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梁田政綱(簗田正綱)像
梁田 政綱・簗田 正綱(やなだ まさつな、? - 1579年7月20日(天正7年6月6日)?)とは、戦国時代末期の武将。通称は四郎左衛門、官職は出羽守。
足利氏(下野源氏)一門の尾張梁田氏(尾張簗田氏)の当主。梁田義長(簗田義良)の末裔で、広政(広正/正次/政次)[1]の父、長教の祖父、政勝(正勝/教貞)の曾祖父。
初めは、同族の尾張国守護である斯波氏(奥州源氏)こと尾張武衛氏(尾張源氏)の当主である斯波義統に仕えていた。後に義統が守護代でもある藤原北家利仁流織田氏本家の織田信友(彦五郎)[2]に弑されると、その分家である勝幡織田家の当主の織田信長のもとに奔ってそのまま仕え、尾張国春日井郡九之坪郷[3]にある九之坪郷城を与えられたという。
1560年(永禄3年)夏5月に、政綱の同族筋である今川義元が京に上って、自ら室町幕府の後継者として「足利義元」と名乗るために、2万5千人の軍勢を動員した。その際に尾張国を通過するときに信長に降伏を勧告した。信長はこれを断り、徹底的に抗戦した。そこで、信長は政綱を呼び出して、土豪の蜂須賀正勝[4]とともに義元の動向を探るように命じられた。
政綱は正勝とともに、配下を間者として義元の動向を事細かに探り出した。これが功を乗じて、義元がわずか2千5百人の軍勢とともに田楽狭間で休息している吉報を信長にもたらしたために、絶好の機会と捉えた信長は3千人の軍勢を率いて、熱田神社に参拝して、一気に義元の本陣に突入して、義元の首級を奪ったのである(『桶狭間の戦い』)。政綱はこの戦功で、愛智郡沓掛郷[5]にある沓掛城主となり、3千貫の扶持を与えられた。
後に政綱は、柴田勝家[6]・羽柴秀吉(豊臣秀吉)とともに各地を転戦して、加賀国の本願寺門徒による反信長の『加賀一向一揆』を鎮圧した後、加賀国の天神山城主となる。しかし、政綱は再起した一向一揆の鎮圧に失敗したため、同国の大聖寺城に退却を余儀なくされ、のちに自ら信長に安土城で謁見して、蟄居した。まもなく、政綱は家督を子の広政に譲って、逝去した。
上記の通り、『桶狭間の戦い』の功績の内容は不詳だが、一説には、今川義元の本陣の場所を織田信長に伝えて、義元の脚を突いた服部一忠(小平太)とその首を挙げた毛利良勝(新助)よりも、政綱の功績は大きいとして、沓掛城主となったという。しかし、なぜ本陣の場所を政綱が知っていたのか、なぜ功績を讃えられたのか、不明な点が多く、多くの歴史研究者が推測を発表しているが、いまだに定説はない[7]。
現在では、政綱の情報を元に奇襲作戦を行なったという説には疑問が持たれている。また、最初から奇襲作戦を行なうとすれば信長があらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。
しかし、そもそも政綱が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川氏にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田氏には信長からの感状が存在していない。
政綱の勲功第一という表現に比較的近いものは、「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛城を拝領したとする部分であり[8]、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後で、それまで今川氏の領有であった沓掛城を政綱が拝領したという事実から、後に記された小説的解釈である[8]。
ほかに、政綱が戦いの直前に偵察や地形の調査を行なっていたとも言われているが[9]、今のところは確実なものとはされていない。現代ではある軍事研究家の観点から詳細に構想している[10]ほか、が沓掛郷の領主である政綱が地形などを把握していた可能性に言及している[11]が、これらにも史料的な裏づけはなく、梁田氏の本領は九之坪郷であるとする説もある[12]。ある史家は「抗争の際には双方ともに円滑な関係を保つことが地方土豪の知恵である」として、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として政綱の名を出している[13]。
また、信長の家老たちによる中嶋砦の軍議で出撃に慎重論が大勢を占める中で、政綱だけは作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したとする説もある。だが、これも戦記物のような本には登場するものの、史料には見受けられない。
史料に残る事実は、『桶狭間の戦い』の前までは今川氏の領土だったの沓掛城が、この戦いの後に政綱氏に拝領されて、その領地になったということだけである。政綱自身が沓掛城を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかは判明されていない。
先代: ? | 尾張梁田氏第?代目当主 - | 次代:梁田広政 |
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