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軍用鉄道宇品線跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

軍用鉄道宇品線軍用鉄道宇品線は広島駅と宇品港を結ぶ鉄道で、明治27年の日清戦争開戦を受けて建設された鉄道日清戦争開戦にあたり広島市に大本営や帝国議会が置かれ、宇品港が中国大陸への陸軍の輸送拠点になるなど広島市は事実上日本の首都となりました。当時、鉄道は日清戦争開戦の明治27年まで

宇品駅陸軍糧秣支廠倉庫跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

宇品駅陸軍糧秣支廠倉庫跡軍用鉄道宇品線に併設された陸軍糧秣支廠の関連施設広島市には糧秣支廠の他に被服支廠・兵器支廠という陸軍の軍需工場である『陸軍三支廠』がありました。そこで製造・調達された物資は軍用鉄道宇品線で兵站拠点である宇品港まで運ばれて船で海外へ輸送されていました。宇品駅

広島市郷土資料館(旧宇品陸軍糧秣支廠) - 呉市周辺の遺構まとめ

広島市郷土資料館(旧宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場)南区にある『陸軍三支廠』の1つ糧秣廠とは兵士の食糧・軍馬の餌・飯盒の燃料などを製造もしくは民間から買付する軍需工場のことで、明治30年に『陸軍中央糧秣支廠』としてここより南の宇品海岸通りに開業しました。その後、明治35年に『陸軍糧秣支

金輪島 - 呉市周辺の遺構まとめ

金輪島広島湾に浮かぶ小さな花崗岩の島人口60人程度の非常に小さな島ですが、陸軍の兵站拠点である宇品港から近いことから似島と同じように陸軍の島でした。金輪島は江戸時代に入植され蠟の栽培や蠟燭の生産などが行われた小さな島でした。明治27年(日清戦争の年)に陸軍が島を買収し輸送や揚陸な

宇品中央公園(旧陸軍船舶司令部) - 呉市周辺の遺構まとめ

宇品中央公園(旧陸軍船舶司令部(暁部隊))陸軍船舶司令部は通称「暁部隊」(あかつきぶたい)と呼ばれる陸軍の海上輸送などをおこなう部隊です。周囲を海に囲まれた日本の陸軍には古くから輸送船や揚陸艇また太平洋戦争では潜水艦や空母まで陸軍が保有しており、それらを扱う専門部隊として『陸軍船

御幸橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

御幸橋御幸橋は明治18年の宇品港築港にともない京橋川に架橋された橋当初は約255mの木造橋でその長さから「長橋」「川口橋」と呼ばれていましたが、明治天皇が行幸に使われたことから『御幸橋』と改称されました。御幸橋は日清戦争から太平洋戦争終戦まで陸軍の出征の道でした。陸軍の兵士達は広

宇品波止場公園(旧陸軍桟橋) - 呉市周辺の遺構まとめ

宇品波止場公園(旧陸軍桟橋)陸軍桟橋は明治35年に建設された軍用の突堤明治22年に築港された宇品港は山陽本線・軍用鉄道宇品線と接続されていることもあり日清・日露戦争を契機に陸軍の一大兵站拠点となりました。その宇品港から人員や物資を沖に待つ輸送船に乗せるために明治35年に建設された

軽便鉄道線路跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

より開業からわずか3週間で廃業してしまったという、幻の鉄道でもあります。明治30年代には広島陸軍三支廠(広島陸軍被服支廠、広島陸軍兵器支廠、宇品陸軍糧秣支廠)が建設されました。その構内でも軽便鉄道と同じレールが使われていた、とされていますが詳細は不明です。軽便鉄道の線路は当時の西

広島大学医学資料館(旧広島陸軍兵器支廠) - 呉市周辺の遺構まとめ

の弾薬庫に誘爆しないよう設計されていました。敷地が広いため廠内は軽便鉄道(トロッコ)の線路が敷かれていました。さらに、兵器支廠前には軍用鉄道宇品線が併設されており、ここから出庫した武器弾薬はそのまま宇品線に乗せられ陸軍の兵站拠点である宇品港に運べるようになっていました。大正10年

宇品天然温泉_ほの湯 - Gravity Wiki

宇品天然温泉 ほの湯(うじなてんねんおんせん ほのゆ)は、広島県広島市南区にある、中国電力グループのエネルギア不動産が運営するスーパー銭湯。目次1 所在地2 概要3 沿革4 泉質・効能5 施設5.1 入浴施設5.2 その他6 交通アクセス6.1 バス6.2 路面電車6.3 タクシ

地区別 - 呉市周辺の遺構まとめ

れない慰霊碑 シビレ峠広島市(市街地)広島市(市街地) 広島平和記念公園 広島城(陸軍第五師団跡) 広島陸軍被服支廠跡 広島市郷土資料館(旧宇品陸軍糧秣支廠) 広島大学医学資料館(旧広島陸軍兵器支廠) 騎兵第五連隊跡 電信第二連隊跡 工兵橋と工兵第五連隊跡 広島要塞砲兵連隊跡 広

牛田浄水場(旧牛田水源地) - 呉市周辺の遺構まとめ

行した際は伝染病流行地に指定されてしまい「河水飲用禁止」の県布告が出されてしまいました。明治27年に日清戦争が勃発し大本営や帝国議会が置かれ宇品港が陸軍の兵站拠点になるなど広島市は事実上日本の首都となりました。しかし「陸軍の軍事拠点である広島市に水道が無いのは衛生・防火の面で問題

元宇品高射砲陣地跡と宇品灯台(旧宇品島南端信号塔) - 呉市周辺の遺構まとめ

元宇品公園南区の広島湾に突き出出た陸地元々は島でしたが明治時代の宇品港築港事業の際に埋め立てられて陸続きとなりました。その後、昭和天皇が皇太子時代に視察された際に「原生林をそのまま残してはどうか」とご提案されたことがきっかけで、昭和2年に遊歩道が設置され公園となりました。現在も原

比治山陸軍墓地 - 呉市周辺の遺構まとめ

傷害調査委員会)』といい地元の人の中には今でもそう呼ぶ人がいます。当初は昭和22年に赤十字病院の一部を借りてABCCを発足させました。翌年に宇品凱旋館に移転しました。昭和24年に新設が決まり当初アメリカと日本人医師らは最初から比治山に建てることを希望していました。しかし、陸軍墓地

瀬野機関区跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

川公園にD51形式蒸気機関車が展示されている ・近くに中野村聴音照射所跡への登山口である中倉神社がある ・同じ鉄道遺構として軍用鉄道宇品線と呉線がある 住所 瀬野機関区跡:広島県広島市安芸区瀬野1丁目41-21 蒸気機関車の動輪

旧愛宕跨線橋 - 呉市周辺の遺構まとめ

る ・呉市にも貴重なカーネギー社製の鉄柱が使われているダイクレ興産第2工場(旧呉海軍工廠砲熕部精密兵器工場)がある ・近くに軍用鉄道宇品線の安芸愛宕駅跡がある 住所 広島県広島市南区松原町1-1 駐車場 近くの

千田廟公園 - 呉市周辺の遺構まとめ

千田廟公園千田廟公園は広島市南区宇品御幸にある公園明治初期の広島県知事である千田貞暁(せんださだあき)の遺徳を称えるため作られた公園です。旧国泰寺村の一部も同じく千田知事を顕彰した『千田町』という地名があります。千田知事銅像兼宇品港築港記念碑千田貞暁は現在の鹿児島出身の幕末維新志

宇品線とはなんですか? - クイズwiki

A. 宇品線は、広島県広島市の広島駅から南下し宇品駅までを結んでいた国鉄の鉄道路線です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%93%81%E7%B7%9A

広島城(陸軍第五師団跡) - 呉市周辺の遺構まとめ

明治天皇もここに行在所されました。大本営がここ第五師団司令部に移され広島市で国会も開催されました。広島市に大本営が移された理由は、山陽本線や宇品線・宇品港が整備されており兵站拠点としてすぐに利用できることと、当時は通信技術が発達しておらず戦地へ近い方が情報伝達上有利であったこと等

工兵橋と工兵第五連隊跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

。現在はここが跡地であることを示す記念碑が残されています。また、記念碑の裏に書かれてる部隊はそれぞれ広島師団管区で編成された工兵第39連隊と宇品にある陸軍船舶部の船舶工兵隊で、同じ工兵であるため並記されているものと思われます。工兵橋京橋川に架かるつり橋明治22年に工兵第五連隊が牛

元宇品口停留場とはなんですか? - クイズwiki

A. 元宇品口停留場は、広島市南区宇品海岸二丁目にある広島電鉄宇品線の路面電車停留場です。参考URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AE%87%E5%93%81%E5%8F%A3%E5%81%9C%E7%95%99%E5%A

呉線の廃トンネル - 呉市周辺の遺構まとめ

軍需部引き込み線跡と旧川原石駅跡と呉線の目隠し板の支柱と旧呉海軍工廠引き込み線跡と二河川橋梁がある ・同じ軍用鉄道として広島市に軍用鉄道宇品線がある ・呉線のトンネルとして川尻駅近くに日本一短い川尻トンネルがある 住所 -

広島陸軍被服支廠跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

造・調達・保管する陸軍の施設のことです。元々は明治38年に陸軍の軍服洗濯工場として建設され明治40年に被服支廠に昇格しました。また、軍用鉄道宇品線が東側に併設されており、ここで製造した被服はそのまま鉄道に乗せられ陸軍の輸送拠点である宇品港まで運べるようになっていました。現在残って

太田川漁業協同組合(旧亀山水力発電所) - 呉市周辺の遺構まとめ

。広島電燈株式会社は、明治27年にすでに広島市街地に大手町火力発電所を操業させていました。しかし、日清戦争で広島市に大本営や帝国議会が置かれ宇品港が陸軍の兵站拠点になると電力需要が増加したため、ここ亀山村に水力発電所の建設を決めます。場所的には太田川中流の宮野渕から今井田にかかる

広島水上警察署跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

唯一の木造2階建て被爆遺構水上警察とは、港湾や船舶にかかわる特殊な犯罪を取り締まる警察組織で広島市には明治14年に設置されました。この建物は宇品港が日清・日露戦争で兵站拠点へと発展し、警察業務の拡大に対応するため明治42年に広島水上警察署新庁舎として建てられました。当初の組織名は

広島電鉄動力車操縦者養成所(旧広島電気軌道千田町発電所) - 呉市周辺の遺構まとめ

650形652号車650形電車は太平洋戦争中の昭和17年10月に製造された木製内装の路面電車この652号車は昭和20年8月6日の原爆投下時に宇品付近を走行中に被爆しました。幸いにも損害は軽微で被爆3日後には運転を再開し、焼け野原と化した広島市の市民を勇気づけました。現在もこの65

広島新四国八十八ヶ所霊場 - 巡礼 Wiki

五日市町石内573910大日山眞光院高野山真言宗三鬼大権現広島市西区庚午中2丁目14-3211医王山養徳院曹洞宗東方薬師瑠璃光如来広島市南区宇品神田3-1-812蓮菜山国泰寺曹洞宗釈迦牟尼佛広島市西区己斐上3丁目975-513美能山牟尼院善光寺広島県真言宗教団釈迦如来広島市西区竜

原村兵士見送場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

七ツ池の南端にあります。ここから七ツ池に沿って北へ行けば八本松駅があるので、兵士は見送りされた後、七ツ池を見ながら八本松駅から山陽本線へ乗り宇品港から戦地へ出兵したのかも知れません。七ツ池公園には桜が植えてありかなりの老樹ですが、送別の見納めとして当時から植えられていたのかは不明

旧日本製鋼所ドック跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

装(内装や甲板上の工事などの最後の仕上げ)をします。太平洋戦争終戦時にはここに4隻の艤装中のまるゆが停泊していました。また、完成したまるゆは宇品港まで回航され、物資を積み込んで戦地へ向かいました。 備考 ・道がわかりにくいので中央卸売市場東部市場を目指して行く

海上挺進戦隊戦没者慰霊碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

海上挺進戦隊戦没者慰霊碑江田島と言えば海軍のイメージですがここ幸之浦に陸軍海上挺進隊の訓練基地がありました。海上挺進隊は元々は海上輸送を行う陸軍船舶隊から派生した部隊ですが、太平洋戦争末期になると戦局の悪化から直接戦闘を行う部隊となり名前も海上挺進隊と名付けられました。ここには陸

マエダハウジング - サンプルのウィキ

5,000万に増資2014年6月 東広島市に東広島店 開設2014年7月 中区八丁堀に不動産買取専門店不動産いちば 開設2016年3月 南区宇品にリフレ宇品店 開設2016年4月 資本金8,000万に増資2016年10月 施工会社株式会社マエダハウジングプラス 設立2017年11

似島 - 呉市周辺の遺構まとめ

いせいか中は落書きだらけです。要塞地帯区域標石要塞地帯と民有地の境界を示す標識明治28年設置とありますので第一検疫所時代の遺構と思われます。宇品駅プラットホームとトロッコレールの碑似島に検疫所が置かれた理由は日清戦争終戦後にコレラや腸チフス等が流行った朝鮮半島や台湾から帰国した兵

陸軍吉島飛行場跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

も残っておらず埋め立て地も住宅地や工業団地になっているため、陸軍飛行場時代の面影はまったく残っていません。余談ですが、当時を知る人によると「宇品にある陸軍糧秣支廠近くの堤防に上ると吉島飛行場から航空機が離着陸する様子が見えた」との事です。当時の吉島は埋め立てたばかりで飛行場の周辺

二葉山砲台跡 - 呉市周辺の遺構まとめ

早い ・参道沿いのお宮など神社仏閣が多数あるので興味があればお参りするといいかも ・同じ陸軍独立高射砲第22大隊の高射砲砲台として元宇品高射砲陣地跡がある ・近くに騎兵第五連隊跡がある 住所 広島県広島市東区光が丘1-22

賀北部隊原爆被災者救援之碑 - 呉市周辺の遺構まとめ

の隊員が西条駅から列車で広島市に向かいましたが海田駅から不通となっており、徒歩で入市し広島城や横川で救護や犠牲者の火葬を行いました。しかし、宇品の暁部隊と同じく帰還した後に二次被爆により白血病で急死する隊員もでました。また、西条農学校の生徒らも賀北部隊の一員として召集された他、近

サンフレッチェ広島 - アニヲタWiki(仮) 非公式避難所wiki

) 既に市民球場跡地にスタジアム作ると24000人が限度って試算出てんだけど・・・その上複合型にすると高さ制限も相まって更に手狭になるwまぁ宇品は宇品で問題があるのは違いないけどな。交通の不便や物の集積地による渋滞が日常過ぎて広くても行きにくい。 -- 名無しさん (2015

聖地 - おしっこマン/うんこマンwiki

2022年3月31日まで運休となっている。しかし当日を過ぎても再開の告知はなく無期限休止になったものと思われる。(→リンク)切串港(未言及)宇品港(広島市)との最短経路上にある港。運賃は他の港より4割程度安いが高速船ではなくフェリーであるため所要時間は大して変わらない。また、付近

呉湾 - 呉市周辺の遺構まとめ

水路軍機第232號 呉湾昭和7年に海軍省水路部から発行された海軍の軍事機密が記載された呉湾の地図当時の市販地図では白く塗りつぶされている呉鎮守府・海兵団・水雷団・軍需部・海軍工廠引き込み線・二河川より海側が記載されています。さらに、太平洋戦争中の昭和19年に艦艇の錨泊場所も追記さ

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