登録日:2020/09/01 Tue 22:06:04
更新日:2024/05/23 Thu 10:17:56NEW!
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軍艦 海賊 通商破壊 軍事 ドイツ 第一次世界大戦 ゼーアドラー 仮装巡洋艦
皆は「第一次世界大戦で活躍した兵器」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
工業力が生みだした戦車や毒ガス、航空機?
あるいは全ての戦艦を過去のものにしたドレッドノート?
ここで紹介するのはゼーアドラー(SMS Seeadler)というドイツ帝国海軍の仮装巡洋艦*1。
第一次世界大戦で恐れられたドイツの通商破壊作戦に従事し、海の悪魔 (Seeteufel)の異名を持つ……
帆船である。
性能諸元
排水量 1,571トン
全長 83.5m
全幅 11.8m
吃水 5.5m
機関 ディーゼルエンジン
最大出力 900hp*2
最大速力 9.0ノット(機関航行時)
乗員 64名
兵装 10.5cm単装速射砲2基・重機関銃2丁
◆仮装巡洋艦――帆船でもやれます!――
まずこの仮装巡洋艦という艦だが、これはドイツ海軍が大好きな通商破壊作戦のために、民間船を装って他国の船を襲うことを目的とした艦である。
こうした艦は得てして最低限の武装しかしておらず、万が一本格的な戦闘となれば一方的な惨劇が待っていることは想像に難くない。
そのため巡洋艦と名が付くものの、あくまでも一撃離脱を繰り返していくことが基本戦術となる。
そしてこうした目的で運用する艦であれば、むしろこうした目的で運用するために、帆船のこの船に出番がやって来たのである。
「動力船が普通に存在する時代に帆船?」と思われるかもしれないが、これには案外好都合な面もあるのである。
第一に帆船は燃料の心配がない。
特にイギリスは大英帝国の名に相応しく各地に植民地を持っており、ただでさえ海外領土の少ないドイツ側はますます補給が困難になっていた。
そのため一般の仮装巡洋艦でさえも、洋上で敵国の船を捕まえては石炭や食料を奪い取り、そのまま次の任務へ向かうことも多々あったとされる。
その点で帆船は燃料を気にすることなく、食べ物さえどうにかなればいくらでも通商破壊作戦を続けることが可能だと思われたのだ。
第二には当時のイギリスによる海上封鎖の厳しさがある。
周囲の海をイギリスに抑えられていたため、ドイツの船が自由に航行することは厳しかった。
行き交う船に厳しい目が向けられていた時代でも、「流石に帆船ならイギリスも見落とすんじゃね?」と、海軍の偉い人たちは考えたのである。
そして最高の利点は「弱そう」なことである。
いくら戦争中で自国の船がドイツの手で次々沈められているとしても、目の前に現れた帆船を見れば「あいつは大したことない民間船!」と油断を誘えるからだ。
さらにゼーアドラーが活動した20世紀初頭には、まだまだ商用帆船も数多く運用されていたため、帆船全盛期の独特の文化が残っていた。
その文化とは、帆船同士が大海原で出会ったらお互いに接近し、座標や時刻といった様々な情報を交換する、というものである。これは義務ではなく暗黙の風習であったが、無線装置など積まれていなかった時代においては、海を行き交う船にとって情報を入手する重要な行為だったのである。
こうした文化が色濃く残っていたことから、帆船から呼びかけを受ければ近づいてやり取りをする、というのはおかしなことではなかったのである。
そのため敵国の商船に「こんにちは!今何時?」とメッセージを送れば、何も知らない獲物の船が向こうから都合よく接近してきてくれるのである。
◆パス・オブ・バルマハからゼーアドラーへ
1888年に貨物船として誕生したパス・オブ・バルマハは、1915年にドイツによって拿捕されてしまう。
イギリス(スコットランド)生まれのバルマハはその後、アメリカの船会社の船として活躍していた。
しかし1915年。ニューヨークからロシアへ向かっていたバルマハは、イギリス軍に「なんか密輸しているだろお前!」と拿捕されてしまう。
そしてイギリスへと連れて行かれる最中、イギリスは「俺たちが捕まえたんだ。星条旗なんかいらねぇ!ユニオンジャック万歳だ!」と思ったのか、アメリカ人船長の反対を無視して船にユニオンジャックを掲げる。
すると今度は「おい!イギリスの船があんなところにいるぞ!」とドイツ軍に目を付けられ、今度はドイツによって拿捕。
イギリスは慌てて星条旗を再び掲げたがドイツは納得せず立ち入り検査を敢行。
挙句勝手に旗を変えられた横暴にキレた船長らがドイツに協力的であり、最初の拿捕で乗り込んできていたイギリスの軍人たちが拘束される始末。
その後ドイツの港に連れて行かれたバルマハは、船長の素直な説明もあって、平和に港で過ごしたのでした。
やっぱり英米は仲悪い。
その後しばらくバルマハは放置されていたが1916年、ドイツを悩ませるある問題が発生する。
ユトランド沖海戦で大打撃を受けたのである。
これにより戦力の多くを喪失したドイツは、主力艦隊をキールへと撤退させることを選択。
そしてイギリスはそれを見て、大規模な海上封鎖によってドイツを消耗させることを目論んだのである。
当然黙って見ているドイツではなく、仮装巡洋艦やUボートを総動員した通商破壊作戦に打って出る。
しかしイギリスの封鎖は非常に固く、外洋での通商破壊作戦は困難を極めた。
そこで海軍は考えた。
「帆船だったら流石にただの商船だと思ってイギリスも見落としてしまうのでは?」
こうして御年28才のベテラン帆船だったパス・オブ・バルマハに白羽の矢が立ち、ドイツ軍によって仮装巡洋艦ゼーアドラーとしての改装を受ける。
ここに帆船なので燃料の心配が要らず、ボロ船なので到底戦闘艦には見えないが、正式にドイツ海軍に所属する仮装巡洋艦が誕生したのである。
運のいいことに、この船が貨物船だったために改装の自由度は高かった。
まずは補助動力としてディーゼルエンジンを搭載。
そして広い船室を作り、乗組員に加えて捕虜を入れておく部屋もきちんと準備*3。
そして特別な任務に出る艦には特別な男が必要である。
帆船に詳しく、外洋の知識も豊富で、各国語に精通したフェリクス・フォン・ルックナー伯爵を艦長に迎え、準備は整った。
1916年12月21日。帆船に詳しい乗組員たちを乗せ、ゼーアドラーはイギリスが封鎖する海峡を突破するべく出航した。
◆「海の悪魔」
ルックナーは乗組員として、ノルウェー語に堪能な面々を集めていた。
そして「ノルウェーからの木材輸送船」と偽って遂に出航。
わざわざ艦内の調度品までノルウェーの物にするほど用意周到だった。あと偽の艦名を考えた結果、婚約者の名前にするという紳士。
実際にイギリス軍の監視網に引っかかるものの、流暢なノルウェー語と(偽造)書類の甲斐あって、遂に外洋へと飛び出していったのである。
1917年1月9日、ジブラルタル沖で石炭を運んでいたイギリスのグラディス・ロイヤル号を発見したゼーアドラーは、遂にその牙をむく。
手旗信号で「今何時?」と尋ねられたグラディス・ロイヤルは、何も疑うことなく大海原を往く帆船に近づいたのだが……
なんと!帆船はドイツ軍の艦艇だった!
突如ドイツ軍旗を掲げたゼーアドラーは、隠していた大砲を撃ち込み停船を要求。
そして呆気にとられるグラディス・ロイヤルに乗り込んでいき、乗組員を捕虜にし、食料を奪い取り、最終的には爆薬を仕掛け船を海の藻屑としてしまったのである。
この接近→警告→回収→爆破という流れを繰り返し、ゼーアドラーは数々の船舶を沈めていった。
翌10日に別の船を沈めた後、南へと舵を取り南米とアフリカに挟まれた大西洋上に陣取ったゼーアドラーは、ここで9隻を沈める大戦果を挙げている。
そして計11隻分の捕虜を抱え流石に人で溢れすぎたので、12隻目の獲物であるフランスの帆船カンブローヌ号は沈めずに拿捕し、そこに捕虜をまとめて乗せてリオ・デ・ジャネイロまで送り返すと、今度は太平洋へと舵を取った。
なおこれまでゼーアドラーの活躍が各国に漏れ伝わることはなく、ここで送り返された捕虜たちによって初めて、今まで行方不明になっていた船は嵐にあったのではなくドイツの帆船に襲撃されていた、という耳を疑う事実が明らかになった。
しかし捕虜たちはまた同時に、ルックナーら乗組員に受けた紳士的な対応も明らかにしたため、世間ではルックナー艦長らを「誇り高き船乗り」として賞賛し、一躍時の人となったとか。
一方イギリスは帆船如きに数多の船を沈められていたことを知り、海軍は必死になってゼーアドラーを追った。
しかしその追撃すらも振り切ったゼーアドラーは、南米最南端のホーン岬を越えて太平洋に進出。ここが新たな狩場となった。
そしてクリスマス島周辺で3隻のアメリカ船を沈めたことで、とうとう1917年1月から7月の半年間で14隻撃沈(約24000トン)・1隻拿捕(約1800トン)という戦果を挙げる。
さらにゼーアドラーはこれだけの船を仕留めながらも乗組員の命を狙うことはなく、犠牲になったのは1人のみとされる。
ただし捕虜を送り返して以降のゼーアドラーの戦績が栄光続きであったわけではない。
先述のようにイギリスを本気にさせたことで猛追撃を受けており、ホーン岬を突破する際に遭遇したイギリス軍を雷雨を利用してやり過ごしたり、名前の記された救命ボートを囮にして「ゼーアドラー撃沈」の報をイギリスに流させたりと、策を練り続けて必死の戦いを繰り広げている。
さらに太平洋ではイギリス以外にも日本やアメリカからも睨まれており、かなり不自由な航海を余儀なくされていた。
何より通商破壊作戦の目的というのは、相手側にプレッシャーを与えることであり、バレてなんぼの作戦。
そのため相手に「お前たちをいつでも狙っているぞ!」ということをアピールしなければ始まらないのだが、無害な帆船のふりをして奇襲するゼーアドラーにとっては、策がバレることは致命的なのである。
現にカンブローヌ号までは3ヶ月ちょっとで挙げた戦果なのだが、その後ホーン岬を越えるのに1ヶ月を費やし、ようやく6月から狩りを再開している。
◆栄光の終わり
南太平洋のソサエティ諸島*4方面へと向かったゼーアドラーだったが、運悪く嵐に遭遇してしまい、モペリア島の周囲に広がる環礁に避難することを決める。
しかし8月2日、嵐による大波が環礁の中まで押し寄せたことで、ゼーアドラーは走錨してしまい環礁に衝突*5。
開いてしまった大穴から海水が浸入し、航行不可能な状態に陥ってしまった。
この時のゼーアドラーには、乗組員と捕虜を含めて100人以上が乗っていたが、彼らは大海原に浮かぶ小島に取り残され、その生涯を終えたのである……
追記・修正は海の男たちに思いを馳せてからお願いします。
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……というように、これまでのゼーアドラーの活躍自体強烈な逸話だらけなのだが、この艦の冒険はまだ終わらない。
これだけの作戦を可能にした男、ルックナーたちは決して諦めないのである。
取り残された彼らは無人島生活を開始することを決断。
島を切り拓いてはゼーアドラーブルクと名づけ、生活を開始したのである。
◆サバイバル――ルックナーの場合
しかし8月23日、このまま黄金伝説無人島生活を続けてもどうにもならないと感じたのか、ルックナーはある決断をする。
「船がなければ近くで盗めばいいじゃない」
そして勇敢な部下たちを引き連れ、ルックナーは周辺の島々から手ごろな船をかっぱらうことを決断。
その手段は正面突破もいいところで、ルックナーと部下たちが語学に秀でていたことを活かし、周辺の島でイギリス軍に身分を問われた際にも「アメリカ人です」とか「ノルウェー人です」と答えて堂々と突破していった。
しかし手近なところにめぼしい船は見当たらず、勇敢なルックナーたちも遂にその生涯を終え……
「近くになければ遠くに行けばいいじゃない」
次いでルックナーはフィジー(3700km先)に狙いを定め、小舟で大海原へ出発。
しかも道中で自身含めたメンバーが壊血病にかかり死にかけながらも、根性で乗り切りフィジーに到着。
そこでようやくいい感じの帆船を発見し、遂にこれを盗もうとする。
しかしイギリスに発見され捕まってしまった彼らは、ニュージーランドで捕虜としての生活を始める。
しかし勇猛果敢なルックナーたちは収容所の所長が持っていたモーターボートを分捕り逃走。その後別の船に出会うと、今度はそいつを分捕り逃走を続けた。無理やりわらしべ長者。
とはいえ流石に今度は逃げ切ることができず、再び収容所送りとなって戦争を終えたのであった。なお戦争が終わったから諦めたものの、もう一度脱走する気満々だったらしい。
そしてモペリア島に残った部下と捕虜たちは……
◆サバイバル――部下の場合
艦長を信じて待っていた部下たちであるが、その耳に入ってきたのは無情にも「ルックナー捕まる」のラジオ放送であった。
信頼していた艦長と離れ離れになるどころか、艦長は敵国に捕まってしまった。そこで部下たちは考えた……
「よっしゃ、俺らも適当に盗むわ」
この時偶然にも近くを通りかかった船があった。フランス船リュティス号である。
このリュティス号に助けを求めた部下たちは、近づいてきたリュティス号を逆に拿捕。
そしてフォルテュナ号と改名したその船で、南米へと出発したのである。やっぱり海賊。
不幸にもイースター島付近で嵐に遭遇し航行不能となり、今度は現地で船に救助され、素直にチリで終戦まで過ごした。
◆サバイバル――捕虜の場合
困ったのがゼーアドラーの捕虜とリュティス号から追い出された乗組員たちである。
彼らは黙っているわけにもいかず行動を開始。島に残されていたボートを見つけ、太平洋を1600km移動しサモアのパゴパゴまで救援を要請しに向かう。こんな奴ばっかりか。
これが功を奏し、島に残されていた面々は無事に救助された*6。
◆フェリックス・フォン・ルックナー
伯爵家の御曹司であったルックナーは1895年、13歳で家出しロシアの帆船に飛び込むというとんでもない冒険少年であった。
ちなみに理由は「俺は敷かれたレールを歩く人生なんてお断りだぜ!」というアレ。
父親は騎兵にしたかったらしい*7が、学校に次々落第したうえに、そもそも船乗りになりたかったルックナー。
13歳では本来船乗りになれないはずだったが、ベテラン船乗りのペーターの助けによって船乗り生活を始めることができた。
この時ペーターは自身の衣服箱をルックナーに託したという。
その後世界を転々とした彼は、船乗りに加えサーカス、ボクサー、カンガルー狩り、メキシコ大統領の護衛などなど、様々な仕事を経験する。
チリで逮捕されたり、ジャマイカで医者にかかったら金が無くて追い出されたり、苦労を重ねながらも成長。
職歴からわかるように凄まじい力自慢であったらしく、素手で電話帳を引き裂いたり、指でコインを潰したりしていたとか。
また航海中に洋上で溺れて死にかけるものの、アホウドリの脚に捕まって浮かび続けることで、救命ボートが来るまで粘ったとか。
1903年に帰国した彼はドイツで正式な船乗りとしての訓練を受け、予備士官としての身分を獲得した。なお両親は家出したルックナーを死んだと思っていたらしく、帰ってきた息子が海軍士官となったときにはとんでもなく驚き喜んだらしい。そらそうよ。
ノルウェー船への偽装や語学に秀でた乗組員の活用など、目的のためには準備を怠らないタイプであった。
しかし変な方向にも全力投球する人であったのか、部下を女装までさせたことがある。
これがノルウェー船に偽装しての出航の際には、女装させた部下を(病気がちな)妻として寝かせておき、イギリス軍をさっさと追い払うとか、獲物のなかでは最大のホーンガース号(約3600トン)を仕留めた際には、「女性に助けを求めさせることでおびき寄せる」とか、かなりの活躍を見せている。
その人気は戦後も衰えず、既にドイツ皇帝が退位していたにもかかわらず、特例でドイツ帝国の勲章を授けられているほど。
また第二次世界大戦末期にはアメリカの総攻撃が迫っていたザクセン地方の都市ハレにおいて、アメリカとドイツ双方の軍隊と交渉を重ねることで無血開城を実現させている*8。
その活躍から「アンコウ(Seeteufel)」や「皇帝の海賊(Die Piraten des Kaisers)」と称された海の男は、1966年に86歳で世を去った。
追記・修正は28年前のパソコンか、近所から分捕ってきたパソコンでお願いします。
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- 最後に「という小説です」っていうオチがくるんだろうなと思いながら読んでた。 こなかった。 -- 名無しさん (2020-09-02 08:48:10)
- 1917年や西部戦線異常なしと同じ時間帯で、かたや泥水すすりながら塹壕で凍えたり、戦車や機関銃などの20世紀の技術が戦場を蹂躙していたのに、ルネサンスを彷彿させる海賊っぷり 国籍偽装とかまんま戦争犯罪ぽいんですけど、戦後大丈夫なんですね -- 名無しさん (2020-09-02 09:51:11)
- ↑そりゃ大活躍したから英雄扱いよ。結局はそこよ。当時はそこまで条約遵守の空気もなかったんやろ -- 名無しさん (2020-09-02 14:01:18)
- 一回も使う機会がなかったが、応接室を丸ごと上下するエレベーターに改造して案内したイギリス兵を下に下ろして待ち構えていた奴らで囲んで捕虜にするつもりだったとか -- 名無しさん (2020-09-03 22:34:29)
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*2 500hpとの記述もある。
*3 問題が起きないように、人種や国籍で分けて収容する準備までしていた。
*4 現在のフランス領ポリネシア。
*5 ただし捕虜の発言によると、真相は「停泊する場所選びを間違えた」という人為的ミスらしい。一方ルックナーの自伝では前述のように不慮の事故として書かれている。
*6 この時に日本海軍の初代筑摩が出動している。
*7 ルックナーの曽祖父はニコラ・リュクネール元帥。元帥の部隊に送られた歌が、後の「ラ・マルセイエーズ」である。
*8 この頃は総統閣下によって各都市の死守命令が出されていたが、ルックナーは反ナチス寄りのフリーメイソン会員だったこともありヒトラーへの協力を拒絶していた。
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