関ヶ原の戦い(戦国時代)

ページ名:関ヶ原の戦い_戦国時代_

登録日:2011/12/30(金) 15:01:39
更新日:2023/10/30 Mon 13:50:37NEW!
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戦国時代 合戦 関ヶ原の戦い 東軍 徳川家康 西軍 石田三成 小早川秀秋 岐阜県 関ヶ原 日本史 天下分け目の大戦 天下分け目の内ゲバ 人付き合いは大切にしよう お家に帰るまでが合戦です 正面がお留守ですぞ 戦国甲子園 小早川秀秋←絶対に許さない絶対にだ 島津はいつも通り 戦国チート物語 悪夢の午後二時 1600年



「関ヶ原の戦い」とは、1600年9月15日、[[徳川家康>徳川家康(戦国武将)]]率いる東軍74000と[[石田三成>石田三成(戦国武将)]]をはじめとした西軍84000が関ヶ原(今の岐阜県不破郡関ヶ原)にて激突した戦いである。




【概要】

総158000人が激突した戦国時代最大の戦い。
そして世界最大の戦いでもある。


15万程度で世界最大?と思うかもしれないが、「最大」は人の話ではなく銃の話。
関ヶ原で使用された鉄砲の数およそ25000。
これは当時の欧州全土が保有していた鉄砲30000丁に匹敵する*1


まさに当時としては世界最大の銃撃戦が繰り広げられたのである。
各陣営が布陣したのは6時頃。
濃霧の影響もあってか遭遇戦じみた両軍、東軍は一足先に布陣していた西軍に飛び込む形で布陣、
特に東軍福島正則と西軍宇喜多秀家の距離は1キロも無かった。



東軍が西軍に鶴翼に包囲される事になったこの陣形を見て、
明治時代、陸軍大学校で教鞭をとったドイツの名戦術家、メッケルは西軍の圧勝を確信した……と言われている。


この戦いの他、東北ではこの戦いの発端にもなった上杉家が西軍として東軍の最上領を攻めた「慶長出羽合戦」、
九州では大友家再興を夢見る大友義統が毛利家の援護を受け九州に上陸し、黒田如水(官兵衛)と対決した「石垣原の戦い」など、
全国の武将が完全に2つの陣営に分かれて激戦を繰り広げた。


ちなみに、勘違いされがちだがこの戦いは豊臣家と徳川家の決戦ではなく、
豊臣家の家臣である石田三成(大将は毛利輝元)と徳川家康の戦いで、体面的には豊臣家内の派閥争いである。
そのため、家康率いる東軍には福島正則などのいわゆる「豊臣恩顧の武将」も多く所属している。



果たしてその結果たるや───



8:00

井伊隊、抜け駆け


突然、先鋒を勤めることになっていた福島正則を追い越し井伊隊が突出。
これに福島隊抗議するも初陣である総大将家康の息子、松平忠吉に合戦を見せるだけだと言い伏せる。


しかし井伊隊は宇喜多隊に対して発砲、関ヶ原の戦いは抜け駆けから始まった。


この背景には本来の徳川本隊にして精鋭部隊だった秀忠軍30000が様々な不運の結果、
合戦に間に合わないという世紀のダイナミック大遅刻をやらかしたから……
とこの記事にも書かれていたが、近年の説だとほぼ全面的に否定されている。詳細は後述。




8:10

開戦


抜け駆けに激怒した福島隊が遅れをとるなと宇喜多隊に突撃。
宇喜多隊もこれに応戦する形となり、ついに両軍が激突した。


但し、この抜け駆けに対し福島正則が家康に抗議したという記録はないため、
近年の研究では本当に井伊隊が福島隊を追い越した時に偶発的に開戦したのではないかとも言われている。




9:00

石田隊、奮戦


数に勝る宇喜多隊が福島隊を押し初戦は西軍優位にすすむ。

三成のせいで三成のせいで三成のせいで


関ヶ原の合戦前、武将の引き込み合戦に巻き込まれて命を散らした妻ガラシャの仇をとらんと、戦国が誇るヤンデルDQN武将細川忠興が石田本隊に突撃。
これを三成に過ぎたると称えられた名将島左近が迎えうつ大激戦となった。


左近の猛戦に正面からの衝突は不利とみた黒田長政隊は側面へと動き、左近隊に鉄砲の一斉射撃をくわえる。
この凶弾に左近が倒れ生死不明に。
崩れた石田隊に東軍が迫るもすぐさま大砲で応戦、戦線を押し返す事に成功する。




10:00

家康、陣を前に移す


膠着状態となり一向に戦況動かず、かつ霧でみえない戦場に業を煮やした家康が陣を移動する。
よくここで家康は動いたのに三成は…なんて言われたりするが、ヤンデルに狙われて陣を動かす余裕などなかったというのが実状である。




11:00

西軍総攻撃の狼煙があがる


大砲で応戦するも徐々に圧されはじめる三成はここで西軍総攻撃の狼煙をあげる。
これにより家康の背後に布陣する毛利、側面に陣を構える小早川をはじめとする大軍が挟撃。


これにより突出しすぎた東軍は進退極まりついに西軍により撃滅される────




はずだった




三成「────動かない…。誰も…誰も動かないじゃないか…」
そう、毛利も小早川もそして島津も────
今前線で奮戦している部隊以外誰も動かなかったのである。



なんとこの時既に毛利の吉川広家、そして小早川秀秋は家康に内応していたのだ。
狼煙をみた毛利秀元、暗黒JK(ry…安国寺恵瓊ら南宮山を降り挟撃しようとするも、
先陣を切るはずの吉川広家がエア弁当を吟味していたため動けないという事態に陥っていた(これがいわゆる「宰相殿の空弁当」)。


毛利勢は動かない────
それを確信した家康はついに行動を開始する……。




12:00

小早川裏切り


家康は松尾山に向けて大鉄砲による銃撃を仕掛け、これを受けて小早川秀秋はすぐさま突撃命令を下した…、
と、近年まで語られていたが、実は家康側が小早川へと鉄砲を撃ったという一次資料は何処にも存在しない。
そもそもとして、この戦いでは敵味方合わせて上述のように25000丁もの鉄砲で撃ち合っていたのだから、
これが本当だとしたら、どうやって家康側から鉄砲を撃ち掛けられたと小早川軍が判断(特定)できたのかという問題になる。


ともあれ、山をかけ降りる小早川勢。その狙いは、



西軍、大谷勢



しかし大谷吉継はこの裏切りを読んでいた。
柵を張り巡らし、伏兵を構えて。
義の為に戦うと語った友の為にも負けられぬと病床の身を押して奮戦。


小早川の大軍を押し返す事に成功する。しかしその側面を突然の凶弾が襲う。



それは前もって小早川の裏切りに備えて布陣させていた赤座・小川・朽木・脇坂4将の裏切りを示していた────


※脇坂安治は関ヶ原本戦前に家康とのコンタクトに成功し、戦後所領安堵・内応、子孫は江戸時代後期に譜代格として老中を輩出する名家となった。
赤座直保は東軍の前田家に内応していたが連絡ミスにより東軍内応の公表が遅れたため、
赤座家は改易となったが、直保と個人的に親交のあった前田利長に召しかかえられる。
小川祐忠は藤堂高虎に早くから東軍内応を伝えていたが、やはり伝達ミスで家康に開戦前までに伝えられなかったことから、改易。
朽木元綱も藤堂高虎経由で東軍に内応していたが、家康の側近には伝えられていたものの家康自身が知らなかったため、領地を減らされる。
しかし二代将軍秀忠の時に庶流の末男が大名に復帰し、朽木家は明治維新まで藩主として継続している。




13:00

西軍敗走


これには大谷勢も支えきれず崩壊、大谷吉継は自刃。
大谷隊を失った西軍は東軍の大軍勢に攻めたてられ遂に敗走。


三成は伊吹山方面へと落ち延びた。



死闘六時間。戦国最大の戦いは西軍方裏切りによる崩壊によって幕を閉じたのである。
余談だが、関ヶ原の戦い当日(旧暦9月15日)は家康の長男信康の命日であった。
「信康めのおかげじゃ!」(葵 徳川三代より)


【備考】

◆秀忠遅参説

関ヶ原の戦いの「六時間」と言うのは、当時の合戦としては非常に短い。と言うより、合戦が一日で終わる事自体が珍しい
ましてやそれが天下分け目の合戦となれば、普通は何日も、場合によっては何ヶ月も続くと考えるのが普通。
この短期決着は、おそらく合戦に参加していた当事者たちですら、誰も予想していなかった事と思われる。


先に書かれた「秀忠の遅参説がデマ」と言うのもこの辺りに由来し、
大方の予測通りに戦局が推移していれば間に合っていたのに、結果的に予想外に早く合戦が決着したからといって「遅参」とするのは酷だろう。
このことから、現在では秀忠は信州攻略を命じられており、関ヶ原に向かう予定ではなかったという説も有力視されている。
より正確にいえば、元々は信濃を平定しつつゆっくり進軍するというものだったが、
東軍・池田輝政らの大活躍により堅城として知られる岐阜城があっという間に落城するという事態が起こり、
これを聞きつけた家康が駆けつけ、また秀忠にも予定変更しこちらに来るように催促したという形になる。
しかしそれを伝える伝令が、悪天候の影響とそもそもの中山道の遠さなどから到着が遅れたことが秀忠が参戦できなかった要因で、
上田城攻めはそこまで影響してなかったのではないかと言われている。



小早川秀秋

「小早川秀秋の裏切りがきっかけで西軍は総崩れとなった」というものが長く関ヶ原の戦いの定説とされていたが、
近年ではこれは覆され、「小早川は裏切ってなどおらず、最初から東軍だった」という説が有力視されている。
そもそも秀秋は、秀吉の後継者として養子に迎えられ、厚遇されたが、
実子が生まれたら掌を返したように冷遇されるという憂き目に遭っており、
一方の家康には、その冷遇時期になにかと良くしてもらっているため、
豊臣に恨みはあれど恩はなく、徳川には恩はあれど恨みはなかっただろう。


ついでに言えば関ヶ原の戦いは石田三成と徳川家康の戦いであり、
どちらについても豊臣に弓引くわけでもないとくれば、秀秋の心情を考えれば当然東軍について然るべきと言える。
そのため、「最初から東軍に馳せ参じるつもりだったが、地理的な問題で西軍に邪魔され、仕方なく西軍の近くに布陣した」、
「西軍を裏切ったどころか、むしろ西軍に東軍からの裏切りを持ち掛けられていた」とするのが近年の通説である*2



と、この二つの新説は歴史好きには割と有名だが、残念ながら一般層にはあまり広まっていない。
多くの歴史小説やNHK大河ドラマ、古い論文等で広まってしまった従来説は簡単には覆る物ではなく、
「秀忠は遅参した愚か者」「秀秋は稀代の裏切り者」と言う汚名は当面晴れそうにない。


ただ秀秋に関していえば、本人の気持ちはずっと東軍に傾いており、彼にとっては不本意な形であるとはいえ、
伏見城攻めに参加しているために誤解されても仕方ないという側面もある。
秀秋はこのことに関して家康に謝罪する書状を送っている上、
伏見城攻めから関ヶ原布陣まで西軍としての行動を一切していないため、形としては家康から評価され加増されている*3
なお同じく不本意な形で西軍として参戦した長宗我部盛親はその辺の対応にしくじって改易された。
こういった事情をあまり知らない武将や公家、庶民などから裏切ったと見なされ、
また、秀秋が早世して小早川家が断絶したことにより「悪評だけが残った」というのが実際のところなのかもしれない。










なお、この戦いで得た教訓と言えば、


人付き合いは大切にしよう


に尽きるであろう。




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  • おい最後wwwしかしメッケルは結果を知って何を思っただろうか…… -- 名無しさん (2013-08-07 17:06:32)
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    関ヶ原を徳川有利のまま勝利した時に発生 -- 名無しさん (2013-08-07 17:38:44)
  • 「あの…味方が動かないんですけど。」 三成「どゆこと?」 「四面楚歌ですね。 みんな向こう(東軍)についたみたいです。」
    三成「あっ…、汚ったね。」 -- 名無しさん (2013-08-07 18:43:15)
  • 関ヶ原では家康はよゆーよゆーと言われているが、実際はかなりビビりまくってたらしい、本当に裏切るか分からない小早川、秀頼が出陣してきた時点で東軍崩壊は確定(なんせ主力は豊臣家臣)、戦場では包囲されている、かなり薄氷を踏む思いだったらしい、開戦前はもうおしまいだと嘆いてたらしいし -- 名無しさん (2013-08-07 19:15:39)
  • せめて丹後田辺城がもっと早く落城して細川幽斎の身柄を押さえてれば 西軍を 官軍として認めさせれたかも -- 松永さん (2013-08-07 20:30:55)
  • メッケルは(西軍から裏切り者が出たことが東軍の勝利に繋がったことを聞いて)、「それなら仕方ない」と苦笑したとか。自分としては多くの武将を味方に引き入れ、また内部工作などで切り崩しを図った家康の深慮を称えたい -- 名無しさん (2013-10-11 18:46:23)
  • まぁ何せ、秀忠3万いないからなが --   (2013-10-24 23:16:57)
  • 三成の人心掌握がいかんせん下手だった…もう少し狡猾に動けてたらねぇ -- 名無しさん (2013-10-24 23:49:23)
  • ↑4細川さん包囲してる連中が彼の弟子ばっかでやる気なかったもんな -- 名無しさん (2013-10-25 01:28:11)
  • 続きは明治で -- 松永さん (2013-11-06 23:30:00)
  • ↑三成が人身掌握が下手だったのは事実。ただでさえ親友大谷吉継に『君は横柄な物言いをすることがある』とキッパリと諌めていた(自分たちが出世できたのは実力ではなく秀吉の引き立てのおかげなんだから分を弁えろよ…という意もあるとか)にもかかわらず、武将としては格上の島津氏の夜襲提案を一蹴しヘソを曲げさせるわ、毛利輝元を引っ張りだせないわ……必死に忠告した吉継が気の毒だ -- 名無しさん (2013-11-07 02:02:33)
  • 秀忠は良く切腹免れたと思った。 -- 名無し (2014-01-04 12:28:19)
  • 東軍のメンツみたら誰のせいかは一目瞭然。田中さんと三成は何を思ったのか。 -- 名無しさん (2014-01-09 01:49:35)
  • そして数百年後 西軍は同じミスはしなかった -- 名無しさん (2014-01-10 00:26:17)
  • 井沢元彦いわく「薩摩は情報収集力を強化し主導権を取り続け、長州は徳川には妥協せずを刻み込んだ」 -- 名無しさん (2014-01-10 01:55:45)
  • そして東軍は数百年後 家康がやらなかったミス
    味方の暴走をやらかした -- 名無しさん (2014-01-23 12:25:45)
  • 京極造反が起きずに立花家+αが到着してれば西軍いけたかもね -- 名無しさん (2014-05-26 10:18:24)
  • ↑そうなったら関ヶ原自体起こらないんじゃないか? -- 名無しさん (2014-08-12 11:59:48)
  • もし幽斎様が死ぬようなことがあれば後陽成帝は猪熊事件並にキレただろうな --   (2014-08-12 15:42:42)
  • 岐阜城が陥落していた時点で西軍は勝てない。たとえ関ヶ原で勝っていたとしても岐阜城に退却されれば膠着状態になってそのうち和解しただろう。 -- 名無しさん (2014-09-20 23:37:58)
  • 最近の評価。天下分け目→豊臣家の内ゲバ。まぁ、逆に言えばただの内ゲバを天下分け目に変えたのが家康であり光成なのだが… -- 名無しさん (2014-09-20 23:46:26)
  • 稀に七万以上の東軍を三万の人数で食い止めた西軍みたいに言われてるけど、家康本隊は参加してないし池田、浅野、山内は毛利の抑えでこれも動いてないことを考えるとやっぱり西軍負けてたんだよね -- 名無しさん (2014-09-20 23:52:53)
  • ↑3そもそ岐阜城陥落して逃散兵が相次いでいた可能性も示唆されているらしい -- 名無しさん (2015-06-18 17:28:11)
  • 謎なんだが、鉄砲の元祖であり、文明も(たぶん)進んでて生産力もある欧州で、これだけの銃を使った決戦をしなかったのはなぜなんだろうか? やっぱり騎士道精神があったから? それとも、それほど鉄砲を使った戦術が研究されてなかったんだろうか。 -- 名無しさん (2015-06-18 18:18:20)
  • 日本が太平の世になったか、戦国の世になったか決まった一戦だった -- 名無しさん (2015-09-08 13:07:26)
  • ↑どっちが勝つにしても敵はいなくなるし太平ルートへ真っしぐらなのでは。秀頼が朝鮮出兵するとかなら話は別だが -- 名無しさん (2015-09-08 13:37:17)
  • ↑西軍が勝ったとして誰が日本の中心になる?秀頼は幼いし毛利や上杉という外様大名が力を持つことになるし、おまけに小早川秀秋に秀頼成人までという期限付きだが関白にするという約束してるんだぞ その後に権力争いが起こる可能性のがはるかに高い -- 名無しさん (2015-09-08 14:02:46)
  • ↑ああそうか、その面子が元気なまま丸残りするんだった。小早川は兎も角毛利や上杉は確かに揉める原因になるな -- 名無しさん (2015-09-08 16:51:13)
  • 秀吉の一子分にすぎない三成が正面決戦で勝てば行けるところまで家康相手に持ち込んだのは賞賛に値する。でも持ち込むまでで精一杯だったからある意味三成の限界がここだった -- 名無しさん (2015-09-09 19:48:56)
  • ↑×6それ以外に鉄砲が量産化されていなかったのもある。バラして魔改造して量産してしまった日本のがおかしい。量産化されなければ集団運用は出来ないし。 -- 名無しさん (2015-09-09 20:04:56)
  • ↑2 持ち込んだと言えべきか持ち込まれたと言うべきかは微妙なとこだけどな。秀吉死んでからの家康の深謀は凄まじいし -- 名無しさん (2015-09-10 03:13:39)
  • ↑↑に追記すると、西洋が工業化し先進国になったのは産業革命以降の話になる。例えるなら、武器だけ作れる野蛮人と大差ない。 -- 名無しさん (2015-09-10 03:30:14)
  • そもそも戦国時代の日本って、全欧州に匹敵するくらいの超軍事大国だからね 海軍は遅れてたけど陸軍は本気で洒落にならん 米の国と麦の国の違いといってもいい 農業生産力ひいては人口がガチなんだ 当時の日本の人口は1200万人、全欧州かきあつめてようやく1億という時代 -- 名無しさん (2016-03-15 11:26:25)
  • この時代、しかも戦場で、どうやってこんなに正確な時刻がわかったの?推測? -- 名無しさん (2016-03-15 11:51:51)
  • 正確じゃないが「○の刻」くらいの記録は取られてるから -- 名無しさん (2016-03-15 13:54:42)
  • 秀忠は遅刻したわけじゃなくて本来ゆっくりやる予定だったので別に急いでないだけ。家康が情勢見て短期決戦に切り替えて使者を送ったがこの使者が(天候とかの事情はあるが)遅刻したせいで秀忠も遅刻した -- 名無しさん (2016-08-24 13:23:29)
  • この時代並の超軍事大国に日本がシフトすることはないだろうが......なるとすれば、関ヶ原の悪夢の再来ということに...... -- 名無しさん (2016-08-24 13:35:40)
  • ↑誰と激突するんよ?中国とやりあうんなら、それは関ケ原以上やで。対立のスケール的に -- 名無しさん (2016-08-24 13:56:03)
  • ↑2 諸国乱立の時代を統一国の軍国化と同一視していないか -- 名無しさん (2016-09-09 12:49:25)
  • 完璧な作戦も、一つの裏切りで瓦解するという教訓を刻み付けた戦いのような気がする。ちょっと違うけど、アメリカの完璧と思われた対中戦略も、あのフィリピンのタカ大統領のおかげで、結局は中国にしてやられたし……。 やはり、完璧な作戦と、周囲との関係、これをがっちりしておくことが大切ってことだね。 -- 名無しさん (2016-09-09 13:04:16)
  • 人心が抜け落ちてる時点で完璧でも何でもないんだよなぁ・・・。家康はそこを分かってたから突いて瓦解させたわけだし -- 名無しさん (2016-09-09 14:53:00)
  • こういうのも何だが本当に漫画みたいな展開だと思うわ -- 名無しさん (2016-09-09 19:42:28)
  • ↑2 うーん、やはり周囲との関係と、作戦計画は一つのものなのかー -- 名無しさん (2016-09-09 20:02:01)
  • ↑ そりゃ作戦を実行するのが人である以上は周囲との関係性は何より大切だろうさ。古来から味方の裏切りで戦いが覆った事が何度あったことか -- 名無しさん (2016-09-09 20:23:01)
  • ハリウッドで出来ないかなぁ〜 -- 名無しさん (2016-10-08 20:32:11)
  • 最近の研究だと、島津は最初から戦っていたとか、西軍は小早川を攻めていたとか、大分様相が違うみたいね -- 名無しさん (2016-10-09 21:07:31)
  • 家康も薄氷を踏む思いの戦だったという話もある反面消化試合みたいな戦だったと言う説もあるし実際どっちなんだろう -- 名無しさん (2016-10-30 01:56:04)
  • どっちでもとれるし、人間関係の謎と言えばいくらでも通る話ではある、百年論じようとも謎は謎 -- 名無しさん (2016-11-03 20:36:29)
  • 最近では開戦当初から寝返った小早川と東軍に挟み撃ちにされて西軍あっという間に惨敗という学者もいる -- 名無しさん (2017-01-05 23:02:02)
  • 関ヶ原の時の書状見てると西軍の戦略が甘すぎる三成が関ヶ原の三日前に書状で「輝元殿の出馬は不要、我らだけで十分」とか言ってるし 情報戦の大切さを秀吉から学んでなかったのか -- 名無しさん (2017-04-18 21:39:19)
  • 戦後処理の話がばっさり削られてる? -- 名無しさん (2017-08-09 17:00:52)
  • 何年か前に関ヶ原の戦いを描いた漫画で「徳川家康討死」って展開があったけど、これって史実なの? -- 名無しさん (2017-08-09 17:21:05)
  • 正史な訳ないだろ。徳川幕府詰むわ。関ヶ原で豊臣殺しきれてないわ、秀忠は優秀かは疑問符付くし、乗り越えても3代目のドロドロで幕府崩壊待ったなし。 -- 名無しさん (2017-08-10 00:29:10)
  • ↑2 ちったあ自力で調べようぜ -- 名無しさん (2017-08-30 15:01:11)
  • 鉄砲のこと聞くと、本当に日本人はすごいと思わされる。これ、もしかして日本人が平和ボケと核兵器忌避から目覚めて、世界から核武装許可されたら、あっという間にアメリカ並みの核大国になるんじゃね?まぁ、そもそも平和ボケから目覚めること自体ありえないかもしれんが。 -- 名無しさん (2017-08-30 18:15:26)
  • ↑こういうのを見ると、日本は平和だと感じる -- 名無しさん (2017-10-11 02:13:48)
  • ぶっちゃけ小山評定、井伊直政&松平忠吉の抜け駆け、島津の敵中突破とかの逸話はどれも創作染みてるというか・・・。勝利者である家康が、自身の戦功を過大に誇張するために意図的にでっちあげた可能性は無いのか? -- 名無しさん (2018-12-18 22:58:47)
  • ↑島津の敵中突破を家康がでっち上げて何のメリットがある。 -- 名無しさん (2018-12-19 00:02:05)
  • ↑4 日本は歩兵戦に全振りで陣地の取り合いしてたから防御兵器の鉄砲が使いやすかった、ってだけ。例えば同時期のイギリスとスペインの艦隊戦では、それぞれが200隻ほどの軍艦を揃え、大砲の数は両軍合計で4,000門近くになった。1回の海戦で。あっちは大航海時代で、しかもボーディング(乗り込み)が主要戦術だから、鉄砲なんてオープンフィールド用の武器はいらなかった、というだけの話。 -- 名無しさん (2019-02-16 11:00:00)
  • ↑↑ 敵を持ち上げることで自分を更に上に見せるということ自体はよくあるだろう -- 名無しさん (2020-03-17 17:34:28)
  • 島津自身には敵を正面突破したという記録はない(上手く隙間を突いてなんとか逃げ帰れたわみたいな手紙はある)し、また東軍側でも別段島津の正面突破に言及した資料はない。実態としては上手く東軍の隙をついて逃走できた島津のことを誰かが格好良く解釈してそれが庶民に人気を博して既成事実のようになったというの真実だと思う -- 名無しさん (2020-03-17 17:48:14)
  • 島津は戦意維持のための軍規として「戦場で前進以外選んだやつは誰であれ殺すからそのつもりで」があるんで何とか前に進まないと統率された撤退が出来ないという事情がありはする。ぶち当たる気が本当にあったかはともかく、前には進んだんだろう。……下手すると「その場その場で軍勢をやり過ごしたら目の前になんか家康いた」くらいはあったのかもしれん。 -- 名無しさん (2020-05-11 15:46:10)
  • 元就の孫世代で西軍総大将になった輝元と毛利存続のために東軍に内通した広家どっちの判断が正しかったのだろう。 -- 名無しさん (2021-02-27 23:31:55)
  • 記事の通り家康が小早川軍に鉄砲射かけたというのは嘘でしょうな そんなことをすれば死人が出る可能性が高い そこで生まれた恨みを即座に捨てて徳川につくというのも心理的に難しいし 徳川に見捨てられたと思い西軍の味方をする可能性がある そんな危険なことはしないと思いますな -- 名無しさん (2021-02-28 02:07:06)
  • メンツだけ見たら九州で戦ってるの清正と官兵衛も含めて東軍の方がよっぽど豊臣軍なのが -- 名無しさん (2021-03-11 20:11:55)
  • この時期は家康以外の大老には家の問題も天下を取る絶好の機会であった。宇喜多は家中の内紛、上杉は国替えでの領内整備、前田は利家死後による世代交代、毛利は秀元の養子問題と動くならここしかなかった。 -- 名無しさん (2021-04-03 23:31:18)
  • 西軍としては岐阜城は守るべきだった。秀信も野戦でなく籠城すべきだった。 -- 名無しさん (2021-04-04 10:34:35)
  • 地味に一次史料が少ないから実際はどうだったか不明な点も結構多かったりする -- 名無しさん (2021-04-04 14:53:34)
  • ↑残っている一次資料だと今までの関ヶ原の戦いがひっくり返る模様 初めから大垣城を出た西軍追撃戦であり、小早川も開戦と同時に大谷隊に攻撃して大谷隊は瞬時に壊滅、正午には全て終わったという -- 名無しさん (2021-04-04 15:02:44)
  • 西軍の総大将が三成のイメージが強いが本当は毛利輝元である。あまり語られることが少ない。 -- 名無しさん (2021-04-10 21:17:45)
  • ↑これでいくなら例の布陣図は(そもそも創作だけど)むしろ小早川を攻めた石田と大谷が背後から福島たちに急襲されて逆に包囲されたということになるね。そして徳川勢は大垣周りで毛利とにらみあってただけと -- 名無しさん (2021-04-29 20:28:16)
  • ↑2まあ、腰抜けのボンボンを大将に担ぎ上げたのが三成の最大のミスかもな -- 名無しさん (2021-04-29 20:46:16)
  • 実際、本能寺の変と関ヶ原。毛利が天下を採る可能性は二度あったにも関わらずの時もそうだけど輝元はここぞという時に踏み込まず後ろに引く。まあ、だからこそ最後まで生き残ったんだろうけど -- 名無しさん (2021-04-29 20:56:26)
  • 毛利が天下とっても長続きしなさそうな気が(偏見) -- 名無しさん (2021-04-29 21:13:40)
  • 広島幕府か…勝ったら宇喜多も上杉も大きくなるだろうから無理だな! -- 名無しさん (2021-05-26 08:46:30)
  • 輝元はそもそも天下取る気なさそう 毛利が繁栄すればどうでも良いって思ってる印象 -- 名無しさん (2021-09-19 06:24:39)
  • 資料の再検証の結果、布陣や戦闘推移といった「定説」は明治維新後に書籍に載ったことで定着したもので、実際はかなり違うって説が出てるけどどうなんだろう?小早川秀秋は最初から裏切っていて、それを攻撃するために西軍が出撃したことで合戦になったとかってやつ。 -- 名無しさん (2021-11-02 13:32:20)
  • ってもうコメントに書いてるね。すまん。 -- 名無しさん (2021-11-02 13:34:11)
  • 定説が覆った、事実はかなり違う……ってのも、新説出す時の定番だしなぁ…… -- 名無しさん (2022-01-22 06:40:35)
  • 新説というよりは原点回帰かな。一次資料にはあっさりした記述しかなくて、陣形や有名なエピソードの数々は江戸時代以降にどんどん脚色されていったもの、って説だから。 -- 名無しさん (2022-01-22 10:01:34)
  • ↑17”家康が鉄砲ぶっ放したのは脇坂赤座朽木小川に向けてであり、その後彼らの陣地に家康と秀秋が押し込んできた”という可能性は考えられないかな? -- 名無しさん (2022-01-22 17:22:03)
  • 昔は「西軍で宮本武蔵が参加していたがボコボコにされた」という描写が定番だった -- 名無しさん (2022-01-22 17:54:45)
  • 小早川秀秋はそれまでの待遇とかを考えるともとから東軍でもおかしくないが、原因はわからないが戦後あっさり亡くなったことを考えると思うものはあったのかと勘繰りたくなる(ただお亡くなりになっただけかもしれないしね) -- 名無しさん (2022-01-22 18:49:40)
  • しかも大将の毛利は戦の推移からかとにもかくにも本家への被害を最小にすることが目的だからか大将が動かないのもね -- 名無しさん (2022-01-22 18:54:01)
  • ↑×5 それだけ合戦当時はあっさりケリがついたってことなんだろうな -- 名無しさん (2022-04-14 07:58:19)
  • 東軍に付いた小早川秀秋が松尾山に布陣したので、それを攻撃するために関ヶ原に進出した西軍が、東軍に急襲されて敗走した、だったっけ。>最近の説 -- 名無しさん (2022-07-01 11:24:05)
  • 天下分け目の大決戦!と思われていたから後世になって話が盛られていったのだろうか -- 名無しさん (2022-07-01 21:21:12)
  • 歴史のIFもので「もし関ヶ原で西軍が勝っていたら」というのはよくあるけど、もう一つのIFとして「もし家康が関ヶ原に参戦できず、東軍が徳川抜きで勝っていたら」というのはあり得ない話じゃ無いと思う。西軍でまともに戦ったのが4万程度なのに対し、東軍は小早川が早めに態度を決めていれば徳川抜きでも5万を超えていたわけだから、家康が天下の覇権を握れずに福島・黒田・細川・小早川らが勝者として豊臣家の枢機を握るIF展開も・・・? -- 名無しさん (2022-07-01 22:04:14)
  • 戦争は統率力と士気が大切なのを教えてくれる戦 -- 名無しさん (2022-07-01 22:12:26)
  • そもそも界隈にあんまり詳しくないのが申し訳ないんだが新説の部分って例えば学会みたいのがあってそこで旧説が否定されて新説が主流になっているみたいな感じなのかね -- 名無しさん (2022-07-03 03:19:03)
  • ↑一昔前は実地調査よりも史料第一みたいな風潮があったのもあるけれど、けっこあ前からいま言われているよう解釈はされておくれて一般に伝わっている感じかな、知らんけど -- 名無しさん (2022-07-03 06:46:40)
  • 鎌倉幕府の成立が1185年になったり、坂本龍馬の記述が教科書から削除されたりする様に学校で習う関ヶ原も「天下分け目の合戦」ではなく、「一方的な蹂躙戦」に変わっていくのだろうか -- 名無しさん (2022-07-03 12:42:45)
  • そのうちに江戸幕府がなかったことにされそう -- 名無しさん (2022-07-03 16:25:22)
  • 何でか江戸幕府から源平合戦として扱われて他のなんでだ。いい素材だろうにに -- 名無しさん (2023-05-28 14:53:15)

#comment

*1 ちなみに、これより少し前に活躍した織田信長の軍の鉄砲所有数は当時世界一であり、『火薬が濡れない晴れの日限定で世界最強の軍隊』だったとも言われる。
*2 実際、秀秋の布陣跡と周囲の西軍の布陣跡を見ると、互いに相手を敵と見なしていると思しき布陣であるという。
*3 付近にいて寝返った脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保は連絡を怠らなかった脇坂以外は減俸もしくは改易、脇坂も本領安堵が精いっぱいだったので、加増された小早川は家康から東軍の将として貢献したとみなされていた証拠といえるであろう

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コメント

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名無し

下の補足
ニューススターで家康が事務所語った事放送された
花男のテーマ流れていた

返信
2023-11-11 05:14:29

名無し

家康は11月12日に放送された
10日のあさいちで家康親子が宣伝した
この日の目覚ましに秀吉が登場した
この日の弁護士で現実同様に入院した

返信
2023-11-10 16:37:17

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