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曖昧さ回避 | この項目では、桓武平氏(伊勢平氏)一門について記述しています。その他の氏族については「関氏 (日本)」をご覧ください。 |
伊勢関氏の家紋(揚羽蝶)
関氏(せきし)は、桓武平氏貞盛流(伊勢平氏)の一門。「伊勢関氏」とも呼ばれる。
さらに2系統に分かれ、平正度[1]の孫の関盛康[2]とその従弟の関兼季[3]をそれぞれ祖とする。同族に伊勢氏、庶家に神戸氏がある。一説には兼季の族弟にあたる繁盛流大掾氏(常陸平氏)一門の大掾盛兼[4]が婿養子なった説がある。盛兼を祖とする繁盛流関氏の庶家に伊豆山木氏[5]がある。
平盛康(平正度の孫、季衡の子)が伊勢国鈴鹿郡関郷(現在の三重県鈴鹿市関大字)を本貫としたことから、関氏と称した。盛康の子の盛遠を経て、盛遠の子の盛国(盛長)は主馬判官に任じられて、惣領家である平家(六波羅氏)の棟梁の平清盛に仕えた。
清盛が没して、その嫡子の宗盛に引き続き仕えたが、1185年3月24日の『壇ノ浦の戦い』で、源義経に敗れて、平家一門が入水自決を遂げると、盛国は平家再興のために身を潜めるが、翌1186年7月に三浦氏[6]一門の岡崎義実に捕らわれて、義経の異母兄で源家(源姓鎌倉氏)棟梁の源頼朝の命で帰順を促したが、盛国はそれを拒否して、法華経を謡いあげて餓死を選んだ。頼朝は盛国の死を惜しんで、盛国の末子の盛忠が頼朝に帰順を示したので、彼を伊勢国の地頭に任じた。
盛忠以降からも、関氏は鎌倉幕府において、頼朝・頼家・実朝の3代に仕えて、その後は北条得宗家に仕えて、盛忠の子の盛泰(国貞)は子の盛光とともに『承久の乱』で戦功を挙げて、伊勢国鈴鹿郡関谷に住居した。
南北朝時代になると、盛光の孫である盛治(忠興)は子の盛正に命じて、新田氏(上野源氏)の惣領家の新田義貞に呼応して、北条得宗家滅亡に助力させた。当時の関氏は北畠家(伊勢源氏)に仕えており、後醍醐天皇を中心とする南朝方として活躍した。
1337年に陸奥国にいた主君の北畠顕家が義良親王(よしながしんのう、後醍醐天皇の皇子)を奉じて西上したとき、盛正は子の盛澄らとこれに従い、伊勢国では北朝方の有力豪族の伊勢長野氏(長野工藤家)[7]や雲出川に構えた足利氏(下野源氏)の惣領家の足利尊氏の腹心である大高師泰の軍と戦った。また『勢州軍記』によれば、1360年に伊勢国守護で仁木義長(足利氏一門)の討伐に功を立て、鈴鹿・河曲の二郡を給されている。そして、盛澄の弟である盛門・盛繁・盛宗・正実らを、それぞれ亀山・神戸・峯・鹿伏兎・国府の各城に配して、北伊勢随一の豪族に成長した。またこれを総じて、盛澄の系統も含めて関氏一門の五家と呼ばれた。
その後、盛澄の次男の隆盛は伊勢国河曲郡神戸郷(現在の三重県津市神戸大字)を本貫として、神戸氏と称した。その子の神戸盛氏は従父の盛雅(大叔父の盛繁の子)とともに1399年の『応永の乱』で、室町幕府の征夷大将軍の足利義満(尊氏の孫)について、伊勢国司の陣に馳せ参じて活躍した。さらに1413年以降に南北朝の対立が激しくなり、後亀山天皇の弟の泰成親王が伊勢国司の北畠満雅に助けを求めた際、その挙兵にあたって幕府軍と戦った。しかし、戦況は芳しくなく、北畠家は力尽き、盛氏・盛雅も幕府軍に降伏した。
盛氏の族子で、地頭を引き継いだ盛元(盛澄の曾孫、盛信の孫、信正の子)は、『応仁の乱』のなかで最も激しかったといわれる『相国寺の戦い』で、備前国の松田氏とわずかの兵騎で三条殿を守っていたが、山名氏(足利氏一門)の大軍に敗れて、松田氏の当主は戦死し、盛元は退却している。
戦国時代になると、関氏は中・北伊勢地方にまで勢力を伸ばしていたが、やがて織田信長の西上によって、関一門は相次いで信長に降り、離散した。1574年の伊勢国長島の一向一揆に対する信長の征伐は激しくなり、盛忠も信長の属将の蒲生賢秀に従って戦ったが、戦死を遂げている。盛忠の父の盛宣(盛信)の幽閉とあいまって、関一門と家臣団は、信長のために離散に追い込まれていった。
その後、盛忠の弟の一正(正良)は信長の女婿の蒲生氏郷(賢秀の子)の配下となり、豊臣秀吉の『九州征伐』や『小田原征伐』に出陣している。やがて、氏郷の陸奥国会津転封によって、一正の父の盛宣もそれに従って白河城に赴き、白河城五万石を領した。『関ヶ原の戦い』の折には、一正ははじめ西軍で、のち東軍に属し、戦後に旧領亀山城に移ったが、1618年に改易されて、甥の氏盛(弟の盛良(正盛)の子)が近江国蒲生郡において五千石を与えられて寄合に列し、直参旗本として家名を伝えた。 氏盛の子の長盛に嗣子がなく、従弟の治盛(叔父の盛直の子)が後を継いだ。その後は治盛の子の盛貞・貞辰兄弟が世襲したが、盛定・貞辰とともに嗣子がなく、ついに名門の関氏は断絶した。
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