タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1392年 ポルトガル王国のリスボンでジョアン1世とフィリパの間に生まれる。幼い頃から父親お気に入りの息子で、兄ドゥアルテや弟ジョアンと仲が良くかった。兄弟ともに母親の熱心な教育を受け、穏やかな環境の中で育てられたとされる。
1415年[23歳] 8月14日、ペドロは父ジョアン1世と兄ドゥアルテ、弟エンリケらと同行してセウタ攻略戦に参加した。兄弟たちと同じ日に騎士となり、彼はポルトガルで初めてのコインブラ公となった。
1418年[26歳] セネカの De Beneficiis*2を翻訳し終えたのち、ペドロはヨーロッパ中を旅行しに国を発ち、10年間国から離れていた。バリャドリッド*3でカスティーリャ王フアン2世と面会した後にハンガリーへ向かい、ハンガリー王兼神聖ローマ皇帝ジギスムントのもてなしをうけた。ペドロはジギスムントの軍に加わって対オスマン帝国戦*4、ボヘミアのフス戦争*5においても戦った。
1422年[30歳] ペドロは北イタリアのトレヴィーゾ公位を与えられた。
1424年[32歳] 神聖ローマ帝国を離れ、パトモス島*6でオスマン皇帝ムラト2世と面会。当時はコンスタンティノープル*7を攻撃している最中であった。オスマン軍の猛攻撃に対するコンスタンティノープルの絶望的な状況は、ペドロに強い印象を与えた。コンスタンティノープルから、アレクサンドリアとカイロを経由して、ペドロは聖地へ旅行した。
1425年[33歳] フランスとイングランドを旅行し、パリ大学とオックスフォード大学を訪問した。
1426年[34歳] フランドル*8へ到着し、ブルゴーニュ公国*9の宮廷に2年滞在した。ブルゴーニュ公フィリップ善良公の2度目の妃ボンヌ・ダルトワが去年亡くなったため、ペドロは妹イザベルを推薦した。
1427年[35歳] ペドロは兄ドゥアルテに宛てて、ブルッヘ*10からの『正確な王国管理』という有名な手紙を書いた。同年、イングランド王ヘンリー4世からガーター騎士に叙された。
1428年[36歳] ヴェネツィア近郊のトレヴィーゾ公国を訪問。 そこでヴェネツィア共和国のドージェ(元首)から、マルコ・ポーロの著作の複写を贈呈された。のちにペドロは、この複写やヴェネツィアの東方貿易行路の地図を弟エンリケへ渡した。ヴェネツィアからはローマへ旅行し、ローマ教皇マルティヌス5世に面会した。その後バルセロナへと旅を続け、そこで兄ドゥアルテの妃としてアラゴン王女レオノールをもらい受けたいと交渉し、同時に自身の妃としてウルジェイ(ウルヘル)伯女エリサベ(イザベル)との結婚を交渉した。こうしてペドロは、10年かけて外国を見聞して歩いた。
1429年[37歳] ウルジェイ伯ジャウマ(ハイメ)2世の長女で相続人となったイサベルと結婚した。この結婚によって、ペドロはアラゴンの王位請求権を得た。ジャウマ2世はアルフォンソ4世の男系の曾孫であり、マルティン1世の死によりバルセロナ家の嫡系が断絶した際には有力な王位継承候補者であったためである。
1433年[41歳] ペドロは6巻にも及ぶ有名な作品 Tratado da Virtuosa Benfeitoria を完成させた。
1438年[46歳] 兄ドゥアルテ1世が急死すると、幼いアフォンソ5世が即位し、母レオノール王太后が摂政に選ばれた。この選択は、レオノールが外国人であるため国民に歓迎されず、ペドロの弟ジョアンによりコルテスが招集されて、ペドロを摂政とすることが決定された。この選択は、一般庶民と、急激に発達するブルジョワ階級の両方に支持された。
しかしポルトガル貴族の内部では、特にバルセロス伯アフォンソ(ジョアン1世の庶子、ペドロの異母兄)がレオノール王太后に好かれていた一方、ペドロの政治的能力には疑いを持っていた。「影響の戦い」が始まり、数年後にはバルセロス伯アフォンソがアフォンソ5世お気に入りの伯父として権力を持つようになった。
1443年[51歳] 和解の印として、ペドロは異母兄アフォンソをブラガンサ公に授爵し、両者の関係は沈静化したかに見えた。
1445年[53歳] しかしブラガンサ公アフォンソは、自分の娘ではなくペドロの娘イザベルがアフォンソ5世の妃に選ばれたことに気分を害した。些細なことで陰謀がめぐらされたが、ペドロは摂政を続け、その下で国は繁栄した。この時期に大西洋探険を遂行するための最初の助成金が出され、組織はエンリケ航海王子に与えられた。
1448年[58歳] 6月9日、アフォンソ5世は成年に達しペドロは王に国の全権を手渡した。伯父ブラガンサ公に影響されたアフォンソ5世は、ペドロの勅令全てを無効にして彼に敵対し始めた。 その年のうちにペドロには罪名が課せられ(後に嘘だと証明された)、アフォンソ5世は反逆者と名指しした。この緊迫した状況は内戦に発展した。
1449年[59歳] 5月20日、アルファルロベイラの戦い(アルヴェルカ近郊)でペドロは戦死した。死の状況ははっきりしていない。戦闘中に死んだという説、また自身の従者に暗殺されたという説がある。
ペドロの死後、ポルトガルはブラガンサ公アフォンソの手に落ちた。しかし、ジョアン2世の時代に祖父であるペドロは賞賛され、祖父の没落を招いたブラガンサ公に対する冷酷な迫害がされた。
=子女一覧=
・ペドロ(1429年 - 1466年)
・ジョアン(1431年 - 1457年)
・イザベル(1432年 - 1455年)
・ジャイメ(1434年 - 1459年)
・ベアトリス(1435年 - 1462年)
・フィリパ(1437年 - 1493年)
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