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更新日:2024/02/06 Tue 11:10:40NEW!
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司馬懿(しば-い)(179~251)
字は仲達。後に宣帝、あるいは晋高祖などと呼ばれる……ことはあまりない。
河内、温の人。
あの諸葛亮のかませ犬にして永遠のライバルあと首が180度回る人として有名な、「三国志」の人物。
また子孫が晋を建国したため王朝創始者として扱われることもあり、正史「三国志」では一貫して「司馬宣王」と書かれている。
【若い頃】
出身は河内郡(今で言う河南省)で、生家である司馬家は同地の大豪族。
父・司馬防も中央の官吏を経験したが、誰もくつろいでるシーンを見たことがないという絵に描いたような頑固親父。
司馬懿を含む兄弟8人は、「司馬八達(達は○達という彼らのあざなであり、また「達人」の意味もかけている)」と呼ばれる英才揃いで、その中でも司馬懿は特に才能を知られていたという。
やはり親父の教育のたまものであろうか。
やがて成人すると郡の役人として出仕することになり、更にその才能を聞きつけた曹操からもお召がかかることになったが、司馬懿は「漢の命運は最早尽きている」と(仮病を使ったりして)これを拒否。
しかし曹操からの出仕命令はその後も繰り返され、挙げ句の果てには刺客を送られたり逮捕をちらつかせられたりしたため、ついに司馬懿もこれを承諾。中央に出仕し、文学掾*1に任じられた。
年代で言うと丁度赤壁の戦いがあった208年ごろで、司馬懿は当時30歳前後だった。
【曹操時代】
中央に仕えた司馬懿は、しばらくの間期待の若手として教職や人事部、軍参謀など様々な官職を歴任した。
またこの時期に曹操、及びその息子たちとの関係を深め、特に8歳年下の曹丕とは親友と言っていいぐらいの深い関係を築いている。
とはいえ当時の司馬懿はいまだ30代、高級官僚としてはまだまだキャリアの半ばといったところであり、また兄の司馬朗が一族代表として存命だったのでそれほど目立った活躍はない。
軍司馬(幕僚)の一人として曹操に何度か的確な献言をしてはいるが、そのほとんどは誰かとの連名であり、まだまだ「曹操配下の優秀な若手の一人」という枠を超えるものではなかった。
【曹丕時代】
しかし220年に曹操が没すると、跡を継いだ曹丕の側近として一気に大出世し、魏王国の首脳陣に名を連ねることになった。
さらに同年曹丕が献帝より禅譲を受けて魏帝国を建てると、録尚書事(実質的な宰相)の任を受け、陳羣と共に曹丕政権のトップを担う存在となる。
さらに曹丕は司馬懿に撫軍大将軍の職と兵5千を与えて軍務にも携わらせ、「私が西にいけば君は東を、私が東を攻めれば君が西を担当してくれ」と全幅の信頼を示した。
しかしそうは言いつつも曹丕は実働的な軍権は曹一門(夏侯惇・夏侯尚・曹仁・曹休・曹真など)でガッチガチに固められており、この時期はまだ司馬懿が実際に1軍の指揮を執ることはなかった。
だが226年、曹丕は突然病に倒れた。
そして自分の死期を悟った曹丕によって陳羣、曹真、曹休と共に呼ばれ、後継者である曹叡の補佐を託されることになった。
【曹叡時代】
曹叡の即位後間もなく、曹丕の死を知った孫権がいつもの火事場泥棒で江夏に攻めてきたため、迎撃の為に司馬懿も出撃。これまでのような参謀・監察系の任務ではなく、実戦の指揮を初めて執ることになった。
しかし初陣にも関わらずその采配は見事なもので、襄陽に攻め寄せてきた呉の諸葛瑾を打ち破り大勝を収めている。
この戦いで軍の指揮にも確かな手腕を示した司馬懿をよそに、曹仁、曹休、夏侯尚といった帝室一門の重鎮が相次いで世を去ったこともあり、以後彼は将軍としての活動、とくに三国係争の重要地であった荊州でのそれをメインにしていくことになる。
まず手始めに228年、蜀漢の諸葛亮が新城太守孟達の内応工作を進めていることを知ると、督荊・豫州諸軍事(荊州と豫州方面の総司令官)の職にあった司馬懿はこれに素早く対応した。
司馬懿の動きを悟った諸葛亮は孟達を急かすが「司馬懿と私の間には1200里(520km)の距離があり、到着には1か月はかかりますよww」と余裕をかましていたが、司馬懿が指揮する軍はなんとこの距離をわずか8日間で踏破してしまったという。
慌てふためく孟達の居城をそのまま包囲した司馬懿は、蜀や呉が救援に動く時間すら与えず、これをあっという間に制圧してしまったのである。
さらに230年になると、魏の大司馬曹真が蜀漢への侵攻作戦を上奏。皇帝曹叡もこれを認め、司馬懿を大将軍に任じて共にこの作戦にあたらせた。
これは蜀最大の前線基地漢中に対し、曹真の本隊が北西から、張郃が北東から、そして東からは川沿いに司馬懿が同時侵攻するという壮大な作戦だった。その動員兵力は、30万とも言われる。
……が、作戦開始早々に1か月間にも渡る大豪雨に見舞われ、侵攻はおろか部隊の移動すら全く不可能になり撤退するしかなくなってしまった。
この不幸にすっかり落胆したのか曹真が病に倒れて軍の指揮をとれなくなり、そのまま翌年に病死してしまった。
そこで曹叡は「曹真の代わりが務まるのは貴方を置いて他にない」として司馬懿をその後任に当てることを決定した。
そう、司馬懿と諸葛亮の長い戦いはこの時より始まるのである。
時に231年、司馬懿52歳、諸葛亮は50歳だった。
【VS諸葛亮】
とカッコイイ書き方をしてみたものの、祁山を巡った諸葛亮との最初の戦い(第4次北伐)では司馬懿は非常にまずい戦い方をしている。
この戦いでは司馬懿は完全に敵に主導権を握られており、柔軟に後退していく蜀軍に引きずりまわされた挙句、会戦で敗北して大損害を出してしまった。
最終的には蜀軍が兵糧不足で撤退したため大敗だけは避けられたのだが、司馬懿は張郃の進言を無視してこれに追撃を強行。それなりの損害は与えたものの、伏兵による反撃で魏軍きっての名将張郃を戦死させてしまうという悲惨な結果になった。
形の上では蜀漢の侵攻を阻止した魏の勝利ではあったものの、司馬懿にとっては非常に苦い勝利だったと言える。
司馬懿はこの苦戦の原因は魏領西部での食料供給の不安定さだと判断したのか、それからしばらくは同地の内政に力を入れる。
そして234年、司馬懿と諸葛亮の2回目にして最後の戦いが五丈原で行われた。
先の戦いで懲りたのか、この戦いでは司馬懿は部下からの突き上げにも動じず、ひたすら川を背にして陣地を固守する。
そして諸葛亮の本隊もそれと向かい会う形で布陣したため、主戦場は両軍の主力部隊によるにらみ合いとなった。
勝負を焦った諸葛亮は戦場の左右で様々な攻勢に出たり、司馬懿に女物のアクセ(衣服とも)を送りつけ「女みてぇな心してんなお前な」と挑発したりしたが、
司馬懿は逆に諸葛亮の異変を悟り、諸葛亮に仕事が集中していることも使者からそれとなく聞き出して、「諸葛亮は長くなく、その後は蜀軍は混乱に陥る」と推測して決して本隊を動かさなかった。ちなみにその時送られてきた女物の服を着てみたとか、それを以て挑発は通じないと孔明に思い知らせて血を吐かせたとかいう説もあるとか。
そしてにらみ合ったまま100日が過ぎたころ、病にかかっていた諸葛亮が陣中でついに病没。蜀軍は撤退を始めた。
司馬懿は当然追撃をかけようとしたが、推測に反し蜀軍が逆に積極的な迎撃の構えを見せると「待てあわてるなこれは孔明の罠だ」状態になってしまい、策を疑って追撃をストップしてしまった。
後にこれを知った人々は「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と諸葛亮を讃え、司馬懿を嘲笑したが、これを聞いた司馬懿は「人間を相手にするのは得意だが、死者の相手の仕方は知らないな」と笑い飛ばした。
なんだかんだで蜀の退き際に見せる姜維の意地と諸葛亮の遺した策に負けたことを認めており、だがその事に固執しない司馬懿の大らかさを表している。
【VS公孫淵】
238年になると、かつての群雄割拠時代の最後の生き残りである遼東の公孫淵が魏に対して反旗を翻した。
対蜀戦線から呼び戻され司馬懿は大尉(国防大臣)に任じられ、4万の兵を率いてこの鎮圧にあたる。
司馬懿は曹叡から作戦期間の目算を尋ねられると「まあ行きに100日、帰りに100日、戦闘に100日、休養に60日で合計1年と言うところですな」と断言。
そしてその言に違わず司馬懿はわずか1年で反乱の鎮圧に成功し、公孫淵とその一族はあっさりと滅び去ることになった。洛陽に留まっていた兄・公孫晃の一族もみんな曹叡に捕まり、誅殺されている。
この時一度目は「和議」、二度目は人質を差し出して「恭順」しようとした見栄っ張り公孫淵を「お前は降伏もできないのか?だったら死ね!」と決して赦さず、彼と彼の一族を含む遼東の成年男子7000人を皆殺しにしたうえでその首・死体を積み上げ、京観*2を作って見せしめにしたという。
ちなみに、彼が遼東の公孫氏を滅亡させたことで邪馬台国が魏に本格的に入貢し、史書・三国志に当時の倭国の詳細な記述が初めて残された…とも言われている。*3
こうして並ぶ者なき軍事の重臣として曹叡に重んじられた司馬懿だったが、239年に曹叡が若くして没すると風向きが変わってくる。
曹叡の跡を継いだのはわずか7歳の曹芳であったため、曹真の子である大将軍曹爽と司馬懿との間で魏の実権を巡る権力闘争が静かに勃発したのである。
【謀略】
最初に手を打ったのは宗室一門として内政面で強い影響力を持っていた曹爽の方で、司馬懿を更に昇進させて太傅という職に任命させることに成功した。
これは皇帝の助言役で、臣下としては最高の地位だが、官僚組織に対する直接的な権限は持たないといういわゆる名誉職である。
曹爽本人はこの処置で充分だろうと判断していたのだが、その側近からは「手ぬるい!」という声が相次いだ。
実際、曹爽は司馬懿の軍権に関しては一切手を付けていなかったため、司馬懿の保有する軍事力自体はまったく失われていなかったのである。
そして曹爽の取り巻きたちの強硬論が高まってきたことを察知した司馬懿は先手を打ち、病と称して自宅に引きこもって衝突を避ける策にでた。
曹爽側が挨拶にかこつけて偵察をよこした際も、おかゆを口からこぼしたり聞き間違いをしたりとボケ老人の芝居を打ち司馬懿だけに、徹底的に無力で抵抗の意思がないことをひたすらアピった。
これによって権力闘争は曹爽側の穏やかな勝利で落ち着くかに見えた……のだが、実権を掌握した曹爽一派の相次ぐ失策によって、状況は再び変化を見せる。
曹爽とその側近は、戦時中だというのに贅沢な生活を送り、宮廷では勝手な人事を行い、蜀漢への侵攻を試みれば王平や費禕などによってあっさり撃退され……とひたすらに失点を重ねていき、派閥外の臣下からの信望をどんどん失っていったのである。
そして249年1月、皇帝曹芳のお供として曹爽が首都洛陽を出たまさにこの時、司馬懿はついに行動を起こす。
司馬懿はまず曹爽の専横に危機感を抱いていた皇太后郭氏の支持を取り付け、曹爽罷免の命令を得ることに成功。そして洛陽の各所も制圧し、曹爽の軍や屋敷も完全に抑えてしまった。
この事態を知った曹爽は慌てふためいて戦う準備を始めたが、皇太后は「(司馬懿が)あくまで曹爽の引退を求めているだけだ」と強調したため、これを信じて素直に投降してしまう。
しかし司馬懿はそれからわずか4日後に「張当(曹爽の部下)が皇帝陛下に対する反乱の計画を吐きました」として、曹爽以下一族郎党をまとめて処刑。
ここに魏宗室の大黒柱であった曹真の家系は絶え、司馬懿は幼い皇帝を完全に手中に収めて絶対的な優位性を確立した。
さらにこの2年後には大尉王凌が皇族曹彪を担ぎあげ、傀儡皇帝曹芳を廃するクーデターを計画するが、密告によって発覚。王凌は自殺して一族はほとんど処刑され*4、曹彪もまた自殺させられた。
既に老齢と言っていい司馬懿だったがその謀才はいまだに衰えておらず、この件を口実にして魏の皇族たちをまとめて鄴(王国時代の魏の首都)に軟禁、徹底的な監視下におき、その独裁体制をさらに堅固なものにした。
こうして三国時代の「最後の勝者」の座を揺るぎないものにした司馬懿も、251年8月15日、ついに永眠。享年72歳。
葬儀に当たっては、かつての主であった曹丕同様「墓は作らず山にそのまま棺を埋めればよい。豪華な副葬品も不要」と言い残した。
【人物】
必要なら独断専行も辞さないほどに決断的でありつつも、皇帝曹叡から「臨機応変の人である」とされたように柔軟な対応力も併せ持つ、とても優秀な将軍だと評価されている。
特に公孫淵の反乱討伐に関しての戦略戦術は見事の一言に尽き、三国鼎立後において最も目立つ活躍をした人物の一人なのは間違いない。
一方で行政家としても優れた手腕を示しており、占領地行政に意を砕いて民の支持を得ただけではなく、曹叡の迷惑な建築癖を度々諫めてもいる。
また同時代屈指の農政家とも言えるトウ艾の抜擢に見られるように、農政家としての造詣も深い。
そして何より凄いのは、「猜忌にて権変多し(猜疑心が強く、臨機応変)」「内忌にして外寛(内面は非道だが、外ヅラは寛容)」と評価された策謀家としての天性の才能だろう。
4代もの君主に重臣として仕えていながらも、誰にも陥れられることなく、また主君からの深刻な疑いも買わなかったことがそれを証明している。
また司馬家はそれなりの名門ではあるが、あくまで「それなり」の地方名士に過ぎず、魏にはこれより格上の名門豪族がいくらでもいた。門閥意識が強い当時では、その出世に向けられた嫉妬は決して小さくなかっただろう。
そんな環境にも拘わらず慎重に身を慎み、それでいて支持者を増やしていき、ついに国家の実権を握るまでに上り詰めた権謀術数はまさに恐るべきものと言えよう。
ただしこの権謀家としての経歴故に、後世ではその人物に対してかなり評価が分かれている人物でもある。当時からして
「曹爽の専横は実際皇帝を脅かしていたし、曹彪も皇帝にとって代わろうとしていたわけで、それを排除した司馬懿はむしろ忠臣だし、天下の総意に沿っていた」と評価する声がある一方で、
「曹爽は収賄などの汚職に走ってはおらず、宗室に権利を取り戻そうとしていただけ。反乱の証拠なんて一宦官から拷問で聞き出しただけだし、他の件も含めてどう考えてもただの陰謀だ」と非難する声もあった。
そして後世では後者の声の方が明らかに大きく、歴史家からは(息子2人とまとめて)「不忠な陰謀家」の代名詞とされることが多い。
【晋書】
さてここで一つ重大な事実を明らかにすると、ここまでの記述の殆どは正史「三国志」に由来するものではない。
なぜかというと、司馬懿は正史「三国志」には伝が立てられていないからである。
考えてみれば当然の話で、作者である陳寿が三国志を書いたのは司馬懿の孫である司馬炎が建てた晋王朝の時代。
高祖である司馬懿について伝を立てるのは無礼な行為とされていたし、中立性を欠くとして史書の評価も下がってしまう。
というわけで司馬懿の経歴や逸話については、主に唐の時代に編纂された「晋書」による部分が多い。
……が、しかしこの晋書という歴史書、一応「正史二十四史*5」にカウントされてはいるのだが、古くから
「参考資料がありえないレベルの三級史料なんだけど」「公的文書からの抜粋ですら間違い多すぎ」「元史(元の正史)*6に次ぐひどさだろこれ」
などと散々言われ続けたポンコツ歴史書であり、ぶっちゃけ非常に信頼性が低い。
例えば冒頭の「曹操に出仕を命じられたが断り、脅されてようやく仕官した」という逸話などはその最たるもので、当時の司馬懿はヒキニートではなくて既に上計掾という地方の高級官僚である。
役所勤めがあるんだから、仮病なんか使ったって速攻でバレてしまうはずである(まあ「病気です」というのは士大夫がよく使う婉曲なお断り表現でもあるのだが)。
兄弟たちも皆普通に地方の高級官僚→中央のルートで曹操に仕えて出世しているし、明らかに不自然。恐らくおとぎ話レベルの逸話をそのまま載せてしまったものだと思われる。
また孟達討伐時に「8日で520kmを踏破した」というのも晋書が出典だが、これも現実的にはまずありえない。
近代以前の軍隊における行軍速度は15km~20km/日ぐらいが標準であり、練度の高い軍隊や強行軍でも25km/日程度、調理や睡眠の時間をとらない超強行軍でもギリギリ45km/日ぐらいが限界とされている。
万を超える大軍が65km/日の行軍を8日間に渡って続けると言うのは、もはや偉業を通り越して怪現象である。司馬懿の部下は全員が刃牙か何かか?
一応擁護として追記するが、この晋書がなぜ出鱈目史料としてボロクソ言われるようになったのかと言うと、建てられたのが晋の滅亡から最低でも220年は経っている唐の2代目皇帝・太宗李世民の時代である。220年以上も経ち、司馬氏は氏族としては存続したという記録が残されているものの当時の歴史を建国から滅亡まで一字一句正確に反映できる人間を見つけること自体まず無理があるだろう。*7
ここで諸君は問うだろう。
「そんな状態なら書かないほうがマシじゃん」
そういうわけにもいかなかったのである。
これ以上詳しく書くとまた一つ項目が出来てしまうレベルのエピソードがあるのでここでは省くが、太宗李世民は晋時代のとある書道家の作品に心酔しており、その人物の伝については自ら立てる程であったと伝えられている。
そんなこんなで史書の編纂が皇帝勅命の国家事業となったわけで、正当性は必要だし、かと言って皇帝相手に面と向かって馬鹿正直に「正確な史料がないので無理です」なんて言える筈がないのだ。
じゃあどうしろかって?
「信憑性なんざ知らん、とにかく書け」「本人と関係ある話なら何でもいい、とにかく書け」「何も無いよりはマシだ、とにかく書け」
こうして古代中国でも信憑性の低さで有名な晋書が出来上がったわけだ。首が180度回るだの米がないなら挽き肉粥を食えだの、勿論どう考えても逸話レベルの話が多数載せられているがれっきとした正史の一部として扱われている。
え?じゃあそれまで後漢書を書いた人以外の中国の歴史家たちは何をしていたのだって?
察しろ。
そもそも西晋における三国志までの様に、君主の勅命に関係なく、滅んだ王朝について次の王朝ですぐに限りなく事実に近い史料を客観的しかも可能な限り公正的に編纂できることが相当珍しい事で、
特に内乱で国がグッチャグチャなっていたあの時期においてはもはや奇跡に近い無茶と言わざるを得ない…そんな状況だったのだ。
とまあこんな感じで、今まで書いてきた司馬懿の経歴については相当に誇張や創作が混じっているであろうことをご理解いただきたい(あんまり他の史書と記述が矛盾する部分については流石に省いてある)。
【兄弟】
「司馬朗」(伯達)
司馬懿の兄。有能な官僚で県令や刺史(州の長官)を歴任。
善政で領民から慕われ、弟の実力を認めるなど人格者ぶりでは司馬懿当人も勝てないと認める人物だった。
しかし人格者が過ぎたようで呉討伐に従軍した際に疫病が流行り、部下に薬を全て分け与えた結果自分が疫病で死んでしまった。
「司馬孚」(寂達)
弟(三男)。曹叡に「俺は二人目の司馬懿を得た!!」と言われたほどの実力者。
魏への忠誠を貫き、魏から晋への禅譲の際にも最後の皇帝曹奐に「私は死ぬまであなたの臣下です」と言い残した。
司馬師や司馬昭は司馬孚が先に死ぬと思っていたのか手を出さなかったが、司馬孚が死んだのは司馬師も司馬昭も死んだ後、なんと92歳だった。
↑ここまで優秀
↓ここからドマイナー
「司馬馗」(季達)
弟(四男)。豫洲にある魯国の相。魯国というのは春秋戦国時代のアレではなく、郡そのものに皇族が封建された時に国に呼び名が変わるというもの。
そこの相とは何かというと役割は太守と変わらない、つまり魯郡太守。役職としては兄たちに比べかなり低い。
司馬懿のクーデター時にも存命で、その後の列侯バラマキ祭りで封建されることになった。
孫の司馬越は八王の乱の最終勝利者となり、一時は晋をほぼ一人で支えるような状態になっていた。
「司馬恂」(顕達)
弟(五男)。役職は九卿のひとつ大鴻臚…の側近である鴻臚丞。
列侯バラマキ祭りの頃には死んでいたので息子らにバラまかれた。
「司馬進」(恵達)
弟(六男)。役職は中郎と出世コースには乗れている。
が、列侯バラマキ祭りの頃には死んでいた。どうやら長生きはできなかったようだ。
後の八王の乱で司馬一族の大半が殺されたが、司馬進の子孫は数少ない生存組の一人として東晋で数奇な運命を辿った。
「司馬通」(雅達)
弟(七男)。役職は司隸従事で、地方官としては最高位。
バラマキ祭りの恩恵にあずかった。
「司馬敏」(幼達)
弟(八男)。本人の事績は子供がいなかったことしかわからない。どうやらかなり早死にしたらしい。
本人とは関係ないが、晋代に兄の司馬進の孫である司馬彪が遊び人すぎたため、司馬敏の後を継がせるという名目で家から叩き出されたという記録がある。
これに司馬懿を加え、「司馬八達」。上三人に比べて下五人が物足りなく感じるが官職の記録が残ってるだけでもマシな方である…。
【子供たち】
「司馬師」
後に景帝と贈名された腹黒長男。司馬懿の跡をつぎ、大将軍として権力を掌握した。
父譲りの優れた軍才を持ち、司馬家の専横に対して起こった国内の反乱をことごとく鎮圧。また自分を除こうとした皇帝曹芳を逆に廃位し、司馬家の権力が既に曹魏の皇帝のそれを越えていることを天下に示した。
司馬懿の晩年の権謀術数には司馬師が大きくかかわっていたのでは?という説もあり、陰謀家としての徹底ぶり、大胆さではあるいは父をも超えていたかもしれない。
「司馬昭」
後に文帝と贈名された外道次男。47歳で病没してしまった司馬師の跡を次いで権力の座に就いた。
決断的で凄みがある陰謀家だった兄に比べると状況に対し受動的な面が目立つが、それ故に寛大でもあり、周囲からの人望は厚かった。
一方で長年の敵であった蜀漢を征服するという大功を上げ、息子(司馬炎)世代での禅譲ルートを決定的にした。
しかし、彼の腹心である賈充の一派が父や兄でも決して手を出さなかった皇帝弑逆という大罪をやらかした*8ため後世の評判はぶっちぎりで悪く、子孫からも「こんな奴が先祖じゃ俺……東晋を守りたくなくなっちまうよ……」と絶望されている。
「司馬亮」
長生き三男。兄2人に比べ遥かに長生きだったが、実力的にははっきりいって全然頼りなかった。名前は司馬懿+諸葛亮って感じで強そうなのに。CVはもしかしたら塩沢兼人
暗愚で知られた二代皇帝司馬衷の代には司馬家の長老として重んじられていたが、皇后賈南風にいいように踊らされた挙句、同じ司馬家の人物に殺されてしまい、西晋を滅亡に追い込んだ大動乱「八王の乱」の発端を開くことになってしまう。
人格的には八王の中ではまともな部類なのだが、いかんせん司馬家でトップを張るには能力がなさ過ぎたといわざるをえない。
「司馬伷」
四男。政治家としても十分有能だったが、呉滅亡の総司令官として呉を滅亡させたのが最大の功績。
八王の乱の前に死去したが、後に東晋の祖となった司馬睿はこの人の子孫である。
「司馬幹」
色々とヤバすぎてゲームとかに出られない紳士七男。正妻張春華との最後の子にあたる。
病気で精神異常だったとも言われ、非常に特殊な性的指向を持っていたことで(イヤな方向に)有名。
他方、身の程を弁えていたのか政務には関わらず、性格は極めて純粋で欲が少なく、人事異動する時は必ず才能で選び、爵位や俸禄も自分のものとは無関係なように振舞った。
たまに意見を言うとまともな発言も多く、西晋末期では数少ないまともな人物だったと言える。
八王の乱に巻き込まれず、西晋滅亡の直前に天寿を全うした。
「司馬倫」
バカ殿九男。一応西晋第三代皇帝を名乗ったのだが、認める者はほぼいない。
腹心の孫秀と共に八王の乱での中心的人物として大暴れしたが、陰謀家・政治家としての才能は長兄や次兄には及ぶべくもなく、ひたすらに事態をエスカレートさせただけに終わった。
嘘か本当かわからないが、その身分にあるまじきことに文字すら読めなかったと伝わる。
他にもまだまだいるが割愛。
【創作作品の司馬仲達】
伝統的な三国故事(三国志創作)における司馬懿は、何と言っても「孔明の敵」という点に尽きる。
少し詳しい人なら「え?三国志の敵役って曹操じゃないの?」と疑問に思うかもしれないが、曹操の場合は何というか、純粋な「悪役」でしかなく、「強敵」と言う要素をほとんど持っていない。
つまり「孔明の知略や張飛、関羽の武勇にやられて、情けなく逃げ出す」というのが曹操の役目であり、ぶっちゃけこれでは引き立て役にすら不足なのである。
司馬懿の場合は「司馬懿は強い、でも孔明はもっと強い」という描写ができるキャラであり、孔明の知略を強調する役として、また「孔明は勝ちまくってるのになんで蜀は負けてるの?」という観客の疑問を解決する役として重要な地位を占めてきた。
1.司馬仲達(演義よりずっと前)
三国志創作において、完全な形で残っている最古のものは唐代の仏教説話集(正確にはその注釈)に乗っている「死せる孔明生ける仲達を走らす」の話で、当然ながら司馬懿も登場する。
その内容。クリックで展開
蜀漢の大将軍である孔明は、主君である劉備と共に北伐を行い、魏軍を大破して陣地に押し込んだが、そこで病に倒れてしまう。
死期を悟った孔明は、暗愚な君主である劉備が自分の死後も無事撤退できるように、部下に「私が死んだらその顔の前に鏡を置き、足元には一握りの土を置いておくように」と伝え、息を引き取る。
一方、天文を見て孔明の死を予感した司馬懿は「孔明がどうやら死んだらしい、お前ちょっと占ってみろ」と部下を呼んだ。
この部下は「占った相手の状態がわかる」という念能力の持ち主であり、言われた通り孔明を占ってみた。すると
「むむむ、諸葛亮の足元には土があり、顔の前には鏡がありますぞ」
という結果が出たため、司馬懿は驚き
「なんと、それでは鏡の前に立って身だしなみを整えているということではないか。いかん奴は生きておるぞ、これは孔明の罠だ」
と言って追撃をやめてしまった。こうして孔明の魔術によって劉備は無事に帰ることができたという。
...だいぶツッコミどころはあるが、そこは置いといて。
この時点ですでに「孔明の敵」「孔明を出し抜こうとするだけの知略(魔力?)がある」「孔明の方も司馬懿を警戒している」「しかし結局は孔明に一枚上をいかれる」という、現代まで通じる司馬懿のキャラクターが既に完成していることがわかる。
2.司馬仲達(演義のちょっと前)
やがて元の時代になると、科挙という登用ルートを失った多くの知識人たちがエンタメ分野に進出し、三国志関連の創作も大きく発展した。
今で言う「作家」に当たる彼らの手によって、他の多くの三国志キャラ同様、司馬懿もまた正史などの要素を多く取り入れた上で脚色され、キャラクターを膨らませていった。
しかしこの時期においては諸葛亮を引き立てる相手として周瑜が大きく躍進してきたため、三国志創作全体からみると司馬懿はやや存在感が後退している。
この時代に作られた講談や戯曲などの演目は、その多くがやがて歴史小説「三国志演義」に組み込まれることになるのだが、司馬懿に関してはそれが殆ど見られない。
せいぜい伝統の「死諸葛走生仲達」「空城計」に加え、両者が互いに陣形作りを競う「闘陣」ぐらいであり、孔明VS周瑜にまつわる豊富な創作・脚色に比べると相当な差がある。
3.司馬仲達(三国志演義)
しかし明代に入って「三国志演義」が完成すると、司馬懿は一気にその活躍の場を増やし、孔明と並ぶ後半の主役級の立場を手に入れた。
というのも演義はそれまでの講談や戯曲とは違い、正史に沿って劉備たち3兄弟や孔明の死後も(一応)描いた作品であったため、必然的に司馬懿の登場時期である後半以降にもスポットがあたることになったのである。
演義型司馬懿のキャラ的な特徴としては、以下の2点が興味深い。
▲「諸葛亮に次ぐ、作中最強クラスの知略」
半神的*9なまでの知略を持つ孔明には流石に及ばないが、彼ですら警戒せざるを得ないほどの知略を持っている。
実際、演義において孔明との読み合いに一度でも勝ったことがあるキャラは彼と姜維ぐらいしかいない。
ただし前述したように演義以前の司馬懿はそれほど重要な存在ではなかったため、人気者としての歴史が長い孔明の様に、天候を自在に操作したり罵るだけで人を殺したりといったド派手な脚色は少ない。
このため演義の司馬懿は「正史における他人の功績を司馬懿のものにする」という方法でその存在感を高めている。
これによって曹真や張郃は思いっきり割を喰らうことになったが、しかし物語としては「孔明が魏軍の将軍たちを次々と蹴散らす無双モードの中、ついに登場する強敵」というドラマチックな演出につながっている。
▲「キャラがブレている」
「演義」というのは「義を示す(物語)」という意味であり、その名の通り演義は登場人物をはっきりと「善人」「悪人」に分ける傾向が強い。
しかし司馬懿の場合、孔明が死ぬぐらいまでは
「曹叡から謀反の疑いをかけられるが、本人にはその気は微塵もなくむしろ魏の忠臣」
「無能扱いになった曹真の尻拭いを繰り返しても、勝ち誇るどころかむしろ曹真を気遣う」
「叛逆を起こした公孫淵を討伐した時も、領民には優しく当たる(実際の遼東征伐では司馬懿は大虐殺を行っている)」
「曹叡の死亡時には、本心から涙を流して悲しむ」
などと、明らかに「善人」サイドとして描かれている。
それが曹叡の死後に曹爽との権力争いになった途端、
「曹爽は司馬懿を殺そうとまではしていないのに、司馬懿の方は殺す気満々」
「皇太后を威圧して曹爽解任の命令を出させる」
「『曹爽一族は皆殺しにしたが、親戚の夏侯覇が残ってたな』と思い出して殺そうとする」
「夏侯覇から名指しで逆臣呼ばわりされる」
などと、曹操級の「悪人」に何の説明もなく転向する。
もっとも、三国志演義においてこうしたキャラのブレはなにも司馬懿に限ったことではない。
演義は1人の作者によって作られた作品というわけではなく、それまでに説話や講談、戯曲などによって作られてきたエピソードの集合体であり、「ネタ元」によってキャラが微妙に変化することはさして珍しくないのである。
とはいえ、司馬懿ほどに扱いが大きいキャラでここまでブレが放置されているのは流石に特殊と言える。
まあ演義においても孔明死後ははっきりいって「おまけ」に過ぎないので、あまりキャラの整合性を考慮する必要もなかったのだと思われる。
▲「女装」
曹真との賭けで「私が負けたら女装(メイク有)してお詫びに参上しましょう」と言ったり、孔明から挑発に女ものアクセと服を送られたりとやたらと女装に縁がある。
特殊な趣味をお持ちなのかな?
とまあこんな感じで、不忠の臣として曹操と並び称されてきた割には結構いい扱いを受けている。
これは「孔明の北伐を阻む強敵」に相応しいキャラでなければならない、という作劇上の必然性もあっただろうが、司馬懿の「世渡り力」の高さが士大夫の間から密かな尊敬を集めてきたことも無関係ではなさそうだ。
4.司馬仲達(演義より後)
しかし清代になり商業的な演劇が大衆エンタメとして大きく躍進すると、司馬懿はまた微妙にそのキャラを変えることになった。
大衆演劇と言うのはその性質上、小説に比べればずっと明快で単純なキャラ描写が必要とされる。
そういう観点からすると、演義型司馬懿の「敵ながらあっぱれ」的なキャラはあまり適さない。そのため、もっと明快な「ずるがしこい悪役」としての方向性にシフトしていくことになったのである。
特に大衆演劇の代表的存在である「京劇」においてはこの傾向が顕著で、現代の司馬懿に繋がるかなりの部分がこの時代の京劇に由来している。
▲「ずる賢い」
京劇における司馬懿は白瞼、つまりお白粉によって顔を真っ白く塗りつぶした化粧を施している。
これは陰険さや猜疑心を現したキャラであり、立ち位置としては完全に曹操と一緒になっているということになる。
▲「平服」
これがある意味で最も大きな変化かもしれない。孔明に対するキャラであることを強調するためか、あるいは後期型曹操である点を強調するためか、京劇において司馬懿の服装は平服(普段着)とされている。
それまでの司馬懿は基本的に「将軍」であり、絵などでも(戦場では)普通に甲冑を身に着けて描写されることが多かったのだが、これ以降は戦場においても平服という司馬懿像が普及していく。
▲「老人」
それまでは孔明とは同年代として扱われることが多かったが、老獪さを強調するためか、京劇でははっきりと老人として描写されることになった。
▲「軍師」
これは京劇というより同時代の文芸作品に顕著だが、メインイメージが「将軍」から「軍師」へと変化していった。
実際正史でも曹操時代の司馬懿は参謀的な職務(軍司馬)についているし、関羽を呉に背後から撃たせる作戦を提唱した一人でもある。軍師的な扱いも無理がないわけではない。
しかし全盛期といえる曹叡時代は完全に将軍なので、この時代ではまだそこまで徹底した軍師キャラというわけではなかった。
5.司馬仲達(現代)
「正史」の知識が大衆レベルでも普及してきた現代では、司馬懿の扱いは「三国時代最後の勝者(の祖父)である」という点が強調されることも多くなってきた。
そのため「孔明と暗闘を繰り広げ、その後深謀遠慮のもと最後に勝利をつかんだ策士」的な描かれ方をすることも度々であり、もはや単に孔明の引き立て役というには収まらないキャラになることが多い。
また現代の三国志創作におけるコーエーの影響力は実際ものすごいものがあるが、司馬懿の場合は特に顕著である。
我々は今「軍師・司馬懿」と聞いてもなんの違和感も持たないが、これを決定的にしたのは完全にコーエー式、というか無双4以降の司馬懿の功績と言える。
一応コーエー自身も無双3や三國志Ⅸで見た目を将軍風に寄せたことがあったのだが、あっさりと差し替えられ定着することは無かった。
現代では漫画やソシャゲなどで三国志モノの作品が大量に生まれているが、もはや「甲冑を着て武器を持った司馬懿」というビジュアルは完全に駆逐されたといっても過言ではない。
『三国志 Three Kingdoms』
現代中国の連続歴史ドラマ。演じるのはニー・ダーホン。顔が完全にチャイニーズマフィアのボス。
基本的には演義を原作にしたストーリーなのだが、司馬懿はかなり早くから曹丕の知恵袋として登場し、また後にも軍師として暗躍する主役級。
冷静で冷徹、ものすごい深謀遠慮の持ち主なのだが、殺しきれない情を持った人物としても描かれており、描写の深さという点では作中でもぶっちぎり。
既存のイメージに則った無難なキャラも少なくない中、主君の曹丕と並んで大胆、かつ丁寧な脚色が目立つ。脚本家の愛がこもったキャラである。
だが孔明との戦いになると、いきなりボスオーラが失われてやられ役になってしまうのが実に悲しい。
『反三国志』
爆死する。地雷で。三国志とは一体……うごごご!
『横山三国志』
『コーエー三國志シリーズ』
当然というべきか、全武将の中でもトップを争える性能。
殆どのタイトルでは劣化孔明、あるいは曹操になってしまうことが多いが、それはあまりにも相手が悪すぎるだけであって司馬懿自身普通に超一流クラスであるのは間違いない。
また性能分布的には孔明のような戦闘軍師型ではなく、曹操のような万能君主型なので、武力に関しては明らかに孔明よりも強く、知力、統率などは孔明にわずかに劣る。
ただし義理関係の数値は基本的に劣悪で、配下に置いているときは色々な意味で注意が必要。
英雄集結では長らく曹操配下の文武百官の一人だったが、近年は息子らや魏終期〜晋の将を率いて三国に次ぐ独立勢力を構えている。
孔明伝ではラスボスを務め、中盤までは大軍師だが終盤では曹爽を追い落として皇帝のクラスに就く。武力も知力も高く、広範囲に大ダメージを与える策略「大業火」を使いこなす強敵。
『三國無双シリーズ』
真・三國無双からのベテランと言えるキャラクター。
才智と野心に溢れる若き謀将というキャラ付けがされており、ビジュアル的に老将のイメージは皆無。
6以後は息子をはじめとする魏後半の武将たちの新勢力・晋に移籍しており、孔明没後のエピソードが描かれるようになった。
息子らがプレイアブル化してからは、覇道の行く先と息子たちの成長を見守り、ときには導いていくという、野心家であると同時に父親らしい側面も見せるようになった。でもビジュアルは息子たち並みに若いから腰を息子に心配されるネタや曹爽の使い相手にボケ老人ネタが違和感がなくはない
「フハハハハハハ!詳しくは項目を参照せよ馬鹿めが!」
『三国志大戦』
勿論登場。基本的に魏所属だがリブート版では晋所属の司馬懿も実装された。
ほぼ全てのカードが騎馬兵で知力は諸葛亮に匹敵する10(かつては知力10は諸葛亮専用という事で9だった事もある)。
しかし前線にて戦った事もあるためか武力も割と高めであり、一騎打ち対象の司馬懿もいる。
計略はほとんどが号令系だが、司馬懿の臨機応変さを表す為か妙に範囲内の人数を参照する物ばかり、どちらかというと相手依存の物が多く、玄人向けのカード郡となっている。
しかし使いこなせたときの強力さはライバルの諸葛亮以上と言える。
余談だが2で登場した一徳氏の描く司馬懿はなぜかウルトラマンのスペシウム光線を打つ時のポーズをしており「シバトラマン」などと呼ばれていた。
3では八つ裂き光輪のポーズをしておりもはや確信犯である。
『三国志~司馬懿 軍師連盟~』
2017年に中国で放送された、全86話の連続歴史ドラマ。なんと司馬懿が主人公。演じるのは吴秀波(ウー・ショウポー)。
この作品の司馬懿はどちらかと言うと頼りない感じで、理不尽に巻き込まれて大わらわになることが多い。ただし、その頭脳は本物で、常に司馬家の存続・繁栄のために駆使されている。
基本的に司馬懿もしくは彼と直接関わる人々の視点で物語が進んでいくため、これまで蜀中心で描かれることが多かった曹丕→曹叡→曹芳時代の魏を詳しく知ることができ、登場人物も魏が中心でマイナーだった人物も多数登場。
一方、司馬懿が直接関わらなかった赤壁の戦いや漢中の戦いはバッサリカット。後方支援担当だった樊城の戦いも、報告されてくる戦況や呉との交渉は描かれるが、戦いそのものは描かれず。よって劉備三兄弟の姿は影も形も見当たらず、かろうじて箱詰めにされた関羽の生首がちらっと登場するのみ。
ストーリーも先述した司馬懿の生涯から大きく逸らさないもので、詳しく書かれていない部分の補完やオリジナル設定を大胆に行われている。登場人物も長短併せ持ち、各々信念のために行動する群像劇のようでもある。
基本的に政治闘争が中心で、対立からの争い・決定的なすれ違い・運命のいたずら・敗れた者の末路など、見ていて辛くなる場面が多い。そんな中を司馬懿が如何に生きていったかを描く、ドラマとして非常に完成度の高い作品となっている。ぶっちゃけると大河ドラマの真田丸みたいな感じ。
戦の場面は後半の方が多い。鎧兜を着た将軍・司馬懿も出てくるよ!また、シリアスな場面にもちょいちょいコミカルな描写がぶっ込まれることがある。特に、曹丕と共謀して曹家の支配に風穴を開けるため実績作りで法案を提出しまくるがうっかり白紙の竹簡を持ってきてしまうシーンと、陣を挟んだ諸葛亮とお互い声が大きい配下を通して対話するシーンは必見。
【司馬仲達"の"創作作品】
司馬仲達『讌飲詩』
天地開闢 日月重光 -世界が始まって以来長い時間が過ぎてきた
遭遇際会 畢力選方 -私は偶然機会を得て、辺境の地で力を振るった
将掃穢甫 還過故郷 -今私は反逆者どもを始末して故郷を通りがかった
肅清万里 総斉八荒 -私はこのまま国中の反乱を鎮圧しよう
告成帰老 待罪武陽 -それを報告したら隠居して故郷に帰り、皇帝陛下の沙汰を待とう
……素敵な詩だぁ(棒)詩と言うより報告書では?
「死仲達走生宅男」――死せる仲達、アニヲタを(追記:修正に)走らす。
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*2 討ち取った敵を埋葬して塚を作り、戦勝の記念碑としたもの。このころの中国にはそういう風習があった
*3 本来は魏書の「烏丸鮮卑東夷伝」、つまり外部の異民族枠として記された一部分に過ぎなかったが、今日の我が国ではこのパートこそが「魏志倭人伝」と通称されている
*4 当時対蜀戦線の総司令官だった郭淮のもとに嫁いでいた妹だけは、彼女の息子たちの必死の助命嘆願もあってか助けられている。
*5 清王朝が認めた、中国の歴代王朝の正史。三国志もこれに含まれる
*6 1年半という超短期間で編纂された結果、間違いや抜けが多発した史書。人名の取り違えはするわ、同じ人間の列伝が二つあるわ、系図を創作するわ、散々な出来だった
*7 史記に記載されている秦以前の時代を除けば、王朝の滅亡から、編纂開始まで最も時間を喰らった正史は未だに晋書が没後約226年と不動の1位。2位は220年に禅譲で滅んだ後漢に付いて書かれた後漢書で、編纂が開始されたのは南朝・宋の432年とされている。ただこの後漢書も正史としてはそれなりに高い評価を得ているものの、劉氏が皇族であったため感覚的には蜀漢に近い立場となり曹操を悪人として書くなど、一部に批判する余地がある。
*8 流石に開き直って正当化はできず、責任は全て下っ端(&実行犯)の成済に押し付けて一族皆殺しにする形で収めたが。
*9 というか演義の前身である「三国志平話」では実際に神様の使いだった
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