タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1410年 ポルトガルで生まれる。
1433~1438年[22~27歳] 著述家を生涯の半ばで始める。ドゥアルテ1世の治世中にフェルナン・ロペスの助手として王室の図書館に入り、1452年には一人で仕事を担当した。
1450年[40歳] ロペスが書いたジョン1世の年代記(第3部)に補足し、セウタ攻略戦を著述する。
1453年[43歳] エンリケ航海王子時代のギニアの発見・征服に関する年代記(ギネー発見征服誌)の草稿を完成させた。草稿ではエンリケの地理的好奇心についても触れられている。
1454年[44歳] 6月6日、ロペスの後を継いで古文書の管理長と王室の編年史家長となる。
1456年[46歳] アフォンソ5世は、1415年~1437年までのD・ペドロ・デ・メネゼスの支配下にあったセウタの歴史を書くよう依頼し、ズララは1463年に完成させた。
1464年[54歳] 王はアルカセル・セゲルの総督D・ドゥアルテ・デ・メネゼスの歴史を彼に告発。アフリカに進んで資料を収集し、説明する予定の出来事や情景を研究するのに1年を費やし、1468年に記録を完成させた。なおアフォンソは、親しい間柄でズララと文通をしていた。
1474年[64歳] リスボンで亡くなる。
初期ルネッサンスの影響を受けたズララは、ロペスのように率直で生き生きとした文章を書かず、引用や哲学的な熟考を用いて博識を示す形式を好んだ。ヨーロッパの顕著な年代記やロマンスに精通し、イタリアとスペインの作家を研究していたため、彼の作品には多くの古典的な初期キリスト教徒と中世の作家が見られる。さらに、彼は古代の地理的システムと占星術も習得していた。歴史家としては勤勉で正確かつ良心的だが、英雄エンリケ王子の全ての真実を書くことは許されなかった。
=年代記=
ギニアの発見と征服の年代記(ギネー発見征服誌)
英語版『The Chronicle of Discovery and Conquest of Guinea』の序文には、ズララの生涯や著作の説明が含まれている。
エンリケによる「発見」の年代記
ズララの『Crónica dos feitos da Guiné』は、エンリケ時代の航海や発見に関する歴史的情報源である(ズララは1434-1448年をカバーしている)。しかし、エンリケに委託されて書かれたズララの年代記は王子の「聖人伝」であり、彼の回想に依存していたため信憑性は低い。だが、そもそも当時の記録が少ないので、歴史家はズララを頼りにする他なかった。
ズララはアントニオ・チェルヴェイラ(詳細不明)によって書かれた遠征に関する文章を基に、より詳細に編集して年代記を仕上げた。残念ながらチェルヴェイラの原本は発見されておらず、ズララ自身の年代記も原稿形式のまま何世紀にもわたって世間の目から隠されていた。(※確かに1507年にイタリアで出版されたアルヴィーゼ・カダモストの回想録を除けば、1552年にジョアン・デ・バロスの Primeira Década da Ásiaが出版されるまでエンリケ時代の発見に関する出版物はなかった。)
ジョアン・デ・バロスは、保管所にズララの原稿が散らばっているのを見つけ、それに基づいて1552年に自身の年代記を構築したと主張。しかし10年余り後、ダミアン・デ・ゴイス(1567年に執筆)はズララの原稿が消えたと発表した。原稿探しが始まったが、しばらくは見つからなかった。スペインの聖職者バルトロメ・デ・ラス・カサス(1540年代に執筆)はズララの複写を持っていると示唆したが、それも発見できなかった。しかし1839年、フェルディナンド・デニスがパリ王立図書館*1で無傷の状態のズララの原稿を再発見した。パリの古写本には、黒い鍔帽子を被った薄い口ひげを持つ男の肖像画が含まれており、すぐにエンリケ航海王子であると仮定された(これ以前にエンリケの写真はなかった。口絵は現代の王子のイメージの基礎となり、以来無数の本・絵画・モニュメントで再現されているが、近年これにも議論が出ている。詳しくはサン・ヴィセンテの祭壇画の頁へ)。当時のポルトガルのフランス大臣ルイス・アントニオ・デ・アブレウ・エ・リマ(カレイラ子爵)は、1841年にズララの年代記の初版を整理し、マヌエル・フランシスコ・デ・マセド・レイタン・エ・カルヴァリョサ(サンタレンの子爵)の序文と覚え書を加えた。この出版物は一大センセーションを巻き起こし、特にポルトガルの優先的な問題がある西アフリカを対象とした英仏植民地侵略をめぐって外交的な争いが繰り返された。
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