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司馬昭の圧迫接待に対して狡猾に暗愚を演じる劉禅①
劉禅(りゅうぜん、206年/207年 - 271年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の最後の皇帝。字は公嗣[1]、幼名は阿斗。通常は後主で、諡号は懐帝[2]、または安楽郷思侯あるいは安楽県思侯[3]。
劉備と甘夫人(劉備の側室。皇思夫人/昭烈皇后)との間の子[4]。異母兄は劉封、同母兄は劉公仲(後述)、同母弟は劉永(後述)、異母弟は劉理(後述)。他にふたりの姉がいた[5]。正妻は張飛の娘の敬哀皇后と張皇后[6]姉妹。側室は王貴人と李昭儀。子は劉璿(劉濬)・劉瑶(劉揺)・劉琮(劉綜)・劉瓚(劉瓉/劉讃)・劉㻣(劉諶)・劉珣(劉恂)・劉璩(劉琥/劉虔)・諸葛瞻(諸葛亮の子)夫人・費恭(費禕の子)夫人・関統(関羽の孫)夫人・馬謀[7]夫人(馬超の孫)。甥は劉琳(劉封の子)・劉某(劉永の子、後述)ら。
司馬昭の圧迫接待に対して狡猾に暗愚を演じる劉禅②
原籍は涿郡涿県楼桑里[8][9]だが、南陽郡鄧県[10]で誕生した。生母の甘夫人は懐妊中に北斗七星の夢を見たので、そのため「阿斗」と名付けたという[11]。翌年に同母弟の劉永が誕生した(後述)。
208年の「長坂坡の戦い」では、生母と弟・劉永とともに趙雲に護衛されて、危機一髪で難を逃れた[12]。翌年、生母が若くして逝去したので、南郡に葬られた。
219年、劉備が蜀王(漢中王)になると、諸葛亮らの進言で兄の劉封を差し置いて太子となり、臨邑侯に封じられた(後述)。221年、劉備が漢帝になると司徒・許靖を派遣し皇太子となり、同時に梁王に封じられた(後述)。
223年春3月、危篤状態となった劉備の状態を聞いた漢嘉郡[13]太守の黄元[14]は屁理屈で虚言が多いことを理由に、丞相の諸葛亮に疎まれていたので、後難を恐れてついに反乱を起こし、臨邛県に攻めよせて周辺を焼き払った。そのとき、諸葛亮は魚復(永安)県で劉備を見舞っていたので、成都には太子の劉禅らがおり、備えは万全ではなかった。これに危惧した益州治中従事の楊洪は劉禅に上奏して「陛下は危篤状態であり、わが国は混乱状態です。至急に陳曶と鄭綽に命じて黄元を討伐すべきです」と述べた。
ただ劉禅らは「もし、黄元が成都を中心とする蜀郡を占領できなかったら、逃れて西南夷の越嶲郡を本拠地にして現地の勢力者の雍闓[15]らと結束する恐れがあるかもしれない」と言った。これに対して楊洪は「黄元は凶暴な人物であり人望がありません。特別な手を打つ必要性はありません。そもそも彼が謀反を起こしたのは、諸葛丞相と対決の立場にあったのが動機で、仮に陛下がご健常であれば陛下御自らが黄元を討伐なされるでしょう。もし陛下が崩御なされば、黄元は呉に逃亡することも考えられます。ですから、陳曶と鄭綽に命じて南安峡[16]を遮断すれば、たちまち黄元の軍勢は殲滅できるでしょう」と進言した。劉禅はもっともだと思いそのように命じた。
また、楊洪は「この緊迫の最中です。太子御自らが総大将として陳曶・鄭綽の補佐で黄元を討伐なされば、わが国の軍勢の士気は高まりましょう。なにとぞご決断くださいませ」と引き続き進言した。劉禅はその提案を採り上げた。こうして太子・劉禅を総大将とし、陳曶・鄭綽が総指揮を執る形で黄元討伐に動き出した。激戦の末に、ついに黄元の軍勢を撃破した。黄元は楊洪の予想どおりに長江付近に下って呉へ逃亡をはかったが、途中で捕虜となり成都に送られて処刑され、黄元の家族も皆殺しの刑に処された。これが唯一の劉禅の親征で最初で最後の出陣であった。以降は自ら親征することはなかった。
その報に安堵した劉備は、同年夏4月24日に62歳で崩御した。通常は先主、廟号は烈祖[17]、諡号は穆帝(繆帝)として奉った(後述)。
翌夏5月に劉禅は、黄元討伐で意気揚々に即位し、皇后張氏(敬哀皇后)を娶った。時に18歳であった。同年に側室の王貴人が長男の劉璿を産んだので、これを梁王に封じた。
しかし同年夏6月に西南夷に反乱が起こり、交州刺史または交阯郡太守・士燮(士爕)の黒幕によって、前述の黄元の件で述べた益州属国(建寧郡)を支配した雍闓らが人望があった孟獲を盟主に擁立し、建寧郡太守[18]・正昻を殺害し、後任の張裔を捕らえて呉の孫権に送る暴挙に出た。そこで諸葛亮は自ら遠征を検討したが、丞相長史の王連の諫言で断念した。まずは越嶲郡のタイ系叟族の酋長の高定[19]が雍闓に呼応したので、成都方面の通路を遮断し、富国強兵を奨励させた。同時に鄧芝を孫権のもとに派遣して、関羽によってこじれた同盟を修復させた[20]。翌225年春3月、前年の224年に丞相長史・王連(南陽郡の人)が逝去したため、ついに諸葛亮は自ら西南夷に遠征し、これを平定した。
226年、都護の李厳が永安(魚復)県から江州[21](巴郡)に駐屯して、大規模な城郭を築いた。
227年春、漢中郡に駐屯した諸葛亮が、劉禅に有名な『出師の表』を奉り、魏を討伐し[22]、漢王朝を再興することを誓った。
229年、かつて自分の命の恩人である老将軍の趙雲が逝去した。劉禅は趙雲の訃報を聞いて嘆き悲しんだという。諸葛亮は陳式とともに泰州の武都・陰平の両郡を攻略して平定した。また、孫権が呉の皇帝となり太祖「大帝」と称した。
230年、亡兄・劉封の子の臨邑侯の劉琳(劉林)を牙門将軍に任命し、甘陵王に封じた。同じく甥(同母兄・劉公仲の子)の武邑侯の劉理[23]を安平王[24]に封じた(後述)。
231年、諸葛亮とともに亡父の遺命を託された李厳の食糧倉庫怠慢の捏造を信じ、北伐中の諸葛亮に撤退を命じた。しかし、自分の過ちに気づいて諸葛亮に詫び、李厳を更迭して梓潼郡(梓橦郡)に流罪とした。
232年、亡父・劉備以来の古参の老臣の劉琰(劉炎)が実力者の魏延との対立が露骨化したため、諸葛亮に劉琰の更迭を命じた。
234年、劉琰の後妻である若き胡氏[25]が正月に挨拶に赴き、皇太后の呉氏[26]の命によって1ヶ月余も抑留された後に帰宅した。老いた劉琰は劉禅との私通を疑い、吏卒に命じて鞭を打たせて強引に離縁したので、この仕打ちに怒った胡氏の直訴を聞いた劉禅は激怒し、劉琰とその子を逮捕投獄して、厳格な調査の末に劉琰父子を市場で処刑した。以降は大臣の妻と娘が正月の朝賀に参内する習慣は廃止されたのである[27]。
同年秋8月に諸葛亮が55歳で病没し、側近の楊儀が対決した魏延を殺害する事変が起こったため、国力が一時的に低下した。また、幕僚の李邈[28]が亡き父・劉備を誹謗したことあったため、そのときに自分を庇った亡き諸葛亮の独裁政治を激しく誹謗したので、激怒した劉禅は李邈を投獄し、間もなく処刑した[29]。
235年春正月、中軍師の楊儀が費禕に対して、待遇に不満を持ち、魏と盟約して謀反を起こす発言をしたので、費禕の上奏により、懲戒免職にして漢嘉郡(蜀郡属国)に流罪した。しかし、かえって楊儀の誹謗ぶりが過激化したので、激怒した劉禅はついに楊儀を逮捕投獄した。まもなく楊儀は自決をして果てたが、その妻子は赦された。蒋琬が大将軍となった。
同年に平北将軍の馬岱[30]が、魏に進攻して魏将の牛金に大敗し、引き揚げた[31]。
236年夏4月、劉禅は湔県[32]に巡業し観坂に登り、汶水を眺めて楽しんだ。十日後に成都に戻った。同年、武都郡のチベット系氐族の酋長の蒲建(苻健)が帰順し、これを蜀郡広都県に移住させた。
237年、皇后の張氏が逝去した。敬哀皇后の諡号を贈った。
238年、敬哀皇后の妹を皇后に迎えて、大赦を行ない、年号を改めた。長男の梁王・劉璿を太子に指定し、次男の劉瑶を安定王に封じた。同年末に皇后張氏(孝懐皇后)が五男の劉㻣(北地王)を産んだ。
244年夏4月、安平王・劉理が若くして逝去し、劉禅はその訃報を嘆き悲しんだという。悼王の諡号を贈った(後述)。
245年秋8月、継母の皇太后呉氏が逝去したので、孝穆皇后または孝繆皇后の諡号を贈った。
246年冬11月、大司馬の蒋琬が逝去し、大将軍の費禕がその後任となり、劉禅とともに国政を運営した。同時に尚書令の董允も逝去した。
249年春、魏の皇室の外戚筋で右将軍・夏侯覇[33]が司馬懿によって国を追われ、その息子[34]とともに亡命したのでこれを受け入れた。夏4月に大赦を行なった。
252年、呉の大帝の孫権が72歳で逝去した。三男の劉琮[35]を西河王に封じた。
253年春正月、大司馬の費禕が魏の降将の郭循によって漢寿県で刺殺された。以降から劉禅が全面的に国政を運営し、陳祗[36]を侍中・尚書令に任命した。このころ、同母弟の魯王・劉永を疎むようになる。
254年秋7月、劉禅に上奏し別れを告げた歴戦の老将軍の張嶷が隴西郡で魏の部将の徐質と戦い大敗したため、衛将軍・姜維を逃すために自ら殿軍となって戦死した。劉禅は張嶷の訃報を聞いて嘆き悲しんだという。大赦を行なう。
256年、四男の劉瓉を新平王に封じ、大赦を行なった[37]。このころ魏の降将の夏侯覇が逝去したと思われる。
258年、史官が「景星[38]が出た」と上奏したので、大赦を行ない年号を改める。尚書令の陳祗が逝去し、宦官の黄皓を黄門令・中常侍・奉車大尉に任命した。以降から黄皓の専横政治が始まり、それは蜀漢滅亡の要因となった。また黄皓の讒言で同母弟の魯王・劉永[39]を左遷し、謁見どころか朝廷への参内さえ禁じた。
259年夏6月、五男の劉㻣を北地王と六男の劉珣を新興王[40]と末子(七男)の劉璩を上党王に封じた。
261年、亡き恩人の趙雲に「順平侯」の諡号を贈った。冬10月に大赦を行なう。
262年春正月~3月ころ、三男の西河王・劉琮が若くして逝去した。
263年夏、ついに魏の実力者の晋公・司馬昭は征西将軍・鄧艾と鎮西将軍・鍾会と雍州刺史・諸葛緒に蜀漢遠征を命じた。漢中郡にいた姜維は危惧を感じて、援軍要請をした。左車騎将軍の張翼と右車騎将軍の廖化はすでに年老いていたが、輔国大将軍の董厥とともに沓中でこれを迎え撃った。この年にも最後の大赦が行なわれた。
同年冬、衛将軍の諸葛瞻(諸葛亮の子)は子の諸葛尚と司馬の張遵(張飛の孫、張苞の子)とともに緜竹県で鄧艾の軍勢と戦ったが戦死を遂げた。
この報を聞いた光禄大夫の譙周[41]、侍中の張紹[42](張飛の次子)、駙馬都尉の鄧良(鄧芝の子)らは「漢の時代は終焉したので鄧艾に降伏して、民の身の安全をはかるべきである」と進言した。劉禅はこれを採り上げて、棺を作り、降伏の準備を整えた[43]。
しかし、五男の北地王の劉㻣は高祖・劉邦以来から四百年以上も続いた漢王朝滅亡を嘆き悲しんだ。そこで父を諌めたが退去するように命じられたため、妻の崔氏[44]と三人の息子を引き連れて、尊敬する祖父の劉備の廟邸に赴き、妻子を斬り捨てて、自らも「自分の代で漢が滅亡して申し訳が立たない」と述べて自決して果てた。齢26だったという。彼の近侍たちも殉死したものもいたという。
一方、雒県にいた鄧艾は張紹と鄧良と面会し蜀漢の降伏の書簡を読んで、大いに喜んだ。さっそく返書を両人に出した。数日後、劉禅は自ら棺を持ち運んで、鄧艾に会見した。これを見た鄧艾は大いに喜んで「漢の陛下がわざわざそのようなことをされる必要はございませんぞ」と言って、自ら手迎えて棺を焼き払い、劉禅を招いた。鄧艾は劉禅を魏の驃騎将軍に任命した。蜀漢滅亡の勅令を聞いた姜維と張翼と廖化と董厥らは愕然としたが、勅命のために魏に降伏した。
劉禅の側室のひとりの李昭儀は、魏の部将のうち妻を所持しない者がおり、その妻として再婚を迫られたが「わらわは漢の後主・劉禅の妻である。他人の妻になるのは侮辱で耐えられない!」と叫んで自害して果てたという[45]。
鄧艾は劉禅に対して元の王宮に住むことを許し、自らもそこを住居とした。しかし、司馬昭は猜疑心が強く、監軍の衛瓘に命じて翌年の正月に鄧艾とその子の鄧忠を「鄧父子は蜀で自立を目論んでいる」という名分で逮捕投獄し、後に部下の田続に命じて処刑させた。
また、涪県にいた鍾会も降将の姜維、張翼らと組んで、亡国の蜀漢太子の劉璿を擁立して反乱を起こした。衛瓘はこれを鎮圧し、太子の劉璿と姜維、張翼をはじめ鍾会らはすべて殺害され、こうして蜀の混乱は収まったのである[46]。
そこで、衛瓘は司馬昭に上奏し、劉禅一家を洛陽に強制移住させ、その他の皇族や貴族の子弟らは北方の河東郡に移住させる旨を述べた。司馬昭はそれを認めたため、劉禅は家族とともに洛陽に移住し、父祖の郷里である涿郡涿県内にある安楽郷侯に封じられた[47]。同母弟の劉永は、永楽郷侯に封じられた[48]、甥あるいは従孫の劉輯[49]は、騎都尉に任じられ某郷侯に封じられた。
また、劉禅は司馬昭の宴会に招かれた。劉禅の機嫌があまりにもいいので、司馬昭は側近の賈充に向かって「これでは諸葛亮でさえ補佐するのはむつかしいのに、姜維ではなおさらだろう」と述べた[50]。
数日後に劉禅はふたたび司馬昭に招かれた。そのときに司馬昭は「蜀漢は恋しくありませんかな?」と述べて、劉禅の本心を探った。すると劉禅は「特別に恋しくもござらん」と述べた。さすがの司馬昭も唖然とした。これを聞いた旧蜀漢の大臣の郤正は劉禅に向かって「次に晋公(司馬昭)が質問なされたときは、陛下は涙を流して“父祖の地は巴蜀にあり、西に向かっては一日も思出さない日はありません”と申し上げてください」と述べた。再び司馬昭が質問した。劉禅は郤正の言葉通りに述べた。すると司馬昭は「今のは郤正の忠告どおりではござらんか?」と言った。すると劉禅は頭を抱えて「その通りでござる」と正直に言ったので、周りは大笑いし、司馬昭はすっかり劉禅に対して警戒心を解いてしまったという。
これは、父の劉備譲りの「タヌキ」ぶりを発揮した劉禅の命がけによる狡猾な芝居という見方をする学者もいる。ただ、劉禅は「朕は郤正を評価するのが遅かった」と述べたという。
271年、劉禅は66歳で逝去した。「思公」と謚された[51]。前述のように長男の劉璿を戦乱で失ったので、溺愛した六男の劉珣がその後を継いだ[52]。
はたして劉珣は亡父が強引に次兄の劉瑶らを差し置いて後継者となった経緯もあって、正真正銘の暗君であり、君主らしからぬ愚かな行為を繰り返したので、これを見るに忍びない旧臣の何攀[53]が王崇・張寅とともに「かつての文立の忠言を振り返って、行ないを改めてくださいませ」と涙ながらに辛辣に諫言する書簡を送ったが、それでも劉珣は改心することはなかったという。
晋の永嘉年間(307年~312年)に劉珣をはじめその息子たちを含む劉禅の後裔たちは『永嘉の乱』[54]に巻き込まれて、ほとんどが殺害されたという。
ただし、従孫の劉玄[55]だけは生き延びて、子の劉晨とともに蜀の故地にあったチベット系氐族の李氏が建国した成蜀(前蜀/氐蜀)に逃亡し、安楽郷侯に封じられたという[56]。
かつて蜀漢の臣下だった陳寿は「後主は呉の孫皓(孫権の孫)のように淫行で酒色に溺れるような残虐な行為をしなかったが、かと言って自ら善政を実施したわけでもない。賢臣が補佐すれば名君になれるが、愚臣が補佐すれば凡君になり易い素質を持っていた。前者は武郷侯(諸葛亮)らの補佐、後者は姜維や陳祗らの補佐でその特徴が出ており、その差は歴然としている」と述べている。
裴松之は「諸葛亮が大赦を行なわなかったのは評価してもよいが、年号も変えなかったというのは意味がわからない。後漢初期でも同様なことがあったが、それで政治がよくなった話は聞かない。つまり年号を変えようが変わらなかろうが、劉禅の政治の良し悪しにはまったく関係がない」と述べている。
その一方、劉禅は「中興の器にあらずと」とかえって酷評されている[57]。
また、かつての蜀漢の臣だった李密は「陛下は斉の桓公のように賢臣・愚臣の補佐次第で素質が変わる君主である」と述べている[58]。
さらに、蜀漢への使者を務めたことがある呉の薛珝は、主君の孫休から蜀漢の統治について尋ねられた際に「蜀漢の主君は暗愚で己の過ちを知らず」と評している。
同時に、劉禅は遠祖である前漢の太宗文帝(劉恒)・成祖景帝(劉啓)父子の治世である『文景の治』に匹敵される守成型の政治を行なうなどで、それに該当される見方をする史家もいるという。
日本でいえば、ともに生母が側室で、庶子として誕生しており、乱世なら統率力に欠けて、混乱を起こしてしまう“暗君”呼ばわりされるが、泰平の世に賢明な幕臣に支えられ、自身しか持っていない適した政治的な能力を発揮できたため、“名君”の称号を得た徳川秀忠のような人物であろうか。
要するに劉禅の評は、「乱世の暗君・泰平の名君」あるいは「乱世の凡君・治世の名君」に当てはめるのがふさわしい君主と言えよう[59]。
おそらく、劉禅の素顔は短気だった父・劉備にあまり似ず、幼くして生母を失い、亡父の遺命を厳守した守成型で、やや律義(律儀)で生真面目で少々の融通が利かない(正室の張皇后に対して)恐妻家だったと思われる。
反乱を起こした黄元を自ら親征して、名誉の負傷を負った皇太子時代の劉禅
『東観漢記』・『元本』[60]・林国賛の『三国志裴注述』を総合した本田透『ろくでなし三国志』をもとに検証する。
結論
劉禅ははじめは庶子だったが、兄の劉封が諸葛亮らに睨まれて身の破滅を迎えた。そのため諸葛亮らの支持で父の後を継ぐことができた人物であり、彼自身は暗君でもなければ名君でもない平凡な君主であろう。
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