矢田義清

ページ名:矢田義清
曖昧さ回避この項目では、矢田判官代の義清について記述しています。その他の武将については「足利義清」をご覧ください。

矢田義清(足利義清)像(右側)

矢田 義清(やだ よしきよ、1137年(保延3年)? - 1183年11月17日(寿永2年閏10月1日))とは、平安時代末期の武将。足利義清/矢田判官代とも呼ばれる。通称は足利太郎。山名氏[1]・仁木氏・細川氏・戸賀崎氏などの祖となる。官職は判官代・民部丞。

足利義康足利氏下野源氏)の祖)の庶長子、梁田義長(簗田義良)の同母兄、足利義兼[2]義房(季邦)の異母兄、山名義範[1]広沢義実[3]矢田義房[4]義頼[5]里見義成室らの父。伯父の新田義重の婿養子となった。

概要[]

父から下野国梁田郡(簗田郡)内にある梁田御厨[6](現在の栃木県足利市福富町)周辺・上野国多胡郡矢田郷[7](現在の群馬県高崎市八幡町)[8]を与えられて、足利氏の庶宗家として分家した。後に梁田御厨(簗田御厨)を同母弟の義長(義良)に譲った。

父の逝去後に、家督が異母弟の義兼が相続することに決定されたため、若くして次弟の義長(義良)とともに上京して上西門女院(恂子/統子内親王)に仕えて、判官代・民部丞に任命された。1180年(治承4年)に、平清盛の専横に不満を持った以仁親王の挙兵に呼応して、親王に随伴した族父の源頼政ととも清盛率いる伊勢平氏(六波羅氏)と戦った。しかし、頼政が敗死した後に族子の木曾義仲を頼って、その武将となった。

1183年(寿永2年)に平宗盛(清盛の第3子)率いる一行の都落ちの際に、又従弟の源行家(新宮十郎義盛)と、族兄弟の摂津源氏流多田氏一門の多田行綱[9]とともに京を包囲して、丹波国にある丹波路から大江山に布陣して都の西方から伊勢平氏を追撃して、秋7月に義仲とともに入京した。

同年秋9月、後白河法皇(以仁親王の父)の院宣の要請を受けた義仲から西海を拠点とした伊勢平氏を追討する総大将として、副将の海野幸広[10]とともに7千騎を率いて京を発進した。同年閏10月1日に、備中国浅口郡水島(現在の岡山県倉敷市玉島付近)において、伊勢平氏の総大将の平知盛・重衡兄弟と、搦手の教盛(清盛の異母弟)とその子である通盛(公盛)・教経国盛)兄弟ら率いる伊勢平氏の軍船と激突した。

しかし、義清は船戦に慣れた伊勢平氏の軍勢を前に大敗した挙句に、同母弟の義長(義良)や副将の海野幸広らとともに矢の雨に浴びせられて、平家と同族である伊勢関氏一門の関盛嗣[11]によって、討ち取られるなど壮絶な戦死を遂げた。享年47という。

脚注[]

  1. 1.01.1 『尊卑分脈』にある足利氏の系譜より。
  2. 足利氏一門の今川氏(駿河源氏)の当主の今川貞世(了俊入道)の『難太平記』によると、義兼は又従兄の源為朝の庶子と記されている。
  3. 仁木実国・細川義季戸賀崎義宗の父。
  4. 頼長の父。
  5. 義縁とも、頼実の父。
  6. 簗田御厨とも呼ばれる。
  7. 隣接する同郡山名郷とともに八幡荘に属する。
  8. 異説では、三河国幡豆郡八田郷(現在の愛知県西尾市上矢田町)とされるが、これは後世の地名で該当しないとされる(『木曾義仲の挙兵と市原・横田河原の合戦』(菱沼一憲/『群馬歴史民俗』25号/(改題)『木曾義仲の挙兵と東信濃・西上野地域社会』/2004年)と『中世地域社会と将軍権力』(菱沼一憲/汲古書院/2011年)の1部第二章1節による)。
  9. 生年は、1127年(大治2年)の説もある。
  10. 広道の孫、幸親の子、幸氏の父。戦国時代の真田信繁(幸村)の遠祖にあたる。
  11. 関盛国の孫、盛俊の子、盛綱の弟、盛長の父。

関連項目[]

先代: -義清流足利氏初代当主 - 次代:広沢義実


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