タンジール戦
タンジール戦(タンジール包囲戦とも)は1437年(9月13日ー10月19日)にポルトガル遠征軍がモロッコのタンジールを占領するためにマリーン・スルタン軍と争った一連の戦い。ポルトガルは15世紀にタンジ...
1432年 ヴェネツィアの宮殿Ca' da Mostoで生まれ、彼の名前の由来となる。父ジョヴァンニ・ダ・モストは公僕かつ商人で、母エリザベス・ケリーニは愛国者であった。カダモストは長男で、弟にピエトロとアントニオがいた。幼い頃から商人の冒険家としてヴェネツィアのガレー船に乗り地中海を航海していた。
1442年[10歳] 1448年まで従兄弟アンドレア・バルバリゴの代理商として、バーバリー海岸とクレタ島への遠征を行った。
1451年[19歳] 海兵隊(アレクサンドリアへの船上の石弓射手)の将校に任命された。
1452年[20歳] フランダースにも将校として務めたが、帰国後に家族が失脚されていたことを知る。収賄事件に巻き込まれた父親はヴェネツィアから追放されモデナ公国に避難しており、彼の親戚はアルヴィーゼ家の財産を横取りした。この出来事に挫折を味わったカダモストは、冒険をして偉業を成すことにより、名声と財産の回復を強く望むようになる。
1454年[22歳] 8月、カダモストと弟アントニオは、フランダースに向かうマルコ・ゼンが船長を務めるヴェネツィアの商人船に乗る。しかし悪天候により、ガレー船は往路のセントビンセント岬付近で停泊を余儀なくされた。天候の改善を待っている間、サグレスの近くにいたエンリケ航海王子は、秘書のアントン・ゴンサウヴェスと地元のヴェネツィア領事パトリツィオ・ディ・コンティを派遣した。ヴェネツィアの商人にマデイラ島からの砂糖やその他の商品の貿易契約を結ぶことに興味を持たせるのが目的であった。エンリケの遠征によるアフリカでの発見を知ったカダモストは、新たに発見された土地を訪問したいという願望に燃え上がった。ラポセイラですぐに探検の申請をし、エンリケはその場で彼を雇った。(注:当時のポルトガルの編年者ダミアン・デ・ゴイスは、カダモストとエンリケの出会いは1444年に起こったとしているが、現在は1454年説が有力である。)
1455年[23歳] 1回目の航海
3月22日、エンリケが提供した43トンのキャラベル船に乗り出港。船主はビセンテ・ディアスが務めた。ポルトサントとマデイラへ向けて航海し、カナリア諸島を縫うようにして進んで、ラ・ゴメラ、エル・イエロ、ラ・パルマに立ち寄り、ブランコ岬周辺のアフリカ沿岸に到着した。なお、アルギンのポルトガル交易所の存在をメモしているが、立ち寄った記述はない。カダモストは西アフリカ沿岸をセネガル川の河口まで巡航した(彼はその地をRio do Senegaと呼んだ)。しかしここで止まらず、さらに南に位置するグランデコート沿いの停泊地に着いた(場所は不確実でムボロ周辺かと思われる、彼はPalma di Budomelと呼んだ)。カダモストは、この場所はすでにポルトガルの商人によって使用されていたと指摘し、ポルトガル人とセネガルのウォロフの人との貿易が1450年頃に開かれたと推定した。そして、この交易所の主要なビジネスラインである黒人奴隷のためにイベリア馬を取引しようと考えた。馬はセネガル沿岸で高く評価され、1頭あたり9〜14人の割合で取引されていたのだ。彼は約100人の奴隷のために7頭の馬といくつかの羊毛の商品(総額300ダカット金貨に相当)を売ったと言われている。停泊中、カダモストはカヨールの支配者ダメル(彼はブドメルと呼ぶ)に出会い、驚いた。ダメルは貿易の詳細が仕上がる間、彼を内陸に招待した。カダモストは、ビスボロル王子(ブドメルの甥)がもてなす内陸の村で1ヶ月近くを過ごし、喜んでその土地の国や習慣について学んだ。カヨールでの貿易が終わり奴隷だけでは満足のいかないカダモストは、ヴェルデ岬半島に向かって、海岸をさらに下って巡航することを決めた。これは、岬の向こうに「新しい国を発見する」という純粋で探索的な気晴らし旅行、より具体的にはエンリケ航海王子が(以前の奴隷捕虜から)金が豊富に発見されたと聞いた「ガンブラ」という神秘的な王国の存在を示唆していたのだ。6月、カダモストはヴェルデ岬周辺で2隻のポルトガルのキャラベル船に出くわした。1隻はエンリケに仕えるジェノヴァの船長アントニオット・ウソディアレが指揮し、もう1隻はエンリケ王室の無名の従者が率いていた。彼らは航海に協力することに合意し、一緒に南に進んだ。釣りをするため無名の島々(マドレーヌ島?)で少々停泊した後、彼ら3人は、セレリ人が住むシネ・サローム三角州に到達するまでプティット・コートを南に航海した。カダモストはセレリ人について差別的で彼らを野蛮な偶像崇拝者として特徴付けている(ただし、現時点での彼の情報は主にウォロフ人の通訳から引き出されている)。彼はサロウム川を Rio di Barbaciniと命名し、その後ヨーロッパの地図で知られ続ける地名であると主張している。カダモストとウソディアレはそこに入ろうとしたが、浜辺に集まったセレリの原住民と接触するために上陸した通訳がその場で殺されたとき、すぐに反対することを決めた。南に押し進み、カダモストとウソディアレは遂に1455年6月下旬か7月上旬にガンビア川の河口を発見した。彼らは上流を航行し始めたが、上流に住むマンディカ人からの絶え間ない敵意に直面する。飛び道具による激しい攻撃を受け、乗り込もうとする大量のカヌー船の襲撃をかわすのがやっとだった。カダモストの通訳によると、マンディカ人はポルトガル人が人食いだと信じていた。乗組員によって促され、貿易で手に入れた奴隷の保持を望むカダモストは、冒険の中止を決め川から後退した。彼はポルトガルへ帰還する際の詳細を記述していない。
カダモストはガンビア川の河口で、地平線上の北極星の消失をメモし、南十字星座の最初の描写であると考えられている明るい星座を大まかにスケッチした。そして星座をcarro dell' ostro(南の2輪馬車)と命名。(※ただし、間違った配置かつ過剰な星の数が記載されており、より正確な描写は1500年のメストレ・ジョアン・ファラスによる。)アントニオット・ウソディアレが1455年12月12日に航海の結果を報告する手紙をジェノヴァの債権者に書き戻したので、船団は年末までにポルトガルに戻ったことが知られている(手紙の内容は誇張され、カダモストは言及されていなかった)。
1456年[24歳] 2回目の航海
5月、アントニオット・ウソディアレ、無名のポルトガルの船長、エンリケのもう一人の召使いと共にラゴスから出港。3隻の船は(おそらくエンリケの指示に従って)奴隷貿易など寄り道せずにガンビア川に直行するつもりだった。しかしヴェルデ岬周辺で嵐につかまり、 小さな船団は約300マイル海岸から離れて西に航海することを余儀なくされ、2日と3泊かけてまだ未発見のカーボベルデ諸島に行き着いた。彼ら3人は4つの無人島を偵察した(※しかしカダモスト自身は10の島だと記している)。まず最初にブオナビスタ(ボアビスタ)と名付けた島に停泊し、大きな島であるサンヤコボ(サンティアゴ)と名付けた島に進んだ。だが島々の魅力は少なく、彼らは本来の目的地に向かった。(注:カーボベルデ諸島の発見に対するカダモストの主張は1462年(1460年とも)にアントニオ・ノリと共に島々を発見したと主張するディオゴ・ゴメスによって論争されている。)3人は嵐に遭遇するすることなくガンビア川に入った。彼らは約10イタリアマイル(15キロ)上流を航行し、サントアンドレアと名付けた川の島に短時間停泊した(死んだ乗組員を埋葬するためにアンドレアと名付けられた。島は現代のドッグアイランドであると考えられている)。彼らはマンディカ人に注意深く見守られながら上流を進んだが、今回は敵対や待ち伏せはなかった。結局、ポルトガルの船上に原住民を誘惑し、ある通訳者を通して平和的な接触を始めた。原住民はフォロサンゴリ王(ガンビア南岸を支配)の国民だと身元を明かし、彼とガンビア川沿いのほとんどのマンディカ王は、マリ皇帝(インパトーレ・ディ・メリ)の家臣であり、王の何人かはポルトガル人に会うことを喜んでいた。対談者の指示に従って、カダモストはガンビア川を約60イタリアマイル航海し、マンディンカ王(原住民にとってBatti王であり、カダモストはBattimansaと呼んだ。川の北側バディブを支配)の邸宅に到達した。彼らは快く受け入れられたが、期待していた大量の金に関することが無く失望した。彼らは地元の人々と特に麝香(ヨーロッパの調香師にとって非常に貴重)を入手するなど小さな取引に従事し、アフリカのシベット猫の生きた標本を手に入れたことさえ暗示している。カダモストは、川の河口を支配する別の領主グミメサとの交流についても言及している。これはおそらく、昔のポルトガル探検家の敵対者であるディオムボス川岸のニウミ・バト(ニオミンカ)に支配が広がったバラ地方のニウミ・バンタの王、恐ろしい「ニウミマンサ」にほかならないと思われる。しかし、カダモストは彼らの関係が非常にスムーズであったと報告している。カダモストらは、出発する前に11日間バディブに滞在した。彼らはまだ数マイル上流にあったカンターの商業中心地を発見しなかった(ディオゴ・ゴメスによって数年後に発見された)。しかし、彼はマラリアに遭遇し、乗組員が発熱を起こした。この感染症の流行で、カダモストは滞在を短縮し、ガンビア川を出て海に戻り、発熱が沈静化したように見えた。西アフリカ沿岸を探索し続けることを決意した3人は、南に出航しセントメアリー岬を回航して、ボールド岬周辺の危険な白波を慎重に航海し、道中にある川(命名せず)を報告した。数日後、カダモストらはカザムランス川の河口を発見。それは王カサマンサ(カサの王。後にポルトガル人によってカサンガスと呼ばれる。現在は絶滅寸前の人々で、バイヌクの人々に関連する)にちなんで命名したものだった。原住民との接触を試みるため乗組員を送ったが、王が不在だったため、ここには滞在せず航海を続けることに決めた。南に航行し、船団はカポロッソと名付けた赤色の岬に達した(現在のロキソ岬。セネガルとギニアビサウの国境)。カダモストはロキソ岬の向こう側に2つの大きな川(サンタアンナとサンドミニカ)を挙げるが、少し混乱している。1つはカシュ川(多くの場合、後のポルトガルの地図でリオ・デ・サン・ドミンゴスとして示される)である可能性が高く、もう1つの川はおそらくマンソーア川の支流(リオ・デ・ジャッタまたはリオ・ダス・アンコラス)の1つと考えられている。一日後、リオグランデ(ゲバ川。正確にはケルバル川と一緒に形成する広い河口である)と名付けた偉大な川(grandissimo fiume)を発見したが、川には入らなかった。河口の南岸周辺に停泊した後、原住民の乗った本土からの長いカヌー船が接近して来た(身元不明。バランタスかビアフェアーズと考えられる)。いくつかの装身具が取引されたが、船内通訳者(ウォロフ人やマンディカ人)が彼らの母国語を理解できなかったため、コミュニケーションは難航した。数日後、彼らは錨を上げて島々(ビッサゴス諸島)に向かったが、そこの住民とコミュニケーションを取ることは不可能であるとわかった。言葉の壁を考えると、彼らはそれ以上進む意味を見出せなかった。3人はポルトガルに向けて帰還した。1456年に帰国した後も、カダモストはラゴスに数年住み続け、西アフリカの商業で直接的かつ間接的に関与し続けた。しかし彼がアフリカ沿岸をこれ以上遠征したかどうかは不明である。カダモストは、1462年のペドロ・デ・シントラの遠征まで、1456年以降は誰もが探索的意義のある航海をしなかったとぶっきらぼうに述べている。彼は、帰還後にシントラの牧師からその遠征の詳細を得ていた。
1460年[28歳] 11月に後援者であるエンリケ航海王子が亡くなってアフリカ貿易の独占はポルトガルの王権に戻り、その活動中心地は徐々にラゴスからリスボンに移された。
1463年[31歳] 新しい指令を受けなくなったカダモストはポルトガルを離れヴェネツィアに戻った。その際に持ち帰った覚書、航海日誌、航海図を使って、1460年代半ばに有名な「Navigazioni」を書いた。「Navigazioni」は一般的にポルトガルの発見を好評してエンリケをもてはやすだけでなく、3つの探検(1455年と1456年の彼自身の航海、1462年のペドロ・デ・シントラの航海)を詳細に説明した。ヴェネツィアの地図製作者グラツィオーソ・ベニンカサが1468年にアトラスを製作し、西アフリカ沿岸を驚くべき精度で描いたので、彼はベニンカサに多くの情報を伝えたと考えられている。
「Navigazioni」は彼の功績を広めて、家族の名誉を回復するために書かれたと思われる。帰国後、カダモストは親戚から財産の一部を奪い返すことができ、数年後には金持ち貴族のエリザベッタ・ディ・ジョルジョ・ヴェニエと結婚した。しかし彼女は病弱だったため子供を産まずに亡くなった。彼は商業に専念し直して、スペイン、アレクサンドリア、シリア、イングランドなどの貿易権を持ち、財産や人間関係を回復させて、ヴェネツィア共和国の外交と行政の職歴を積み重ねた。カタロでベネチアの地方知事(proveditor)を務め、その後コロネでダルマチアとヘルツェゴビナの外交役として派遣された。
1470年[38歳] ネグロポンテが崩壊した後、オスマン帝国に対するアルバニアの防衛計画を考案する責任者となる。
1481年[49歳] ヴェネツィアのアレクサンドリア・ガレー船の船長に選出され、出発した時と同じ船で海軍のキャリアを終えた。
1483年[51歳] フェラーラ戦争で公爵エルコール・イ・デステに勝利したヴェネツィア共和国が獲得した戦利品を評価するため、ロビゴへの外交使節中にポーランドで死亡した。(※死亡した年には議論があり早くても1477年、遅くても1488年である。)
=功績=
アルヴィーゼ・カダモス以前のポルトガルの発見の記録は、シネ・サローム三角州を超えたようには見えなかった。最も遠いカダモスト以前の遠征は、1446年のアルバロ・フェルナンデスの非凡な探検であったようで、ロキソ岬まで到達したかもしれないが、これは追跡されなかった。エステヴァン・アフォンソ率いる1447年の探検隊はガンビア川を超えて行かず、その後ヴェルデ岬以南の探検はエンリケによって大部分が中断された。ポルトガル人の主な障壁は、同じ王ニウミマンサが率いるニウミ・バト(ニオミンカ)とニウミ・バンタ(ニウミ(バラ地方)のマンディカ)の好戦さだった。カダモストは1455年の最初の遠征でその敵意に遭遇。しかし2回目の遠征で、1456年に何らかの理由で敵意が落ち、彼はガンビア川を航海する最初のヨーロッパ人(アントニオット・ウソディアレと無名の船長と共に)になることができた。1年で相手の態度が変化した原因は何か、新しいニウミマンサ王の登場・セネガンビアの政治変化など考えられるが詳細は不明である。当てにならないディオゴ・ゴメスは後に、1456年から1458年の間にガンビアを航海し、単独でニウミマンサとの和平交渉を行ったことを自慢したが、誇張されている可能性が高い。
カダモストとウソディアレはガンビア川を突破すると、カーボベルデ諸島、カザマンス川、ロキソ岬、カシュ川、ゲバ川、ビッサゴス諸島を巡り、次のアフリカ発見史の大きな飛躍をリードした。彼らが1456年に航海した海岸線は、1446年の記録を更新して最長になった。同じ海岸は1458年と1462年頃にディオゴ・ゴメスによって再び航海される(早ければ1456年。おそらくエンリケがカダモストの報告書を再調査するため派遣した)。カダモストの最も遠い地点は、1461-62年にペドロ・デ・シントラが上回った。
=著書「Navigazioni」=
エンリケ航海王子のポルトガル発見史にとって、アルヴィーゼ・カダモストの報告書Navigazioniは非常に貴重な文書である。カダモストの報告書、ゴメス・イーネス・デ・ズララの年代記、ディオゴ・ゴメスの回想録は、実質的に現在知られている歴史の大半を占めている。確かに、1552年にジョアン・デ・バロスのDecadas da Asia(ズララの年代記の原稿草案を描いた)が出版されるまで、Navigazioniはポルトガルの発見について書かれたヨーロッパで唯一出版された本だった。カダモストはエンリケ航海王子の中心的な役割を強調し、後世のイメージを構築するのに役立った。聖人伝家ズララや誤りの多いゴメスと比較して、歴史家は詳細かつ信頼性のあるカダモストを信じて賞賛した。
Navigazioniはアフリカの歴史家にとっても非常に貴重であり、アラブの歴史家イブン・バトゥータが1世紀前に触れた外縁を超えて、書面によるセネガンビア地域の詳細な記述を提供している。特に西アフリカに関する当時のヨーロッパの知識が概略としてまとめられている。マリ帝国とサハラ以南の貿易、例えばベルベルのキャラバンがテガザのような砂漠の塩類平原からティンブトゥのような辺境都市にサハラの塩を運ぶ方法について説明している。マリの中心部から産出される金が3つのルートで運ばれており、①コキアから東部のエジプトに向かう方法、②ティンブトゥ経由でトートに行き北部のチュニジアに向かう方法、③ティンブクトゥ経由で西部のホーデンに向かう方法(その一部はアルギンのポルトガル交易所に行く)がある。
カダモストは「西ナイル」ではなく、近代的な名前(リオ・ディ・セネガ[Rio di Senega])によってセネガル川を表す最初の人物として知られている。彼は不思議なことに、セネガルはおそらく古代地理学者(例:プトレマイオス)のニジェールであったと指摘する。セネガル川と(実際の)ニジェール川が互いに接続していると仮定し、東西に伸びる1つの大きな川を形成するという誤りを繰り返している。そして、それはエチオピアの土地を渡ってエデンの庭から流れたギホンの川の支流であるという聖書の伝説に関連している。
カダモストは、フラ・テクル/トゥクソルが東側を統べて、ガンビア川周辺のマンディカ人が南側を統べているウォロフ帝国について指摘している。特に彼は、ウォロフの政治・社会・文化についてかなり詳細に説明している。1455年に滞在したケイオール村、ダメルの王宮、人々、習慣、経済、動植物など、細心の注意を払って観察していた。内容はカダモストの純粋な好奇心を示しており、礼儀上の習慣、家、通貨としてのコヤス貝の使用、食べ物や飲み物、市場の運営、家畜や栽培、ヤシのワイン、武器、ダンス、音楽、ヨーロッパの目新しさ(衣服、船、大砲、バグパイプ)への反応などが書かれている。このすべての報告において、当時のヨーロッパ人としては偏見が少なかった。彼は同様にガンビア川のマンディカ人も詳細に記述し、豊富な綿(ウォロフ地域では珍しい)を特筆している(ただし船からあまり離れて冒険していないことを鑑みると、完全なものではない)。彼はガンビア周辺の豊富な野生動物、特にカバ(彼は「馬の魚」と呼ぶ)と馴染みのないアフリカゾウ(彼が味に誘惑された肉)を塩漬けし、エンリケ航海王子のためにポルトガルに持ち帰った。保存された象の足は、エンリケの妹イザベラに送られた。
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