小牧山城 - 御城プロジェクト:RE Wiki
じゃ。周囲の御城を威圧するのに十分であろうが。小牧山城は1563年に、織田信長が美濃国攻略のための足がかりとして築いた御城じゃ。築城の際には家臣ごとに分担させたらしく、「佐久間」と記された石材が出土しておる。家臣同士の手柄を競わせる、信長らしいやり方じゃな。「信長公記」には、小牧
じゃ。周囲の御城を威圧するのに十分であろうが。小牧山城は1563年に、織田信長が美濃国攻略のための足がかりとして築いた御城じゃ。築城の際には家臣ごとに分担させたらしく、「佐久間」と記された石材が出土しておる。家臣同士の手柄を競わせる、信長らしいやり方じゃな。「信長公記」には、小牧
てくれた高山右近が、秀吉のバテレン追放令の際に改易されると、ひそかに右近を匿いました。結局、右近がマニラに追放されると、その旧臣たちを自らの家臣として取り立てたりもしています。キリスト教の保護に熱心だったんですね。私と殿が出会えたのも、きっと神のお導きだったのでしょう。できれば会
ていて、御城が浮いているように見えることから、「浮城」という異名もあるんだよ。戦国時代に、越中国の守護代だった神保長職(じんぼうながもと)の家臣の水越勝重によって建てられたんだ。だけど、すぐに上杉謙信に攻め落とされて、神保氏は没落してしまうんだ。相手が悪かったな。だらしないな。軍
めてきたのですが、武田氏と交戦した際には、今川義元さまの命に従い、防衛の最前線として活躍したんです!もちろん、わたしもがんばりました!忠実な家臣でありながら、神に仕える者たちの長でもあった……。城主さまから受け継いだこの力をもって、お殿さまの許でも必ずお役に立ってみせますからね!
丸一日続き、二の丸門の煙硝蔵が爆発炎上するほどの激戦が繰り広げられた……。しかし、多勢に無勢。ついに岐阜城は落城し、秀信は切腹しようとしたが家臣に止められ、高野山へと送られることになった。これが岐阜城の最期だ。奮戦したんだな。あっけなかったんだな。できる限りのことはしたつもりだ。
いませんよね。実は美濃攻めの後も、しばらく存在していたらしいんです。記録によると1584年、小牧・長久手の戦いの際に、秀吉に味方した池田氏の家臣、伊木忠次が改築したとあります。ですが、その2年後には木曽川が氾濫して、川の流れが変わってしまったために戦略上の重要性を失って、そのまま
は「日本第一、古今独歩の勇士」とのお言葉を賜っておりまする。さらに、「家康に過ぎたるものがふたつあり。唐の頭に本多平八」という狂歌も武田氏の家臣から送られております。徳川家中だけでなく、敵からも一目置かれていたのですな。誠に武士(もののふ)の鑑と言うべき御方。我も忠勝様のような働
してがんがん活躍するから、見ていてくれよ。織田信長に攻められた勝頼が天目山で滅亡すると、信豊は小諸城に立て籠もって再起を図ったんだ。だけど、家臣に裏切られて信豊は自害。御城の二の丸も炎上してしまうんだ。……あれ? おかしいな。私がいれば絶対安心だって言ったはずなのに、なんでこんな
たりしないさ先のことは……分からないほんとうに?約束……だよ?そんなこと……言わないでよぉ。元親さんが、四国統一を目指した理由を知ってる?「家臣に充分な領地を与えるため」だったんだよ。殿は誰の為に、兜を倒そうと思っているのかな?殿の想う大切なものの中に……私がいたら……いいなぁ…
89%E3%83%83%E3%83%88_%E5%9B%B3%E9%91%91.gifボイス[]声:大室佳奈自己紹介唐津城はね、豊臣秀吉様の家臣である寺沢広高様が肥前に建てた御城なんだよ!あとね、近くにある松の林がとっても綺麗なのが自慢なんだー♪ それとそれとぉ、城下町には美味し
る時どんな作戦をとりますか?秀吉は城攻めの名人だったそうですが、真似をするだけでは、うまくいかないというお話をしましょう。成田氏長は北条氏の家臣となっていましたが、1590年に、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、その渦中に巻き込まれます。大軍を率いた秀吉は、主力で小田原城を包囲する
そうです。引田城の最初の城主は、記録に残っている限りでは四宮右近という人のようです。その後、阿波国の三好長治に攻められて落城すると、三好氏の家臣、矢野駿河守が入城したもののほどなく謀殺。さらに秀吉がやってくると、今度は仙石秀久に与えられます。ですが秀久さんも、九州征伐の折に戸次川
「阿波の古狸」と称されるほどの策士でありつつも、寛大な心を持った漢でありました。これは家政がとある城を築城する際のお話なのですが、当時、彼は家臣から「平地に築城しては、もしもの時に攻め込まれたら不利になってしまいます」という諫言を受けたそうです。城は、時として城主の命を守る手段と
どうしたの?……奇遇ね、私もお話ししてみたいって思ってたの。え、私からでいいの?じゃあ話させてもらうわね。私は平井城。山内上杉氏の上杉憲実が家臣の長尾忠房に命じて築城させたと言われているわ。その後しばらくは山内上杉家の主要拠点の一つとして運用されていたんだけどね。後に北条氏康に攻
れなのかって?ふふっ、今日はそういった話がしたくて、こうしてお招きしたのよ。それじゃ、早速お話しさせてもらうわね。私こと岩村城は、源頼朝様が家臣・加藤景廉様の息子、景朝様が美濃国に築き上げた御城よ。……ふふっ、そうね。大分昔に建てられた御城ってことになるわね。そして、時は流れ、景
事にせにゃいかん。時には喧嘩したりしても、結局最後にはお互いがよりどころになっど。ずっと変わるこんのなか、大切な絆じゃ。変身今の儂はあんたん家臣じゃ、好きに使え。変身解除戻ったど。気張ったあとはのんびり自伝の続きでも書こかいね。出陣クリックいっぱん手強かとこいに突っ込んど!出陣儂
E5%BE%A1%E5%AC%A2.png[改壱]の画像を表示する/隠すボイス[]声:山川琴美自己紹介私こと川越城は、長禄元年、扇谷上杉氏の家臣・太田道真、道灌親子によって、対抗する古河公方への備えとして築城された平城よ。私を巡って起きた「河越城の戦い」に勝利した北条氏が入城して
化人でありました。茶湯の天下三宗匠と称せられた津田宗及との茶会や、里村紹巴(さとむらじょうは)との連歌の会が催されております。領民を慈しみ、家臣に対しても思いやり深い方でした。武将としても優秀で、織田家中の柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉と同格の軍団長の地位を得ております。
。私、吉田郡山城は日本有数の山城として有名な城でございます。1336年に毛利時親が築いたとされ、その後、毛利元就の代に城は拡大強化され、有力家臣が城内に屋敷を構える典型的な拠点城郭としての役割を担いました。中国地方の覇者である毛利氏は約260年の間、吉田郡山城を居城としたんですよ
。他にも、廻船問屋の方々に特権を与え、支配体勢に取り込む……といった施策をとることで、吉継様は、秀吉公の期待に見事応えてみせました。その上、家臣やその他の士卒からも信頼を寄せられ、家中の統治も行き届いていたそうです。吉継様の主君としての手腕が伺えますね。……こうして私は、吉継様が
ね。あたしは三木城。播磨国の生まれだよ。室町時代に建てられた平山城なんだ。御城を建てたのは別所則治(のりはる)って人。播磨国の守護の赤松氏の家臣だったみたい。御城は代々別所氏が治めていくんだけど、織田軍が攻めてきた時はもう大変で……って、なんだかまたお腹がすいてきちゃった……。我
末期に甲斐源氏嫡流の一条忠頼の館として生まれたずら。でも、その忠頼が源頼朝に討たれ、一条氏の一族は騒然となっただよ。頼朝に報復しようと息巻く家臣もいる中で、奥方は忠頼の魂を静かに弔いたいと願ったずら。そんな奥方の願いに賛同して、ワシも城としてではなく尼寺として、長い間、奥方と共に
。隠し事は苦手でな。実は、昔のことを思い返していたのだ。七尾城は、室町時代から守護の畠山氏が代々治めてきたのだが、幼い当主春王丸を差し置いて家臣たちが互いに争い始めたことがあってな。外からの攻撃には無敵を誇るこの御城も、味方同士の争いのために、本来の力を発揮できなかったのだ。その
朝倉氏滅亡後、当主義景の菩提を弔うために建てられたものですわ。越前国の守護として栄華を誇った朝倉氏も、1573年に織田信長に攻め込まれると、家臣の裏切りもあってあっけなく滅んでしまったのです……。小京都と称えられた一乗谷を焼き払うとは、おのれ、岐阜城……安土城……。この恨み、晴ら
てる?そ、摂津三守護のひとりの親興よ。親興はね、昔から義理堅い人だったの……。だから、1549年の江口の戦いにおいて、主君であった細川晴元が家臣、三好長慶らの謀反によって窮地に立たされた時も、親興は主の為に戦うことを選んだわ。自国、摂津の大半が敵となろうと主君の為に戦い続けた親興
本当の己ヲ! 在るベキ己をぉォオオッ!!桃形兜(赤備え)ナリマセヌ! 御自愛クダサレ、昌景サマ!!山県昌景エエイッ! 黙ラヌカ!主命ヲ聞けぬ家臣ナド不――山県昌景――グッ、ァ……!?桃形兜(赤備え)昌景サマ!?岩櫃城――むっ!?巨大兜が……膝をついた!?長篠城やはり……そうか。長
のが沢山あります。いつの時代の誰が相手であっても、胸を張れるほどの……。小田原城私の城主を努めた北条家の当主……。 私と運命を共にした支城や家臣。 才に長けた多くの者たち……。小田原城私がどのような御城、城娘だったとしても、 そこに嘘はありません。江戸城さんのお陰で改めて、 その
人にして……米沢藩の、初代藩主……それが私、上杉景勝……。私の経歴は……節操がないように、見えるだろうか……?だが……移ろう所領も、変わらぬ家臣も……どれも、私にはかけがえのない、大切なもの……。乱世から、太平の世まで……彼らに報いるよう、働いてきたことに、悔いはない……。入手上
の都を知ってるか?日の本から遠く離れた――ここ、ここだ!ここはローマって言ってな、アタシとは浅からぬ縁があるんだ。かつてアタシはこの都にまで家臣を送ったんだぜ。慶長遣欧使節なんて言われてるんだがな。海の向こうに広がる大陸、異国。その存在に、アタシは魅せられてたんだ。ただなあ……残
ちゃって。よっ、人気者!調子に乗るな。えへへ。ありがとうです~。がーん!ショックですぅ……。1582年に武田氏が滅亡した後は、織田信長さんの家臣、滝川一益(たきがわかずます)さんが関東管領として入城しました。でも、それだけではお話は終わらなかったんですぅ……。イベント1を表示する
ほど、具足の点検を行おうと思う。本来なら書物を読む方が性に合っておるのだが、戦の準備も怠ってはならぬからな。戦と言えば、この千代城は伊達氏の家臣、国分盛重(こくぶんもりしげ)殿が治めておった城じゃ。盛重殿はかの政宗公の叔父にあたり、伊達家の重鎮でもあった。しかし、ある日突然出奔し
いう名の絶世の美女がいたのは知ってるかしらぁ?城主、細川持隆は小少将の美貌に溺れて、日夜酒宴を開いてた。だけど御城の防備を怠っていたせいで、家臣の三好実休に攻め込まれて、自害に追い込まれてしまったのよぉ。未亡人となった小少将は、実休の夫人になったのだけれど、二番目の夫が死ぬと、今
いくるめられてしまったのだな。それで織田家の重臣同士の大ゲンカが始まってな。賤ヶ岳(しずがたけ)で互いに砦を築いてにらみ合ってたのだが勝家の家臣が命令を聞かずに突進してしまったのだ。それが原因で一気に形勢が傾いて負けてしまった。勝家もそうだが、家臣も持久戦は苦手だったのだな。「掛
ー聞こえてくる気がするんだよ。それがどうにも薄気味悪くってさ。実は、アタシは猫が苦手なんだ。鍋島藩の化け猫騒動って知ってるか?藩主鍋島勝茂が家臣の龍造寺又一郎を手討ちにしたら、又一郎の飼っていた猫が、飼い主の仇を取ろうとする話だ。猫は又一郎の生首を持ち帰ると、その血を舐めて妖怪と
分ではないか!「三成に過ぎたるものがふたつあり。島の左近と佐和山の城」世人にそう評されたほどの堅城なのだぞ。ちなみに「島の左近」とは、三成の家臣で猛将として知られる島左近のことだ。おっと、それくらい常識だったな。調子に乗って、つい余計なうんちくを垂れてしまった。貴殿にとっては退屈
かもしれませんが、実はわたし、こう見えても宇都宮城ちゃんたちと同じく関東七名城のひとりなんですよ?この七名城とは、戦国時代の末期に上杉謙信の家臣であった夏目定吉が語ったという難攻不落の七城のことなのですが、その顔触れはそうそうたるものでしてぇ、敬称略でずらりと並べるならば――、宇
%E3%83%88_%E5%9B%B3%E9%91%91.gifボイス[]声:ささきのぞみ自己紹介私こと掛川城は、駿河の守護大名・今川氏が、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが始まりと言われています。実は、東海を制す重要な拠点ともされていた私には、様々な言い伝えが残っているのです
上、背後には高い峰……、周囲には急斜面の岩山が広がってるわ。どう? 前後左右、全くの隙無しよ!この堅い守りを活かしてかの石城合戦では、伊東家家臣団の六百人で、島津家の大軍、七千人を追い払ったこともあるの!ふふん♪ これでアタシの凄さが少しは理解できたかしら?ああ、信頼してるぞ!だ
戦功と称えられたこの力、貴方のために捧げましょう!たまに羽目を外すこともありますが……、ご容赦くださいね?所領1音痴だから人前で歌うなーって家臣に言われてしまったんですけど、ちょっと聞いてもらえませんか? ……ってお殿様?どうして耳を塞いでるんです?おーとーのーさまー?所領2戦で
羽国なのです。なのですが……私、義光様の奔放な部分も受け継いでしまっているようで……ふわぁぁっ……。何でも、義光様の当主らしからぬ振る舞いを家臣の一人が涙ながらに諌めたこともあるとか。今の私と通じるところがありますね……。あぁ~……。今頃、支城の皆さんは大騒ぎしているんでしょうか
なぁ、って思ってたの。徳川家康も言っていたように、最高の宝のひとつは人材なんだ。器物はどんな名物だろうと、肝心な時に役立たない……。だから、家臣や仲間こそ、大事にしなくちゃいけないんだ。それが分かってる殿だからこそ、ボクらはみんなついていくんだよ。こんな俺でいいのか?…………ぐぅ
返った。これにより、勝家は北陸から京に出るための重要な拠点を失うことになったんだ。翌1583年に賤ヶ岳の戦いで勝家が滅ぶと、長浜城は秀吉様の家臣だった山内一豊に与えられたんだよ。だけど1586年に天正地震が起こって、長浜城は全壊してしまうんだ。城下でも、大地が割れたっていう記録が
秋様がわたしの城主だった頃のお話です。かの決戦以降、秀秋様は精神的に不安定な状態が続きました。周囲を困らせることも多かったそうです。見かねた家臣たちは、秀秋様に諫言しました。で、ですが……怒った秀秋様は家臣に命令を下して……、そのうちの一人の命を奪ってしまったのです。今思い出して
滅亡した際に、当時の城主だった逆井常繁さまの奥方さまが、先祖代々に伝わる釣鐘を被り、城内の池に身を投げたそうです。その後、釣鐘を探そうとした家臣たちが、何度も池を掘ったため、その池は『かねほりいけ』と呼ばれるようになったのですよ。釣鐘は結局見つからなかったのですが、それよりも、わ
真に使える剣…私の存在理由そのものだ。歪んだ考えだと揶揄されたとしても、それが私の選んだ道なのだ……。使命に生きるのも、一つの道だな。俺は、家臣にも幸せでいてほしい。私は幸運だった。命を懸けるに値する使命を見つけられたのだからな。この思いはきっと、最期の時まで変わらないだろう。そ
那古野城だよ。よろしくな!尾張国の織田信秀が、今川氏を追い出して名前を那古野城に変えたんだ。元々、織田信秀は尾張の守護だった斯波(しば)氏の家臣の守護代の、そのまた家臣に過ぎなかったんだ。だけど、才覚一つでのしあがっていって、ついには主家を凌ぐ力をつけたんだ。大したもんだな。付い
津氏は日向国を制圧したのです。しかし、当主の伊東祐兵(すけたか)は、御家の再興と飫肥城の奪還をあきらめてはいませんでした。その後、羽柴秀吉の家臣となり山崎の戦いで活躍。秀吉の九州征伐の際には道案内役を買って出て、その功により、島津氏撤退後の飫肥城主に返り咲いたのです。この時、祐兵
を送り合ったりしてたのに。私、多聞山城を怒らせたのでしょうか?多聞山城と飯盛山城の関係ですか?戦国時代、飯盛山城は三好長慶さまの、多聞山城は家臣の松永久秀さまの御城になりました。多聞山城とはそれ以来のつきあいです。長慶さまは室町時代末期における事実上の支配者で、将軍をしのぐ力を持
建てる際、石垣の隙間を埋めるための小石(五郎太石)が大量に紛失してしまってな。それ以来、ずっと探しているのだ。責任を巡って工事に携わっていた家臣同士の争いが起こり、熊谷元直、天野元信の重臣2人が斬首されている。重い処罰だが、関ヶ原の戦いの後、豊臣方だった毛利氏は大幅に減封され、広
……。盛氏様の代には戦国大名として輝きを放っていた蘆名氏も、盛氏様亡き後は次第に翳りを帯びていきました。お世継ぎが若くして次々と亡くなられ、家臣団も分裂。その隙を伊達氏に突かれることとなったのです。1589年、磐梯山麓で行われた摺上原(すりあげはら)の合戦で伊達政宗公の軍勢に敗北