梁田義長

ページ名:梁田義長
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梁田義長(簗田義良)像

梁田 義長・簗田 義良(やなだ よしなが、1140年(保延6年)? - 1183年11月17日(寿永2年閏10月1日))とは、平安時代末期の武将。足利義長/足利義良とも呼ばれる。通称は足利次郎/梁田次郎(簗田次郎)。梁田氏(簗田氏)の祖となる。

足利義康足利氏下野源氏)の祖)の次庶子、矢田義清の同母弟、足利義兼[1]義房(季邦)の異母兄、義正義綱の父。

概要[]

父および兄から下野国梁田郡(簗田郡)内にある梁田御厨[2](現在の栃木県足利市福富町)周辺を与えられた。

父が41歳で逝去すると、家督が異母弟の義兼が相続することに決定されたため、同母兄の義清とともに上京して上西門女院(恂子/統子内親王)に仕えて、蔵人に任命された。1180年(治承4年)に、兄の義清とともに平清盛の専横に不満を持った以仁親王の挙兵に呼応して、親王に随伴した族父の源頼政ととも伊勢平氏(六波羅氏)と戦った。しかし、頼政が敗死した後に族子の木曾義仲を頼って、兄とともにその武将となった。

1183年(寿永2年)に平宗盛(清盛の第3子)率いる一行の都落ちの際に兄に従って、又従弟の源行家(新宮十郎義盛)と、族兄弟の多田行綱[3]とともに京を包囲して、丹波国にある丹波路から大江山に布陣して都の西方から伊勢平氏を追撃して、秋7月に兄と義仲とともに入京した。

同年秋9月、後白河法皇(以仁親王の父)の院宣の要請を受けた義仲から西海を拠点とした伊勢平氏を追討する総大将として、副将の海野幸広[4]とともに7千騎を率いて京を発進した。同年閏10月1日に、備中国水島(現在の岡山県倉敷市玉島付近)において、伊勢平氏の総大将の平知盛・重衡兄弟と、搦手の教盛(国盛)(清盛の異母弟)とその子である通盛・教経兄弟ら率いる伊勢平氏の軍船と激突した。

しかし、義長(義良)は船戦に慣れた伊勢平氏の軍勢を前に大敗した挙句に、兄の義清と副将の海野幸広らとともに矢の雨に浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた。享年44という。

義長(義良)の遺児の義正と義綱は、叔父の義兼の庇護を受けて、鎌倉時代になると同族の斯波氏(奥州源氏)に従い、その一部が尾張国守護となった斯波氏嫡流の尾張武衛氏尾張源氏)の守護代となり、尾張簗田氏は藤原北家利仁流織田氏と張り合う仲となったという。その後裔には戦国時代に、織田信長に従った梁田政綱(簗田正綱)・広政(広正)父子と斯波氏一門の高水寺氏の家老の梁田詮泰(奥州梁田氏)などが出たという。

脚注[]

  1. 足利氏一門の今川氏(駿河源氏)の当主の今川貞世(了俊入道)の『難太平記』によると、義兼は又従兄の源為朝の庶子と記されている。
  2. 簗田御厨とも呼ばれる。
  3. 生年は、1127年(大治2年)の説もある。
  4. 広道の孫、幸親の子、幸氏の父。戦国時代の真田信繁(幸村)の遠祖にあたる。

関連項目[]

先代: -源姓梁田氏初代当主 - 次代:梁田義正


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