左メニュー
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
徳川秀忠肖像(東京大学史料編纂所所蔵、原品・徳川恒孝氏所蔵)
徳川 秀忠(とくがわ ひでただ、1579年5月2日(天正7年4月7日) - 1632年3月14日(寛永9年1月24日))は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・政治家。江戸幕府の第2代将軍で、江戸徳川家(武蔵源氏)の祖。
徳川家康の子、内藤信成の甥、徳川信康・松平秀康(結城秀朝)の異母弟、松平忠吉(忠康)の同母兄、松平信吉(信義)・松平忠輝・松千代・仙千代・徳川義直(義知/義利/義俊)・徳川頼宣(頼将/頼信)・徳川頼房らの異母兄、長松(家秀)[1]・徳川家光・徳川忠長[2]・保科正之(松平光綱)[3]らの父。
家康の三男として遠江国浜松に誕生した。はじめは長松だったが、父・家康の後継者となると、長兄の信康の幼名でもあった「竹千代」と改名した。
生母は側室の於愛の方(西郷局/竜泉院/宝台院)[4]。まもなく乳母の大姥局によって、養育された。
長兄・信康は秀忠の生まれた年の9月に遠江国二俣城で切腹している。次兄・秀康は豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城晴朝の養子となり、「結城秀朝」と名乗ったので、そのため三男の秀忠が実質的な家康の後継者となった。
1590年(天正18年)に、秀吉の『小田原征伐』に際に実質的な人質として上洛して元服した。そのときに、秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗る。やがて、織田信雄(信長の四男)の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、後に秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封され、下野国に改易されたことにより、婚約は無効となった。秀吉から、羽柴氏の苗字を与えられた。
その後、中納言に任命されて、「江戸中納言」と呼ばれた。1595年(文禄4年)に秀吉の養女・於江与の方(於江の方/小督/達子/崇源院)[5]と結婚する。その祝言で秀吉から、豊臣姓をも与えられた[6]。
1600年(慶長5年)の『関ヶ原の戦い』の直前である江戸城内で徳川家の後継者をめぐる軍議では、次兄の秀康を推す本多正信(今孝直)・正純父子と、同母弟の忠吉を推すその岳父の井伊直政(今文長)と、秀忠を推す付家老の大久保忠隣が激論を繰り返していたが、結論には至らなかった[7]。
そのような状態で、父・家康率いる本隊は東海道を進むのに対して、秀忠は本多正信・榊原康政を副将とした中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中に、信濃国上田城に籠城する真田昌幸・信繁(幸村)父子に対して、上田城を無視すべく進言した正信の意見を斥けて、積極的に攻撃を進言した康政の意見を採り入れて、上田城を総攻撃したが、真田父子の巧みな采配に振り回されて、撃退する有様であった。そのため、意固地となった秀忠は上田城で布陣して、膠着状態が続いた。さらに秋雨の天候不順による進発命令や行軍の遅延から、10月21日(旧暦9月15日)の『関ヶ原の戦い』の合流に間に合わず、すでに戦いは終わっており、敵将の石田三成らは近江国伊吹山で捕虜された後だった。
11月1日(9月20日)に近江国大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが、息子の面子をつぶした行為に激怒した父・家康は「気分がすぐれない」として面会を一切許さなかった。しかし、副将の榊原康政らの仲介もあって、数日後に面会を許されたが、このときの秀忠は父・家康から罵詈雑言を浴びせられたといわれている。
1603年(慶長8年)2月12日に朝廷から征夷大将軍に就き、「源氏長者」となって、江戸幕府を開いた父・家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、1603年(慶長8年)4月16日に任命された[8]。このため、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣を意味することになる。
父・家康は『関ヶ原の戦い』の論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・北陸・関東・南東北地方を統治下として完全に押さえ、名実ともに関東地方の政権を打ち立てた。ここに陽成源氏(河内源氏)の棟梁である源頼朝(右大将家)および、新田義貞を崇拝する父・家康の長年の願いが現実のものとなった。
そして、翌々年の1605年(慶長10年)、父・家康は大阪城の淀君(信長と於市の方の間の娘)の猛反対を振り切って、将軍職を秀忠に譲り、こうして秀忠は第2代将軍に就任した。このような至福に秀忠は子供のようにはしゃいだという。そのために「ボンクラ公方」という蔑称をもっているといわれる。
1605年(慶長10年)正月に、父・家康は江戸城を発ち、山城国伏見城へ入った。翌2月に、秀忠も関東・東北・甲信越などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率いて、出発した。
3月21日に、秀忠は伏見城に入り、4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上して、4月16日に、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前として、父・家康は隠居して、「大御所」と呼ばれるようになり、実権を握った。秀忠は徳川家当主(御所)となった。このとき、家康の参内に随行した家老の板倉重昌も叙任された。
徳川秀忠征夷大将軍の辞令(宣旨)『壬生家四巻之日記』
權大納言源朝臣秀忠左中辨藤原朝臣總光傳宣權中納言藤原朝臣光豐宣奉 勅件人宜爲征夷大將軍者慶長十年四月十六日中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉(訓読文)
権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠)左中弁藤原朝臣総光(広橋総光、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り権中納言藤原朝臣光豊(勧修寺光豊、従三位・武家伝奏)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿河国駿府城に住む大御所・家康との間のいわゆる「二元政治」体制となるが、秀忠は本多正信らの補佐により、正信の子の正純を経て家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治して、家康は毛利輝元(今仲謀)をはじめ伊達政宗(今孟起)や上杉景勝外様大名などを統治した。
1614年(慶長19年)に、『大坂の陣』(『大阪冬の陣』)に父・家康とともに参戦して総大将となったが、戦功に焦った秀忠は近江国守口まで、昼夜問わずに軍勢を強行進行させて、そのために軍勢が疲労したため、激怒した父・家康に激しい叱責を受けた。その後、かつて『関ヶ原の戦い』直前に苦しめられた豊臣方の真田信繁が籠城する大阪城内の真田丸を攻撃するが、撃退されてしまい、再び父・家康の逆鱗を触れてしまう始末であった。翌1615年(慶長20年)のいわゆる『夏の陣』では豊臣家重臣・大野治長の弟である大野治房の軍勢によって本陣を衝かれてしまい、側近の柳生宗矩に護衛されて、醜態を晒しだしつつ辛うじて逃げ出す始末であった。
豊臣家滅亡後は、父・家康とともに大名を監視する『武家諸法度』と朝廷を監視する『禁中並公家諸法度(公家諸法度)』などの制定を行なった。
上記の戦に関しても、その素質に疑問視される秀忠は、将軍襲職の際に前述の源氏長者と奨学院別当は譲られなかったとする説がある[9]。『徳川実紀』には「源氏長者」になったと記されてあるが、これは没後さかのぼってのことであるという。これが事実なら、秀忠は徳川家歴代の将軍で唯一源氏長者になれなかった将軍ということになる。
1616年(元和2)に、父・家康が死去した後は将軍親政を開始して、『寛永の三輔』と謳われた近侍の酒井忠世・土井利勝(秀忠の外従父)・青山忠俊らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固めた。まずは自分に代わって将軍職に就こうとした噂がある異母弟の忠輝を改易にして、伊勢国朝熊に流罪とした。さらに、亡父の家康が奨励した貿易に理解を示さずに、これを廃止して亡父が信頼した三浦按針(ウェィリュウム・アェドゥムズ)を天文官として左遷する形で冷遇した。
近侍の酒井忠世・土井利勝・青山忠俊らの提案で、大名統制を強化して、旧豊臣家の恩顧を受けた福島正則ら多くの外様大名を改易し、異母弟の義直を尾張藩、頼宣を紀伊藩・頼房を水戸藩(常陸藩)に配置して、三男・忠長を駿河国・遠江国・甲斐国などを与えた。その一方、甥で娘婿でもある松平忠直(次兄の秀康の長子)や亡父・家康の謀臣であった本多正純を出羽国に改易・配流にしている。また、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊らの提案で、朝廷に対しても厳しい引き締めを行なう一方で、娘のひとりである和子を後水尾天皇に入内させるなど、亡父の家康が成立させた朝廷との隔離の遺訓を背いたりしている。また、亡父と異なり鎖国政策の布石として、外国船寄港を肥前国平戸港・長崎港に限定させていた。
横山版の徳川秀忠
1623年(元和9年)に将軍職を嫡男(次男)・家光に譲った。亡父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行なった。当初、駿府城に引退した亡父の家康に倣って自身は相模国小田原城で政務を執ることを考えていたが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。
1629年(寛永6年)の『紫衣事件』では、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊らの進言で朝廷・寺社統制の徹底を示して、1630年(寛永7年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は実質上の皇室の外戚となった。
1631年(寛永8年)には、嫡子の家光の強引な要請を渋々聞き容れて、粗暴な振る舞いがあると噂された三男の駿河大納言の忠長の広大な領地を召し上げて、甲斐国甲府(後に上野国高崎に配流された)に蟄居を命じたが、このころから体調を崩してしまい、翌1632年(寛永9年)年正月に薨去した。享年55。法名は、台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。
嫡子の家光に対しては「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ…」との遺言を残している[10]。
秀忠を『徳川実紀』では次のように評価している。
「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(信康)はじめ、越前黄門(秀康)・薩摩中将(忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき…」このように、兄の信康や秀康と弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も『関ヶ原の戦い』島津一門の豊久を討ち取る武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は第2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低いのである。
それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「天下泰平の時代」による守成型の主君に相応しいと考えていたからだといわれている[11]。秀忠は父の路線を律儀に守り、創業して間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠も、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊ら有能な幕臣に支えられて、結果を残したといえる。
そのために、秀忠は『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の後主懐帝の劉禅と同様に、優秀な幕僚に支えられた「乱世の暗君・泰平の名君」あるいは、「乱世の凡君・治世の名君」と評される人物といえよう。
関ヶ原の戦い[]前述の『関ヶ原の戦い』が23歳になる秀忠の初陣であった。彼は3万8千人の大軍を率いながら、わずか2千人が籠城する信濃国上田城を攻めて、真田昌幸・信繁(幸村)父子の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記されている[12]。このときの秀忠の軍勢は、信濃国の豊臣恩顧大名が上杉景勝と中山道に対処する部隊としての慣例により、隣接地に封地を持つ徳川譜代で構成していた[13]。しかし、上田城の対処で本多正信ら家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は榊原康政・大久保忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるということはできなかった。
そもそも結果論でいえば、上田城の兵力はわずかで無視して通れば何でもなかったものを、城攻めをやった上に敗北を喫した[14]、そのうえ上田城など『関ヶ原の戦い』と比較すれば、大した問題ではないことがわからなかったということで、秀忠の軍事能力には大きく疑問符が付けられた。
ただし、秀忠に同行したある家臣の言によると「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定である[15]。秀忠はそれに忠実に従っていただけで、その後の『河田木曽川渡河の戦い』・『米野の戦い』・『岐阜城の戦い』などの各地の戦いが予想以上に速かったことから、家康は自身の江戸出馬を前に秀忠に上洛を命じる使者を送っている。しかし、豪雨による川の氾濫のため使者が到着したのが9月9日であり、秀忠は急遽として関ヶ原に向かうが、当時の中仙道は道幅の狭い隘路が続き、大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なり、伊那郡木曾の馬込に着いた時点で戦勝報告がなされ、9月15日の関ヶ原にはすでに間に合わない状況であり、本戦遅参の責任は秀忠にはない見方もある。その一方で、秀忠に従軍していた真田信幸(昌幸の長子、信繁の兄)に対して、秀忠は8月23日付の書状で昌幸・信繁父子が籠城する上田城を攻略する予定であることを伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて、小諸には9月2日に着陣しているのびのびとした秀忠の動向を述べている[16]。
また、同時期に『伏見城の戦い』や『田辺城の戦い』の各地の籠城戦を鑑みるまでもなく、秀忠が上田城を攻撃した期間である約3日で、籠城を決め込む上田城を落とすことはそもそも難しい見方もある。
家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。本多忠勝(今益徳(今翼徳))は「別働隊を待つべし」と主張し、井伊直政は「即時に決戦すべき」を主張した。結局は家康は直政の意見を容れて、即時決戦することにした。
大坂の陣[]1614年(慶長19年)の『大坂冬の陣』出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。『関ヶ原の戦い』のときの失敗の名誉挽回を取り返そうと、同月24日に藤沢宿、26日に三島宿、27日に江尻宿(清水宿)、28日に掛川宿、29日には吉田宿にまで至るという昼夜問わずに強行軍を続け、秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという速さであった。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊して、とても戦えるような状況ではなかった。これを聞いた父・家康は激怒して秀忠を激しく叱責した。
このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)」このため激怒した家康は、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように厳命している。11月1日に秀忠が岡崎宿に着いたときに、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまでいわれている[17]。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には名古屋宿、同月5日には彦根城(佐和山城)にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立…」であったと記されている[18]。
しばらくして、大阪城付近に布陣した秀忠は名誉挽回すべく、父・家康に対して豊臣方への強攻策を主張して、家康も渋々これを聞き容れた。勇んだ秀忠は大阪城内にある真田丸を守る因縁がある真田信繁を攻略すべく、甥の松平忠直と前田利常を率いて総攻撃した。しかし、真田丸は頑健で、信繁の采配が冴えわたり、空堀で秀忠は多くの軍勢を失い、敗退した(『真田丸の戦い』)。これを聞いた父・家康は当然如く激怒して、秀忠に謹慎を命じた。
このときのことを、『孝亮宿禰日次記』では、次のように記している。
「去る四日、大坂表城責め、越前少将(松平忠直)の勢四百八十騎、松平筑前守(前田利常)三百騎死す。此の外雑兵の死者その数知らざるの由風聞これあり…」さらに『東大寺雑記』では、次のように記している。
「十二月四日、大坂之城大ゼメ、今日迄ニヨセ衆一万五千人程打(うた)ルト…」1615年(慶長20年)の『大坂夏の陣』の直前に行なわれた軍儀式では、家康と秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては「自身が上田城の件で武将として汚名が付いたことを気にした」名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは父・家康であり、結局、秀忠は名誉回復を果たすことはできなかった。
秀忠は父・家康とともに『禁中並公家諸法度(公家諸法度)』・『武家諸法度』などの法を整備・定着させて、江戸幕府の基礎を固めた政治家としての手腕を高く評価する見方もある。実際は、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊ら有能な幕臣に支えられた結果である。
さらに父・家康の遺訓を背いてまで、娘の和子を後水尾天皇に嫁がせて皇室の外戚となり、また、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊らの進言を受けて、『紫衣事件』では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。父・家康没後は、酒井忠世・土井利勝・青山忠俊らの支えで政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の1616年(元和2年)7月、豊前国小倉藩主の細川忠興[19]は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候(最近、上様は政務に余念がない)」と書状を送っている。
秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、嫡子・家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。その反面、父・家康と違い貿易面には疎く、理解さえも示さずに父が逝去すると貿易を廃止して、要人の三浦按針(ウェイリュム・アェドゥムズ)を天文官に左遷する形で冷遇した。その方針は、嫡子の家光にも受け継がれた。
近世には、秀忠は恐妻家であり、於江与の方(崇源院)には、終生頭が上がらなかったとする俗説がある[20]。1611年(慶長16年)、江戸城の女中で大工の娘だった於静の方(浄光院)との間に秀忠の四男・幸松(後の保科正之(松平秀之))が生まれている。近世武家社会においては、正室の体面と大奥の秩序を維持するため、侍妾の選定には正室の許可が必要であり、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であった。於静の方の場合にはそうした手続きを取ることをうかつに秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となった。その後も於静の方は正式に側室となることはなく、幸松は信濃国高遠藩主の保科正光の養子として養育された。なお、秀忠はその後も幸松を実子として扱うことはなく、自身の遺産分けでも親族扱いはせずあくまで譜代大名の一人としている(後に幸松は保科正之と名乗り、その末裔が会津松平家(保科松平家)と名乗ることを許されると、「松平光綱」として奉ったという)。
『大阪夏の陣』で大坂城が陥落して、自害した豊臣秀頼の妻であった長女の千姫が、津和野藩主・坂崎直盛(宇喜多直盛)によって救出された際に、秀忠は「お前は秀頼の妻であろう。なぜ、豊臣家の妻として殉じなかったのか?」と娘の千姫を詰問して責めた。しかし、父・家康が孫娘を身を案じて、宥めたために秀忠もこれ以上、娘を責めることができなかった。
古田重然(織部)の弟子のひとりで、父・家康が「貿易将軍」と呼称されたのに対して、貿易に理解を示さなかった秀忠は、茶道指南役である師の重然(織部)を尊敬して、点茶の式を伝授を積極的に受講するなど、侘び数寄や日本の風流な文化には理解を示した「数寄将軍」と呼称された。1615年(慶長20年)に師の重然(織部)が、詫び数寄にまったく理解を示さなかった父・家康から豊臣家と内通した疑いで、一言も弁解せずに切腹した際に、秀忠は京都所司代の板倉勝重とともに父・家康に師の重然(織部)・重嗣父子の助命を嘆願したが、断固として聞き届けられなかったという。織部助命に断念した秀忠は織部風の武家茶流作法を幕府内に普及させて、織部の遺志を受け継いだという。
1616年4月に父・家康が75歳で逝去する前に、多くの外様大名宛の書状に後を継ぐ秀忠に関して「後のことは、大樹(秀忠)がおるゆえ、心配はない。ただし、大樹が誤った方向へ進むようであれば、おのおのが代わりに、天下の舵をとれ。天下は一人の天下にあらず、天下の天下なれば、吾、これを恨まず…」(『徳川実記』)という遺言を残している。この状況は『三国志』でいえば、劉備が、諸葛亮と李厳(李平)らを枕元に召し出して、太子の劉禅に関して「(諸葛亮と李厳よ)汝の才能は曹丕の倍はあり、国を治める才覚を発揮するであろう。同時に汝がわが少子(劉禅)を補佐するに値すると判断するのならば、これを助けよ。もしわが少子が凡愚ならば、汝自身が禅譲を受けて君主になるがよい」と遺した言葉と共通している部分がある、という。
同時に、父・家康は秀忠に枕元に召し出して「お前の命令に背くものがあれば、一門(一族)や譜代の大名であろうとも、すぐに兵を送って誅戮すべし」(『徳川実記』)とする遺言をも出している。
さらに、豊後国府内藩主の竹中重義(重興/重次)[21](半兵衛重治(重虎)の従子)を長崎奉行に抜擢して、苛烈なキリシタン弾圧などを実施した重義の跋扈による専制政治を許した。これを苦々しく思った嗣子の家光と松平信綱(伊豆守)は、秀忠が逝去すると、重義を売国による不正貿易をした廉で、改易にしてその嫡子の重就(源三郎)とともに浅草の海禅寺で介錯切腹を命じて、晒し首とした。その一族は隠岐国に流罪となった
シェアボタン: このページをSNSに投稿するのに便利です。
左メニューサンプル左メニューはヘッダーメニューの【編集】>【左メニューを編集する】をクリックすると編集できます。ご自由に編集してください。掲示板雑談・質問・相談掲示板更新履歴最近のコメントカウン...
曖昧さ回避この項目では、1999年設立2ちゃんねる(2ch.net)について記述しています。2014年4月にひろゆきが開設したもうひとつの2ちゃんねるについては「2ちゃんねる (2ch.sc)」をご覧...
2ちゃんねる(に - )とは、日本最大の大手掲示板。約2つほど存在する。2ちゃんねる (2ch.net) : 1999年5月30日に、あめぞう型掲示板を乗っ取ったひろゆきによって、設立された掲示板。現...
黄皓(こうこう)とは、中国の人物。約2名ほど存在する。黄皓 (宦官) : 蜀漢(蜀)の宦官。後主(懐帝)の劉禅に信頼されて、中常侍に任命された。この権力を利用して、皇弟の魯王の劉永と上将軍の姜維と対立...
“矍鑠なるかなこの翁は”と謳われた黄忠黄忠(こうちゅう、? - 220年)は、『三国志』に登場する蜀漢(蜀)の部将で、字は漢升。子は黄叙(黄敍)、他に孫娘[1](後述)がいたという。『三国志演義』では...
黄奎像黄奎(こうけい、170年/171年? - 212年5月)は、『三国志』に登場する後漢末の人物。字は宗文。黄香の玄孫、黄瓊の曾孫、黄琼の孫、黄琬の子、黄某の父、荊州牧の劉表配下の江夏郡太守の黄祖の...
曖昧さ回避この項目では、豊前国の氏族について記述しています。その他の氏族については「麻生氏」をご覧ください。麻生氏(あそうし)とは、筑前国・豊前国の氏族。約2系名ほど存在する。筑前国遠賀郡麻生郷[1]...
麻生氏(あそうし)とは、日本の氏族。約幾多かの系統が存在する。麻生氏 (常陸国) : 常陸麻生氏とも呼ばれる。桓武平氏繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の常陸行方氏の庶家で、行方宗幹の3男・家幹(景幹)を祖...
鹿島氏(かしまし)とは、日本における常陸国鹿島郡鹿島郷[1]の氏族。約3系統が存在する。鹿嶋氏とも呼ばれる。鹿島家 : 崇光源氏流伏見家一門の山階家[2]の庶家。山階菊麿の子の鹿島萩麿[3]が設立した...
曖昧さ回避この項目では、藤原北家について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (源氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、藤原北家一門で、約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1...
曖昧さ回避この項目では、源姓一門について記述しています。その他の氏族については「鷹司家 (藤原氏)」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、源氏一門。約2系統が存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を...
曖昧さ回避この項目では、公家の家系について記述しています。その他の氏族については「鷹司氏」をご覧ください。鷹司家(たかつかさけ)とは、日本の氏族。約2系統ほど存在する。山城国葛野郡鷹司庄[1]を拠点と...
鷲尾氏(わしおし)とは、日本の氏族。約3系統がある。鷲尾家 : 藤原北家魚名流四条家の庶家。同族に山科家[1]・西大路家[2]・櫛笥家[3]があった。鷲尾氏 (備後国) : 備後鷲尾氏とも呼ばれる。源...
ドイツ南西部のシュヴァルツヴァルトにある鳩時計専門店鳩時計(はとどけい、独語:Kuckucksuhr、英語:Cuckoo clock)とは、ドイツの壁掛け時計の一種で「ハト時計」・「カッコウ時計」・「...
鳥山氏の家紋①(大中黒一つ引き)大井田氏の家紋②(二つ引き両)鳥山氏(とりやまし)は、新田氏(上野源氏)流源姓里見氏一門。上野国新田郡鳥山郷[1]を拠点とした。目次1 概要2 歴代当主2.1 親成系2...
魏書(ぎしょ)とは、中国の史書。幾多かある。『三国志』の魏(曹魏)の曹操を中心とした史書。『三国志』時代以前の後漢末の王沈の著書(現存せず、『三国志』の注釈の中に断片的に残されているのみである)。『北...
甘粛省隴南市礼県祁山鎮に存在する魏延像魏延(ぎえん、? - 234年)は、『三国志』登場する蜀漢(蜀)の部将。字は文長。目次1 概要2 その他のエピソード3 魏延の隠された事項4 脚注5 関連項目概要...
魏延の遠祖の魏勃指揮を執る魏勃魏勃(ぎぼつ、生没年不詳)は、前漢初期の部将。蜀漢(蜀)の部将の魏延の遠祖と伝わる[1]。 概要[]彼の出身地は不詳であるが、父が鼓琴の名手で、彼は秦の咸陽に赴いて、始皇...
魏(ぎ)とは、元来は都市国家に属し、現在の今日の山西省運城市芮城県に該当される。戦国時代に領域国家に変貌した。幾多の国家(王朝)が存在する。魏 (春秋) : 別称は「微」。姓は好。殷(商)の微子堅(微...
高間 慎一(たかま しんいち、1978年9月19日 - )は、日本の実業家。大学1年の18歳で会社の起業をしたメンバーシップ系のワイン&ダイニング レストラン「Wabi-Sabi」の創業者であり、マー...