タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1415年 ポルトガルのセウタ攻略戦。モロッコ人を驚かせた。
1418年 マリーン皇帝アブ・サイード・ウスマン3世は軍を率いたが、包囲は失敗。これにより、国内では皇帝に対する不信感が広まった。
1420年*2ウスマン3世が暗殺され、フェズでのクーデターは最高潮に達し、アブ・ザカリヤが支援する1歳の子アブ・ムハンマド・アブド・アル=ハク2世だけが継承者として残った。しかし、すぐに他の権利主張者が現れ、相次いで闘争が勃発した。特に、機会を狙ったグラナダのナスリドの支配者とトレフェセンのアブダルワディッドが介入し、それぞれがモロッコ王位の異なる候補者を後援していた。当時、アブ・ザカリヤはサレの総督を務めていたが、皇帝暗殺の知らせを聞いて、サレから急いで出てフェズの王宮を掌握した。そこで孤児のアブド・アル=ハクを新しいマリーン皇帝にし、自分は摂政と高官を務めると宣言した。アブ・ザカリヤの介入は、他の候補者がモロッコを外国支配に明け渡すことを恐れた旧マリーン宮殿官僚機構によって促進された。
しかし、アブ・ザカリヤの令状は宮殿をはるかに超えて広がらなかった。ワッタシド大臣を認めなかったモロッコはすぐに暴動と紛争に陥った。グラナダとトレンセンの介入と陰謀は続き、地方の知事は地区の支配権を握り、最高入札者に忠誠を転売し、スーフィーに触発された宗教過激派は都市部の支配権を握るために暴徒を宣伝して呼び集めた。好戦的な田舎の遊牧民ヒラリア・ベドウィン族は、法律の崩壊を機に、小さな町や集落への襲撃・盗難を始めた。モロッコが混乱している中、セウタに対する圧力は一時的に解除され、ポルトガルはこれを利用してセウタを完全に支配した。その後の数年間はモロッコで無政府状態が続き、アブ・ザカリヤは摂政の下で権利主張者を倒し国を戻すのに難儀した。
1436年 皇帝アブド・アル=ハク2世はこの年までに成人したが、アブ・ザカリヤは摂政からの退陣を拒否した。モロッコでの新たな政治危機を感じたポルトガルは、さらに自国領を広げるには都合の良い時だと考え、タンジールの要塞を占領するための遠征隊を組織し始めた。
1437年 8月、エンリケ航海王子が率いるポルトガル遠征軍はモロッコに上陸した。しかし要塞を十分強化したため、タンジールが占領されることはなかった。アブ・ザカリヤにとって、ポルトガルの攻撃はむしろ政治的なチャンスだった。外国の侵入者を追放するために国家の団結を訴え、軍隊はモロッコの隅々から派遣され、ワッタシド自治区の長官の処分に身を置いた。彼は大規模な軍隊をタンジールに導き、10月初めまでにポルトガル野営地を包囲した。結果的にポルトガル遠征軍は降伏し、10月15日にエンリケはセウタをモロッコに戻す条約に合意した。
タンジールでのポルトガルの勝利によって、アブ・ザカリヤは一晩で「執着深い摂政」から「国民的英雄」に変わった。長い間草の根活動を率いて摂政に反対していたスーフィーらは、今や彼の下に集まり、アブ・ザカリヤのライバルや地方知事はすぐに元の団体に戻っていった。皇帝アブド・アル=ハク2世が人気のある強力な大臣を解任する計画も棚上げされた。アブ・ザカリヤは、モロッコの団結力を強めて国力の拡大に成功した。
抜け目のない彼は、イドリス2世*3の墓だという口実で、フェズにザウイア・ムーレイ・イドリス2世の壮大な聖堂を建て勝利を祝った。実際にイドリス2世の新しい墓は、タンジールでのアブ・ザカリヤの勝利の記念碑としても役立っていた。
1443年 結局、ポルトガルは条約の履行を拒否し、人質のフェルナンドはこの年に亡くなった。一方、これでアブ・ザカリヤの新しい威信が減少することもなかった。
1448年 この年に死去するまでモロッコを支配し続けた。彼の人気と権力は、彼の甥アリ・ブン・ユスフの任命を確保するのに十分で、皇帝アブド・アル=ハク2世のために新しい全権力を持つ後継者となった。アブ・ザカリヤ自身の息子ヤヒヤ・ブン・アビ・ザカリヤは1458年に高官として従兄弟の後を継ぐ。
フレイ・ジョアン・アルバレスとルイ・デ・ピナのポルトガルの年代記では、アブ・ザカリヤはLazeraqueと呼ばれ、アルバレスによるとこの渾名は「彼が外斜視(父がマリーン人・母がキリスト教徒)であるから*4」と述べている。フェルナンドと共に投獄されたアルバレスは、アブ・ザカリヤの個人的な性格を以下のように容赦なく弾圧している。
マリーン朝の貴族を強引に退け皇帝を束縛した悪意と欺瞞によって権力を握った「低俗な」生い立ちの人物である。普遍的に恐れられていたが、それにもかかわらず穏やかさ・敬虔さ・礼儀の影響で相手の敵意を和らげていた。
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