文明人之纂略010

ページ名:文明人之纂略010

文明人之纂略 作者:黒須輝

010 姉と野菜畑


 「―――――無闇に物を口に入れてはいけません。生で食べて良いのは地面と接していない新鮮な果実か、何にも触れずに落ちてきた雨水に限ります。例えば……」
 「着いたよ」
 「ああ、着きましたね」
 歩きながら講義をしているといつの間にか到着していた。野菜畑である。
 「じゃあ、いつもの始めますか」
 荷物を置く。
 「うん。せーの……いーっち、にぃ、さん、しっ」
 「ごー、ろっく、しぃち、はっち」
 安全の為の準備体操。屈伸や跳躍など足腰の運動から、上体反らしや手首の運動を行う。農作業は同じ場所の筋肉ばかり使ってしまうので、全身のバランスを保つ為でもある。
 「吸ってぇー……いち…に…さん……吐いてぇ……いち…に…さん……」
 背筋を伸ばしながら限界まで吸い、脱力と共に吐く。
 「ねぇ、この吸ったり吐いたりってなんか意味あるの?」
 前から気になってたんだけど、と付け足してエレ姉は訝しむ。確かに、他とは少し毛色が異なる体操ではある。
 「呼吸法……ってやつです。身体の動かし方の基礎ですよ」
 「???」
 理解不能、といったところか。
 『呼吸法』とはヨーガや武術の基本となる訓練だ。俺の場合、黒須輝の経験に基づく記憶から合気道のそれを採用している。
 次に『何故』という問いであるが、既に述べた通り、運動の基本を身に付ける為だ。
 例えば、瞬発力を発揮する際にのんびり息を吸うアスリートはいないだろう。その場合短く吐くか、止める。その理由はいくつかあるが、つまるところ効率が良いからだ。
 呼吸法は効率の良い動作を意識的に引き起こす練習である。噛み砕いて説明すれば……
 「ガムシャラに力を使うより、楽に動けるようになります」
 「ふーん。これが?」
 信用してないなぁ。こういうのは実際に体験してみるのが一番か。
 「では、ちょっと私の両手首を掴んでみてください」
 「こう?」
 俺の要請に応え、対面した姉の手がガッシリと握る。体格差もあってなかなか重い。
 「ええ、いい感じです」
 いい感じに『捉えた』。これから行うのは技としての呼吸法。相手の重心を見定め、息を吸いつつ自身の体幹に乗せてやる。目に見えるのは手首を内に巻いた僅かな動作だけだが……
 「うわわっ」
 この通り、姉の姿勢は爪先立ちとなり『死に体』となる。
 平たく言えば全身の筋肉を総動員して持ち上げている構図とはなるが、技術的に効率を高めれば重心の操作だけで大きなパワーを引き出せる。
 「これが呼吸法の効果です」
 「なるほど、アルが水汲みでいつも涼しい顔してるのはこういうことだったのね……って教えなさいよ、それ!」
 エレ姉は今まで黙っていたことに対し、俺を追及する。
 「やっぱり自分の頭で考えないと、それは。人間は楽をしようと工夫する時、最も頭脳が働く生き物ですし」
 実際、俺もこのような技術は誰かに習った訳ではない。稽古を通して「こうすれば楽だよな」「この技は応用できるか」など試行錯誤した結果だ。
 これは『合気道に構え無し』という競技そのものの本質に合致しており、臨機応変な所作が常に求められる点で合気道の一形態ともいえる。
 「ぶぅー、アルの意地悪!」
 「ははっ、そうですね。でもまぁ、私の真似をする、というのは良い方法かもしれません」
 受け身で教わるのではなく、自発的に学べということ。
 「……分かった」
 今からちょうど水汲み・水遣りだ。用水路と畑とを何度も往復しなければならないので、習得には良い機会だろう。
 水場までは30mもない。
 容積8Lほどの桶を満杯にし、底部を両手で持つ。指は五本全て使うのではなく中指、薬指、小指で引っ掛けるように。腕力は極力使わず、僧帽筋で肩甲骨を寄せて抱える。歩き方は膝を伸ばしたまま、骨盤から足を動かす意識で。
 「お、良い調子、良い調子」
 ある程度コツが掴めているのに加え、第二次性徴までは女子の方が体格は大きい。その分の筋力で能率は十分補われている。
 2人して10往復もすれば終わった。次は草むしりと収穫だが、シーズンは過ぎているので後者が作業の主になる。
 作物はイモ類と遅めのウリ系植物。どちらも名前は特に無いらしいが、芋はサトイモに近い粘り気のある球茎タイプ。
 瓜は果肉に水分を多く含むことから、この村では水分補給代わりに若い実を齧る。一方、成熟した実の外皮はとても硬く、食器や水筒にも利用されるほど。
 「……アル、これくらいで良いかな?」
 「そうですね。今日明日の分は確保できたと思います」
 「お昼ご飯どうする?パンは貰ってるけど」
 余程信用されているのか、俺と姉の組み合わせの場合、母から「ご飯は勝手に食べてね」と言われることが間々(まま)ある。その場合パンだけ渡されるので足りない分は自らで調達することになる。
 「じゃあ川に行きましょう。あそこなら火の使用が許可されていますから」
 「いつもと同じね」
 日が高くなった頃、俺達は後片付けを終えて畑を後にした。


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