デビッド・クルサード

ページ名:デビッド_クルサード

登録日:2012/03/27(火) 00:09:56
更新日:2023/11/20 Mon 11:02:32NEW!
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デビッド・クルサード(David Marshall Coulthard)は1971年3月27日生まれのイギリス・スコットランド・トゥインホルム出身の元F1ドライバー。



■チーム遍歴

1994年~1995年 ウィリアムズ
1996年~2004年 マクラーレン
2005年~2008年 レッドブル



■来歴

F3000時代から速さを注目され1990年頃から度々F1のテストドライブに参加。その間にマカオF3優勝や国際F3000に出走。


1994年はウィリアムズのリザーブに就任。レギュラードライバーのアイルトン・セナサンマリノGPで逝去後のウィリアムズのシートに座る。
度々チームメイトのデーモン・ヒルを脅かす速さを見せつけ、翌年のレギュラーシートを獲得。
第13戦ポルトガルGPではポールポジションから初優勝を遂げ、トップドライバーの一員となった。


96年からはマクラーレンに移籍。中段より上程度の活躍だったが、翌年は開幕戦のオーストラリアGPでチームに久しぶりの優勝をプレゼント。更に第14戦イタリアGPではジャン・アレジと競り勝つなど勝負強さが話題になった。


1998年はチームメイトのミカ・ハッキネンのサポートに回り、コンストラクターズチャンピオンにも貢献。マシン開発の高さもチームや当時タイヤを供給していたブリヂストンから高く評価された。


99年も同じ様なシーズンを送るが、度々ハッキネンに同時討ちや第12戦ベルギーGPで優勝するなど「ナンバー2」ではない(と思える)アピールをした。


2000年はモナコを初制覇。中盤にハッキネンがつまづき、ミハエル・シューマッハとチャンピオン争いをしていたが、ハッキネンが復調してからはフェードアウト。


2001年はようやくチャンピオン争いに加わりシューマッハを苦しめた。しかし度重なるトラブルに足を引っ張られ肝心な所でポイントを落としてしまい、チャンピオンはシューマッハの手に渡るものの自信最高のシリーズランキング2位に。


2002年はチームメイトがキミ・ライコネンとなりチームのエースになったものの地味に扱われ、翌2003年も開幕戦で勝利してからまるで良いところ無しでライコネンにもシリーズランキングで負けてしまう。
更に2004年はシーズン開幕前にファン・パブロ・モントーヤが来年からチームへの移籍を発表。この年のマシンの出来も良くなく、そのせいか、更に地味な争いしか出来ずに予想通りチームから解雇される。


しかし2005年シーズン前テストでジャガーを買収したレッドブルが経験のあるドライバーを探していたところ、クルサードに白羽の矢がたった。
テストのタイムは上々で、新車のRB1も堅実な仕上がりに。
開幕戦のオーストラリアGPでいきなりポイントを獲得。そこから2戦続けてポイントを獲得。前年のジャガー時代を思えば上々過ぎる結果に「春の衝撃」と言われた。


2006年はフェラーリエンジンを搭載。ところがトラブル多発でろくに完走が出来ないでいたが、第7戦モナコGPでは3位を獲得。表彰式ではスーパーマンのマントを着けて話題を作った。


2007年からはルノーエンジンに換装し信頼性が向上。更には前年にウィリアムズ、マクラーレン時代からの付き合いのエイドリアン・ニューウェイの引き抜きにチームが成功し、ニューマシンRB3は競争力を増した。
しかしチームはマーク・ウェバーを中心とし、クルサードは開発等で重宝された。


2008年も専らウェバーのアシストの形が多く、目立つリザルトは第7戦のカナダGP3位表彰台ぐらいだった。
そしてこのシーズンを最後に現役引退をする。


引退後はDTM(ドイツ・ツーリングカー選手権)にも出場していたりしていたが、現在はDTM参戦と並行して担当していた英国放送協会(BBC)のF1中継における解説者として活躍。2018年にはF1解説者としての立場でF1パドック殿堂の第1回表彰者に選ばれた。
また、2018年には、新たに女性限定のフォーミュラカーレース「Wシリーズ」を立ち上げ、エイドリアン・ニューウェイらと共に運営責任者に就任した。
「Wシリーズ」はシリーズを支援していた投資家との契約が急遽打ち切りになった影響で2022年限りで終了してしまったが(※後継シリーズとして「F1アカデミー」が立ち上げられた)引退後も積極的にF1の世界に携わっている。


■余談

現役時代のはミハエル・シューマッハといった強大なエース格のライバルや、自身のチームでもハッキネン、ライコネンがエース格扱いされてその影に隠れてしまったりと不遇だったが、関係者では彼の実力も評価しており、ブリヂストンの浜島裕英はタイヤ開発能力を「ミハエル・シューマッハ、星野一義と並ぶ程だ」と評している。
ただ一方で、速さにはムラがあったりする事を指摘されており、
ジャーナリストの今宮雅子は「貪欲にワガママに人のものを奪ってでも勝つ、と言う姿勢がクルサードには足りないのかも知れない。しかしだからこそ、どんなドライバーと組んでも仕事が出来てチームに貢献出来る、故にずっとトップチームで走る事が出来た」と評している。


紳士的な見た目とは裏腹にプレイボーイで、過去3人の女性と関係を持っていた。


好きな色は茶色。最後のレースに出たマシンの色も茶色にペイントされ、ドライバー達から記念の寄せ書きをプレゼントされた。


2000年の第4戦イギリスGP後に飛行機事故に遭ってしまい肋骨を骨折したまま次のレースに参戦し表彰台を獲得。体力にも自信があり、レース後にあまり汗をかかないタフなドライバーの一人だった。


顔の輪郭が四角く日本2ちゃんねるでは「ペヤング」の愛称で呼ばれる。そこから「まろやか」やブレの少なく紳士的な性格からか「先生」とも呼ばれている。
ちなみに、彼の母国であるイギリスでは「食パン」(sliced bread)と称されるそうな。


96年のモナコGP予選でヘルメットにトラブルが発生(シールドに問題があったらしい)し、当時フェラーリに在籍していたシューマッハにヘルメットを借りて走行した。メインスポンサーが同じマールボロだった為実現が出来たが、現代では考えられない出来事である。


経営者としての一面もあり、モナコでは友人2人でホテル・コロンバスを共同経営しており、レッドブル時代には、TBS系列で放送されていたバラエティ番組『世界バリバリ★バリュー』に出演、現役F1ドライバー兼実業家として紹介され、番組中で自宅や経営するホテル等を披露している。



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  • 3つのチームを渡り歩き、その全てのチームでニューウェイと組んでいる。実はペヤング先生と空力大王こそがF1最強のコンビなのかも知れない -- 名無しさん (2015-01-05 22:26:58)

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