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足利義兼(義包)像
足利 義兼(あしかが よしかね、1145年(天養2年/久安元年)? - 1199年4月5日(正治元年3月8日))とは、平安時代末期~鎌倉時代初期の武将。はじめは義包、通称は足利三郎/又太郎。官位は、従四位下・上総介・八条院蔵人・兵衛尉。後に出家して義称入道(ぎしょうにゅうどう)と号した。
陽成源氏(河内源氏)流足利氏(下野源氏)の初代棟梁の足利義康の第3子[1]、生母は熱田大宮司の藤原範忠(藤原南家)の娘、矢田義清[2]・梁田義長(簗田義良)[3]の異母弟、義房(季邦)の同母兄、畠山義純・桃井義助・足利義氏・藤原親兼(藤原北家)室・園田成実[4]室・野田朝氏室の父。義兼の生母が河内源氏の棟梁でもある鎌倉頼朝(鎌倉氏(源家)の当主)の従姉妹で、義兼は年代的にも近い頼朝の父方の族父で、同時に母方の従子という血筋的にも身近な存在でもあった。
父・義康が41歳で逝去したために、同母弟の義房(季邦)とともに新田氏(上野源氏)の祖である伯父・新田義重の軍事的庇護を受けていたという[5]。
異母兄の義清・義長(義良)は庶子であったために、義清は伯父の義重の婿養子となり、嫡子であった義兼は本拠地の下野国足利荘(現在の栃木県足利市周辺)を譲られた。さらに、1183年(寿永2年)に族子の木曾義仲(頼朝の従弟)の麾下の総大将として備中国の『水島の戦い』で伊勢平氏(六波羅氏)戦って、戦死した異母兄の義清・義長(義良)の遺領として、足利荘の南にある梁田郡(簗田郡)内にある梁田御厨[6](現在の栃木県足利市福富町)をも受け継いで、義兼は足利氏の棟梁として地位を確立した。
1180年(治承4年)に、族子で母方の従父でもある頼朝が伊豆国で挙兵して、伊勢平氏の同族である伊豆国の目代の山木兼隆[7]を討ち取った。これを聞いた義兼は、八条女院(暲子内親王)と以仁親王の関連性から[8]、重い腰を動かさない伯父・義重に背を向けて、義清の庶長子でもあり甥の山名義範(義節)と従子の里見義成(義重の庶長孫、義俊の長子)とともに頼朝のもとに馳せ参じた。
翌1181年正月(治承5年2月)に、頼朝の仲介を受けて北条政子の妹の時子を娶った。このように頼朝と血筋的に近い関係にあったことが、南北朝時代に末裔の尊氏(高氏)が京にて室町幕府を開いた要因になったという。
1184年4月(元暦元年5月)に、すでに『粟津の戦い』で頼朝の異母弟・範頼[9]と義経兄弟に討たれた族子の木曾義仲の子・義隆をはじめとする木曾勢の残党の討伐において戦功を挙げた。
その後は頼朝の異母弟の範頼の副将として、伊勢平氏討伐で大いに戦功を挙げた。その功績により、翌1185年(文治元年)に頼朝の知行国となった上総国の国司(上総介)に任じられている。1189年(文治5年)に、奥州藤原氏の当主の藤原泰衡が頼朝の異母弟の義経が自決して果てた後の『奥州の戦い』に、甥の山名義範とともに従軍した[10]。翌1190年(建久元年)に陸奥国で、義経を追い詰めた泰衡の遺臣である大河兼任がその残党を率いて挙兵すると(『大河兼任の乱』)、義兼は追討使に任じられ、大河兼任らを討ち取って平定した。
義兼は度重なる功績で、義兼は源氏一門の「御門葉衆」として幕府において要職に就いていた。しかし、頼朝の地位が朝廷に影響を与えるほど高まっていくと、義兼は御家人に降格して、その幕下に組み込まれることになった。
1195年2月(建久6年3月)に、義兼は東大寺において出家して、義称入道と号した。この出家は、頼朝とその妻の政子をはじめとする政権から排斥されることを恐れての処世術であったと言われている。その後の義兼は家督を嫡子の義氏に譲って、本拠地の足利荘の樺崎寺(現在の栃木県足利市樺崎町)に隠棲して、1199年(正治元年)に樺崎寺で逝去して、同所に手厚く埋葬されている。享年55[11]。
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