タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1394年 ポルトガルのポルトにおいて、ジョアン1世とフィリパとの間に生まれた。ジョアン1世の子としては第5子であり三男に当たる。Casa do Infante(王子の家)及びその周辺かレサ・ド・バイリオ修道院で生まれた説がある。
1414年[21歳] 父ジョアン1世とともに、ジブラルタル海峡に接しイスラーム勢力が立てこもる都市、アフリカ北岸にあるセウタ攻略戦を計画する。
1415年[22歳] 8月にセウタの攻略が完了し、ポルトガルはアフリカ一帯への進出を始める準備が整うこととなった。同時に、この出征において武功を立てたエンリケは騎士に叙され、ジョアン1世によって新たに設けられたヴィゼウ公の位に就いた。この間、イスラムの地にあるプレステ・ジョアンの伝説を聞き*3、サハラ砂漠を越えるキャラバンなどイスラム貿易の実態を垣間見るなどしたことで、エンリケはイスラム商人を介することなく金を求める活路を見出すために、アフリカ西岸航路の開拓への野望*4を抱くようになった。後にキャラベル船開発の指示や探検隊の派遣を行っていくが、彼の探検事業はヨーロッパ全土に広まっていかなかった。
1416年[23歳] ポルトガルの最南西端にあるサン・ヴィセンテ岬周辺(現在のサグレス)に、テルサナバル(Terçanabal)という村を再建した。この村は後に「王子の村(Vila do Infante)」と呼ばれる。 この村に、造船所・気象台(天体観測所)・航海術や地図製作術を学ぶ学校などを建設。この時期に、当時の地図製作の権威の一人であるジェフダ・クレスケスを招聘し、既存の地図の集成を行わせ後の冒険の足がかりを築かせた。同時に、この港の恩恵を被ったことで、この地に程近いラゴスは造船地帯として発展を遂げた。( ※数学者のペドロ・ヌネシュは航海学校の存在に言及しているが、今日では後世の創作であるとの見方が有力となっている)
1419年[26歳] 前年12月にエンリケが派遣したジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ヴァス・テイシェイラによって、マデイラ諸島が発見され翌年から植民地化が始められた(マデイラ諸島の占有を主張する動きは、おそらくカスティーリャのカナリア諸島の占有への対抗だった)。これはエンリケの事業にとって最初の成果となるものである。同年、エンリケは父親にアルガルヴェ州の知事に任命され、マグロ漁業の独占権を手に入れた。
1420年[27歳] 5月25日、エンリケはテンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に、莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源とした。このため特に1440年代までに駆け、エンリケは大西洋への進出に並々ならぬ情熱を傾けると同時に、騎士団における重責についてもおろそかにはせず、以後はキリスト教を熱烈に信奉する。特にエンリケはこの資金源をカナリア諸島(ポルトガルが1346年以前に発見したと主張していた)の征服に利用しようと考えていた。また、イベリア州においては探検隊によって得られた利益に対して20%の税金(o quinto)を徴収し、収入源とした。
1422年[29歳] ボハドル岬の迷信に挑み続け、たびたび探検隊を派遣したが失敗を繰り返す。
1425年[32歳] 兄コインブラ公ペドロがヨーロッパ各地を外交目的で旅行し、エンリケのための地理的な材料を探し出すことがあった。後にエンリケはヴェネツィアの地図製作者によって起草された現時点での世界地図を手に入れた。
1427年[34歳] ディオゴ・デ・シルベスがアゾレス諸島を発見。以後はゴンサロ・ヴェーリョ・カブラルらが探検行を行った。なお、この時までにポルトガルの航海士もサルガッソ海(北大西洋西部で海藻に因んで命名された)に到達していた。
1431年[38歳] 文法学、論理学、修辞学、哲学、算術、音楽、天文学、医学などの科学を結集させた施設(後にリスボン大学となる)を寄贈した。各部屋が各科目の研究に相応しくなるよう指示していた。
1433年[40歳] 死去したジョアン1世の跡を受けてポルトガル国王に即位したエンリケの兄ドゥアルテは、ボハドル岬以遠の新規到達地における商業上の利益の内、その5分の1をエンリケに支払う旨を約した。
1434年[41歳] 派遣したジル・エアネスの探検隊によって、ボハドル岬が踏破されこれにより航海者に長く信じられた迷信が打破された。このことは後の未知の地への探検行を促した点で重要な出来事となった。
1437年[44歳] 周囲の反対を押し切って北アフリカのタンジールに派兵するが、イスラム勢力に完敗し失敗。この時、弟であるフェルナンド王子が捕らえられ、王子は40歳で死去するまでの6年間を捕虜としてその地で送ることとなった。この失敗によりエンリケの軍事上の評価は地に落ち、これ以後は晩年に到るまでその身を国内政治と探検事業のみに捧げることとなる。
1438年[45歳] ドゥアルテの治世がわずか5年で終わると、エンリケはドゥアルテから与えられた自らの特権についての保証を得ることを見返りに、もう一人の兄であるコインブラ公ペドロを支持。筋書き通り、わずか6歳のアフォンソ(ドゥアルテの子、エンリケとペドロにとっては甥)をアフォンソ5世として即位させ、摂政となったペドロとともにこれを支えた。このアフォンソ5世の治世において、アゾレス諸島の植民地化が本格的に始まった。この頃、ポルトガルにおいて新たに開発されたキャラベル船によって、探検事業は飛躍的な進展を遂げることとなる。
1441年[48歳] ヌーノ・トリスタンとアントン・ゴンサウヴェスによってブランコ岬(現在のモーリタニア沿岸)に到達。その地で初めてアフリカの黒人を黒人奴隷として捕らえ、本国に連れ帰った。
1443年[50歳] 探検隊がアルギン湾に達し、五年後にはこの地にポルトガルの要塞を築いた。
1444年[51歳] ディニス・ディアス(バルトロメウ・ディアスの父)がセネガル川とヴェルデ岬に到達。この段階で既に探検家たちはサハラ砂漠の南端に達していた。これによりエンリケは、サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなくアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという当初の目的を達した。アフリカ南部から大量の金を得ることができるようになったことで、1452年にはポルトガルでは初となる金貨が鋳造された。この時期になると、エンリケは国政の関与においても多忙を極め、後世に残るものとしてはコインブラ大学に天文学の講座を設けるなどの施策を行っている。
1444~1446年[51-53歳] エンリケの派遣に代わり、私的な商人による探検が始まった。およそ40隻の探検船がラゴスの港より出港。
1450年代[57-66歳] アルヴィーゼ・カダモストはアフリカの大西洋岸を探検し、1455年から1456年の間にカーボベルデ諸島の群島を発見した。アントニオ・ノリは後に名声を主張した。
1460年[66歳] 探検行は今日のシエラレオネ沿岸にまで達した。エンリケは「王子の村」において66年の生涯を閉じた。その生涯において、シエラレオネに到るまで、エンリケの派遣した船団はアフリカ沿岸の実に2400キロもの距離を踏破した。エンリケの事跡は後のジョアン2世の時代におけるポルトガルの海外進出への道筋を付ける形となった。
=死後=
1960年 ポルトガルでエンリケ航海王子勲章が創設された。エンリケの没後500年を記念し、ポルトガルの首都リスボン市内のテージョ川河岸に「発見のモニュメント」が建てられた。
1994年 ポルトガル政府などからの贈り物として、探検家たちの事跡を記念したヘンリー航海王子公園がアメリカ合衆国マサチューセッツ州ニューベッドフォードのポープ島に建設された。
1996年 発行された10000エスクード紙幣に肖像が印刷された。
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