は大勢の寝言やいびきでうるさく、この改善を訴えられた釈尊はせめてもの足しになればと、比丘と在家信者も別れて寝るようにと言っていたのである。
そして、そのどちらでもない羅睺羅は寝床探しに忙しそうな周囲の者にも事情を聞けず、結局は規則を守れる場所として便所に寝ていたのだった。


これを知った釈尊は自分の息子すら放って置かれてしまうことに呆れて、見習い僧の面倒を最初は比丘が付いて指導し、自分で寝床を確保出来るようにすること、との新しい規則を加えた。


一方、しっかりと規則を守った羅睺羅は称賛され、当初は周囲から特別扱いされたりするも自身は仏の子であることを鼻に掛けずに修行に励み、その学門の才もまた高く評価されたと云う。


■多聞第一 阿難あなん(阿難陀)

梵:アーナンダ
釈尊の言葉を聞いたことに於いては、右に出るものが無かった。


釈尊の歳の離れた従弟で、阿那律が出家する折に一緒に出家したと言われる。
釈尊が悟りを開いた時に生まれたともされ、その誕生を淨飯王が祝福したことから“歓喜(アーナンダ)”と名付けられた、との説も伝わる。
前述の釈尊への反逆者として描かれる提婆達多の弟である。


釈尊に25年、乃至は40年も仕えて身の回りの世話をしたと云うが、釈尊が姿婆に居た頃には悟りを得る事が叶わなかった。
美男子であることから常に女難に悩まされたものの、彼自身は真面目に修行をやり遂げようと苦労したらしい。


阿難の名が重要なものとなったのは釈尊の入滅後である。
残された弟子達は釈尊の正しい教えを纏めた仏典を作ろうと思ったのだが、未だ悟りを開いていないと言われつつも、毎日その言葉を聞いていた阿難を会議に加えることを長老の大迦葉は主張し、反対派にも認めさせたのである。
この抜擢に対し阿難は自分の修行が成っていないことを恥じて深く悩んだものの、正に会議が開かれるという朝に遂に悟りに至ったと言われる。


こうして王舎城の郊外、七葉窟にて始まった会議では大迦葉が議長となって、阿難が教えを纏め、優波離が戒律を纏める形で進められた。
これに弟子達が理論付けを行い普遍的な物としていく事が進められ、所謂これが『経蔵』『律蔵』『論蔵』からなる『三蔵』となった。


こうして、「第一結集」として解脱者たる釈尊とその弟子達と云う形態を越えて普遍的な教義を得た仏教教団は存続すると共に更なる拡大をしていく事になるが、その会議の中で阿難が「細かい戒は世尊(釈尊)は廃止してもよいと言っていました」と発言したのだが、その細かい戒とはなんなのかを阿難は把握しておらず、責められるという事があった。
この“小小戒の是非”を巡る議論はこの時は流され“250の全ての戒を守るべし”と、されたのだが、110年程も後の「第二結集」の時になって、この戒律の内の10の事柄について時代とそぐわない部分(特に金銀貨幣の価値の変化に伴う布施の在り方)について議論が別れ、これが長老派の上座部と、実際に布教を行っていた大衆部の分裂を引き起こし、やがては仏教そのものが
上座部仏教と大乗仏教と云う二つの流れへと帰結していく事になる。


……つまり、阿難が全ての原因だったんだよ!


ΩΩΩ<ナ,ナンダッテー


この他、阿難に纏わる逸話としては釈尊の乳母である義理の母親のマハーパジャパティ(摩訶波闍波提)が淨飯王の死後に自らも出家したいと申し出て釈尊に断られた時に、同じ思いを抱いて髪を落として托鉢僧姿となって釈尊を追った摩訶波闍波提、以下のシャカ族の女性達の姿を見て釈尊に何度も進言して女性の出家を認めさせたと云うものがある。そりゃあモテるわ。
同じシャカ族出身の阿難ならではの話とも言えるが、実はこの話は後世に付与されたもので釈尊自身は男女の区別なく出家を受け入れていたが、釈尊の死後の仏教教団にて女性を修行の妨げとなるとして排斥する傾向が強まり、後には女人禁制の掟が生まれていったのだともされる。釈尊の域に達するのは矢張り凡人には難しいことなのである。


……さて、本人の思っている以上に後の世での禍根を遺したとも言えなくもない阿難だが、その後は大迦葉の後を継いで教団を率いる者として国を跨いで尊崇を集めた。
しかし、自分の入滅後に遺骨を巡って争いが起きると思った阿難は120歳となった死の間際に、現場に訪れたマガタ国の阿闍世王とヴェーサリー国の離車族が見守る中でガンジスの中洲より空中に舞い上がり、自ら炎と光に包まれて爆発四散し、両国に均等に遺骨をバラ蒔いて散った……と云う伝説がある。


禅宗では大迦葉に続く第三祖として捉えられている。




追記修正は阿羅漢果の境地に入ってからお願い致します。


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  • ドラゴンボールめいた死に方をしたアナンダくんは自爆系宝具持ちのサーヴァントの適正があると思うよ -- 名無しさん (2016-12-30 03:46:02)
  • 仏教版12使徒みたいな感じだな -- 名無しさん (2016-12-30 04:28:32)
  • ↑一応こっちのが古いし師匠を裏切ったりもしてないけどね。 -- 名無しさん (2016-12-30 05:26:53)
  • 悟れ!アナンダ -- 名無しさん (2016-12-30 06:43:40)
  • …思ったより人間臭い人たちばかりだな -- 名無しさん (2016-12-30 18:13:44)
  • ↑2ダイバダッタがユダ枠なんじゃない? -- 名無しさん (2016-12-31 04:02:47)
  • 仏教の十大弟子の項目があって十二使徒の項目がないという -- 名無しさん (2019-05-13 14:16:07)
  • あなりつと釈尊のやり取りが微笑ましくて笑い出たわ -- 名無しさん (2023-01-30 12:11:17)

#comment

*1 ※六師外道の一人サンジャヤ・ペーラッティプータ
*2 ※初期仏教教団では仏(釈尊)と同じ境地。
*3 ※ただし、提婆達多を悪人とするのは教団に残った者の一方的な見方であり、本来の提婆達多は教団の規律の乱れを指摘し、その締め付けを進言しただけだったと云うのが真実であったようである。よって、この説話も創作なのだろう。じゃなきゃレインボーマンの師匠になんかなれないし。
*4 ※この頃は援助程度の意味。

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